2016年4月30日土曜日

漁船拿捕: まさか、そこまで姑息ではないだろう

日本からみれば小さな事件なので大した扱いにはなっていないが、台湾政府は猛烈に抗議しているようだ。
 【台北=田中靖人】台湾の林永楽外交部長(外相に相当)は29日、対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使)を外交部に呼び、日本が沖ノ鳥島沖で台湾漁船を拿捕(だほ)した問題で抗議した。馬英九政権は漁船保護を名目に、沖ノ鳥島沖に巡視船など2隻を派遣することを決めるなど、強硬姿勢を強めている。
 林氏は、沖ノ鳥島は「岩」であり、排他的経済水域(EEZ)は「主張できない」と改めて強調。「日本は国連海洋法条約に違反している」として今後、台湾漁船を拿捕しないことを確約するよう求めた。沼田氏は、台湾側の主張は「決して受け入れられない」と抗議し、「冷静な対応」を求めた。
 (出所)産経ニュース、2016年4月29日

これって・・・、反日ではないが、明らかに親中であった馬政権への嫌がらせか?

台湾総統は、5月20日から馬英九氏から蔡英文氏に交代する。蔡氏のほうは、親日と決まったわけではないそうだが、明らかに反中であるとみられている。

蔡政権が発足した最初の仕事が上の紛争の解決となるタイミングではないか。偶然か?これって、新政権へのプレゼントか?



まさかネ。だとすると、あまりにも見え透いた演技だ。姑息な作為であって、いかにもオポチュニストの政権がやりそうだ。(そんなことはないと思われるが、万が一)こんな行動パターンを選択しているとすれば、近い将来、日本が「要警戒の国家群」の仲間に復帰するのは確実だ。

・・・上のように思われてしまうのは大きな損失だから、実際にはワザとではないのは確実だ。では、なぜ今のタイミングで拿捕したのだろう。なぜもっと早いタイミングで拿捕しなかったのだろう。台湾漁船の「領海侵犯」は今度が初めてではないはずだ。

何か水面下の情報があったから「実力行使」をしたのだろうか。


今晩はワルプルギスの夜(Walpurgisnacht)。魔女達がブロッケン山に集まって大いに盛り上がる夜である。

北海道ではようやく桜が咲き始めた。春もこれからである。

2016年4月29日金曜日

「池に落ちた犬を打つ」のは見苦しいものだ

先日、一寸としたチョンボで熊本地震・現地対策本部長を更迭された松本・内閣府副大臣が今度は政治資金不正経理の疑いありというので「打たれ」ている。
 熊本地震の政府現地対策本部長だった松本文明内閣府副大臣(67)=比例東京=が代表を務める政党支部が約10年間にわたり、東京都内のマンション一室に置く事務所の家賃として、この部屋を所有する松本氏の妻に計約2千万円を支出していたことが28日、産経新聞の取材で分かった。税金が原資の政党交付金を含む政治資金が松本氏の親族に還流していた形で、識者は「政治資金でマンションの購入費用を賄ったといわれても仕方がない」と指摘している。
(出所)Yahoo!ニュース
(元記事)産経新聞、4月29日(金)7時55分配信

正に『池に落ちた犬は打て』が当てはまる絵図である。

ゲスだねえ・・・と。小生、メンタル面で弱いところがあるので、そんな風に感じてしまう。

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それにしても、事務所経費など政治資金の不正経理があまりにも頻発するのはおかしくはないか。政治家がそれほど汚れているからだと解釈すれば、それで話はすむのだが、本当にそうなのか。

そもそも事業に関連するカネの経理が適正になされているかどうかは、税務申告とも直結することであり、厳格な監査が求められている。前に投稿したように、政治資金については「政治資金監査人」の監査が義務付けられている。

もし経理ミスがあれば、すなわち監査ミスがあったことでもある。東芝事件でもそうであったが、不正があれば不正を行った当事者も悪いが、それに気がつかなった監査法人も悪い。それが社会のルールではないか。

政治資金の不正経理が頻発するのは、それほど汚れた政治家、無能な政治秘書が多いのだと考えても異存はないが、それより政治資金監査システムに欠陥があるのではないかと、なぜマスメディアは騒がないのだろうか?それは触れないでくれとでもプレッシャを受けているのだろうか。

どうも勘ぐりたくなります。

そもそも政治資金とは「政治サービスの原価」を構成するコストのことであろう。政治家=国会議員と見るのであれば、公式の報酬である議員歳費以外の収入を政治資金と見るべきではない。閣僚になったり副大臣、政務官になったりすれば「役料」が付加されるだけである。こうすれば、政治資金は明確に限定できるわけで、それ以外の所得はすべて政治資金ではなくなる。政治とも無関係になる。いいか悪いかは別として。

が、そうなってはおりませぬ。

そもそも、「政治資金」とは、「政治サービス」とは何でござんしょう。私たち日本人はどこまでを、どう許すと考えているのでござんしょう。

畑違いではあるが、政治学関係の学界ではすでに「政治倫理」やら、「政治家のための管理会計」などといった研究テーマがあるのでござろうか?

2016年4月27日水曜日

「安全」とは条件付き確率でしか示せないものだ

川内原発の運転停止を求める声が高まりつつある。熊本地震が進行中であるにもかかわらず運転停止を求めないのは、原子力規制委員会の誤審であり、それを黙視している政府、さらには安部内閣にも責任があるという指摘は、特に「左翼系」のメディアでは目立っている。

「左翼系」だからといって、議論している内容は全てイデオロギーのせいで偏っており、信頼性に欠けると即断するのも適切ではない。


確かに原子力規制委員会が安全性を認めた川内原発だが、その判断は「過酷事故」として想定された範囲での「安全性」であるに過ぎないー実際、東日本大震災においても、福島第一原発は十分な「耐震性」を示したことを忘れてはならない。事故の原因は想定を超えた巨大津波(と緊急電源車のプラグがマッチしなかったという会社側のチョンボ?)である。であるので、「想定外」の天災が発生すれば、どんなことが起こるかは依然として不確定である。こう言われてしまうと委員会としても答えようがない、というのが率直なロジックである。

一部のマスメディアが主張するように、「想定外」のことは考えないのか、と。この指摘は、正しいことは正しいのだ、な。


しかし、想定外の可能性がゼロではないことを指摘して、いまやっていることは間違っていると言うとしても、「こうして生きていること自体が危険なのです」という韓流ドラマさながら、それはネクスト・アクションを決めるための指針としては役に立たない。

何か行動するときは、何らかの前提は置いているものであるし、何を行うにしても「想定外」の事態は可能性として常に残るからである。

いずれにしても、我々は生きていこうと決めているのであるし、食っていく必要もあり、できれば豊かな、そして贅沢もできる生活を送りたいと願っている。これが現実だ。上にいったネクスト・アクションは、科学的認識の正否がキーポイントになる世界ではなく、危険を小さくしたいという願いと暮らしを楽にしたいという願望のバランスをとらなければならない現実の世界で答えを出す、そういう行動プランのことである。

そもそも無条件に安全が確保される、リスクが全くない世界を地球上で想定することは不可能である。以前に投稿したように、最大の津波を想定するという科学的作業そのものが意味を失うのが、何の前提もおかずに将来を考えるという問題である。


少年の頃は、お父さんがいれば大丈夫と思っていたものだ。
しかし、お父さんにもお母さんにも、どうしようもないことはある。だから、先人は神に祈った。

何が起こるにしても、それは神の意志であるとしか言えない場合を、人間は想像することだけはできる。しかし、そんな想像は何か具体的な行動計画を求めているわけではないのだ。

天が落ちてくると心配する杞憂は、バカバカしい心配を指すのだが、100パーセントバカバカしい心配はやはりないのである。だからと言って、杞憂を解消する行動計画は立てようがないというのも事実である。

2016年4月26日火曜日

予想: 災い転じて福と(なそうと)する政略を現政権はとる

年明け後の株価急落、景気後退色を強める実態経済、甘利経財相の失脚、TPPの国会審議停滞、与党議員の数度にわたる失言・放言・妄言と、現・安倍政権には俄かな逆風が吹きつけている。

札幌5区の衆院補欠選挙では与党候補が僅差でやっと勝利した。表現は穏当ではないが、かたや与党の大物議員の娘婿が後を引き継ぐ弔い合戦。かたやずっと苦労して生きてきた社会福祉畑の女性候補。これは勝負にならんというのが、従来の予想のパターンであった。それが大接戦となった。なぜ?・・・となる。

× × ×

この夏に衆参同時選挙に打って出て、一挙に逆境を挽回するという選択もあった。

しかし、熊本大地震という要因が突発的に発生してしまった。

災害に対しては、懸命に間違いなく取り組むのが当たり前であり、問題なくやって当たり前、しくじれば決定的なマイナスとなる。災害対応は、完璧を求められるというプレッシャがあるので、現・政権にとっては大きなリスクである。

この群発地震がいつ収束するか不確定である。震源地が移動する可能性もあるし、阿蘇山が噴火する可能性もある。原発停止要望、再稼働への判断など難しい問題もある。

それらの被災地救済が円滑に進むかどうかが、現政権の評価に非常に影響するわけだ。

× × ×

その災害対応では現地対策本部長が(早速に)更迭(交代?)されるなど、はた目からみると、決して順調に行っていない。

避難者が10万人を超え、車中泊を続ける人も多い。商店街なども被災しており、今後の経済活動がいつ回復軌道に戻るのか、予想が難しい。

窃盗などの犯罪も多発しているようだ。

たしかに東日本大震災と同じ「震災」ではあるが、細かい側面ではかなり異なる所がある。

某社のアンケート結果によれば、熊本地震に対する政府の対応は不十分であると感じる人の割合が60%を超えている。

まさかとは思うが、現地で暴動、そこまで行かずとも避難者側と救済側の間で何かの紛争が発生したり、国と自治体の間で何らかのミス・コミュニケーションが起これば、1件ごとに内閣支持率は3~4%のペースで下がるだろう。

× × ×


たとえ野党が政権の座にあっても、もっとマシな対応をしていたかと言えば、とてもではないがそうは予想できない。とはいうものの、現政権の対応は評価されてはいない。

今夏の参院選を予想するうえで、突然にわかに<作戦正面>となったのが<熊本地震対策>である。つまり、ここでしくじると、政権の屋台骨が揺らぐ。すでに同じ被災地であるはずの大分県には不安や懸念が生まれているようだ。

しばらくは地雷原の中を前進するようなものだろう。

ということは、逆に言えば、今回の災害対策で何らかのプラスのサプライズをつくることに成功すれば、それもまた今回の政治闘争に勝利をもたらす要因たりうる。そしてサプライズを与えうるのは、実際に政権にある側だ。

× × ×

熊本地震の発生は、戦略的・政治的状況を混沌とさせているようにも見えたが、実は自然の力によって<作戦正面>が強制的にこの地に定められ、状況は寧ろ単純化されたと見るべきだろう。

逆風に見舞われていた現・安倍政権から観れば、起死回生の一手(?)、イヤサ反撃の機会が向こうから訪れたことでもある ― もちろん、ここで失敗して政権の終幕となるリスクもある。

5月中下旬にかけて、世間の想像を上回る被災地総合対策を打ち出し、十分な人的・物的資源を投入すれば、夏の初めの参院選で全国の有権者が野党に-たとえ統一されていても-投票するはずがない。

いま政権側が思案しているのは、その辺りだろう。
そうでないとすれば……、うまくやって当然、失敗すれば致命傷。期待値としてはマイナスである。それに気がつかないとすれば、慢心があるか、油断があるか、ま、どこかが足りないのだろう。

2016年4月24日日曜日

熊本地震: これは東日本大震災との違いなのか

後で調べるための覚書きとして書いておきたい。

熊本地震と東日本大震災が発生した後の現象的な違いである。

一つは、被災地で発生した窃盗・空き巣である。東日本大震災時にもある程度は発生したと記憶している。そもそも東日本大震災の被災地には巨大津波が来襲し、家屋はほぼ壊滅していて、空き巣に入るにも狙うものがなかった。そんな事情もあったかもしれない。これに対して、熊本ではやや違いがあるようだ。

熊本地震の発生後、住民の避難により「空白地帯」となった被災地で、窃盗事件が相次いでいることが21日、熊本県警などへの取材で分かった。県内では被災直後から他県警の応援も受け、被害が激しかった地域を中心に24時間態勢のパトロールを開始。被害の未然防止や摘発の強化に乗り出している。

(出所)産経ニュース、2016年4月21日

もう一つ、アマゾン「ほしい物リスト」の活用状況。

被災地で必要なものをネット上にアップし、それを見た支援者が代金を払うと商品が届く−−。ネット通販大手「アマゾンジャパン」のサービス「ほしい物リスト」が、熊本地震でほとんど利用されていない。2011年の東日本大震災では活躍したが、認知度不足などから活用されていないようだ。・・・  
ほしい物リストは、たとえば避難所の運営者が欲しい商品とその数をネット上に掲載し、支援者がその商品をアマゾンを通じて購入すると、避難所に商品が届く仕組み。必要な物資を必要な量だけ調達できる利点があり、東日本大震災では、仙台市などが活用し、7000カ所以上の避難所や個人宅などに10万個以上の物資が届けられた。伝言欄もあり、避難所と支援者のコミュニケーション作りに役立った。南海トラフ巨大地震の被害が予想される徳島県が運用に向けた訓練を重ねるなど、活用の動きが広がる。 
 だが、熊本地震での利用は低調でリストは数件にとどまる。

(出所)毎日新聞、2016年4月23日

 アマゾンのほしい物リストのほうは津波とは関係ない。さらに、周知の度合いは2011年の東日本大震災の時より、今年のほうがずっと上がっていると思われる。にもかかわず、これほどの「違い」があるというのは、偶然ではないと思われ、人口・被災状況・都市化の度合いなど環境要因を考慮しても統計的に有意な違いであると思われる。

そうかと思うと、SNSとデジタル地図情報をドッキングさせたサービスが熊本では提供されている。
 「情報があふれていて何を見ればよいか混乱していた。分かりやすい地図情報を見ることができてうれしかった」
 被災者から早速、こんな感想が届いているのは、フェイスブックの公開グループ「Youth action for Kumamoto」の取り組みだ。「給水所」「スーパーマーケットの営業状態」「炊き出しや支援物資集積地点」などの情報をグーグルの地図サービスに示している。
(出所)日本経済新聞、2016年4月21日

東日本大震災時には、SNSは浸透していて大いに活用されたが、スマートフォンはiPhoneが4から4sへと進む段階に来ていた一方、アンドロイドのほうはGoogle Nexusが登場して認知され始めた時期である。フェースブックも「アラブの春」を支援する影の立役者であったというので、やっと日本でも注意されてきた頃だ。東日本大震災と熊本地震とでは、SNS利用技術もその進化の度合いにおいては、確かに大きな違いがある。

確認される違いは、いろいろな説明が可能である。が、事実に最も当てはまる説明の仕方、つまり最有力な仮説は常に一つしかない。

技術的な違いもあれば、人間的要因に基づく違いもあるはずだ。

統計的な違いに着目することは、あらゆる品質管理の第一歩であるばかりではなく、PDCAサイクルにおける問題解決への近道だ。

災害は場所や時点が違うだけではなく、外観や現象面で多くの違いを示しているはずだ。違いに応じて、対応も一様であってはならないはずだ。

反面、災害救助においては必須の共通事項もあるだろう。

その災害固有の対応と、一様に対応するためのシステム標準化とを、どう整理して仕分けるかという点も課題としては面白い。

2016年4月22日金曜日

メモ: 震災で見えてくるモラルが将来を決めうるか

簡単にメモを書いておきたい:

熊本地震に対応する政府現地対策本部の本部長を務めていた松本内閣府副大臣が、政府とのテレビ会議で『食べるものがない』と言って、周りの国会議員に差し入れするよう伝えてくれと。嘘か本当か知らないが、大臣は『まっちゃん、まかせてくれ』と応答したそうだ。

食べるものに困るどころか、家族を失った人もいる。自宅崩壊が怖くて車中泊を続ける中、エコノミー症候群を心配する多数の人もいる。多くの被災者をしり目に、まずは自分の胃袋の心配をするとは何事か、と。それで更迭(交代?)とあいなったよし。

まあ、確かに腹が空いては戦はできぬ。日本人は元々十分な補給を確保するという考え方に対して、同情の念が薄いというか、腹がすくくらいがなんだという、理不尽なところもある。しかし、救助に当たっている自衛隊員が食事に事欠いているとは聞いていない。現地に派遣された国会議員だって、関係機関が動いて十分な食事を提供する必要はあるというものだ。それがいい仕事に結びつけば安いものではないか、と。そんな風にも思われる。

ともかくも、格好のよいやりとりではなかった。

そうかと思うと、現地では小学生たちが自衛官たちに感謝の手紙を出しているという。



政治家が何を言うか、何をするか、目先の目的としては次の選挙に勝つ要素をつくれるかを考える。つまり、政治家は政治的利益を求めて、行動するものだ。互いに競争しているのだ・・・。

身分や学閥、職業規制などで閉鎖的な領域が形成されるのではなく、誰でも政治の世界に入っていって、競争できる。有権者の投票を獲得するための闘争が許されてさえいるならば、結果として、その社会には<民主主義>の過程が作用する。・・・であるので、民主主義が出す政治的決定は、常に国民にとって良い結果であるとは限らない。このように観たのはシュンペーターである。『資本主義・社会主義・民主主義』の第4部は全体が民主主義の理論である。シュンペーターが上のように考えたのは、いわゆる「古典的民主主義」は、巨大化した現代社会においては、机上の空論となっているからだ。

政治家はそもそも利益を求めるものである。そんな外観を呈するのは、十分、想定内なのだ。それはわかっている。

しかしながら、震災現場で救助に当たっている個々の自衛官たちは、もちろん、自らの利益を求めてそうしているわけではない。自衛官たちは、利益ではなく、義務を全うしているにすぎない。

大体、公務員の職務はすべてそうだが、仕事をすればするほど儲かるというものではない。企業のように成長することもなければ、商品がヒットして賞与が増えることもない。職務だからやっている。それだけである。

それが、外観としては、見返りを求めることなく救助に尽力している。そう見える。

もちろん組織としての陸上自衛隊からみれば、救助で職務を全うする姿を国民に視てもらうことが、組織の利益にはかなっている。しかし、こんな斜にかまえた指摘をしてみても、大勢に影響はあるまい。

図式としては、常に自分の利益を考えている政治家と、自分の利益ではなく義務によって活動している自衛官。


どぢらが道徳的に優位をしめるだろうか?モラルにかなっているだろうか?

どちらが(子供たちの目に)「立派な人間」に見えるだろうか?

誰が自民党本部に感謝の手紙を書こうと思うだろうか?

このような状況を10年ないし15年間見続けたあとの社会心理は、現時点のそれとは様変わりになっているだろう。

人々の考え方が変わるにともなって、世の中は変化し、法律が改正され、制度が変更されていくものだ。

戦前期の軍国主義日本が誕生するまでには、長期間の政党政治と派閥抗争が国民の前で繰り広げられていた。

政治的資産を食いつぶす民主主義社会の議員には厳しい姿勢で臨むほうがよいのかもしれない。

民間社会は市場によって規律づけられている。官僚は公僕の自覚をもつことが結果的に官僚の権威を高めるだろう。政治家は何によって規律づけられるだろう。規律なき集団が崩壊するのはいわば<定理>のようなものだろう。

2016年4月19日火曜日

エンゲル係数の上昇をなんとみる

やや旧聞に属するが、読売新聞に以下のような記事が掲載されていた。最近の日本のエンゲル係数(総消費に対する食費の割合)が上昇しているという点だ。

家計の消費支出に占める食費の割合「エンゲル係数」が上昇している。経済成長、生活水準の向上で数値は小さくなるとされ、戦後低下してきたはずだ。何が起きているのか調べてみた。 
日本のエンゲル係数は、1960年代前半は40%近かったが低下が続き、95年頃からはおおむね23%台で推移していた。ただ、2005年頃から上昇基調に転じ、14年に24%を超え、15年には25%を突破し、25・01%となった。
東京都内の40代の公務員夫婦は先月、家計を見直す中、エンゲル係数を計算して驚いた。28・8%。平均以上だ。小学生の子が2人いる。仕事で帰宅が遅くなると街の総菜店で買ったり宅配の冷凍食品を使ったりする。「割高だが、調理に時間がかからない。家族で食事を楽しむ時間を持ちたい」と妻。休日はほとんど外食という。
(出所)読売新聞(ヨミウリオンライン)、2016年4月12日

これに対して専門家の見方は以下のようなものだ。
エンゲル係数の上昇は、経済的に苦しいこととされていた。しかし共働き世帯や食を楽しむ人の増加など一概にそうとも言えない。豊かさを知る指標としては今も機能しているのか。 
小方さんは「生活が多様化し、日本全体の指標とするのは疑問。しかし、低所得層は依然として係数は高く、対象を見極めれば有効だろう。家庭で時々計算し、家計を見直すきっかけにしてもいいのでは」と話す。
(出所)同上

エンゲル係数上昇の背景として高齢化があげられることは当然である。
高齢者世帯の増加も一因とみられる。おしゃれや趣味への支出が減る一方、食事は欠かせないからだ。弁当や総菜の利用も増える。都内で独り暮らしの女性(98)は「1人分の食事を作るのは気が乗らない」と話す。朝はパンとスーパーで購入したサラダ、昼はデイサービスの施設で食事、夕食は宅配の給食。
高齢者向けの総菜などに力を入れるセブン―イレブンの担当者は「食の外部化はさらに進む」と言い切る。
(出所)同上

食にどれほどカネを使うかは(基本的には)その世帯の趣味・感性による、とは確かに言える。しかし、エンゲル係数の高さを決める最重要な要因としては、実質所得水準-総消費をほぼ決める-と世帯人員が挙げられることは、概ね合意が形成されている。高齢化によって料理を省き、外食やコンビニの弁当を利用する頻度が高くなるのは、そもそもコンビニなる業態がなかった昔から、ある程度わかっていたことである。

齢をとったから食費がかさんでくるのは昔からそうだったの。だからと言ってお年寄りは暮らしの水準が落ちていたとはいえないでしょ。そうしたほうが楽だからお弁当を買っていたのよ。貧しいからじゃないの。最近のエンゲル係数はお年寄りが増えていることが背景にあるんでしょ。だからといって暮らしの豊かさが落ちているということにはならないのよ。

これが上に示した専門家の見解にかなり近い。


確かに、ミシュランの星三つで食事をしても「食費」、節約をして家でご飯をたいても同じ「食費」である。この二つともが<必需財>であり、そうである以上、生活水準に向上に伴って比率は下がるはずである、と。そうは一概に言えないだろう。

カネにゆとりがあれば、誰でも高級フレンチには行ってみたい。マル鍋やテッチリをたまにはつついてみたいものだ。これらは<贅沢財>ではないか。

共働きは、専業主婦に対する別の選択肢であって、一つのライフスタイルである。より高い所得を求めて、共働きをするなら、外食や宅配・弁当はどうしても増えるでしょうと。これもライフスタイルの選択である。

だから、エンゲル係数が高い・低いという現象も多分にライフスタイルの選択なのではないですか?

問題だと騒ぐ必要はありません。世の中うまく行っています。

なるほど一つの見方である。


統計データは平均的なトレンドを示している数字である。

食が贅沢財になっている家庭と、食は必需財であると感じている家庭と、どちらの家庭の状況が統計データに反映されているか。その解釈が大事である。

小生のカミさんの友人たちは、時にレストランで家族そろって食事を楽しむ人もいるが、そんな人ほど普段の食費は実に節約しているときいている。一円でも安く豆腐を買うべく、買い物ツアーをするバーゲンハンターであると聞いている。

それでもエンゲル係数があがれば、それは「上がってもよい」ではなく、「上がってしまった」とみるべきではないのか。

そもそも食費がかかれば、他に欲しいものは買いづらくなるのが理屈だ。他に欲しいものがないから、食にカネを回しているのか。

そうではないと思うのだがなあ・・・


エンゲル係数が上がるのも、新しいカルチャーが生まれつつあることの兆しではないか・・・。なるほど、ポジティブ・シンキングとしてはよく出来ているが、ここまで楽天的になると、「ノー天気」と批判されても仕方がないのではないだろうか。そんな心配もされてくるのだ、な。

ま、何にせよエンゲル係数を下げる特効薬。それは自由貿易。TPPをスタートさせた後、エンゲル係数がアメリカ並みに下がるのか、ドイツ程度にまで下がるのか、シミュレーションはできるはずである。

2016年4月16日土曜日

天災: 繰り返すパターンはあるものか

ずいぶん前に勤務先で学科長を勤めたとき、任期終了が近づくにつれて、在任中の雑用の多さに腹ふくれる思いがしていたものである。そうしたら、終了間際の3月末になって有珠山が噴火し新たな火口群が形成されてしまった。同僚からは『いやあ、火山まで噴火しましたねえ』と言われたものだ。

この4月に「特任」という身分にシフトした。役所や民間企業でいえば、「嘱託」のようなものだ。身分変化が近づくに伴い、今年は年明け後から色々な激動に見舞われ、弟の細君までがなくなった。これでもう何もないと思っていた矢先、昨日は何年目かのK記念日をカミさんと祝ったのだが、帰宅した夜に熊本県が群発的大地震に襲われた。

熊本城の石垣は数か所が崩落し、一部の櫓は倒壊するまで時間の問題であるようにも見える。阿蘇神社は全面的に倒壊した。さらに阿蘇山が小噴火した。震源地の分布は熊本県から大分県まで広い範囲に分布しており、今後、どのような進展をしていくのか気象庁にもよく分からないようである。

繰り返すパターンはあるものか。

理論モデルがあってデータからその妥当性を証明するという物理学スタイルとは反対の、データからみてとれるパターンから理論を構築するというスタイルを地球物理学や地震学、気象学などはとっていると推測するのだが、こういう分野ではビッグデータが寄与する度合いが高いのではないか。

ビッグデータ=漢方治療と喝破した企業経営者と話したことがあるが、確立された理論がない分野では<漢方>的発想に立って、予測をしたり、診断をしたりするしかないのではないか。だとすれば、災害については官民を問わず全てのデータをオープンデータにして共用するのが「知の形成」への近道だと思われる。

なぜそうなっているかは分からないが、とにかくこういうパターンが観察される。そんな発見でも役には立つものだ。どうしても、小生、職業柄かこうした発想が好きである。

というより、この種のビッグデータ分析にはIBMの人工知能・ワトソンが活躍しそうである。

2016年4月14日木曜日

保守的なへそ曲がりの結婚観

朝食をとりながらカミさんとみるTVのワイドショーが本ブログに何度登場していることだろう。別に、ワイドショーが主たる情報源ではないのだが、視聴していると口を出したくなる「議論」にいつもなっている。だからこそ、「井戸端会議」なのだろう。

本日の話題は『幼稚園・保育園から大学までの教育無償化』、そのための財源についてであった。確か「お維新」の着想ではなかったかと記憶しているが、先日の投稿のとおり、真面目に議論するほどのアイデアでもないと思われるので、小生の意識からは消え去っていた。

やはりTV局は、パクっと食いつくのだなあ・・・そう思った次第だ。

すべて覚えているわけではないが、個人的なコメントをメモしておきたい:

(1)

★ 教育無償化に必要な財源は概ね7兆円。

京都大学の某教員が試算した数字だが、現在の大学進学率を与件とし、大学授業料を年間50万円ほどと前提して計算しているようだ。進学率はいいとして、日本で大学といえばほとんどが私立大学である。授業料50万円は国立大学の授業料だ。私立大学、特に医学部は数百万円かかる。積み上げ計算の詳細はわからないが、人数×50万円で大学教育費とするのは非現実的だ。

この7兆円が防衛費6兆円を超えるというのは異論はないが、医療費や年金費の数十兆円と比べれば大したことはないと話していた。日本の国家予算は90兆円である。医療費・年金費を足せば、90兆円を超えてしまう。

多分、TVで言っていた「年金費」は、「公的年金受給者の年金総額」のことだと推察される。これならば、平成26年度に53.4兆円になっているから、話しの辻褄があう(資料)。しかし、これは年金として支給された金額であって、税の投入額ではない。年金を支える財源は、税というよりは保険料である。長生きした人には支払った保険料から戻してあげるのが「年金保険」である。なので、年金費という場合、支給額ではなく税負担額を使わなければならない。医療費についても、医療保険から支給される分は税負担ではないので同様の理屈になる。

ちなみに厚生年金保険の場合、平成26年度の国庫負担額は8.8兆円になっている。教育無償化に必要な財源よりは若干多いが、大体等しい。故に、大雑把な金額としていえば、『教育無償化政策を実施したいなら、厚生年金保険をもう一つ作るのとほぼ同規模の予算を手当てしないといけない』。そういう試算になるのではないかと思われる。

(2)

★ 財源として相続税強化が有望。

これは全面的に賛成だ。ただ反対は多いと思う。いわゆる「名門・名家・上流階層」は戦後日本でも形成されてきているが、たとえば田園調布の高級住宅街が空洞化しつつあるような現象が、全国でより加速されることになるのではないかと思われる。とはいうものの、いわゆる「二世政治家・世襲政治家」の芽を摘むという効果もあり、全体としてはプラスになるのではないかと思う。

(3)

★ 資産課税を強化する。

たとえば1億円の預金を保有している人には、その資産に対して税をかける。気持ちはわかるが、日本国憲法の29条には「私有財産の不可侵原則」が規定されている。資産運用収益は所得であるから課税しても可であるが、資産そのものに課税する(=お上がとりあげる)ことは容認されていない。「資産課税」を文字通りに実施すれば、「憲法違反である」という違憲訴訟が相次ぐであろう。

資産課税を定義通りに実施するなら、シュンペーターの言うようにまずは憲法を改正して、社会主義への道を開いておく必要がある。が、こんなドラスティックなことをせずとも、現在の日本で富を保有している人の大半は高齢者である。相続税の強化で、長期的には、問題は解決されるはずである-徴収した資金を賢明に支出する能力を政府はもっているのかという疑問はあるが。

(4)

★ 専業主婦など配偶者優遇制度の廃止

これはずっと以前から指摘されており、既に段階的に実行されつつある。

ただ思うのだが、A君とBさんがいて、二人とも働いている。それで近いうちに結婚したいと思っている。結婚後も働くかどうか、育児に専念するか、Bさんは迷っている。財政学者がよく言うのは『その人のライフスタイルによって税負担が異なるのは合理的でない』という主張だ。この主張は本当に本筋をついているのだろうか?

もし税とライフスタイルとは独立であるべきだと考えるなら、結婚後に働くか、専業主婦になるかで税負担額に違いを設けない。それは分かる。しかしそれ以前に、二人が働いている状態で、結婚しようが、同棲のままでいようが税負担額には違いはない、と。こうあるべきだと主張しなければならない。小生にはそう思われるのだが、そうなのだろうか?専業主婦であるか共働きをするかどうかがライフスタイルの選択ならば、結婚するか同棲のままでいるかもライフスタイルの選択ではないのか。敢えて結婚をするのは、子どもを育てるという目標を暗黙に前提していると思うのだが、違うのか。子供は育てないと決めているならば、結婚することが望ましいとは、言えないのではないか。

税制もまた行政府が行う政策の一環だ。同棲をしている二人と、正式に結婚をしている二人はもう差別しない。そう考えるなら、税負担も平等にするべきだ。しかし、育児には家庭が必要で、家庭を築くには正式に結婚することが望ましい。そう考えるなら、専業主婦となるがゆえの利益は、そのことの社会的利益に対応するものと考えて、(一定期間かもしれないが)育児に専念する行為に対する報酬であると意味付けても、小生、それほど道理に反しているとは思えないのだ、な。そもそも今は子育てに優しい、出生率を高める方向の制度が必要なのではないか。

小生は既に子育てを終え、カミさんと二人だが、子どもが幼少期(=学齢期以前)の間、特に母親が常に目に見える範囲にいることは、子どものメンタル面を安定させ強くするという研究結果を読んだことがある。であれば、なおさらのこと、できるだけ多くの時間を子供と過ごすという「ライフスタイル」を社会的に支援しても道理に反することにはなるまい。

小生はへそ曲がりであり、かつ(極右とは思っていないが)相当に右翼である。それもあって、専業主婦優遇制度の廃止には、明確に反対なのだ、な。

【加筆】上に書いたようなことをカミさんに話すと、『旦那さんの給料だけでは生活できないから奥さんも働くんでしょ、たくさん働いたら税金が増えて、かえって使えるお金が減るとしたらおかしいよ。専業主婦を優遇するのはいいけど、専業主婦になれない人はどうするの?』このようなことを言った。なるほど・・・。確かに不合理だ。とはいえ、だから専業主婦であることの利益を消し去ることが道理にかなっていると。そうは言えないが、この点はまた別に。


2016年4月12日火曜日

報道がドラマより面白い時代ということか

夜の楽しみの一つはTVのニュース番組である。

そのニュース番組で4月以降、かなりのリニューアルがあった。

テレ朝の報道ステーション(22時~)はスタッフが一新された。が、いい人のようだなあ、という印象で前任者のように視聴しながら画面に向かって悪口をいう気にはならない。自己規制路線に戦略を転換したのだろうか。

TBSのNEWS23(23時~)も一新された。若返った。が、若いなりに上手だなあ、という印象で、その話ならネットで知っていますけど・・・と、そんな印象である。

いずれの時間帯でもNHKが視聴者略奪的コミットメントをかけてきている。22時からは『クローズアップ現代+』、23時15分からは『ニュースチェック』だ。

かなりの人的資源を大量に投入してきている。これで視聴者評価をとれなければ、大きな失敗に数えられるだろう。

NEWS23は、シェア、いや視聴率を奪われる可能性ありとみる。報道ステーションは、ひょっとするとロイヤリティの高い視聴者がいるかもしれない。とはいえ、長期的には失望されるかもしれない。NHKが22時の時間帯では差別化を強調し、23時の時間帯ではほぼ同質的な内容をぶつけているのは、理にかなった競争戦略である。半分以上をとれる見込みのある時は、私は違います(=相手もいいところがあるのです)と競争回避策をとるのではなく、正面から競争する方が期待値は高い。

NHKの意図は明らかだ。21時からは『ニュースウォッチ9』、22時から『クローズアップ現代』、23時(15分)には『ニュースチェック』という報道シフトが際立っている。視聴率獲得の主戦場がリアルタイムの情報提供にあるとみているのだろう。そして、これこそNHKの存在意義にも沿っている。ここに強みがある。強みを生かしてチャンスに乗じる。オーソドックスである。

というよりも、「テレビ」が生き残るには正当な選択だ。足元の視聴率をねらうよりも戦略的ポテンシャルがある。大体、民放は事業の再構築が可能だが、NHKは放送事業を死守するしか逃げ場がない。カネもあれば、危機感もあるのが、NHKという会社なのかもしれない。

それにつけても思うのは、ドラマとは所詮はフィクション。事実のほうがはるかに面白いということだ。たまたま思いついたトリックや作為、さらにはヒットがほしいという思惑の混じったシナリオより、まっさらのリアリティそのものにこそ、真っ先に触れたいものだ。これはフィクションだと感じた途端に、白けてバカバカしくなるものではないだろうか。

最初からフィクションであるストーリーを時間をかけて追うのは、そこにリアリティがあるからだ。リアリティがなければ、全てのドラマは自分とは関係のない絵空事になる。リアリティを感じさせるスキルがドラマ作りの実力のはず・・・、マアいいか。芝居作りのスタイルもまた時代によって変わるものだ。


2016年4月11日月曜日

へそ曲がりの賭博論(続)

ストレス社会と言われる。

今遅い朝食をとりながらカミさんと見ているTVワイドショーのテーマは『きれる高齢者』だ。車掌に暴行を働く高齢者、近所の子供に殴りかかる高齢者・・・、昔もガミガミ親父はいたが、自分が気に入らないからといって手をあげるというのは、あまりなかったような気もする。怒られたのは、(たとえば)野球をやっていて、ガミガミ親父の家の庭に打ち込んだ時、明らかにこちらが悪い時だった。

かと思うと、無職の30代が家族に暴行を加えたりする。引きこもりの若者が自分よりも弱い幼少の子供を拉致したり、暴力を加えたりする。

ストレス社会=>ストレス発散社会。これは生物自然の理屈である。

★ ★ ★

ストレス発散のためのツールを求める欲求がすでにそこにある。

酒はその一つだ。が、悲しいかな酒の飲めない人もいる。タバコもそうだ。が、世はますます「嫌煙=善、喫煙=悪」の雰囲気を醸し出している。肩身が狭い。やめられる人はタバコはもうやらないだろう。それ以外だと、パチンコ、というかギャンブル。が、これまた肩身が狭い。先日も、違法賭博をするのは「コンプライアンスの欠如」であり、日本には競馬や競輪といった「合法的賭博」があるのだから、それをやればいい、と。浅草演芸場のネタになりそうなやり取りがTVであった。

もちろんギャンブルでもおさまらない人はいるかもしれない。そんな人が薬物にのめり込んでいくのかもしれないし、別の人は盗撮、痴漢など直接的行動を試してみたくなるのかもしれない。

スリルはストレス発散の特効薬の一つであろう。これは実証的論点であり、規範的な論点にはならない。

もちろんスリルだけが、ストレスを解消するわけではない。他にも効能のあるツールはある。

ツールであると達観すれば、そこには技術革新(イノベーション)もあるし、コストパフォーマンス、顧客評価という視点もある。法的規定云々は、通常商品に対する安全基準と同じ視点から議論できる、というか倫理ではなく、まずは需要と供給の観点からストレス発散については議論するべきだろう。そう思うのだ、な。


★ ★ ★


需要として一定量がそこにあるなら、禁止や規制をしても、ダメであろう。その欲求は、そこに存在しているのであって、食欲があるのと同じである。

日本では良質のサービスが供給されていないから、海外から輸入する(=外国のカジノに行く、etc.)のだ。ギャンブルは一例にすぎない。もっと広くみて、ストレス発散サービスについては日本の国際収支は赤字である(はずだ)。それでも外国にいける人はまだいい。こんな状況が日本の働く人の毎日を息苦しくしているのじゃあないか。

現在の社会状況の下で求められているボリュームが臨界水準を超えるようなサービスは、たとえ「違法です」と指摘して、それを規制しても、禁止しても、ブラック・マーケットが形成されるだけである。その方が非合法組織には好都合であろう。この辺のロジックは、戦後・昭和20年代に食材が流通した闇市場と同じである。

許容される状態に誘導するしか選択肢はない。政治とモラルは関係があるようで、実は互いに無縁のものである。カジノ開設と違法カジノ取り締まりを並行して実施するのは一つの選択肢だ。米国・カリフォルニア州では大麻が合法化されようとしている。これまた、公認と制御を通じて、結果としてブラックマーケットを消滅させられるのなら、優れた戦略と言える。

『ダメなものはダメだ』と叱責しても、折檻しても、家族や互いの顔が見える近所付き合いの範囲でしか、効力はないものだ。

2016年4月7日木曜日

また「賭博問題」か・・・

五輪代表レベルのバドミントン選手が闇カジノに出入りしていたというので又々騒動が持ち上がった。下手をすると所属する企業を解雇されるかもしれないというのだから、一度ギャンブル闇市場に手を染めた人間に対する社会的制裁の度合いはすさまじいものがある。

もちろん全てのギャンブル行為が違法であるわけではなく、まずは競馬、競輪、競艇などお上が認めた官営・公営の賭博がある。

また街には多くのパチンコ店がある。あれも当たってナンボという娯楽だからゲームというよりはギャンブルであろう。しかし、パチンコ店は許可なく開業できるわけではない。各都道府県の公安委員会(=警察当局)が許可しなければ自由に営業はできない。

ギャンブルとは金を賭けて運・不運に任せて利益を得ようとする行為であると定義するなら、株式投資、不動産投資、商品投資など、多くの売買行為には大なり小なりギャンブル行為がつきまとうものである。

ところが株式投資は(伝統的に)日本人の嫌う(?)ところであり、貯蓄形態に株式保有を選ぶ家計は多くはない。多くの日本人は「株」というものに親しい眼差しを向けてはいないと思われる。

大体、アメリカのベンチャーキャピタルは、その在り様自体がギャンブルそのものであると感じる。日本の大手銀行(の子会社)が自称しているベンチャーキャピタルとは、どこか本質に違いがあるような気もするのだ。

いずれにせよ、日本ではいわゆる「ブックメーカー」と呼ばれる胴元ビジネスは許可されてはいない。多種多様なギャンブルに興じることができる官営のカジノも日本にはない。




Source: http://frank777.net/


よく世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識であるといわれる。ギャンブル規制についてもそうなのだろうか?

英国ではブックメーカーが何でも賭けの対象にしてしまう。そんな風なイメージがあるが、ブックメーカー自体は免許制であって、誰でも胴元ができるわけではない。一定の規制がかかっている。また、ギャンブル・ビジネスを原則自由にしている国があるとは、小生の勉強不足もあるのだが、聞いたことがない。

なので、賭博を楽しんだから解雇(されないかもしれないが)というのは、世界基準からいえば非常識だと決めつけるわけにはいかない。

ただ、海外では<自分で稼いだカネ>を賭けて楽しむ行為が日本に比べて比較的自由であるとすれば、スポーツや芸術では国境がなくなりつつある以上、「営業店舗(?)」を訪れる当事者の目からみれば<世界の常識=日本の常識>だと、そんな思い込みをしてしまうとしても、それは自然、というか<ありうる>ような気はするのだな。日本と外国との国境は聖と俗を分ける「結界」というほどのものじゃあないでしょう。


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外国では普通許されても、日本では許されないのだと ― 逆の場合もある。そんな独自の倫理基準を設けるなら、具体的に文書化し、レクチャーもしておくべきであると思うし、そうすれば誤解も減る。

もちろん日本独自の倫理基準は、日本国内では隅から隅まで(外国基地内を除く)有効であるから、日本人だけではなく、来日するすべての外国人に対しても厳格に適用するべきである。でなければ、ダブル・スタンダード(=二枚舌)になる。というか、事実上の「治外法権」にしていることになるか・・・。

「解雇」ってのはないってもんじゃないですかい・・・可哀想だよ。役所でいやあ戒告さ。出場停止2か月くらいでいいんじゃないの?ざっとした感想だが、そんな声が世間では多いのじゃあないだろうか。

2016年4月6日水曜日

父への詫び状

作家・向田邦子の名作に『父の詫び状』というのがある。TV化もされたような記憶がある。向田ドラマと言えば、小林薫と田中裕子であると思うが、『父の詫び状』には二人とも出演はしてなかったような気がする・・・。

小生の心の底にあるのは「父への詫び状」である。

子、孝ならんと欲すれども親またず
というが、小生はその典型の愚物であって、小生が26歳になる年の夏に父は53歳で他界した。

他界するまでに自分なりに出来ることは色々とやったと思うし、父を喜ばせもしたと思うが、父の歩んだ人生に比較的多くの不幸が混じっていたとすれば、その原因の一つに小生の言動があったように思うのだ。

父は、最初は四国・松山市近郊にある勤務先の工場で生産管理を担当するエンジニアであったのだが、ある年、転勤話がもちあがった。10年以上も田舎の事業所でくすぶっていた父にすれば、外界に進出したくもあったろうし、自分の力が通じるかどうかの心配もあったのではなかろうか。

何も知らない無頓着な小生は『都会に住みたい』と主張して、何度も東京の近くに行きたいと駄々をこねた記憶がある。長男の話すことなど、一家の父親が下す意思決定にどれほどの影響力をもつのだろうか。自分もまた子供と接してきたのでその辺の気分はわかるようになったのだが、父という人は息子の言葉に背中を押されるような人でもあったような気がする。

伊豆半島の付け根にある小都市に移り住んだのは小学4年の夏であった。転校をした小生だが、友人はすぐにでき、いま思い出してもその町に暮らした何年かは最も楽しい日々となった。

父が新規事業調査のために欧州主要国からアメリカへと海外出張をしてきたのはその頃である。まだ為替規制があり、自由に外国から土産物を買って帰れる時代ではなかった。宝物のようにして持ち帰ったジョニーウォーカーの黒ラベルをみる父の満足そうな表情を思い出すと、当時の貨幣価値で1万円もしたジョニーウォーカーは何であったのかと・・・そう思う。

欧州では仕事の合間にベルサイユ、ローマを訪れ、スイスではユングフラウに登った。ドイツではライン下りに興じ、米国に渡ればニューヨークではエンパイアステートに上がり、そして偶々開催中の万国博覧会を見て回った。ワシントンではリンカーン記念館、ホワイトハウスなど主だった所は全部見て回った。航空会社でストがあり大陸横断バスでサンフランシスコまで行ったかと思うと、その前にはナイアガラをきちんと見ておく。そんな「出張」を何度かしてきたのは、現代の世で仕事をしている小生だって経験していない。

東横線沿線にある元住吉に移り住み父は本社から事業提携先企業に派遣される責任者になった。いまでも新規事業のスタートアップは最も苦心するところであり、ビジネススクールでも主たる課題を形成している。事業提携先の現場では大企業に飲み込まれるという懸念からか、労働争議が頻発し、事業が停滞するようになったころ、目黒駅近くの屋敷町にある借り上げ社宅が空いたからどうかという話があった。父にすれば通勤時間が短くなるというより、むしろそんな古くからある閑静な住宅街に住んでみたくもあったのだろうか。小生を連れてその家を見に行ったものである。東京風に深い軒を備えた古い日本家屋の持ち主は、東大工学部の某教授であったが、海外で仕事をしているというので父の会社に貸していたわけである。

庭には大きな団栗の樹があった。苔むした大きな石の後ろには灯篭が置かれていた。その頃、小生は高校一年であり、通学には電車一駅でよかったのだが、広い庭のある静かな日本家屋と有名な住宅街に住むことに魅力を感じ、父には是非この家に移ろうと、熱心に頼み、その日は同行しなかった母にも東京の都心に住むことの便利さを大いに説いたものであった。小生が通っている高校は比較的に都心に暮らす家庭の子弟が多くおり、自分もまたそんな環境に移りたいという根拠のない心情に影響されていたのかもしれない。妹や弟はまだ小学生であったが、転校を余儀なくされるということになど、小生の関心はまったく向けられなかった。

父は既にストレス性の神経性胃炎を患っていたが、移り住んだ目黒の家から板橋区にあった工場に通勤するうちに、次第に物事が解決されない状況に焦りを募らせたのだろう、元気をなくし、憔悴し、憂鬱症になってしまった。そして、症状が悪化し、精神内科の医師に診察を請い、毎日薬を服用し、そのうち離れの日本間にずっと籠るようにまでなってしまった。庭に多くの石を配置するのは家相としては良くはないのだとずっと後になってから母は聞いたそうだ。

父が再び家族と食事をともにできるようになるまで大体3年かかったろうか。また日常生活を人並みに送れるようになった父は、回復したとはいえ、以前の父とは同じ人柄ではなく、覇気や志、何かのために毎日を努力する人ではもうなかった。それでも父は、小生と夕飯を食しながら話をするのが、それなりに楽しかったようである。その頃になると、父は大学の先輩が工場長をつとめる名古屋に呼ばれ、大事な仕事からは外された窓際族として通勤するようになっていたが、そんな数年間は父が最後に胃癌を発症するまで、家族としては大変に平和で穏やかであり、小生もたまの休みに「帰郷」できるのを心待ちにしていたのであった。妹も既に下宿をして東京にある女子大学に通い、名古屋の家には8歳下の弟がいるだけであった。そんなときに小生が帰ると、気分が盛り上がるのか、父は大変歓迎してくれたものである。その頃、父が愛読していた江藤淳の『海は蘇える』は、いまでも背後の書棚に所蔵されている。

愉快なひと時を提供したという一点をとれば小生は父に孝行をしていたのかもしれないが、しかしながら、満たされることが少なかったと思われる父の人生をそのような人生にした遠因の一つに小生という存在があったことは否定できないように思われる。であれば、『父への詫び状』を書かなければならない。

いかなる言葉を書き連ねれば詫び状になるかはわからないし、父親が息子から詫び状をもらおうという気持ちにはそもそもならないものであるのは、小生自身もわかってはいるのだが。

2016年4月3日日曜日

覚え書: 「給付型奨学金」が拡大しないのは?

この4月に後輩が新たに配属されてきて、下の愚息も少しはしっかりしてくるのじゃないかと思っている。

仕事を始めた時点では数百万円の債務(イヤ、800万円ニ達シテイタノデハナカッタカ・・・結構ナ額ダ)を負っていた。早速、一部の返済が始まっているのだが、確かあと2年ほどすれば、別に貸与された分の返済も始まる。少々給与が増えても可処分所得はな~んも増えんよね、とぼやいてみても、昇給がある分、同年齢層ではまだ恵まれたほうなのかもしれない。返済は可能だからだ。

★ ★ ★

このところ、返済を求められる貸与型ではなく、返済免除・給付型奨学金の拡大が日本でも叫ばれている。先進国の中でも、このタイプの奨学金の貧弱さは際立っているからだ。

ただ思うに、時間をかけて検討を続けてみても、結論が出るまでは長い時間がいるだろう。

・・・・・・、小生も学生委員会という所で授業料免除や奨学金について審査したことがある。カギになるのは、やはり『家計基準を優先するか、学力基準を優先するか』ではないだろうか。

現在は、家計基準に重きが置かれている。そんな印象を(全体的には)もっている。

授業料を負担するのは(日本では)ほぼ完全に保護者である。その保護者の支払い能力が現時点において不十分であれば、国がそれを立て替える。受益者である学生があとでそれを返済する。この考え方が確かに合理的であるし、本来はこうでなければならないのだ、な。


が、家計が今は苦しいので奨学金を貸与しても、十分な給与が支給される優良な就職を実現する学生はすべてではない。返済に苦慮する学生が非常に増えているという現実がある。

そこで、返済を求めるのは酷ではないか。そんな発想になってくる。

★ ★ ★

しかし、授業料・生活費を本人でも保護者でもない人が代わりに支払うからには明らかな理由が必要である。理由がなければ税金から支出する制度化も無理である

高等教育は生きていくのに不可欠な必需財ではなく、にもかかわらずその経費を他人が負担するからには、負担した人も含めた社会全体がその負担をプラスになると考えなければならない。

つまり負担にはリターンが期待される。人に投資する。まさに、情けは人のためならず、だ。この観点に大多数が同意しない限り、給付型奨学金の拡大は難しい。

もし奨学金給付が投資であるのなら、投資のリスクと利回りがカギとなる。ということは、「経済的に苦しい」かどうかではなく、「将来性がある」かどうかで決める。こういうロジックになるはずだ。


★ ★ ★


大学入学時にすでに優秀であることが証明できる学生は、現在の日本では優秀な高校で学んだ生徒であることが多い。また、学問、芸術、武道を問わず、若くして才能を開花できるのは、よい指導者に恵まれ、教育熱心な家庭環境にある子弟がほとんどを占めるだろう。

明治時代のように、志をもった若者が主に学問に熱心な貧乏士族の子弟であり、将来有望な若者を国家が支援することの必要性も公益性も明らかであれば、給付型奨学金に社会的合意を得やすいだろう。

しかし、家庭も、環境も恵まれた子弟が、主に奨学金給付の受益者になるとすれば、公益性はともかくとして、給付が必要であることを説明するのは難しい。

もっと幼い時点で有望かどうかを判断すればどうか。義務教育のある時点において、少数の子供の才能に着目し、選別したうえで、家計状況を問わずに社会が支援する。これなら容認可能かもしれない。

そのためには幼少時から参加費無料の、そして結果に応じて給付型の育成費が支給されるようなコンペティションが開催され、家計状況を問わず、平等な機会が「才能ある子弟」に与えられていなければならない。

しかし、そんなコンペティションがあれば、そこで上位入賞者になるための予備教育が流行するであろう。やはり恵まれた家庭の子弟が有利になりそうである。

結局は、その子が有望であるかどうかは恵まれた家庭に生まれたかどうかによる。そんな認識をくつがえすのは相当難しく、公的な資金があれば「困っている家庭を助ける」という視点に立つべきだ。そんな見方に戻ることになる。

であれば、それは将来性に対する投資ではなく、資金繰りを助ける<立て替え払い>である。いまの制度が最も良い、というより実行可能な唯一の方法である。そんな結論になるかもしれない。

もしも一歩進んで、「困っている家庭の子弟を助けるため、立て替えるのではなく、あげるのだ」と議論するのであれば、しかも「給付対象学生の学力や才能は問わない」というのであれば、もはや奨学金のカテゴリーにはなく、むしろ生活保護 ー イヤ生活保護ではない、福祉政策になるか ー の一環であるというべきだろう。 そうなると、「そんな財源があるなら1日でも早く子供に稼いでほしいという家庭をなぜ先に助けないのか」、あるいは「大震災被災地避難者への支援になぜ使わないのか」などなど、色々と多様な意見が出てきそうである。

税で運営される国公立大学ではなく、私立大学(及び予備校)が独自に行っている授業料免除、奨学金給付についてはまた別枠で論じたい。

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才能のある子弟なら社会が支援する。裕福な家庭に生まれた才能のない子弟は親がカネを負担してそれなりに育てればよい。その他の家庭に生まれた普通の子弟は、環境が許す範囲の就学機会を得て、つける仕事についてほしい、と。

給付型奨学金を増やすとすれば、こんな方向になっていかざるを得ないと思うのだが、誰がうえのようなホンネを堂々と語れるだろうか?

学生本人のモラルに何が求められるかもカギだろう。

任官拒否をする防大卒業生の立場をこえる困難がそこにはあるに違いない。

2016年4月2日土曜日

こんな心境で退職したいものだ

定期的に本ブログでもその景気判断を引用してきたドイツ・IFOの代表を務めてきたDr. Hans-Werner Sinnがこの3月で退任したそうである。Sinn自身による退任の挨拶がメールマガジンに添付されて届いた。

最初のところを引用しておこう。

Liebe Leser, 
ein Abschied aus dem Amt ist zwar, wie ich gelernt habe, ein mehrstufiger Prozess mit einer Vielzahl verschiedener Veranstaltungen, doch Ende März 2016 höre ich nun wirklich auf, nach 17 Jahren Arbeit für das ifo Institut und die CESifo GmbH, 25 Jahren für das Center for Economic Studies (CES), bald 32 Jahren für die volkswirtschaftliche Fakultät und 83 Semestern Lehre an verschiedenen Universitäten. 
Die vielen Bekundungen der Freundschaft und Anerkennung, die mir zuteil wurden, haben mich verlegen gemacht und mit Dankbarkeit für all die Kollegen, Mitarbeiter, Gremienmitglieder und Lehrer erfüllt, die mir in meiner beruflichen Karriere so viel gegeben haben. Ohne ihre Unterstützung und ihr Wohlwollen hätte ich meine Aufgabe nicht erledigen können. 
Noch bin ich nicht müde, doch sagt mir mein Verstand, dass es mit 68 Jahren an der Zeit ist, ruhiger zu werden. Ich habe meine Pflicht zu tun versucht, und mein Beruf hat mir viel Freude und Erfüllung gegeben. Ich höre hoffentlich auch nicht gleich mit dem Denken auf, zumal ich eine Verbindung zum ifo Institut behalte und dort auch weiterhin den Puls der Zeit fühlen kann. Meine Kontaktdaten bleiben gültig, obwohl ich in ein anderes Büro umziehe.
Source: http://www.cesifo-group.de/ifoHome/infoservice/News/2016/03/news-20160331-sd-6-2016-sinn.html

疲れたわけではない。しかし、68歳という年齢は、ゆっくりすべき時であることを私に教えている。私は私の為すべきことをなそうと努めてきた。私の仕事は私に多くの喜び(筆者:友人ではなく喜びだ、FreudeであってFreundeではない)と、 そして満足を与えてくれた・・・

こんな心境で仕事に一区切りをつけられる人は最高に幸福であると思う。


同じメールマガジンで今月の景気動向指数が公表されていた。

Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands stieg im März. Die Einschätzungen zur aktuellen Geschäftslage verbesserten sich auf den höchsten Stand seit einem halben Jahr. Auch die Erwartungen erholten sich nach dem starken Rückschlag im Vormonat wieder etwas.

3月の独・景気は最近半年間で最も良好な状態に改善した。景気の先行き感も前月の後退からいくらか改善した。

昨年秋口から続いた景気足踏みが足元では終息する段階にあることを示唆している。

おりしも、昨日の東京市場は日銀の短観が予想を超えて弱い数字であったため、日経平均株価が594円安と急落した。

アメリカの景気は好調とは言えないまでも、NASDAQは案外に腰が強く、景気の現状は底堅い。

昨日の日経急落は、投資への絶好のチャンスであると思うが、それにしても『短観』に敏感に反応するものだねえ・・・。確かに、短観の景況感は事後的にみると景気の変動をよく教えてくれてはいるのだが。


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人は変わっても、世はそれほど変わるものではなく、世が変わっても人の本性は変わらない。一人の人間にとって生死は文字通りに始まりと終わりであるが、世間からみれば大樹の中の一枚の葉にあたるものでしかないものだ。