2016年4月27日水曜日

「安全」とは条件付き確率でしか示せないものだ

川内原発の運転停止を求める声が高まりつつある。熊本地震が進行中であるにもかかわらず運転停止を求めないのは、原子力規制委員会の誤審であり、それを黙視している政府、さらには安部内閣にも責任があるという指摘は、特に「左翼系」のメディアでは目立っている。

「左翼系」だからといって、議論している内容は全てイデオロギーのせいで偏っており、信頼性に欠けると即断するのも適切ではない。


確かに原子力規制委員会が安全性を認めた川内原発だが、その判断は「過酷事故」として想定された範囲での「安全性」であるに過ぎないー実際、東日本大震災においても、福島第一原発は十分な「耐震性」を示したことを忘れてはならない。事故の原因は想定を超えた巨大津波(と緊急電源車のプラグがマッチしなかったという会社側のチョンボ?)である。であるので、「想定外」の天災が発生すれば、どんなことが起こるかは依然として不確定である。こう言われてしまうと委員会としても答えようがない、というのが率直なロジックである。

一部のマスメディアが主張するように、「想定外」のことは考えないのか、と。この指摘は、正しいことは正しいのだ、な。


しかし、想定外の可能性がゼロではないことを指摘して、いまやっていることは間違っていると言うとしても、「こうして生きていること自体が危険なのです」という韓流ドラマさながら、それはネクスト・アクションを決めるための指針としては役に立たない。

何か行動するときは、何らかの前提は置いているものであるし、何を行うにしても「想定外」の事態は可能性として常に残るからである。

いずれにしても、我々は生きていこうと決めているのであるし、食っていく必要もあり、できれば豊かな、そして贅沢もできる生活を送りたいと願っている。これが現実だ。上にいったネクスト・アクションは、科学的認識の正否がキーポイントになる世界ではなく、危険を小さくしたいという願いと暮らしを楽にしたいという願望のバランスをとらなければならない現実の世界で答えを出す、そういう行動プランのことである。

そもそも無条件に安全が確保される、リスクが全くない世界を地球上で想定することは不可能である。以前に投稿したように、最大の津波を想定するという科学的作業そのものが意味を失うのが、何の前提もおかずに将来を考えるという問題である。


少年の頃は、お父さんがいれば大丈夫と思っていたものだ。
しかし、お父さんにもお母さんにも、どうしようもないことはある。だから、先人は神に祈った。

何が起こるにしても、それは神の意志であるとしか言えない場合を、人間は想像することだけはできる。しかし、そんな想像は何か具体的な行動計画を求めているわけではないのだ。

天が落ちてくると心配する杞憂は、バカバカしい心配を指すのだが、100パーセントバカバカしい心配はやはりないのである。だからと言って、杞憂を解消する行動計画は立てようがないというのも事実である。

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