これは幕府政治の大きな貢献だと思っている。
いまでも残っているのは、初詣や伊勢参り、御大師様や南無阿弥陀仏など、断片的なレジェンドが日常の暮らしにあるだけであって、体系的で俗世間を超越する信仰という行為が社会を動かすという、そんな側面は現代の日本社会では想像しにくい。
こんな無宗教化は、程度の差こそあれヨーロッパでもアメリカ社会でも地球のどこでも進行中であり、キリスト教なり仏教が果たすリアルな影響は、実際には無視できるほどに小さくなったと小生はみている。
そんな現代日本社会においても1990年代前半にオーム真理教が世間を騒がせた。その教団が実行した多くの事件はWikipediaでも紹介されている。
最近も小生が暮らしている北海道という地で、オーム真理教はアレフと名を変えて、徐々に徐々に復活しつつあると伝えられている。
ではあるが、もはや宗教や信仰は、社会全体の中では非常にマージナルな存在でしかなく、人はますます理屈っぽく、頭でっかちで、技術好き、科学好き、機械好き(もっと言えば、お金好き、美食好き、不倫好き?)になりつつある。神という絶対的存在にはますます不感症になりつつある。そう感じているのだな。
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この2,3日に立て続けに発生したフランス・ニース市のテロ事件、トルコで発生していると報道されている軍部クーデターと軍によるイスラム拠点の攻撃。これらは、イスラム教という世界宗教が分裂し、迷走しつつある現象とみてよいのだろうか。そんな疑問を感じるわけである。
おそらく「格差拡大」とは関係はないのだと思われる。「資本主義」や「自由主義」とも関係は薄いのだろう ー たとえばISがスローガンにしている汚れた先進資本主義国という呼び名にかかわらず、現実にはるかに多数のイスラム教徒は現代社会で生を送り、豊かな国を望んで移民し、礼拝をし、その大半は移民先に溶け込みつつあるという事実がある。暴力的イスラム・テロリストとイスラム教は、本来は何の関係もない。そうみておくのが正しいのだろう。しかし、イスラム教が暴力を正当化するグループにいま利用されている。そんな宗教はほぼイスラム教だけであるのではないか。
利用されつつあるイスラム教徒は怒りを表現するべき立場にあるはずだが、寡聞にしてイスラム過激派に抗議をするイスラム信徒の集団的行動が伝えらることはない。イスラム社会の権威が『彼らはイスラム信徒にあらず』という声明が何度もなされているにもかかわらず、世界のイスラム信徒に強いリアクションはない。
人間に対する暴力を肯定する教義がイスラム教には潜在しているのだろうか。
今後10年ないし20年は、イスラム教という世界宗教が、足元における信徒数の増加にもかかわらず、未来社会で生き残っていくかどうかの分岐点であるかもしれない。もともとイスラム教は、ビザンティン帝国内の宗教政策の失敗によりアラブ民族が離反した段階から派生した民族活動であった。今日のイスラム世界の混乱には、西欧の植民地大国に大きな責任があると言われる。確かにそうだろうが、それと同時に石油という俗世間的富を得て堕落した自らの社会と、堕落した上流階層に対する怒りの感情を制御できなくなっている。そんな一面もあるに違いない。
精密な論理で聖界と俗界を整合させ構築した中世カトリック教会に対して、近世のとば口で突如として怒りを爆発させたドイツの田舎牧師マルティン・ルーテルならば、イスラム社会の底に広がるいまの怒りの感情を多分理解できるのかもしれない。
以上、覚書きに記しておく。
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