2016年10月15日土曜日

ノーベル文学賞のいう「文学」とはどんな文学なのだろう

今年度のノーベル文学賞は(何と)ボブ・ディランが受賞した。予想する向きもあったらしいが、これまでの経緯を素直に考えれば、びっくりした人のほうが多かったのではないだろうか。

ノーベル文学賞は、チェコのフランツ・カフカ賞とも、英国のブッカー賞とも、日本の芥川賞とも違っているのかもしれない。実際、英国の文豪サマセット=モームも20世紀文学の創始者ともいわれる英人・ジェームズ=ジョイスや仏人・マルセル=プルーストもノーベル文学賞は受賞していない。

おかしい・・・。「文学」の専門家なら思う(と思う)。

しかし、「だからノーベル文学賞は国々と民族回り持ちの単なる名誉賞」というわけではないだろう。

結局、何のために「ノーベル賞」という表彰基金ができたのかという、そんな設立理念によるのだろう(と思う)。


小生は文学には素人の単なる読書好きでしかないが、過去の受賞者をよく見ると、多くの人は何か「主張」というか「、もっと言うなら「主義」をもっていた人物ではなかったか。そんな気がしないでもない。トーマス・マン(1929年)然り、ヘッセ(1949年)然り、パール・バック(1939年)然り、だ。要するに、ノーベル賞を授与する側は何か「思想」を求めているのではないか。そんな気配がするのだな。

それに作家だけではない。哲学者ベルグソンは1927年に新しい哲学への功績で文学賞を授与されている。もっと遡って、1902年に受賞したモムゼンは歴史家にしてローマ法学者であった。モムゼンのローマ史は有名なギボンの『ローマ帝国衰亡史』と同じく文学的香りをそなえていると同時に、近代歴史学の礎石としての価値もあるそうだ(Wikipediaによる)。

ミュージカル・キャッツの原作ともなった作品で有名な詩人T.S.エリオットは1948年に、『第2次大戦回顧録』で有名な英国の元首相・チャーチルは平和賞ではなく、ノーベル文学賞を1953年に授与されている。どちらも重量級の文化人(政治家?)といえよう。

どうもノーベル賞を授与する側としては、世界を変えるような思想、哲学、創作世界を提示するような、そんな「道を切り開いた人物」をイメージにもっているような気がする。

まあ、確かにボブ・ディランはその詩と歌を通してベトナム反戦運動の口火をきり、その後のフォークソング文化なるものの狼煙をあげたわけだから、アメリカ社会を「変えた」といえば変えた人物だ。

エンターテインメントとは、あくまで別の尺度で選んでいるのだ、と。要するに、そういうことではないか。といって、村上春樹の小説に魅力的な創作世界を超えるような、何か社会を変えつつある力があるのかないのか。小生はこれ以上の知識をもっていない。

以上、単なるメモである。

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