ずっと以前になるが学部ゼミで有島武郎の『生まれ出づる悩み』を読ませたことがある。主人公は、言うまでもなく、岩内で家族とともに漁師として生きていた木田金次郎青年であり、絵を捨てきれない木田青年と交流のあった有島がこの作品を発表したのは1918年のことであった。
1918年といえば14年から始まった欧州大戦(=第一次世界大戦)が終わった年であり、それまで未曽有の好景気にわいた日本に次第に不況の影が忍び寄ってきていた時期にあたる。そんな時代背景が有島の描いた岩内町の風景描写にもそこはかとなく漂っているのだ。
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最近は岡本綺堂の『半七捕物長』に久方ぶりではまっていることは以前にも本ブログに投稿した。昨晩、光文社から出ている時代小説文庫版の第3巻に収められている「雪達磨」を読んでいると、≪文久元年の冬には、江戸に一度も雪が降らなかった。冬じゅうに少しも雪を見ないというのは、殆ど前代未聞の奇蹟であるかのように、江戸の人々が不思議がって云いはやしていると、その埋め合わせというのか、あくる年の文久二年の春には、正月の元旦から大雪がふり出して、三が日の間ふり通した結果は、八百八町を真っ白に埋めてしまった。故老の口碑によると、この雪は三尺も積もったと伝えられている・・・≫、こんな風な叙述があるのだ、な。
文久二年といえば1862年、・・・、まだまだ寒冷期であったろう。岡本綺堂は旧幕臣の息子として明治五年(1872年)に東京で生まれた人である。長じてからもまだ文久二年の大雪のことを記憶している人は周りに大勢いたはずだ。
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以前、天保時代に制作された歌川広重の浮世絵「蒲原夜之雪」の豪雪は、江戸に暮らしていた広重のおそらく寒かった天保の実際の経験に基づきながら描いたものであったろうとの覚書をこのブログに残したこともある。
文久二年は1862年、かと思えば銚子の沖合にある海鹿島には、明治時代になっても2、300頭のアシカが(まだ)棲息していたという。
明治時代は、少なくとも前半20年間は、いまと(また、前の時代に比べて)比べて非常に寒い時代であった。
よく「観測史上最高」という形容がされるが、東京気象台が気象電報を開始したのは1883(明治16)年。いま気象庁のホームページで日本の月平均気温の長期トレンドを図に描くと、日清戦争後の1898年からデータがそろっているようである。
いずれにしても、いま言われている気温の長期トレンドとは、最近において最も寒かった時代の気温を開始時点にしてトレンドをみていることになる。
ミス・ジャッジメントにならないか。ちょうど、前回の景気の谷を開始時点として販売の回復をみているようなものだ。そういう面があるのではないだろうか、と。一寸、気になったので覚書にしておいた。
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