2016年12月13日火曜日

妄想:時代によってキーワードは変わる、「偽善」と「責任」

少し前にNHKでドラマ『夏目漱石の妻』が放映され中々の出来栄えであると評価も高かったようだ。もちろん小生も毎回楽しみにしてリアルタイムで視聴した。

漱石の作品は大体は読んだ。明治生まれの祖父が好きだったので影響を受けたきらいがある。

漱石がよく使う言葉は「偽善」、あるいは「偽善者」である。作品中ではヒポクリットとフリガナが振られていることが多いが、この言葉の意味が実感としてわからなかったのは10代という年齢を考えれば無理はなかった。言うまでもなくネガティブな意味合いで使われているのはわかった。しかしながら、「偽善」のどこがいけないのか、それが感覚としてわからなかったのだ、な。

今では(勿論)わかる。そして偽善なる行為・発言が嫌でたまらないのは漱石と同じになった(と思う)。

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現代日本語で言うと、「偽善」イコール何になるだろう?

さっきまで風呂につかっていてふと思った。ひょっとすると「ぶりっ子」というのは偽善になるのではないか。「風を読む」、これも偽善かもしれない。心のホンネを隠して他人や社会にこびるような発言をしたり、気に入られる行為を故意に見せたりするのは、典型的な「偽善」である。

漱石は人間のそういう行為が嫌いであったようだ。とすれば、当然のことながら非社交的になるわな。確かにそうであったようだ。成長する過程において、状況の変化により手のひらを返すような「裏切り」を経験してきたことが原因かもしれない。

人間たるもの、いつかは決定的なタイミングで本音を出すものである。だから「偽善者」は危険なのだ。

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そんな「偽善」という言葉が使われる場面は最近ではほとんどなくなっている。日常的にネガティブな議論をしている時によく使われるのは「責任」という言葉だ。

何をしても「責任」を問うのが現代社会の井戸端会議である。何事も誰かの責任において管理運営されている、と。そんな共有感覚が日本社会に浸透しているためだろう。

「偽善」と「責任」。この二つの言葉には関係がある。そもそも偽善者は物事の責任を負うつもりはない。責任は、本来、リアルな概念である。自分の命をすらかけなければならない時もある。それが「責任」である。偽善者は責任をとろうとしない。だから漱石は何より嫌いだったのである。

責任から解放されれば、人は善人になれる。また善人でありたいと願うものだ。リアルな「責任」などと野暮なことをいわず、「人間関係」だけを目的にすれば、誰でも人は「偽善者」になる。というか、「偽善者」になるのが最も合理的である。

もちろん、リアルな意味で責任を持つ人がいなければ、社会は運営できない。そんな覚悟をもった人間が社会を本当の意味で管理する。必然的に、そんな種類の人は偽善者ではない。

ここまで言えば、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の大審判官で次兄イワンの語る社会哲学とほとんど同じになる。

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なんだか話が難しくなった。

心づくしが「偽善」だと言われることはあるだろう。「おもてなし」が「偽善」だと言われることもある。「おもてなし」が偽善ではなく、リアルな心を表現する行動なのだと相手に伝えるには、真に100パーセントの本気の気持ちで、相手と交流することが大事だ。

「おもてなし」を人間関係の面から語る時、なんとなく嫌な気持ちになるのは、小生がへそ曲がりであるからだ。とはいうものの、まったく的外れの感覚でもないと思っている。


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