2016年12月26日月曜日

断想: 時間と存在、プラス流転

もう数年(以上?)前から時に愛読させてもらっているのが画家・菊池理氏によるブログ「イッキ描きブログ」である。本年12月12日の氏の投稿の中に小生の感性に触れる文章があった。『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』を読書している中での感想を述べた所だ。

「存在とは時間なのである」と書いてある。自分で書いた。

ということは、時間とは存在なのか?
「早いねぇ~、もう12月だよ」とか言って、月日の経つ早さに驚き、おののき、ちょっと嫌っている。年寄りには特に早く感じる。寿命が近づいているから恐ろしい。
しかし、時間が存在なのだとすれば、月日が経つことによってわれわれは生きている。考えようによっては生きている証拠でもある。生を実感できる根本かも。「もう12月だよ。もう12日だよ」というのは生を謳歌しているのかもしれない。
生きているよぉ~~~。
確かにそうだと思う。

統計分析を専門にして授業もやっている身だが、特に強調しているのは『元のデータの値そのものを見ていても、将来など見通せませんよ。予測とは変化のパターンがこれまでと変わらないという一定の前提の下で、将来もこうなるという計算のことです』。

物事は変化して初めて知覚に触れるものである。「存在」といえば、一定不変の物と考えがちだが、周囲の世界が一定不変で、全てのものが一定の場所にとどまり、同じ状態を維持するなら、私たちはそれらを認識することはできないだろう、と小生は思うのだ。

そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。

この意味では、小生は『万物は流転する』といった古代ギリシアの哲学者に賛成するものだ。だから、変化が時間の中で生まれうるものである以上、「人間」にとっての「存在」とは「時間」に他ならないと考えているのだ。

・・・・・・いやあ、時間が出来てきた証拠である。連日の投稿ができるとは。世間では「歳末」といっているらしい・・・

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