2016年12月31日土曜日

どちらに「ニュース価値」があるのかと思わせること

格言のとおり『未辛抱、申酉騒ぐ』を地で行くような申年の一年間であった。

年末には安倍総理がオバマ米大統領とともに真珠湾・アリゾナ記念館を訪問し演説した。日本の稲田防衛相も同行したが、帰国した直後に単身で靖国神社に参拝した。与党からもその「軽率な」行動には疑問が呈されているようだ。

何と言っても「女性の防衛大臣」であるせいだろう。社会的なうねりになるような批判は起こっていない。しかし、日本の軍部(≒自衛隊)を統括する閣僚が、国際平和への誓いを述べた総理演説に陪席した直後、「自身の信念」だという理由で旧連合国が嫌悪している靖国神社に自ら参拝する、と・・・

連想されるのは「軍国主義」であろう。「武断主義」と言葉を変えれば、現代の日本人にも共感を感じる人は多いはずだ。日本人の小生でもそう思うくらいだ。だから問題なのだ。明治・大正の伝統であった国際(=列国との)協調がもはや賞味期限切れであると勘違いし、独善的な軍国主義への道をとろうと「覚悟」を決めたのが、その時代である。「志」といえば聞こえはいいが、かの石原莞爾も戦後になって「誤り」を認めている。

その他の論点は多数の文献もあり今更書く必要はない。

とにかくも、

自国の文化的な伝統を体現する、それでいて未来性を感じさせるスマートな歴史感覚を期待してやまない。防衛相の発言・行動から伝わってくるのは単に「カビの臭い」である。

普段は安倍政権の政策には厳しいマスメディアが、なぜこの件で一致して非難をしていないのか。メディアという会社の行動原理については、小生の理解力は確かに不十分だ。


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韓国・釜山に従軍慰安婦像が設置されることになったそうで、これまたニュースになっている。日本政府としては「遺憾」だと伝えているよし。

上の防衛相靖国神社参拝の一件とどちらが「ニュース価値」があるだろうか?

マスメディアなる会社の思考回路は、小生の理解を超えるものであるが、そもそも彫像をつくる位の自由はどこの国民であれあるだろうに・・・と、小生はそう思う。

まあ、芸術、というか審美的基準から創造しているというよりは、政治的主張のツールとして慰安婦像を制作しているのであろう。とすれば、従軍慰安婦像なる作品は美術的作品ではないのだろう。政治的主張なのだろう。政治的主張であれば、日本にも、その「責任」はともかくもあるとして、政治的反論として言いたいことがあるのも事実だろう。

それより、政治的行動であれば、もっと美しい(と日本人である小生は感じてしまうが)、颯爽とした政治戦略をとれるのではないか。どことなく、哀れであり、自虐的であり、誇りを失わせる行き方ではないのだろうか。個人的には、小生、そう感じることが多い。

が、これもまた「表現の自由」の範疇には含まれると考えるべきだろう。日本国内においては(たとえ政治的思惑があるにせよ)表現の自由を憲法で保証しておきながら、韓国人が韓国で、いや韓国外の世界のどこであってもだ、表現していることに険しい目を向ける、と。そんな権利は日本人にはないと思う。

ま、無論、立場を変えて逆のことをするにしても、日本人にも「表現の自由」はあるし、それがもしヘイトスピーチや(これは勘違いだと思うが)ワサビテロであるのであれば、韓国人も自由に表現すればいいのだろう。とはいえ、方法の選択、戦略的な深さ等々、どうしても「低レベル感」を感じてしまうし、誰でも自由である以上はそれがもたらす結果に対しても責任を負うべきなのだが。さて、どうなっていくやら……


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ただ、マア、あれである。

確かに原爆や東京大空襲による犠牲者を悼む彫像は、日本人は制作するだろう。もし、そんな感性に立つなら戊辰戦争で「賊軍」と呼ばれ、討ち死にを遂げた日本人を悼む彫像もあってしかるべきだし、どこかに既にあるのかもしれない。

しかし、たとえ「賊軍」とされたことが悔しいとしても、その彫像のレプリカを多数つくって、多数の場所に配置することは、日本人はしないのではないか。「ちょっと感覚的に違うなあ・・・」、是非はともかく、そんな感じがするのだ、な。

悲惨な記憶や敗北の記憶、失敗の歴史は形にして継承するのが文化だが、やはり現実に世界の各地に残っている歴史遺産の多くは、パリやローマの「凱旋門」であるにせよ、北京の壮大な故宮であるにせよ、壮大な成功を記念するモニュメントではなかろうか。いわゆる「レジェンド」とはそういうものを指す。いくら侵略を憎悪し、400年余り前に侵入してきた満州族が憎いと言っても、宮城内の景山で縊死した明朝最後の皇帝・崇禎帝の彫像を清朝が滅亡後に設置するなどは、やっていない(と思う)。

2001年9月11日にアメリカを見舞った同時多発テロで倒壊したワールドトレードセンター跡「グラウンド・ゼロ」には、犠牲者を悼むメモリアル・モニュメントが制作されている。それは訪れる人を厳粛にさせるものである。しかし、具象的な彫刻という形はとっていない --- アブストラクトな建築的作品になっている---犠牲者となった人の名は刻まれているが。いくらその人を生前に知っている、記憶がまだ明瞭であるとしても、その人(たち)の肖像画なり、彫刻を展示するなどは、今後もしないのではないかなあ・・・。

まして彫像のレプリカを、アルカイダ発祥の地であるアラブの地に多数設置する・・・。

いや、やりませんわ、こんなことは。そう感じるのも事実なのである。

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メッカではないが、犠牲者に哀悼を捧げ、慰藉を祈る中心は、唯一の地点に決めておくほうが求心性があると感じるし、日本に過半の責任があるのであれば(あると思うからカネを出したのだろう)、そんな祈りの場の建設にこそ協力するべきではないだろうか。

そのほうがずっと賢いわ、そう思ったりもするのだ。


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