2017年2月5日日曜日

メモ:「正しいかどうか」は無意味な話題ではないか

トランプ大統領が酉年の酉(トリ)よろしく相次いで繰り出す大統領令にも司法の判断が下されつつあって、状況は混迷の様相を呈してきた。

そこで議論されている、というか報道されている文章を読むと「この大統領令は正しくない」という意見が多い。

そもそも「正しい」とはどういうことなのだろうか、と。小生、昔から「正しい」という言葉が人の口から出ると、どことなく反発を感じていたものだ。何しろ極端なへそ曲りであることは、何度も断っている。

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世の中で意見が分かれることは多々あるが、それが真理であるか否かという判断は比較的易しい。

数学的定理はロジカルに証明されているし、まだ証明されていないなら「予想」と呼ばれ、真偽が定まっていないー多分、真理だろうというので「予想」なのであるが。

実験や治験でエビデンスを挙げてもよい。もちろん反証が出てくれば真理ではない。

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美しいかどうかは真理かどうかより明らかではない。が、観れば(聴けば)分かるという点では、(人によって判定は分かれるが)むしろシンプルな問題だ。

それが善いことであるかも判断の観点さえ明らかにされていればそれほど難しい問題ではないのではないか。

カントは、最高の善は「善意志」にあると考えた。善を求める人の意志こそ最高の善なのだというわけだ。そして、何が善であるかどうかは、社会的な慣習ではなく、人間が生まれながらに持っている「実践理性」にきけば分かると議論した。文字通りに超越的・形而上学的だが、『曲がりなりにも人であれば、善いことかどうかは分かっているはずだ』というのは、限りなく孟子の人間性善説に近いとも思う。まあ、現代では既に古くなっている思想でもあるだろう。

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そういえば、数日前のTVで報じられていたが、生後半年の乳児にも既に何が正義であるかかが分かっている。そんな結果が実験心理学で得られたという。その実験は、動画でイジメを見て逃げる人と、いじめられている人を助ける人と、どちらを好むかという選択をさせるものだった。結果は英誌"Nature"に掲載されるらしい。

TVでは「正しいかどうかは乳児もわかっている」と話していたが、正しいかどうかではなく、善い行動かどうかであろうと思う。

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小生がいつも感じるのは、「それは正しい」と人がいうとき、単に「私はそれが好きだ」とその人は言っているだけだということだ。

大体、人というのは自分が好きなことをやりたいものであって、やりたいことは正しいことだと考えたいものだ。

それが好きだと感じる人が社会の半分以上を占めるとき、その社会では「それが正しい」になる。要するに、それだけのことではないか。

好きか嫌いかに意味がないなら、正しいか正しくないかにも意味はない。

それは正しいというとき、理にかなっていると言いたいのか、善いことであるのか、それとも「美談」というか行動として美しいと言いたいのか、何を主張したいのかを明らかに述べることが必要だ。

「それは正しくない」というときも、「自分はそれが嫌いだ」、「そんなことはしたくない」という主張を超える実質を話すべきだろう。

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