政府部内のあらゆる枢要なポストに「出向」と称して、大蔵官僚を送り込み、政府全体の基本方針を自己の手中でコントロールしようという気構えが明瞭にうかがえた。小生の勤務していた役所もそんな大蔵省の植民地官庁の一つであった。
その大蔵省が1900年代末に接待汚職にまみれ、金融部門を切り離されるという断罪を蒙るという情景は、小生はすでに役所勤めからは足を洗っていたが、実に月並みな言葉ながら「奢れるものは久しからず」という言葉を思い起こさせた。
そして今回、セクハラ疑惑で大蔵省の後身である財務省の事務次官が辞任することになった。
転た凄然。この国はどうなるのだろう、と ― 別にどうなるわけでもない、過剰な国家意識をもった「官僚の中の官僚集団」が普通のGovernment Officialになることは決して悪いことではない。そう思っている。確かに、まあ、少数を除く大多数の与野党・国会議員の低レベルをTV画面を通してみていると、心配なことは心配だが。
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ただ今回の件は、刺した方も刺された方も、感心できない。
高校野球でいえば、双方とも四死球が10個、内野のエラーが6個、バントミスが4回、スコアは17対14。そんな試合を観たような感じに通じるものがある。
もっと修行した方がいいねえ・・・。そんな感じである。
問題は、なぜこれ程までに取材される高級官僚と取材する大手TV局報道記者のレベルが低落したのか・・・こんな疑問が残るのみ。
レベルが落ちるにはそれなりの原因と背景、経緯と契機があるはずだ。それを知りたい。
そもそも小生が知っている時代にも辣腕で社交的、親分肌で人望がある人は、いた。そんな人は麻雀もゴルフも達者で、5時半以降の「アルコール解禁タイム」(当時はそうであった)ともなれば、「▲▲室」に大勢の人が集まり談論風発。そのうち下ネタが飛び交うこともままであった。しかし、そんな親分は案外と官僚トップの次官にはならなかったことが多く、トップには品格のある、調整型のジェントルマンが就くことが多かったように記憶している。
官僚内部の評価システムが変わってしまったのだろうか・・・・・・一足飛びにここまで結論付けるのは乱暴だが、今回のようなケースが現に生じていることの責任は、人事権を握っている首相官邸、安倍首相、菅官房長官、官房副長官等の面々にあると言えるのかもしれない。
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会話をしている相手が無断録音をして、その一部を切り取って(例えば)YouTubeにアップするという行為を許容すれば、それがいかに不適切な会話であるにせよ、それは現代社会の共有財産である<相互信頼>を本質的崩壊に導く導火線となるのは確実だ。そればかりでなく、言葉による会話の内容にまで社会が立ち入ることから、日本国憲法で最も重要な国民の基本的人権として保障されている<表現の自由>を根本から犯す行為である、と。この点を、小生、本稿の出発点としたい。
例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。
小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。
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原理原則として、録音をしたいときは「録音させてもらいます」と相手の了承を得ることが不可欠である。撮影するときもそうである。盗撮は原則として反倫理的だ。故に、相手の了承なく、無断で録音した内容を公開することで相手が不利益を被れば、内容によらず無断で録音した側には損害賠償責任がある、というのが小生の個人的意見だ。
公的機関による公式の承認なくして自分の意志で会話を無断録音して後刻それを相手に聴かせて判断を迫る場合は<脅迫罪>、勝手に公開して相手の社会的地位を失わしめた場合は<信用毀損罪・業務妨害罪>に相当する。当然に刑事罰を適用するべきだとすら感じるのだ、な。
そもそも「盗聴」は捜査当局であっても慎重に運用されており、証拠として認められるかどうかは微妙なのだ(無断録音は盗聴と違うが)。
今回の件は、ゲスの喧嘩としか感じられず、両成敗を適切と考える。これを本日の投稿の結論の基本としたい。
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囮捜査や司法取引は捜査活動にとって有力な手段である。しかし、いくら有効かつ強力であるとしても、それを使っていいかとなると直ちに結論が出るわけでもない。
化学兵器は低コストで製造でき、かつ効率的に敵兵を殺傷できる。だからといって、それを使うと、使った国は守るべき倫理から外れた国として国際的制裁をうけるだろう。
有効であると分かっていながら、その運用に社会が慎重であるのは何故かという点が大事だ。報道機関が取材活動をする上で有効だとされるからといって、どのような行為も許容されるわけではないだろう。専門家によっては、報道機関による無断録音は許容されるべきだという向きもあるようだが、小生の意見は違う。いくら「公益」に奉仕しているのだとしても、公益の前には基本的な人権は小さなことであるとは強弁できない。大体、セクハラ、パワハラなど「ハラスメント」という現代的テーマと、近代社会に移行してからずっと維持されている「表現の自由」との調和ある解決は、いまだに達成されているわけではない。そう思っているのだ、な。
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不愉快に感じれば、「言いすぎですよ、それ。録音しますからね」といって、ボタンを押せばいいだけの話である。相手は(泥酔状態でなければ)それで自制するはずだ。それをしなかったのは、自由に語らせてネタをとりたいという意志があったからであろうと推察される。
まあ、相手が報道関係者であることを知りながら、『これはオフレコですよ』という一言で安心して、何もかもをさらけ出してしまう被取材側が、バカであるという事実は否定できない。
今回の事件は、今後、報道関係者と二人で会話をするときのケーススタディとして活用されることだろう。そして、財務省内では悪しき口承伝説となり、二度とこの種の失敗を犯さないように徹底的に若手を訓練することだろう。その結果、とりわけ女性、というか異性の記者に対しては決して本音を語るべからず、と。そんな行動規範が共有されるようになるだろう。部外者と部内者の線引きが厳格に守られることになるだろう。国家公務員の都合に合わせたリークと都合の良いメディア操作のバーターを続けるには大事な基礎的前提が崩壊したとも考えられるだろう。最終的には、いわゆる「記者クラブ」の空洞化が進むだろう。
持ちつ持たれつの古き相互信頼の社会的土壌は、何らかの別の原理によって浸食されつつある。
今回の件は、一方の側の何がしかの善意と正義感がもたらしたものであることは間違いない(と、報道内容からは推測できる)。もしそうであっても、しかし、善意と正義が最初に意図した結果をもたらすことはあまりないものである。人間集団でトラブルが発生すれば、双方に言い分があるものであり、どちらかが「正しい」などとは言えない以上、善意や正義の観点から求めたとおりの結果になって行かないとしてもそれは仕方のないことである。
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