2018年4月10日火曜日

民主主義: 公文書・データ・情報の混乱と勘違い

公文書・データ・情報をめぐって混乱が続いている。

「隠蔽」されているはずの公文書が、何らかの筋から特定の狙いをもってリークされるかと思えば、「保護」されているはずの情報が外部機関の利益目的のために不正に入手され利用されたりしている。かと思うと、公開しておくべき文書が「既にない」はずであったのが、実は「あった」と。もうメチャメチャである。

現在の社会常識に照らせば、「個人情報」は保護され、「公文書」は秘匿するべきではない。国内でも「個人情報保護法」の流れが一方にあり、他方では「情報公開法」の制度化が整った。一見矛盾するような二つの流れは、一見バラバラになりながら、世界で勢いを増している。

その基本的な背景は、データや情報の利活用が広く生産性を上げるというビッグデータ時代の到来にある。つまり情報はこれまでの時代にもまして「利益」につながるのだ。

「決裁文書」などの公文書は公開するべきだが、税務情報は「秘匿するべき行政情報」である。統計調査目的で収集した個票情報も秘匿するべきである。戸籍情報も然りで公開されるべきではない。官公庁が管理している情報には秘匿されるべきものと公開可能なもの、公開されなければならないものがある。この辺の道理は、官公庁だけではなく、公共性の高い上場株式会社にも当てはまる。

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守られるべき情報と公開されなければならない情報と。その線引きは、どのような考察と基準のもとに引くべきなのだろう。

たとえば・・・

役所の係長未満の末端職員が部内会議で個人的に記したメモが存在していることが、何らかのルートから野党議員に情報として伝わり、国政調査権の下にそのメモを提供せよと要求する場合、そのメモは提出するべき公文書として扱われることになるのか? そのメモは官庁組織の管理下にあるものなのか? それともそのメモは職員が個人的に記したものであり、その内容は保護に値する個人情報でありうるのか・・・?。

ずっと以前に小役人として勤務した経験があるので、個人的感想を記すなら、自分限りの意識でとったメモを国会議員から「提出せよ」と要求されたならば、それこそ晴天の霹靂であり、こんな業務命令がまかり通る世の中は異常であると意識することだろう。おそらく役所という組織にとどまらず、どの民間企業に雇用されている社員であっても、物事には程合いというものがある。そう言いたいところではないか。

この辺の心理的事情は、ちょうど大学入試の数学において答案用紙だけではなく、下書き用計算用紙も一緒に提出せよと指定されるのと似ているかもしれない。受験生は『計算用紙も提出するのか!? 評価対象になるのだろうか・・』と危惧するであろう。そう思えば「下書き」ではなくなる。もちろん提出させる以上は、採点業務上の必要に応じて計算用紙を参照するかもしれないという可能性が示唆されている  ―  しかし、どのように参照するかは具体的に規定しようがなく、だから「下書きも一緒に」なのである。

結論をいえば、下書き用計算用紙は答案とともに提出させるべきではない。その理由は、少しでも受験経験があったり、入試業務にタッチした経験があれば自明のことである。個々人が担当する業務についてインフォーマルに書き留めるメモも上でいう計算用紙に似ているだろう。その性質は個人的であり、公的なものとは異なる。故に、公開対象とするべきではない。小生はこう考えるネエ・・・

しかしながら、最近年の世の風潮は社会的な井戸端会議で物事の正邪善悪を決めようとする勢いである  ―  たとえば森友事件や加計学園問題で個人的にメモを残している職員が存在しているとして、そのメモをある理由で公開したくないと当該職員が提供を拒否すれば、世間はその職員を反社会的であるとして指弾するだろう。その職員が社会から非難される苦痛を自己救済するべく裁判所を通して慰謝料を請求するとしても、どの程度、真摯に扱ってくれるか明らかではない。

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情報やデータの保護に関して憲法は具体的に規定してはいない。憲法が厳格に保護しているのは基本的人権である。全体的構成からみて、日本国憲法の特徴は、個々人が政府や社会から守られるべき人権の尊厳であることを明記している点だ。

マスメディアも、何かといえば護憲を主張している以上、すべての行動の出発点には護憲の精神を置くべきだろう。憲法で規定していないことを主張するのではなく、明記されている保護対象を厳格に意識するべきだろう。

公人には人権はないのだなどという暴論を平気で口にするジャーナリストを時々みる。公人に人権がないのだと考えれば、そう主張する人物にも守られる人権はないと考えなければフェアではない  ―  こうした議論がまったく不適切な空論であるのは自明だが。そもそも憲法には人権保護の例外規定はない。

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人権の観点から保護されるべき情報が一方において法的に定義されている以上、公開されるべき情報もまた制度的に明確に定義されなければならない。

何らかの情報公開を要求するなら、要求の法的根拠を明らかにし、要求対象が公開義務範囲か公開可能範囲に属することを明らかにし、公開による利益を明らかにしなければなるまい。

守るべきモノは明確である。そして、社会を毎時刻々と流れている情報は無限に近いほどである。憲法上保護するべきものが明確である以上、保護されるべき情報もまた明確に定義される。公開に際して慎重に扱う情報もまた存在する。一口に文書・データ・情報と言っても、それが公開可能/義務範囲にあるのかどうか、公開するとして社会の成員全員に公開するべきなのか、一部の関係者に限定するべきなのか、公開方式をどうするのか等々、あらかじめ決めておくべき事は非常に多い。

そもそも国会が行政府に対してあらかじめ公開を予定されていない情報を提供せよとして国政調査権を行使する際には、それが権利の乱用に当たらず、かつ求める情報に十分な秘匿性はなく公開が適切であることを判断する段階が必要ではないか。そのためには、政治的に中立な司法府なり独立した行政情報管理委員会を通す方がよいのではないか(もちろん現実にはこうなっていない)。国会という本来は「国権の最高機関」であるべき場で恥ずかしげもなく繰り広げられている「お白州」、いやいや「素人法廷芝居」をTVで見せつけられるにつけ、こんな風に感じることが劇的に増えているのだ、な。

情報化時代とはいうものの、情報利用・情報公開については、いまだに未整備のことは多いのが現実だ。

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思うのだが、民主主義社会にとって情報公開は大原則であるのかどうなのか?

まあ、全面的に否定するつもりはない。ただ、情報公開というキーワードは保護/公開という線引きの下で考えてこそ、はじめて意味をもつ論題だ。最初から「情報公開」という言葉が意味をもつわけではない、というのは重要だ。

大体、憲法上の大原則として規定されていない以上、「情報公開」はその時々の具体的な目的に役立つツールとして使われるべき言葉だろう。原則ではない。

なので、これまでは情報公開なき非民主主義国家であったが、これからは情報公開を徹底して民主主義的にするのだという認識は、政治タレントの煽り演説にしかならない。

まとめておこう、

公文書やデータ・情報が必要な時に公開されない社会は国民主権の民主主義国とは言えない、と。こういう指摘には小生は賛成しない。知りたいことを知ることができないからと言って、社会は非民主的であるとは思わない。

但し、保護対象とするべき情報は民主的手続きに沿って決められるべきである。もちろん憲法をおかすことはできず、憲法をおかしたいならその前に憲法を変えるべきだ。保護を必要としない情報を、どのように公開するのかという問題は、何のために公開するかという目的に応じて個々に判断していくべき事柄だ。

やはり最終的に公開義務/公開可能/非公開範囲の3分類になってくるのではないかというのが、今後の整備に関する予想である―もちろん内部的には更に細分類してグレードを設けることだろうが。


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