それにしても東京の街中はずいぶん歩きにくくなった。というのは雑踏の事だ。その昔、東京で暮らしていた時にも雑踏はあったが、よく考えれば小生が毎日エキナカを歩いたのは、朝方、深夜でほとんど全てはネクタイをしめたサラリーマンだった。そして大半は同じような世代の男性だった。彼らは降りるにしても、乗り換えをするにしても、人波は幾つにも分かれながら、大体は通路の片側に沿って同じ方向へと歩いていき、一定のペースで黙って進んでいったものである。小生はそんな物言わぬ人間集団の中の一人であったのだな。列をつくって行進をしているようなものであった。
その東京の街中、中でもエキナカが歩きにくくなった原因はというと・・・第一には外国人観光客。様子がわからず迷っているのだから、迷走するのは当たり前だ。斜行したり、立ち止まったりする人が結構いるのは外国人が多いからだというのは直ぐに気が付いた。第二は高齢者。時間帯にもよるのだろうが、小生の在京時代、これほど多くの高齢者が雑踏に混じって歩いていることはなかった。お年寄りは歩く速度が違うし、群衆に混じると見えにくい。ぶつかってお年寄りが転倒し負傷すると小生は加害者になる。やはり気をつかわざるをえない。高速道路でひどくユックリと走行している車が一定数以上いると、走りにくいものである。これと同じだ。第三は・・・女性が増えた。やはり気をつかわされる。
北海道でいま暮らしている町に戻ってきて、一番ホッとしたこと、それは「歩きやすい」というこの一点である。人にぶつかることも、ぶつかりそうになって舌打ちをされることもない。この点だけでもストレスは大いに低減されるのだ、な。
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小生が知っている群衆とは次元と質を異にした雑踏が、いまの東京にはあふれかえっている。非常に疲れる。その疲れの原因を振り返ると、多くの人が「予想困難な動きをする」からだと感じた。
何でもそうである。自分と物理的距離が近い人たちもそうであるし、業務上の関係が近い人もそうだが、そんな人たちの移動、言動の予測困難性は当事者のストレスを確実に高めているのではないかと思う。
ハラスメント(harassment)の原義は「虐められる」という意味ではない。ハラスメントをされる側の感情から意味を定義すれば、日本語では「(ネチネチと)悩まされる」、「(頻繁に)嫌な思いをさせられる」という表現になるだろうか。もちろんハラスメントをされれば"harassed"である状態にはなる。理屈では片方の側は"harassing"であることになるが、それほど簡単に黒白をつけられるわけではないのが現実であることは誰でも知っているはずだ。
<ハラスメント≠虐め>であることを意識しているマスコミはどれほどいるのだろうか? 最近の批判的報道ぶりを見ていると極めて疑問に思う。どのマスメディアも、複雑で微妙な現実の人間関係を、単純な二分類の枠組みに押し込めて議論している。
そもそもどんな交通事故も一方の責任がゼロ、片方の責任が10割となることは稀である。それと同じ道理だ。
「虐め」事件であれば、「喧嘩」とは異なり、必ず虐めた側がおり、虐められた側がいる。その事実関係を明らかにすることから、被害者の保護、加害者に対するペナルティが検討される。しかし「ハラスメント」は「虐め」ではないのだ。
一方がハラスメントを訴えるとしても、もう片方もまたハラスメントを訴えたい心境であることは、私たちの日常をみても当たり前のようにある。「嫌な思いをさせられる」というのは、この人間過剰な日本社会にあっては多分にお互い様なのだ。
ハラスメントはお互い様であるにも関わらず、先に訴えた方が被害者となり、もう片方は加害者となる。そんな解釈なり受け取り方を最初にしてしまうのは、ハラスメントと虐めとを混同しているからだ。
極めて単細胞的、かつ阿保な認識能力しか有していないことを伝えている。
だから虐待防止法とは別にハラスメント基本法が要るのだ。虐めとハラスメント。併発しているケースもあるが、この二つは基本的にまったく違う。異なったアプローチをしなければ社会は迷走するだろう。この話題は前にも投稿しているのでスキップする。
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嫌な思いをさせられる、その根本的原因として、なぜ相手がそんな言動をとるのかが分からない。予測困難性、というか理解困難性があるのじゃあなかろうか。
小生もまた雑踏に埋もれる東京駅構内には辟易とした。不愉快な思いを何度もした。が、その時、小生を不愉快にさせた相手の女性も、外国人も、高齢者も小生には不愉快な思いを感じたのではないか。
そんなことを考えさせられた。と同時に、ハラスメントが「迷惑防止条例」の対象に含められるという極端に異常な社会に日本がまだなってはいないことに感謝している。
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