2024年12月20日金曜日

ホンノ一言: 103万円の壁より、もっと大きな絵を描く政治が求められているのかもしれない

空前の人出不足の時代だ。

移民政策について何らかの抜本的改革を講じない限り、男性労働力、女性労働力とも、労働参加率は歴史的高みに達しており、これ以上の労働供給は困難であると観ている。視聴率の高い人気ワイドショーでは、『働ける人はずっと働く、いや働かなければいけない、そんな時代なンだと思います・・・』などと、まるで昔の「国家総動員」のような暴論を展開しては、愚かさを自ら証明しているのが、今という時代なのだろう。


そんな情況であるにも関わらず、たとえば北九州市小倉区で起きた中学生殺傷事件の容疑者として逮捕されたのは、無職の40代男性である由。

いま40代であるとすれば、2000年当時は20代であったので、いわゆる「氷河期世代」の一人である。「巡り合わせ」とはいえ、1990年のバブル崩壊から1997~8年の金融パニックを切っ掛けに、日本では就業機会が激減し「就職氷河時代」へと入った。運よく入社はしても事業が停滞する中で、スキルを高める経験にも恵まれず、相当数の若者は、非正規労働市場で何とか生活だけはしてきたのが、これまでの歩みだ。「これも人生だ」と言えば簡単だが、当人たちは釈然としないだろう。

こうした不運な世代は、近代日本史においても時に生まれる。

明治末年に生まれた世代は、昭和初年の頃に成年を迎えたが、丁度その頃は昭和2年の「金融恐慌」、昭和5年の「昭和恐慌」と、とてもじゃないが就職できない。その頃の青年は、『大学は出たけれど』と嘆きの渕に沈んだ世代である ― ただ、昭和初年に20代ということは、太平洋戦争敗戦時には40代になっていたから、上の世代が戦争責任で一斉に追放された後、今度は戦後復興を(運よく)主導する立場にたてた。これまた運命による「埋め合わせ」とも言える想いであったろう。

人生とは不可解。何がどうなるか、分からないものでござる。

結局はここに行きつくのかもしれない。

メディア企業は、犯罪を好んで報道するが、逮捕された犯人の多くは無職である。

凶悪犯、知能犯を含め「犯罪」という行為は、社会の中で競争が激化し、しくじった人が浮かび上がるのが難しい時代において、増加するものだ。これは経験則であると言える。

社会が混乱した昭和20年代に凶悪事件が多かったことは、<昭和20年代 凶悪事件>とGoogle検索すれば簡単に分かる。戦前の大規模殺人事件として有名な「津山三十人殺し事件」が起きたのは、昭和13年(1938年)だ。軍律違反が明白であった「満州事変」が昭和6年、犬養首相が暗殺されたのが昭和7年、陸軍省の永田鉄山軍務局長が本省内執務室で惨殺されたのが昭和10年、クーデター未遂となった2.26事件は昭和11年。そんな時代背景の中で起きたのが津山三十人殺しであった。

時代背景と生活困窮とが重なるとき、往々にして、犯罪は主観的に肯定されてしまうことが多い。

国民の生活保障に国が(ある程度まで)責任をもつのが近代国家である ― その背景には国民が国家を防衛する国防軍の存在が大きいが。雇用保険、医療保険、年金保険などの社会政策と生活保護政策は、素のままの資本主義を修正するための理念の現れである。が、これにはコストがかかる。資本主義は小さい政府を志向するが、社会政策を組み込んだ資本主義は大きい政府を受け入れるのがロジックだ。

大規模な生活保障を推進するのは、そもそも社会主義的な国家運営だが、これには政府が租税及び税外収入を確保する必要がある。基幹産業を国営化するのは、税率を容認可能なレベルにとどめながら、国家の収入を確保するためである。

社会主義でなくとも十分な税収があれば、生活保障はできる。

例えば、日本で消費税率を3パーセント引き上げれば、現行と同じ定額の国民年金を100パーセント税負担として、支給できる。国民年金保険料支払いは廃止できる ― 支払い済みの人には支払い分還付に相当するだけの付加年金が必要になろうが ― ……という、そんな議論があることは、多くの人はもう知りつつある。にもかかわらず、意思決定ができず、政治家もまた問題解決から逃げている。

これを含めて「日本病」という人が多いが、名前を付けたからといって、何もしない人間であることに変わりはない。

国が解決できないならば、実は《特効薬》がある。ただ、極端に乱暴な方法である。


生活が困窮した人々を「手伝い」として私人が私的に雇った場合、従来では就労とみなして、支給する手当は「賃金」になるのだが、今後は雇い主から生活困窮者に贈られる「贈与」とみなし、年間110万円までは非課税とする。加えて、その贈与を雇い主の税務申告で全額控除とする。

そうすれば、夫婦で220万円までは非課税。その220万円の原資である雇い主の収入に対しても非課税となる。3人家族なら330万円までは納税義務がなくなる。

つまり、困窮している人たちを「手伝い」として私的に雇う富裕層は、私的に必要なことをやってもらう限りにおいて、雇った人も雇われた人も国に税を納めない。自治体は応益課税であるからサービスの対価は支払う。但し、支払うのは生活支援を受けている被用者ではなく、支援をしている雇い主である。そして地方税支払いもまた損金として扱われる。

確かに、これは極めてラディカルな制度改革と言える(はずだ)。

国の税収の中で、消費税は影響を受けないだろうが、所得税は大減収、高額役員報酬で所得税が実質ゼロに出来る方法があるなら内部留保にする必要もない。企業利益は会計上ゼロとされるだろうから法人税収もほぼゼロになるだろう。

その一方で、国家が富裕な私人に生活困窮者の支援を丸投げ(?)するのであるから、財政負担は大いに軽減されるはずである。そもそも年金支給が開始される65歳まで定年後の再雇用を企業に義務付けているのは、国が為すべき生活保障の一部丸投げだと言われても仕方がない。

さて、上に述べたように、富裕層が私費で生活困窮者を救済する仕組みが制度的に容認されてしまうなら、これは民間による国家の代行であり、《国家の崩塊》ではないかと危惧する人がいるかもしれない。が、心配ご無用だ。前例がある。そうなっても日本が崩壊するわけではない。政府が弱体化するだけの話しである。

そもそも日本は奈良時代より前は公地公民制。土地も人民も国家の所有で、土地は国から分与されるもの、かつ国民皆兵であった。しかし、この律令体制は短期間のうちに形骸化した。

自ら開発した農地を都に居住する貴族に寄進して名義だけを譲るのが「寄進荘園」であった。大貴族に与えられた「不輸不入」の特権によって貴族は納税を免除される。一方、地元の開拓農民は、貴族の被官、つまり扶養者に似た存在であるから自らは国の徴税対象にはならない。税よりは安い年貢を貴族に納めれば事足りる。

国は減収になる。が、貴族は荘園からの年貢で豊かな生活ができる。国からもらう俸給が低くとも公務は担当できる。国の財政が貴族の家計内に奪われるわけである。もちろん地元の開拓農民は名義だけ寄進して所有権が担保されるので喜ぶ。泣くのは国だけだ。さすがに地方の治安は、国が担当するには税収不足となり、田舎は田舎にまかせる。かくして武士と呼ばれる階層が成長した。地方は自存自衛で行けというわけだ。

これが、奈良時代から戦国時代が到来するまで、崩れそうで崩れなかった日本の慣習的土地制度「荘園制」である。田舎に「荘園」を有する貴族・寺社が、何の官職もなくとも生活だけはできたのは、いずれかの地に荘園を認められていたからだ。荘園に居住する「平民」は、日本国民というより、その荘園の「領主」に従う従僕として振る舞ったわけである。

いままた政府にカネはなく、国債の信用にも危険信号がともるかもしれないご時世だ。とはいえ、日本は対外的には債権国である。国にはカネはないが、カネを持っている人は多いのが日本である。

それでいて、生活困窮者がいて、政府が十分に救済するには財源が要る。ところが、増税がままならない。ヨーロッパは付加価値税率をテキパキと引き上げているが、日本では同じことに四苦八苦している。

だとすれば、

私人が困窮している人を私的に救済する。国はこれを受け入れる。

こうするのが効率的だ。というより財源がないので国の出来ることには限界がある。

私人であっても行うことは公的業務である。国に代わって実行しているだけだ(とみなす)。故に、その経費は損金算入を認め、非課税とするのが理屈である。そして、私人が行った生活支援事業を通して所得を得る人々から、政府がピンハネする筋合いはない。これまた非課税とする。

それで、上のような《民活による生活保障》となるわけである。

・・・ま、これまた一場のお話しであります。


玉木さんの103万円の壁も、前原さんの教育無償化もいいが、今は《大きな絵》を描く政治が求められる時代に入ってきているのかもしれない。

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