2024年12月10日火曜日

ホンノ一言: 主婦年金廃止を提案する前に、基礎研究はしっかりやっているのだろうか?

 基礎年金の「第3号被保険者」という制度は、確かに「専業主婦優遇政策」だと思う。うちのカミさんも、この政策によって心強い気持ちを持てているのだと思う。


そもそも明治に始まった軍人恩給など、国の「恩給制度」では、奉職した本人にのみ恩給が支給されたわけであり、妻は対象外であった ― 但し、受給者本人が亡くなった後は、未亡人等に「普通扶助料」(だったかな?)が支給されたはずである(が、詳しくは承知していない)。

戦後、恩給から年金保険制度に衣替えしてからも事情は変わらなかったが、仮に夫婦が離婚すると妻は無年金になってしまう。その非条理を改善するために、専業主婦であっても基礎年金受給権や離婚時の年金分割などの措置が為されてきた。大雑把だが、そう理解している。


ところが、専業主婦世帯の減少にともない、主婦年金廃止の提言が経団連からされているようだ。多分、

専業主婦優遇政策を今後もずっと続ける必要はないヨネ

と、まあ、こんな了解が日本社会の中で形成されつつあるのだろう。

ただ、思うのだが、このような意見の基礎部分に

専業主婦は生産活動に寄与していないし、GDPへの貢献もゼロだヨネ

こんな認識があるとすれば、それは明らかな間違いである。この点については、前にも投稿したことがあるので、再述しておきたい。

考え方は、持ち家の「帰属家賃」の扱い方に近い。即ち、「家賃」というカネの流れが発生していないにも拘わらず、持家の持ち主が自ら所有する持家に家賃を支払っていると擬制してGDPを推計するのは何故か、という問題だ。

なぜこんな現実と異なる計算法を採っているかといえば、仮にいま2軒の持家があるとする。ある時、何かの事情があって、2軒の家の持ち主が家を交換して互いに転居するとする。そして、他人の家を借りる以上は、賃貸料を払う必要があるので家賃が設定されるとする。そうすると、転居の後は家賃というカネの流れが発生する。家の持ち主には家賃収入が発生するし、その家賃は相手方への家賃支払いにそのまま充当されるわけだ。これらの家賃は、当然ながら、GDPにも計上される。双方の世帯が自分の家に住んでいる時は家賃がゼロで、互いに転居した後は家賃が発生してGDPが増える・・・実質的な変化はないのに、GDPが増えるという推計はマクロ的にはおかしいだろう、というのが「帰属家賃」を評価・計上する理由である。

主婦の家事労働も同じである。

いま、隣り合った2軒の専業主婦世帯がある。仮に、それぞれの主婦が互いに隣の家の家事労働を担当するとしよう。他人の家の家事労働をするからには、家政婦(?)サービス料金を受けとる。つまり、ここでカネの流れが発生する。それぞれの世帯は、隣の家の家事を担うサービス料金を受け取るので収入が増えるが、それはそのまま自宅の家事をしてくれた隣の主婦への支払いとして消えて行く。実質的には何も変わらないが、カネの流れが増えた分だけ、GDPは増えるわけである。

これはおかしいでしょう、という問題はちょうど「帰属家賃」の計上と同じなのである。

故に、本来は「主婦の家事労働」を帰属評価した《拡大GDP》を参考数値として公表するというのが、ロジカルな対応である。

・・・とまあ、こんな投稿を前にもしたことがあるわけだ。


このような、いわゆる「自家生産」、「自家消費」の扱いはマクロ統計の肝でもあり、面白い所でもあるわけで、ほかにも例えば農家が生産する農産物の半分が農家で自家消費されるときも同じだ。自家消費(=自家生産)される農産物の価値を、きちんと実質GDPに計上しておかなければ、農産物生産量と原材料投入量との整合性もとれなくなり、マクロ的生産力を測る指標としても役に立たなくなるわけである。

この30年程の間、進行してきたのは

男性労働者が不足してきたので、女性の(主として非正規)労働市場への参入で、生産現場を回してきた

一言でいえば、このような経済政策を選んできた(というのが個人的見方である)。当然の理屈として、男女賃金格差が残っている状態の下では、それまでのコア労働力であった男性の賃金には抑制がかかり、共稼ぎ世帯の割合が上がる。

この流れは、法制面でもモラル面でも、また世論によっても後押しされた。1972年の「勤労婦人福祉法」以降、1985年の「男女雇用機会均等法(通称)」を経て、2007年の同法改正に至るまで、法改正が繰り返された。女性の社会進出と性差別解消は、文字通りの「善」であり、「進歩」の象徴であったわけだ。

マア、上部構造としてはこういう流れであるのだが、下部構造はあくまでも企業の営業現場の要請であったと小生は観ている。

もし家事労働を担ってきた女性が、他世帯の家事労働を担当するだけであれば、家事労働はマクロ的には不変であるため「実質拡大GDP」は変化しない ― 家事労働を帰属評価しない通常の実質GDPは増える。

この30年に進行してきたのは、主婦の家事労働の減少と市場における労働の増加である。確かにゼロであったカネの流れが発生するから、労働市場に参入した女性がGDP成長に寄与してきた、とは言える。しかし、それは通常の実質GDPである。家事労働にあてる時間は削減されてきたので、帰属評価される主婦サービスは減少してきた。故に、社会の付加価値全体がどう増減したかは「実質拡大GDP」を推計するまでは分からない、という理屈になる。


それでも、多分、以前なら6時間かかった家事労働が、色々な耐久消費財の普及によって、今では3時間しかかからない。毎日余った3時間を家庭外労働に活用して、エクスプリシットな賃金収入を得ている。そう観ることが出来るかもしれない。こんな実態があれば、主婦が家庭外の仕事に従事することで、マクロの付加価値は増えるので、家庭外で有給の仕事をするかしないかで、社会保障上の処遇に違いをつけるのは理に適っていると言う人もいるだろう。

他方、もしも主婦の労働は効率化されておらず、単に家庭外労働が増えた分だけ家事労働時間が削減されたのだとすれば、(誰かがしわ寄せを蒙っているはずの)家庭の犠牲があって、企業の営業現場が助かっている。そんな状態かもしれない。もしそうなら、家庭内で働こうが、家庭外の労働市場で働こうが、マクロの付加価値合計には中立的なのだから、どちらの働き方を選ぶかで「公的年金」という社会保障上の処遇に差を生じさせてはならない。こんなロジックもあるかもしれない。

更に、考えてみると、基礎年金は文字通り「基礎的レベルの老後保障」であるから、送った人生とは関わりなく、(育児への貢献だけは別として?)無条件に同額の年金を全ての人に支給するべきだという理念をもつ人もいるかもしれない。そもそも「公的年金」というのは、社会全体への永年の貢献に対するリターンである。保険料支払いがあってこそ保険金(=年金)給付があるという保険会計に忠実でありたいなら、公的年金は民間ビジネスに衣替えするべきだ。公的△△を詠うなら、国の理念を基礎とするのが筋というものだろう。確かに、こんな言い分もあるかもしれない。


小生は、主婦労働の生産性向上が、労働市場への女性参入を支えてきたのだと思っているが、この両面を総合評価して、日本全体としてはどの程度まで付加価値が増えているのかを知りたい時がある。

それには、総務省統計局の『社会生活基本調査』等に基づいて、家事労働を帰属評価した《拡大GDP》を時系列として推計する必要があるのだが、残念ながらこうした問題意識は今のところ皆無であり、平成25年の内閣府による試算を最後に研究が途絶えているというのは、

労働力人口が先細りの中、現場が人繰りでバタバタしながら、基礎的な研究意欲そのものが萎えて来てますヨネ

何だかそんな「貧すれば鈍す」というか、退廃的な気分が、日本社会に蔓延しているのではないだろうかと、暗い気分になることがある。


そして、いま主婦年金の廃止が議論されようとしているのだが、専業主婦が担っている家庭内労働を評価する位の準備作業はしてもよいのではないだろうか? 確かに、経済的な価値の生産をしているのは事実なのだから。

【加筆修正:2024-12-13】





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