小生: 人が空を飛べるのは、飛行機が飛ばせているのであって、人が人を飛ばしているわけではないよね?愚息: パイロットが飛ばせているのも事実だよ。小生: パイロットは飛行機という機械の一部になって、決められたとおりに動作しているから飛行機が飛ぶんだよ。飛行機が能力通りに飛ぶためには、パイロットの自由意志は余計だ。自由に勝手に操作すれば、飛行機は飛ばないだろ?あくまで飛ぶのは飛行機であることは目に見るとおりだよ。愚息: 確かにね。飛ぶのは飛行機だというのは間違いないよ。小生: そう。人間が飛ばすわけではなく、飛ぶのは飛行機だ。そして、飛行機がなぜ飛ぶかと言えば、科学的知識があるからだ。知識の蓄積が飛行機を生んだわけだよね。科学知識は人間ではなく、自然の中に最初から法則としてあるものだ。それを人間は使っているに過ぎんわけだ。愚息: それはそうだね。小生: 飛行機を法に置き換えて考えるとどうなる?愚息: 置き換えるって?小生: 人が社会生活を安心して送れるのは「法」があってこそだ。法も知識が高度化するにつれて進化するものだ。その法もそれだけでは動かないよね。裁判官や検察官、弁護士という法律専門家が、法の一部になって、定められたとおりに行為するから、法が法として機能するわけだ。飛行機とパイロットの関係は、法と法律専門家の関係と、ちょうど同じだろ?愚息: 確かに。小生: 人は、自分たちの社会生活を守るために、法を尊重する。みんなに「安心」を提供できるインフラ、それが「法」だからね。だから尊重して守ろうとする。けど、それは法を動かす人を尊敬するのとは違う。尊敬する対象は法そのものであって、法を動かす人が自由意志にまかせて動かすべきではない。飛行機と同じで、こんな理屈になるよな?法を運用する人は、法が求めるとおりに、自分達の仕事に専念しなければいけない、とね。愚息: 理屈はそうなるけどネエ・・・自由がないというのはどうなのかなあ?小生; そもそも人は人を尊敬はしないものさ。人はすべて平等というのが素直な気持ちだよ。学問の師を尊敬するのは、師が伝える知識を尊敬しているからで、その気持ちを人である師に表しているわけだ。師が自分自身の動機に従って、自由に弟子を指導するとすれば、師に対する尊敬の気持ちも失せるだろう。
愚息: 意外とそんな先生、多いからね。
小生: おれにもそんな身勝手なところはあったからね。
愚息: そうなんだ・・・
愚息: すべて人は、煩悩から脱することができない凡夫なのさ。それでも師が伝える言葉が、学問に沿った真理であると思えばこそ、弟子は師を尊敬する。
愚息: 先生を尊敬するというより、伝えられる知識を尊敬するってこと?
小生: 師は自分の意志で自由に語ることはできん。学問に従って語らなければ弟子の知識にはならない。あらゆる知識分野でこんなロジックがあてはまると思わないかい?
愚息: 教える側にも自由はないってことかな?
小生: 自由というより恣意というべきだな。自由という言葉の意味は結構難しいンだが、理に沿って、自らが自らを律して、こう語るべきだと語っている限り、実は何者にも強制されず、その点では完全に自由なんだ、な。欲望に任せて、思いのままに語っているときこそ、個人的な欲に支配されていて、欲の奴隷になっているとも言える。
愚息: う~ん、難しいなあ・・・
小生: 人は人よりも高みにあるものを尊敬するものサ。人である自分と同じ人である他人をそれ自体として尊敬する意志は本来はない。だからナ、学校時代にはよく「尊敬する人は誰ですか」って聞く先生がいるンだけど、この質問は本当は意味がないんだよ。「あなたが心から求める知識は何ですか?」、「あなたが身につけたい技は何ですか?」、「あなたが求めるものを伝えた人は誰ですか?」とね。技も芸も知識の特別な形だと考えれば、人がそもそも心から憧れて尊敬しているのは、人ではなく知識だと言うべきだな。
話しの主旨は
知は力なり
という単純な一点に過ぎない。
ソクラテスの「無知の知」とこれがどう両立するか?
プラトンに聞け、と言うしかない。
そのプラトンの真似事のようなこんな対話は、残念ながら行われなかった。『國稀』や愚息が持参した『九平次』を味わいながら、上のような理屈っぽい話をするのは、所詮無理というものであった。
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