ネットを見ているとこんな記事が目に入った:
Edgewingは英伊日の次世代戦闘機=GCAP本格開発に向けて「初の国際共同契約が締結された」と発表したが、これは英国の資金不足を反映した6月末までのつなぎ契約に過ぎず、スターマー政権は社会保障費の大幅削減に手がつけられず国防費増額の財源確保がますます困難になってきた。
URL:https://grandfleet.info/european-region/lack-of-funding-hinders-full-scale-development-of-next-generation-fighter-jets-making-significant-cuts-to-social-security-spending-difficult-in-the-uk/
要するに、社会保障のためにカネがいるので国防に支払うカネがない、と読める。
ウ〜ム、これは逆じゃあないか。そう感じました。
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大きく極端なケース(an extreme case)で考えよう。モデルの頑健性、というか使用耐性は極端なケースでどんな帰結になるかで分かるものだ。
敵国の侵略から国を守る軍事行動には巨額の国防費が要る。税はいま必要だから徴収するものだ。国防は「戦費」とは違う。戦費は戦費でケインズも『戦費調達論』を書いている。税でなければ、国民に借金をする、つまり国債を発行するのも理屈が通る。仮にも敗戦となると国債は多分紙くずだ。(運よく?)勝てば負けた敵国を収奪すれば国債を償還できる。これもロジカルである。
一方、国民が格差拡大に困窮しないようにするにはカネをバラまく必要がある。やはり金が要る。しかし、金持ちから金を借りて、貧しい人に金を支給するのは無理だ。借りた金を返せる目途がない。故にバラまく金は税で徴収しなければならない。特に金持ちを標的にした累進所得税や相続税、資産課税、更に(可能なら)累進消費税が有効だ。これがいわゆる福祉国家の理念で、ほとんど社会主義の国家運営となる。
国防と社会保障。財務省の視点からは巨大な歳出項目である点で同じだが、目的も特性も全く違う。
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無しにしてもヨイのではないか?
優勢な敵が侵略してくれば、政府はさっさと降伏する。それで幕引きだ。犠牲も最小限ですむはずだ。国民の為だ。その代わり、国民は占領国から「二級国民」として侮蔑されるであろう。
貧困な国民がいても政府は無視しておけばいい。富裕層からカネを徴収(=増税)して、貧困層にカネを支給(=社会保障)しても、それでもって政府が助かるわけじゃあない。大体、社会保障給付を政府から受け取っても、貧しい人は政府に感謝はしないものである。政府に恩返ししようなどとは、これっぽっちもおもわないであろう。当然の権利だと思うだけだ。他方、税で取られる側は政府を恨む。割に合わないのだ。
社会保障を不可侵の権利だなどと思う国民なら、上段のように敵国にサッサと降伏して、以後蔑まれようと、その通りなのだからイイだろうと。
達観してしまうと、こんな議論になるだろうとは、若いころは思っていた。森嶋通夫の「無抵抗降伏論」はこの発想に近い。そして、今もって社会観は大きく変わらない。
補足すると、森嶋氏の無抵抗降伏論では勝者側から「二級国民」として侮蔑されるという可能性があまり採り上げられていない。寧ろ、「勤勉」で「我慢強い」日本人の国民性を発揮すれば、降伏後に日本人の才能によって勝者からリスペクトされるはずであるという議論がされている。1970年代の日本人であれば有効性があったろうが、パワハラ被害、モラハラ被害が多数訴えられ、退職代行業者が成長するご時世の現代日本人には、森嶋の議論は当てはまるまい。ただ単に「二級国民」と見られるだけであろうと予想する。
議論を戻すと、故にイギリス政府は安心して軍事費をカットして社会保障費を確保すれば良いのだ。それで英国民がイイと考えるなら、という結論になる。
しかし、本当に強大な敵国に降伏するとして、占領下で手厚い社会保障を継続するのは無理であろう。占領国が法外な賠償を課し社会保障給付を削減することを余儀なくされるのは確実だからだ。賠償とは名称であって要は無力化を目的とした収奪であり必ず実行される(はずだ)。
現時点で「国際法」はほぼ死文化していることを認識しなければならない。
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要は、国民の気概と覚悟が論点なのである。
ソクラテスはただ立派なことを喋っていたから若者を惹きつけたわけではない。戦争には剣と盾を手に従軍し最前線で戦っていた勇者でもあったのだ。現代に置き換えれば、(いい例かどうか分からないが)第二次大戦末期のノルマンディー上陸作戦を「連合国遠征軍最高司令官」として指揮したアイゼンハワー将軍が戦後に米大統領になった例を思い出す。戦場を潜り抜けた人物はそれを知った国民から信用されるものだ。口からだす言葉は、普段の行動に裏付けられた気概と覚悟と一体でなければ、表裏ある人物と変わらず、たんなるお喋りになることは誰もが知っている事である ― 「たんなるお喋り」に満ちた現代、日本もアメリカも同じ世相だろうが、今のト大統領がそうでないことは切に望んでいる。
ソクラテスやアイゼンハワーといった個人の話しになったが、国民も同じだ。気概と覚悟無き国民は必ずなめられる。話は実はシンプルなのだと思う。
国防と社会保障は「あれか、これか」でなく、《辞書的順序付け》。つまり国防関係費をA項目とすれば、社会保障関係費は次のB項目になる。
あるべき形はこうで、国民、というか市民と言うべきか、有権者とよぶべきか、価値の順序付けを当たり前のこととして、順応するしか道はないのではないか?
単純比較ではない。国家的価値の順序の問題ではないか?
こんな風に思うわけであります。
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経済理論に則して考えると、政府は《政府サービス》を供給するために設置される組織である。
「政府サービス」というのは、『国民経済計算(=SNA:System Of National Accounts)』の用語であるが、要するに「公共サービス」である。
その公共サービスとは、公務員が直接に担う立法・行政・司法サービスのことを指すし、あるいは市場では十分に供給されない「公共財/社会資本」の整備を通して供給されるサービスをいうこともある。無料の公園などは市場では十分に「公園」が供給されないから、税を財源にして整備し無料で開放しているわけである。
国防が市場を通して有料で提供される情景は想像しがたいし、裁判所の司法サービスが有料の市場サービスである事態も想像困難である。
確かに「コアな公共サービス」はある。特に、治安・警察・国防は、古来、統治行為の核心であって、これを担う組織として警察、軍隊とは別に、紛争解決や刑罰を科すための裁判所が設けられたのは、誰もが想像できるはずだ。
割り切れば、その他のサービスは全てグレー・ゾーンである。教育、研究開発は民間では不足するのか?なぜ不足するのか?産業政策は国が行うべきなのか?そもそも何が成長分野か、民間には分からないが、政府には分かっていると言えるのか?リスクマネーというが、そもそも政府が国民からカネを集めて、ハイリスクの研究開発に投じるべきなのか?
社会保障もこの疑問の対象につらなっている(と思う立場に小生はいる)。
平等な医療を安価に提供することが何故政府の仕事になるのか?それでもって寿命が平等になるわけではないのである。
生活水準をなぜ(可能な限り)平等にしなければならないのか?決して政府が担うべき公共サービスとは思われないのだ、な。
間違ってはいけないのは、恵まれた人々が恵まれない人たちに善意を提供するという行為は疑いなく《善》であることだ。論点は、善を行うことができる人々からその機会を奪い、「政府」が政府の行為として、社会保障を行うという形のことである。
自発的な善行の余裕を社会から吸い上げて、政府が善を独占するという社会のありようは、小生は好きでない。
善なる行為は政府が主役で、それ以外の国民はただ自己利益を追求すればよい。例外的に公益法人などの存在を政府が認めてよい、と。
経済学の大前提はこれに近いものがあるが、これでは健全な社会にはならないという理屈は、中学生でも理解できるはずだ。普通の日本人は決してこうは考えていない(はずである)のは、日本社会が救われる点だと思っている。
しかし、戦後日本では社会保障の美名のもとに逆に国民を抑圧する機会を政府に与えている。そう思うのだが、共感してくれる人は多分ほとんどいないだろうネエ…
だから、今日のイギリスのように、社会保障の為に国防予算を削るというのは、正に本末転倒としか思えないのである。
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