旭川地裁の公判で審理された《女子高生殺人事件》、事件自体は旭川ローカル、大きく見ても北海道ローカルな出来事であったにもかかわらず、TVの全国向けワイドショーでは連日メインの話題にしていたから吃驚した。
ずっと以前、小生も東京の役所で仕事をしていたが、その頃の感覚でいえば旭川は半分外国といってもよい極北の小都市というイメージであった。そこで起きた殺人事件・・・まあ、ミステリー好きなら興味を持つかもしれないが、一般の人はどうかネエという感覚があった(と思うのだ)が、最近はそうでもないらしい。
情報空間としての日本国に今感じる距離感と、片や首都圏に昔感じていた距離感と、心理的には同じくらいかナア
そう思います。昔の東京人なら奥多摩に感じた距離感と同じ感覚で今は旭川を感じる・・・こういうことか?ずいぶん近しくなった。そう改めて思いました。
宇都宮で熊が出たなど、東京の人は関心があるだろうから関東ローカル番組で自由にやってくれというのが北海道で暮らす小生の感覚だ。しかし、スマホ情報が身体の一部のようになった世代にとっては、旭川で起きた殺人事件と宇都宮の熊騒動は、同一の局所的近傍で生じた事件として意識される(のかもしれない)。
なるほどネエ
と自分で自分に勝手に感心する自分がいる。
それにしても検察官の求刑27年に関しては色々と論議があるようだ。
それはそうだろうと思うが、次のようなコメントには違和感を感じる。
U被告に対して検察は懲役27年の求刑をしました。 あまりにも軽い量刑です。U被告は、殺意はなかった、殺人でない、と主張している 。殺人罪が認定できるか、国民の認識を確認すれば良い。 大衆の全員が殺人であったと判断しているはずだ。 検察は、もっと事件に対して真剣に向きあって欲しい。 被害者と被害者遺族が報われない。 社会の安全も維持できない。 次の犯罪を助けることになる。 判決では正しく裁かれることを願っています。
どこかの報道に対するヤフコメ(Yahooコメント)にあった文章をコピペさせてもらった。
最近の現代日本の世相を映し出す鏡にもなっているので、個人的コメントを記しておきたい:
まず
あまりにも軽い量刑です
被害者遺族は極刑(=死刑)を望んでいるようだ。どうやら上の評者も同じ考えと見受けられる。他にも多くの日本人はそうなのかもしれない。小生が違和感を感じるのは、阿部慎之助・元巨人監督が家庭内で起こした暴行事件のときの世間の反応と、今回の極刑願望との、この二つの感覚の極端な落差である。
何度も書くが、《極刑=死刑》というのは日本人が社会の掟を破った時に日本社会が日本人に下す究極の体罰である。そう理解するべきであるし、そうではないというなら余程の鉄面皮である。
人間は誰でも正義の倫理観があるし、仁や礼の情を有している。許せないと思う倫理観は、日本人の生活の基礎になっているし、国の法律も日本人の倫理観と真っ向から矛盾するわけにはいかない。
「許せない」と思うとき、(被害者遺族でもない)無関係の日本人の多くが「そいつを殺せ」と主張する。と同時に「娘の口のきき方が悪いと怒った父親が長女を叩いた。これは体罰だ。体罰は許せん。父は職を辞して謹慎だ」と、そう非難する心理は、一体、どんな思考回路になっているのであろうと、こればかりは我が胸中で再現できない。
ある時は、許せないと思う人物を殺せという。
ある時は、許せないと怒って叩いた方が悪いという。
いくら怒っても叩くのはいかんだろうと考えるなら、いくら許せなくても殺すのはいかん、と。理屈はそうなるのじゃあないか・・・?
ま、これはずっと前から小生と世間の大方の意見と完全に異なる個所だ。ここでは繰り返さない ― 実際には、蹴る、叩くなどの行為もなかったそうだ。
次に、
殺人罪が認定できるか、国民の認識を確認すれば良い。 大衆の全員が殺人であったと判断しているはずだ
国民の民意が「これは殺人である」と思えば、それは当人が否定しても、殺人ということになるのだろうか?これではまるで、
国民 = 皇帝
ではないか。神聖なる皇帝はすべてを決定できる権限を有していた。いまは神聖なる民意が皇帝の権限を継承している。こう言いたいのか?
民主主義を研究テーマとする研究者なら
ハッ!
の一言。まず基礎的な事柄の勉強に役立つ本を教えられて終わりになるのではないか。
まあ、現代日本の民主主義の形が可視化されているという点ばかりは、ネット社会の最大の成果であると思う。
可視化は問題理解の近道であり、問題理解は問題解決への第一歩なのだから。
★
上で「ハッ!」という反応を使ったが、実はこれは最近読んだ『台湾漫遊鉄道のふたり』(楊双子著、三浦裕子訳)を思い出して、使えるかナと思ったのだ。
・・・申し出があったのよ。「南進政策」を宣揚する文章を書く条件でね。私は断りました。ペンを銃として戦えですって?ハッ!日の丸帝国を謳う国家が、戦争のためにここまでするなんて、まったく笑止千万よね。
こんなキャラクターの日本人女性作家が台湾の日本人会である「日新会」に招かれて、1年ほど台湾に滞在し、その間、通訳として付き添った台湾人女性との交流を旅行と料理、おしゃべりで表現した小説である。
終盤になって
帝国の横暴と、官僚の理不尽には反感を覚える。だが、本島(=台湾)を近代化した功績については、客観的な目で見れば、本島にとっても役に立つ大きな援助になったはずではないか。
こんな潜在意識が抜けない作家に対して台湾生まれの公務員が
この世界で、独りよがりの善意ほど、はた迷惑なものはございません
と伝える場面がある。
苦悩に沈む幾日かを経たあと
私はいつも、植民地に対する帝国の偏見、女性に対する男性の偏見、本島人に対する内地人の偏見について批判してきた。こんな世間の馬鹿馬鹿しさを嘲笑し、抗議してもいた。だが、実際には、私自身が世間の塵にまみれ、自分の心に潜む傲慢や偏見に気付いていない、凡俗な人間だったのだ。
作家はこう悟るに至る。
プロットは何度も聞いた月並みの主題が中心であるのだが、月並みの主題を土台にして書き込まれている登場人物のおしゃべりは血が通っているかのように生き生きしている。
これは歴史書ではなくて小説である。
結局こういうことになるのだが、その意味では世評に違わず成功している作品である。
人間が行う「認識」には、「主観 vs 客観」、「我 vs 対象」という二項対立形式からもたらされる歪みが必然的に含まれる。そもそも我が対象を見つめる、我が対象について考えるとき、考える我は見られていない。考える我を考えても、そう考える我は考えられていない。我が考える、その考えるという考え方そのものが決して考えられない盲点を作ってしまうのである。
こう考えると、歴史好きな者にとっても面白い作品だが、哲学好きにとっても結構面白い小説なのである。
今日は、世論のメチャクチャな側面をメモするつもりが、読書感想文になってしまった。どちらが主であるか分からない。
タイトルは、読書感想ということにしておこう。
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