2019年1月10日木曜日

「三角関数は死んだ知識だ」騒動について

リアリズムを徹底した問題提起者として知られている橋下徹氏が「三角関数を学校教育に含めても実際には使わない、死んだ知識だ」という意味のことを発表して以来、世間では賛否両論が相次ぎ、一種の「騒動」になっている。これこそが橋下氏の当初の目的であったとも思われ、見事に作戦が奏功しているようだ。

小生は統計分析でメシを食ってきた人間だ。特にビジネス統計、マクロ経済統計が主戦場であり、将来予測はライフワークであった。だからということになるが、三角関数は必須のツールである。

ただ同じ予測とはいえ、実際の株価予測では三角関数は使うまい。しかし、ザックリと言ってしまえば、チャート分析は数学的な関数の一種である三角関数を感覚的に使っている分析法である。

チャート分析よりも多少体系的なフレームワークとしては「時系列の4成分」がある。授業ではこの辺から教えるし、経済統計の現場では「これはTCIですよね」などと当たり前のように話しているので周知の術語だとおもう。TCIというのは、原系列を構成するTCSIからS成分(=季節成分)を除去した系列、つまり季節調整済み系列の意味である。時系列を傾向(T)、循環(C)、季節(S)、不規則(I)成分に分解する計算実習から始めるのは、今後も経済時系列分析を学ぶのに不変のメニューであり続けるだろう。この循環成分はCyclicalという名称から察せられる通り、三角関数が直接役に立つ成分である。

一言で言うと、三角関数を知っておくことは「循環性」や「周期性」を理解する第一歩になる。小生の仕事から言えるとすれば、これが一つだ。

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ただ、学校教育で共通の知識として教えるべきかといえば、これは確かに疑問ではあるのだろう。橋下氏のいうように「死んだ知識」になるかもしれないねえ・・・というのはその通りだろう。

というか、三角関数を教えるのは「関数」という概念を理解させるためであると小生は勝手に思っている。ここを確認しておかないと話が個別的かつ断片的になりすぎる。つまり、より本質的な点は学校数学で「関数」という考え方まで全員が共有する基本知識として求めるかどうかということになるのではないか。「関数」という概念を理解するなら、有理関数だけではなく(実関数に限定するとしても)三角関数や指数関数、対数関数までは不可欠の材料だと思う。

中学校の数学は、簡単に言えば、小学校の算数から代数へ進む過程になっている。方程式で未知数$x$について解いたりするのは代数計算である。因数分解や平方展開も代数だ。文字記号が混在した式を四則演算するトレーニングを積むのは、「計算」の本質を理解してほしいからだと思われる。

それに対して高校数学の目的は、色々なとらえ方はあるだろうが、「関数」を理解することに尽きると思っている。数学Ⅰでは多項式の因数定理が出てくるが、これは$x$に関する多項式を$x$の関数とみる視点が身につかなければ面白さが感じられないはずだ。中学校で学んだ代数式を関数としてみるところが高校数学のレベルアップの本質だ。2年に上がって数学Ⅱでは関数の微分が登場する。三角関数も微分できる。数学Ⅲになって色々な積分が登場する。1次関数、2次関数とともに三角関数やその他の関数が当然出てこなければならない、というのは数学の観点に立てば自然な発想である。

ついでながら、大学理系の1、2年次で学ぶ大学数学の目的は、一口に言えば「集合」、「空間」概念の理解だろう。高校で理解した関数も「ベクトル空間」、「関数空間」の成分としてみれば、数学Ⅲで出てきた「微分方程式」も、ずいぶん単純化され、世の中を見る視点がレベルアップした感覚を覚えられるはずである。

数学の事はいいとして、小生にとって、要は将来予測を飯の種にするとき、どこまで勉強しておくかというのは、やはり考えどころだった。いくら何でも、景気予測をするなら、その基礎としてコルモゴロフ・フォーミン位は読んでおけと強要されるとすれば、数学の勉強で時間の大半をつぶし、肝心の経済の勉強ができないというものだ。

何事もバランスが大事なのである。

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まあ、要するに数理的な分野で小学校・中学校・高校・大学と進む中で、どこまでを国民共通の基本教養として知ってもらいたいかということになる。が、この辺については以前にも一度投稿したことがある。そのときは、三角関数は死んだ知識だという意見ではなく、「古文」を勉強しても役に立たなかったという意見について述べたのだった。

まったく、現在の学校教育については「あれは死んだ知識だ」とか、「これを勉強したけど仕事ではまったく使っていない」とか、こんな発言に満ち満ちている。そろそろ全員を学校という建物に来させて、クラスの全員に同じ授業を聴かせる方式も限界だネエ・・・そんな感じもしたりする。

小生が中学生であった時分、確か母親が来ている授業参観日だったと思うが、日ごろの勉強の悩み事はないかと担任の教師が生徒に聞いて回った。小生の番が来たとき、こんなことを言った記憶がある:
親から勉強しなさいと強く言われることはない。だけれども、授業で出てくることは分かりたいので英語や数学は疑問が残らないようにしたい。そんなとき、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1192年だというのを何故覚えなければならないのかが分からない。いつでも調べれば分かるはずだし、年号を覚えなければならない理由が分からない・・・
いやあ、教師からみればヤリニクイ児童であったなあ・・・と思う。その時の担任教師に再会することがあれば「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と謝りたいと思う。

ただ、小生が中学生時分に感じたことの半分は当たっているかもしれない。というのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた年は必ずしも1192年とは言えないという見方が学界でも広まってきていると聞いているからだ。

が、逆に考えると、そんな歴史学界の中の細かな事がニュースになったりするのも、国民共通の教養として「イイクニ(1192)ツクル鎌倉幕府」と全員が暗記したせいかもしれない。だから別の見方もあるという学界内の動向を面白いと思ったりもする。外国人ならそうは感じないはずである。

ただ食っていくための知識を得るなら「学校」などは必要はない。学校教育の半分は、現実には「死んだ知識」かもしれない。しかし、知識としては死んでいても、源頼朝ではないが、国民に共有されているというのは、それ自体は素晴らしいことであると小生は思う。

こう考えると、問題の本質は小中高大と進む学校教育の中で、どこまでを義務教育として、どこまでを学習指導要領で画一化/標準化するべきなのか?ここに尽きるような気がする。

三角関数を教えるべきかどうかという問題と、鎌倉幕府ができたのは1192年、水の分子式は$\rm H_2O$、地球が太陽を回る軌道は円ではなく楕円である。ここまで習っておくべきなのかという問題は同じところから派生している。

中々結論の出ない論点であるに違いない。ただ、国民が共有する基本知識として、なるべく多くの分野からできるだけ広く知識基盤を与えておこうという国の努力は、それ自体は、立派な行き方であって、無駄の多い下らない行政であると断じる気持ちにはなれない。


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