2011年5月7日土曜日

おすすめリンク集(5月7日)

大震災、原発がまだメインテーマだ。そろそろ税制・社会保障一体改革、TPP論議も進めていかなければいけないし、何よりエネルギー計画見直し、産業構造の展望、21世紀の国土利用計画が話題になってこなければならない。

まあ、この話しはともかくとして、以下は今週記憶に残った記事です。

すべて落ち着きが大切だ。「中部電力浜岡原発全面停止」の文字が今朝の朝刊に踊っていた。総理大臣自らの要請である。冷静な議論と客観的基準が欠落した文字通りの独断とヤマ勘の政治だ!今後は「勘首相」と書くことにしよう。ここ北海道でも泊原発がいつ理由なき停止要請を受けるかと困惑の極みにある。

大災害後の経済については
小生も同感です。物価安定と言えば消費者物価の安定を指すものと多くの人は考えている。日銀も消費者物価の上昇率を目安にしている。しかし消費者物価には石油、鉱物などの輸入品価格が含まれている。世界で石油価格が上がれば、国内の衣服や雑貨の価格は逆に引き下げないといけない。賃金引き下げも必要になる。そういう論理になる。物価の安定は国内の賃金安定を目安にするべきではないかというのが小生の見方だ。それに見合ったマネーの供給が大事ではないか。

ただ下の記事が主張する見方にまで行くべきか?
主張には耳を傾けるべきポイントがあると小生も思うのだが、細かい所では「えっ、それは違いますよ」とツッコミを入れたくなる点も散見される。たとえば「中国はお金をじゃんじゃん発行することで経済成長と軍隊を買っているようなものです」というのはニワトリとタマゴだけを使って因果関係の法則を主張している言い方だ。潜在成長力が高いから生産能力の拡大投資をしても利益が出る、だから投資をするし、そのためにはマネーがいる、金融当局もマネーをしぼると金利が上がるのでマネー供給を増やしている。そういう風にみないと、カネをヘリコプターからばらまけば、日本の高度成長が復活するという夢を信じることにもなる。いくら何でもマネーで魔術はできないのである。
震災復興債などが議論されていて、アメリカの格付け会社が日本の国債格付けを引き下げると報道されたりしている。日本はアメリカに毎年ローンを供与しており、アメリカはローンを受けている国である。そのアメリカが日本の国債の格付けを引き下げるなど「どの口が言うか」と言いたい所ではあろう。上の記事にもあるが、日本が過敏に反応する必要は全くない。しかし、日本全体の話しと日本政府の問題はやはりあるわけだ。グローバル・インバランス、つまり世界的な資金の偏在が不安定化の原因だ。日本国内でもドメスティック・インバランス、政府にはカネがなく、家計も貯蓄するゆとりを減らす一方、民間企業が余裕資金を積み立てている。この点に問題意識をもつことが大事だ。

原発、東電関係の記事も依然として出ている。たとえば
いつの時代でもそうだが、過去に戻るのではなく、未来を開くイノベーションだけが現在の問題を解決できる。この点だけは見失ってはいけないと思う。それは人類が生存するためのエネルギー源を何に求めるかという21世紀のエネルギー計画作成においてもポイントになるだろう。
海外でも
福島第一原発は世界中の原発施設に落とされた「爆弾」だったわけだ。原子力というエネルギーはクリーンでもなく、安価でもなく、安全でもなかった!ドイツの「緑の党」の見解なので書いていることの予想もつく。何より原子力エネルギー利用を「発電」に限定することの論理的困難!原子力発電が復活するためには福島第一を超えて「それでも、一番クリーンだ」、「それでも、一番安価だ」、「それでも、一番安全だ」この三つ全てを立証することが必要条件になった。相当高いハードルである。

最後に日本の政治の仕組みについて。内閣と官僚が「家庭内別居」の状態になっている。どっちが悪いとも言い切れないだろう。国会議員は選挙で票を集めて多数党を形成し、議院内閣制の下で内閣、そして中央官庁に乗り込んできていて、「それは当然だ、悔しいならあなた方も選挙に勝てばいいのです」と宣わっていると聞く。次の記事も印象的であった。これは新聞記事なので読めなくなるかもしれない。引用しておこう。

『今の緊急事態の処理が終われば、内閣の構造変化を考えなければいけないだろう。これは与野党の共通課題になる。国民は転換を望んでいると思う。
国の基本法である憲法には、非常事態に関する規定が必要だが、現憲法にはそこが欠けている。
衆参両院には(平成19年8月以来、常設機関として)憲法審査会が法的には設置されている。自民党や公明党は早期の始動を主張してきたが、民主党のせいでまだ委員の選任が行われていない。怠慢で恥ずべきことだ。本来なら憲法審査会で憲法と非常事態の議論が始まっていたはず。』
(出所)2011.5.3 21:50 産經新聞WEB版より。

明治憲法に幾つかの欠陥があったことは周知の知識だと思う。日本国憲法にも欠陥があるだろう。過ぎた時間の長さを思えば尚更のことだ。

2011年5月6日金曜日

被災地支援ボランティアの人は、消費者か、サービス従事者か?

被災地支援のため多くの人がボランティア活動を行っている。調べてみると、手弁当、つまりポケットマネーである。宿泊、食費など全て自分で用意しなければならないとのことだ。

ボランティアの人が、被災地で必要とする食事などの滞在費は、消費支出としてGDPに計上されるはずだ。しかし被災地支援活動は消費活動なのだと聞けば、誰でもが違和感を感じると思う。被災地支援は、自分の満足を追求するというよりも困っている人たちを助けてあげたいという意志に基づいているからだ。それは社会参加であり、本来ならば政府なり自治体と個々人が契約を結び、公的活動として展開してもよい仕事だからである。

利益を目的とはせずに非営利の活動を行う主体はNPOと呼ばれている。ボランティア活動がNPO事業の一環として行われているなら、従事者は<対家計民間非営利サービス>を生産しているものと解釈するのがGDP推計におけるルールだ。たとえば医療や福祉法人はそうだ。こうすると、NPO法人が購入する物品はサービス生産の経費として処理されるし、雇用される人たちが受け取る報酬も全てNPOの費用になる。その費用に見合ったサービスがGDPに含まれることになる。

ただボランティアの人が、民間サービスに従事しているのか、旅行先で消費しているのか、購入される物品はどちらにしても買われているので、どう取り扱うかによって日本のGDPが大きく変わるというわけではない。

しかし気になる点もある。ボランティアの人が従事する仕事に、たとえば瓦礫の撤去もあると聞く。この種の作業は個々の家計に提供する福祉などのサービスというよりも、国・自治体が行う<政府サービス>と同じである。これが有償の活動なら、国・自治体が(適当な報酬とともに)参加者と契約し、一定期間働いてもらうわけである。ボランティアの人が、その報酬を実際には受け取らず、国・自治体に返納すれば形の上では同じになる。これは所得税100%で租税納入が発生していると見ることもできるだろう。

もちろんボランティア活動は、個々人の自由意思で行うので、法律で強制する徴税と同一視するのはおかしいという反論があろう。しかし原理原則をいえば、納税も決して強制されて行うものではなく、政府サービスに対する対価として自発的に行うものだ。自発的になされているからと言って、ボランティア活動を行う人が報酬を受け取らないという事実を、納税とは違う、とは断言できないようにも感じる。

義捐金支出と租税減免措置の関係はよく議論される。しかし、ボランティア活動を行う人が被災地で過ごした時間、その時間に受け取れたであろう所得を租税との関係で議論することはあまりないように思う。実は両者は同種の問題なのである。

少なくとも、ボランティアであれ、公務であれ、そこで同じことをしているのであれば同じ評価をするべきである。小生も制度面のことを詳細に調べつくしたわけではないが、遠隔地から参加している民間ボランティアの人に対して、いわば「活動内容証明書」を発行し、その内容に応じて将来所得に課される税額の減免措置を講ずるくらいのことは実施できるのではないか?このような減免措置を行ったとしても「財政赤字の上に更に減免措置などはとんでもない」とは誰も言わないのではなかろうか?

2011年5月5日木曜日

賠償責任を電気料金アップで回収できるか?

福島第一の損害賠償支払いを確実にするため、政府は電気料金引き上げを容認する方向だと報道されている。TVでも街の声を流しているが「ある程度の引き上げは仕方がない」という人が多いようだ。

しかし、これは全くおかしな論理である。そもそも起こってしまった事故の損害賠償負担の議論と企業存続の議論は全く別の話しである。この二つがあたかも密接不可分の問題にされているのは東京電力が地域独占企業であり、つぶしてしまうと賠償支払いができなくなると考えているからだ。この考え方は東京電力を今後も独占企業として認めていくことを前提している。そんな前提は必要でもないし、有害無益である。

そもそも今回の事故に伴う損害賠償の全額を東京電力が負担するべきであるという見方はこのブログでも議論したようにおかしい。百歩譲って、全額を東電が負担するという場合でも、だから東電が今の形で残らなければならない、存続しなければならないという理屈にはならない。

何より重要なのは、損害賠償支払いは電力という商品の原価には含めるべきでない。事故による賠償を負担するから販売価格を引き上げるというのは会計的に無茶苦茶な論理である。賠償負担は会計上のサンクコストであり、回収不能な支払いと受け取るべきだ。

考えても下され。偽装商品で食中毒を起こした食品企業には賠償負担が生じる。仮にその企業が営業を継続したとして、その賠償支払いを商品原価に含めて、従来より高い価格で製品を販売できるだろうか?できるわけないではないか。市場価格は上がってくれないのである。ライバル企業は賠償を支払う必要はなくコストも上がっていない。賠償負担は、事故を引き起こした企業の収益を低下させるだけである。それが原因になって古い企業が市場から退場するなら、それは経済の新陳代謝であって、それが成長を引き出すのである。政府は健康な電力市場の構築を第一に考えなければならない。

最大の問題は電力の地域独占を認め、電力販売事業に新しい企業が参入できない仕組みにしている点にある。

東京電力は賠償責任を負担する以上、正常に競争をすれば利益は出ず、株価は低迷するだろう。しかし東電が保有している発送電設備には本来は収益性がある。資本市場におけるM&Aを通してリストラを進めるべきである。そのためには地域独占を廃止しなければならない。国内資金で不十分なら、外国資本にも電力市場を開放するべきである。中野剛志氏も指摘するごとく実は日米FTAに過ぎないTPPよりも、同じ開放するなら電力市場を開放する方が日本経済には大きなプラスだ。

電力の地域独占体制を維持するために汲々としたり、ましてそのために電気料金引き上げを国民一同涙を飲んで受け入れたり、電源開発促進税率引き上げを苦渋の末に認めたりするのは、せいぜい美談になるだけであって、中身は愚の骨頂である。

2011年5月4日水曜日

競争をするべき時と避ける時

北海道のゴールデンウィークは冬と春の間である。花はまだ何も咲いていない。私の住んでいる町で桜が咲くのは連休明けである。桜が咲くまでの北国は雨と霧の一月だ。

今日は一つトランペットでも吹くつもりで一席ぶってみたくなった。戸外は霧雨が降って何となくフラストレーションを感じているせいもあるのだろうか。

ビジネススクールで「ビジネスエコノミックス」などという授業を聴くと、まず登場する話題は顧客価値。そして価格。それと差別化だ。この差別化をめざす発想が私は最近気になって仕方がない。

作っている商品ががコモディティ化してしまって、競合企業の製品と同列に扱われてしまえば、安い方が売れるに決まっている。

というより、同じものなら相手企業よりも安く販売して顧客を奪う誘因が自社側に生じる。それを我慢して共存共栄に徹すればそれはそれで正解なのだが、相手が輸入代理店ともなれば仁義なき戦いだ。

自作自演の安値競争はこうして始まる。終わりのない消耗戦の中、利益は果てしなく減る。これは運命と言ってもよい。ついでに言えば、経営学者と経済学者の意見が最も対立するのは、上のような状況を良しとするか、最悪とするかという点である。

こうなるのが嫌なら自社製品は他社とは違うのだ。これを訴えるのが一つの方法だ。相手に勝つのではなく、オンリーワンを目指すのです、な。そうすれば、一度、顧客になってくれた人は高いからと言ってすぐに離れることがなくなる。そこで自社にとって、最も儲かる価格と出荷量をこちらから選んでいくことができる。値上げ戦略すら実行できるようになる。これが差別化、つまりはオンリーワン戦略なのである。

しかし、この戦略、本質的には競争回避策なのである。こちらが競争を避けるのだから、相手から見ても有り難いわけだ。つまりは共存共栄。ティロル・フューデンバーグの分類でいえば、競争を避けお互いに協調的高値を楽しもうではないかという<デブ猫戦略>に該当する。実際、日本の政府は大赤字、家計も貯蓄を減らす一方、企業ばかりは貯蓄超過でカネを溜めている。何か晩秋の小春日和のようで居心地がいいのですね、この戦略が成功すれば。

よくいえば顧客に密着した多品種少量戦略なのだが、叩き合いを避けて、ほどほどの低下で我慢する弱虫の作戦と評されても仕方のないところがある。いつもこうやっていると、外国企業が拡大投資を行って稼働率を意図的に抑えると、さては新規参入か、顧客略奪で来るかと怯えることにもなる。実際に参入されてくると「成長市場」に資源を集中するとかいって競争もせずに撤退する。

AppleはiPhoneを多様化していますか?どんどんグレードを増やしていますか?iPadをどんどんマルチラインにしていますか?

ここにコンビニAがある。商店街の真ん中だ。この商店街に同規模の店舗をぶつけたい。どこに開店するべきですか?競争を避けるなら商店街でなるべくA店と離れた場所だ。しかし先行したA店が一番いい場所を占めているのだから、競争を避けていては勝てっこないのである。

正解はA店の真ん前。同規模なら十分勝てるチャンスはあるし、まあ市場の半分をとることを目標にすればいい。これがホテリングの立地モデルだが、競争を正面から挑むのが正解というケースは他にもある。戦いを避けるのが一見合理的だが、実は時間とコストをかけて必ず相手を叩きつぶす方が長期的には正解であることは多い。

いまTVでガラスペンの名職人である佐瀬工業が登場していた。すごい名作を作っているらしいが、惜しいかな技術を伝授することが難しいし、大量生産にも向かない。何だか職人技に頼って生産拡大への隘路に陥った名機ゼロ戦を思い出した。

世界市場を攻略するには、もちろん差別化もよい、名作を作ればよいのだ。ファンはいつでも有り難いものだ。しかし現状を破壊する新たな標準化を目指して、その製品を大量に生産して世界に普及させる、そのための能力拡大投資を決然と実行する。これが勝利の方程式ではないのか。競争を避けて生き残るための戦略ではなく、グローバル市場を制覇するための戦略を日本の企業は本気で考えているのだろうか、そんな思いがあって仕方がない。

顧客に受け入れられるかどうか、過剰設備に陥る、円高リスクが怖い等々、本当に『世に心配のタネはつきまじ』。しかしヒュンダイもサムスンもリスクを覚悟でやっている。Appleもそうだ。Googleもそうだった。マイクロソフトはどうでした?ソフトバンクもそうだったでしょう。カローラは、ヴィッツは、プリウスは?戦う相手をみて怯むのは最初から勝てる企業ではない。

勝てるチャンスがない時には、相手の優越を認めて真似をすればよいのである。競争を覚悟して消耗戦を勝ち抜けばよいのである。それだけのカネは持っているはずである。一人当たりGDPはドル為替レートベースで日本は韓国の2倍もある。高い高度を飛んでいるのは日本である。持久戦には勝てる。勝ってから価格を上げればよいのである。勝った後、ライバルはもはや攻撃的拡大戦略に訴えては来ないだろうから。

(追伸)本当は投資家が企業内に溜まっている金を配当するように圧力をかけるべきなのだ。そうすれば投資機会が枯れ果てた既存産業から伸びしろのある成長産業に資金が流れていくのだ。投資家は日本の産業を甘やかしているというのが小生の感想だ。外国から資金を借りればこんな風でおさまるはずはない。ま、この話題は別の機会に議論したいと思います。

2011年5月3日火曜日

構造変化ー危機の前後

昨日(5月2日)の日本経済新聞「経済教室−大災害の経済学」で大竹文雄氏が書いているように、大災害がその国の経済に及ぼす影響は単純ではない。一部だが引用してみよう(日経に許可がいるかなあ・・・ま、WEB限定ではないしね)。


個々の家計ではなく、経済全体にはどんな影響があるのか。大災害は通常、経済成長にマイナスに働くと予想できるが、復興需要による景気拡大の効果もある。どちらの要因が大きいのか。澤田氏らが国別のパネルデータを使って、経済産業研究所で行った研究によれば、大災害は短期的には経済にマイナスであった。米州開発銀行のカバロ氏とハワイ大学教授のノイ氏の展望論文によれば、大災害が短期的に経済成長率を引き下げるという結果は、多くの研究で一致した結論だという。
一方、大災害が長期の経済成長に与える影響については、研究結果は必ずしも一様ではない。名古屋市立大学准教授の外谷英樹氏と現ミシガン州立大学教授のスキッドモア氏が02年に発表した論文は、長期でみると大災害に見舞われた国の方がそうでない国に比べて経済成長率が高くなっているという結果を報告している。同様の結果は、澤田氏らの10年に発表された論文でも確認されている。
ただしどちらの研究も、経済成長と正の相関があるのは気象衛星など現代の技術で予知できる台風や洪水などの気象的な災害である。地震や津波など予知が難しい災害は経済成長と無関係だという。
一方、ノイ氏らの研究では、長期でも大災害は経済成長にマイナスに働くとされている。結論に差が出るのは、大災害がなかったらどうだったかという比較対象の設定が困難なことが原因である。カバロ・ノイ両氏の最近の研究によれば、大災害の後に激しい政治的革命さえ発生しなければ、大災害そのものは長期の経済成長に影響を与えないとされている。 (以上、下線は当ブログ筆者による)
このように、短期的には資本ストックの損壊、サプライチェーンの寸断などによって生産が低下するのは仕方がない。他方、長期的に復興需要の増加などで生産が拡大軌道に乗っていくかといえば、それははっきりとは言えない、という趣旨である。
衰退産業から成長産業への脱皮が災害をきっかけにスムーズに進む場合もあるし、社会不安がいつまでも続き長い期間に渡って経済活動がおさえこまれてしまうこともあるということだ。
とにもかくにも大地震、大津波、原発事故の三段フックに見舞われた国など歴史を遡ってもまずはあるまい。つまり予想を立てるだけのデータがないわけだ。日本が今後将来どのような軌跡をたどるか、文字通り、それは神のみぞ知る。
ただ言えることは、危機の前後で経済秩序というか、グローバル舞台の主役、脇役はがらりと交代してしまうことだ。小生はリーマン危機以前からトヨタ株に少々投資をしている。2008年初めにはトヨタの株価は8千円台半ばに達していた。その後、アメリカ金融市場の不安から株価は下げたが、それでも9月のリーマンブラザーズ倒産直前で7千円くらいではなかったか。
その頃小生が考えていたことはこうだ。『今回の経済危機はつまりは原油高が原因だ。いったん原油価格は下がるが、これからも原油高は続く。自動車産業はいったん崩壊するだろう。灰かぐらの中から立ち上がってくる企業が次の主役だ。それはハイブリッド、電気自動車開発で先行するトヨタだ』、とまあこのように予想をたてていたのである。
ある意味でその予想は当たっていた。アメリカのビッグスリーはフォード1社のみが辛うじて生き残っただけだ。トヨタはリコール問題でつまづいたが、致命傷にもならなかった。現在、トヨタの株価はピーク時の3分の1を少し超えた水準だ。これから反撃だ。
とはいうものの、本日の日経朝刊にも報道されているようにグローバルの株価時価総額はリーマン以前の2割増しの株高に上がっている。世界は株高なのである。
大震災後の株価変化を見ると、上がった企業にはコマツ(新興国に強い)、国際石油開発帝石(資源高)、三菱商事(資源、新興国市場)などが並び、下がった企業にはトヨタ、関西電力などが並ぶ。
一つ言えることは、トヨタ対GMなどという見方は全く的外れであったこと。自動車なる商品はもうどこでも作れるようになったコモディティだ。プリウスは最高の車だが、中国やインドで爆発的に売れるかといえば売れない。GMは倒したが、無数の新人が土俵の上にあがっていて、バトルロイヤルが展開されていた。これは相撲じゃない、そんな当惑がトヨタにはあるだろう。戦い方が一変したのである。
かつて世界のエクセレント企業と言われた日本のメガ企業は欧米を相手にして相撲をとっているつもりが、いつの間にか新興国を含んだバトルロイヤルになっていて、当惑している。ゲームのルール、競争戦略が一変したことに適応できない。日本が沈み、世界は夜明けというのは、文字通り、地球が回っているからだ。経済もその通りになっている。経済学者の流儀で一口に言えば<構造変化>が起こってしまったわけだ。
そういえば、数日前に古い本をパラパラめくっていると面白い下りを見つけた。猪瀬直樹氏の「続・日本国の研究」だ。『菅直人はプリンスである。小泉純一郎もプリンスである。河野洋平は元プリンスだった・・・』1999年出版だから12年前の本である。そんな時代もあったのだなあと思った。
報道で伝えられる管政権の政治がどことなく現実とマッチしていない、独り相撲の印象を与えるのは、まさにかつて首相がプリンスであったためではなかろうか。そう思う昨今である。そう思うと、小生にはよく政局のことは分からないが、やはり大震災後の今の灰カグラの中から主役として登場するのは新しい人物でなければならないと思う。

2011年5月2日月曜日

公(オオヤケ)とはなにか?

国の利益とは何か?公私混同の公(オオヤケ)とは何か?


江戸時代であれば、公益=将軍家の隆盛だ。明治憲法のような君主制国家であれば国益=陛下の栄えであったろう。


たとえば福沢諭吉の「帝室論」に次のような下りがある。少々長いが省略しながら引用してみよう。


『明治10年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾万の兵を募集して戦地に用いたることあり。然るにその募に応ずる者は大抵皆諸旧藩の士族血気の壮年にして、然も廃藩の後未だ産を得ざるもの多し。・・・事収まるの後に至りてこの臨時の兵を解くの法は如何にすべきや。・・我輩はその徴募の最中より後日のことを想像して密かに憂慮したりしが、同年9月、変乱も局を結で、臨時兵は次第に東京に帰りたり。我輩は尚この時に至る迄も不安心に思いし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡単なる慰労の詔を以て、幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩のあつきを感佩して郷里に帰り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云うべし。仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推薦し、その首相が如何なる英雄豪傑にても、明治10年の如き時節に際して、よくこの臨時兵を解くの工夫あるべきや。我輩断じてその力に及ばざるを信ずるなり。』(慶応義塾大学出版会、福沢諭吉著作集第9巻、174~175頁)


公=君主を原理原則にすると、いざという時に「苦労をかけた。礼を言う。そなた達のおかげで国が救われた」と、お上のその労いの言葉だけで恩を感じ、それで十分であるという気持ちになり、他には何も求めずに郷里に戻った。国会に指名された首相にそんな芸当はできない。そう指摘しているわけである。


学問用語を使うと、抽象的な公益が君主という一人の人間に人格化されていると考えるわけであり、これが君主制という国の仕組みだ。憲法が制定されていると立憲君主制になる。ただ文字通りの君主国家は現在では少数派である。公(おおやけ)という理念が本当に人々の心に根を下ろしているのか。この問題に悩むとき、小生はどうしても福沢の上の議論を思い出すのである。


以上、いささか時代がかったイントロではあるが議論を先に進めよう。


原子力発電といい、TPPといい、最近よく「国益にかなう」、「国益に反する」、「国益のことを考えろ」等々と頻繁に国益という用語が使用される。これまた公(おおやけ)である。


いまの世の中、日常会話、井戸端会議では使いませんな、この<国益>という言葉は。
「あなた、きいた?」
「きいた、きいた、何あの発表・・・」
「信じられないわよね、あんなにいい幼稚園が経営難で閉鎖されるなんて、国益に反するわよ」
こんな会話は、どんなに意識の発達した奥方連でも、まずしない。


というより、国益なるものを眼前に出して明瞭に見せられるものならば、もっと規模の小さな県の利益、市の利益だって誰にも理解できる言葉で示すことができるはずだ。まして家族全体の利益、家族全体の願いなら、たかだか数人のことでもあるので、明快に述べられるはずだ。行き違いが生まれるはずがない。家族崩壊などありうるはずがない。


私は、政治・経済専門家が「それが国益というものだろう」と口にするのを聞くたびに、迷いも臆することもなく堂々と「国益」という言葉を使える人は、おそらく家に帰っても「俺が家族のためを思って働いているのに何だその言い草は!」だとか、「これほど家族全体のことを考えているのに、どうしてお前たちは分からないんだ!」と言う風な科白をしょっちゅう口に出しているのだろうなあ、と想像してしまうのだ。


「きけ、わだつみ」ではないが、戦時中に命を散らした特攻兵達は何か大切なものを守るということに死の意味を求めたことがあったろうと想像する。私ならやはり同じ状況に置かれれば自分の死の意味を考えるに違いないからだ。その大切なものは、しばしば国とか、社会という言葉で括られているのだが、具体的にどんな風な気持ちが記述されているのかを読んでいくと、自分が愛する故郷であったり、両親であったり、友人であったりする。理念としては、その延長に日本人全体がいて、それらが国というものをなし、国の利益が即ち国益だという論理になる。


しかし、私は想像力が乏しいので、社会というとせいぜいが現に住んでいる町、その町が存在する地域くらいまでが関の山であり、「国益」なるもののために我が地域が犠牲となるのは、正直いって腹がたつ。国益のために自腹をきって奉仕することばかりを迫られるなら、いっそのこと独立をして、我が地域社会が考えるように政府を作り、税制を設け、望むような教育システムを作り、子弟を育てていきたい、我が地域が望む国と経済交流関係を深め、貿易を展開していきたい。我が地域社会の利益のために。どうしてもそう考えてしまうのである。


今般、普天間飛行場の代替施設を滑走路2本のV字型にすることで日米政府が合意したという報道があった。大震災以後の状況は周知のことだ。むべなるかな、という思いがする。しかし、第2次大戦と言わず、遠く江戸期に清朝からも冊封を受けていた琉球王朝時代からこのかた、明治維新後の日本編入、そして沖縄戦を経て戦後の45年体制までの長い時間を振り返って、沖縄県の人たちは「仕方がない、これが国益だ」と考えるのであろうか?私はそれをじかに聞いてみたい。


たとえ首相が国益という言葉を連呼しても、収まらないものは収まらないのである。その人が無私で国のみを思っているのか、何らかの欲に駆られて行動しているのか、いずれが本当なのか分からないのである。自分の属する党派の利益のために行動しているのではないかと憶測されるだけで駄目なのである。国会で選ばれたというだけでは駄目なのである。そこが大問題なのだ。


日本国憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。明治憲法に幾つかの欠陥があったことはもう陳腐な知識である。日本国憲法にも幾つかの欠陥があろう。象徴天皇制の具体的意味合いについて形式を超える肉付けを欠いている点は、その欠陥の一つに含めてもよいかもしれない。

2011年5月1日日曜日

再開後、まる一月

以前のブログを再開して丸一月。一日も休まず何とか投稿を続けられた。まあ、とにかくも話題に困らなかったということだ。1年前に再開していたとしても、その時はその時で民主党への政権交代直後で鳩山首相の滅茶苦茶ぶりを話題にしていたであろう。更に、その1年前の2009年春に再開していれば、リーマンショックの後、半年を経過してやっと底が見えてきた頃だ。「未曾有=みぞゆう」でならした麻生太郎首相がいまは懐かしく思い出される。

こう見てくると、戦争をしていないと言われれば確かに平和な時代ではあるけれど、最近はとても天下泰平とは感じられない。グローバルにみればこれが普通なのでしょうが。

今日は趣味の一日にさせて頂きたい。

菊 油彩・M6号

このゴールデンウィーク、飛行機、新幹線には空席が目立つそうだ。昨年の黄金週間には旧知のご夫妻が来られたので積丹の神威岬まで一緒に遠出をした。風の強いよく晴れた日だった。