2011年4月27日水曜日

私感ー東京電力の責任

福島第一原発事故に関する東京電力の責任や今後行うべき処分については、小生の知る限り小宮一慶氏の「東電に公的資金を投入するなら、まずは株主と経営陣の責任を問うべき」に要点は尽きていると思う。

今日は上記の小宮氏の見解では十分とりあげられていない面に着目して東電の事故責任はどこまであると考えるべきかを整理してみたい。

原発事故に関する法制度としては周知のように原子力損害賠償法があり、事故の過失・無過失を問わない無限の責任が電力事業者にあるというのが現在の考え方だ。また異常に巨大な天変地異によって事故が生じた場合には事業者は賠償義務を免責されるという規定もあり、最近では免責の可能性も議論されている。

過失の有無を問わず<事業者>が無限責任を負うというのであれば、もはや議論の余地はない。責任を負う東京電力の支払い能力が問題となるのみである。

もちろん世の中には米倉経団連会長のように今回の原発事故について東電に全く責任はないという意見を主張する人もいるし、反対に事故の原因は東電の過失であり全て東電にのみ責任があると考える人もいるだろう。最終的には事実関係をすべて詳細に確認した上で裁判の場で決められるべき事柄である。おそらく損害賠償をめぐって数えきれぬ程の訴訟があるだろうから。

ここでは原賠法とは別の地点に立って、常識的には今回の福島原発事故の責任についてどんな論理になるのかを考えてみたい。

電力市場は極端に異質な業界である。まず電力販売は地域別の完全独占体制になっている。電気料金は公共料金であり、値下げは届け出でよいが、値上げには経済産業省の認可がいる。電気料金は顧客と企業のバランスで決まってくる価格とは言えない面があることをまず確認しておこう。

電気料金は国の認可で決まるものだが、基本的には<電力原価+一定率のマークアップ>という総括原価方式で決まる。つまり原材料価格が上昇する一方、製品価格が低迷して経常損失が続くという状況は制度的に避けられている。これが電力の安定供給というものだが、その中で発電施設の運営については十分な安全が求められている。特に原子力発電については専門の行政組織、専門委員会が設けられてきたことは今回の事故で国民周知のことになった。

そうした体制の下での事故だったという点が重要である。

原賠法の責任原則がないと仮定すれば、一般的には過失責任主義が採られるはずだ。つまり故意又は過失によって損害が発生した場合には賠償義務が生じ、無過失の場合は損害賠償義務は生じない。

しかし、今回の場合、東電に過失があったと考えるべきだろう。それは国会の委員会で安全についての疑念が呈されたことがあるし、先頃ロイターが報道したとおり、そもそも東電社内の技術陣までが福島第一の津波対策の不十分さを認識し、議論もしていたとのことであって、当面はこの2点を挙げるだけで十分だと思う。現に女川原発や福島第二原発は重大な事故には至っていないという事実もある。

東電に過失があったとなると、今度は東電の過失の可能性に十分注意を払って行政指導をしたかという経済産業省や原子力安全委員会などの過失も当然問われることになる。

つまりは、東電と国にそれぞれ過失があったはずだと認識するのが正しい訳であり、生じた損害の何割をそれぞれが負担するかという問題になる。おそらく自動車事故と同様で、どちらかが100%の責任を負うとは考えられまい。

東電の過失はどの点に着目して問われることになるだろうか?第一に施設建設、施設運転、施設補修等の側面で違法性がなかったかどうかであろう。第二に、単なる適法性にとどまらず、安全に対して「善良なる管理者の注意義務(=善管義務)」を払っていたかである。過失の軽重は主としてこの二点から判断されることになるだろう。特に、「想定外」の津波が原因となって電源を喪失し事態の重大化に至ったという時の想定外が本当に想定外であったのか、善管義務に反する点はなかったのかが議論の焦点になるのは必至である。

もちろん確率的な事象について議論をする際には、単に懸念される事柄が発生する確率は十分小さいということを主張するだけではいけないのであって、実際にそのような事柄が発生する場合にはどんなことが予想されるのか、更にどのように対応するのかという所まで検討しなければ、安全管理という名には値しない。この点で今回の事故を報道を通して観察する限り、東電に大きな落ち度があることは、概ね確実だと考えられる。

では東電が所要の経営判断をして、支出するべき投資的経費を計上して、その費用負担を電力料金に含めて回収することが経営者の裁量的権限で自由にできたのだろうか?おそらく千年に一度の大津波に対応するために必要な支出であるという理由だけでは経済産業省はその必要性を認めなかったのではあるまいか。今回明らかになってきたように経済産業省内で主流派は安全管理を所掌する部署ではなく、原子力発電の普及を図る部署の方だと聞く。原子力発電を安全に運転するためのコストが実は相当に高いものであるという考え方は、たとえ提案があったとしても抑えられたのではないか?もしも電力市場への参入や退出がある程度自由であり、不十分な安全管理体制で電力供給責任を果たすことにリスクを感じ、市場からの撤退を検討できるようであったなら又事情は異なる。しかし、現実には市場からの撤退はおろか特定分野の事業縮小、事業拡大といった経営者なら当然持つべき裁量も、国の「エネルギー基本計画」を定期的に策定する政府によって強く制限されていた。

言いたいことは、つまりこういうことである。今回の原発事故で裁かれるべき主体は先ずは東京電力であるが、それと同時に、というよりそれよりも電力行政を司ってきた経済産業省の責任が徹底的に問われなければならない。

論理的には以上のように考えるのが筋だと思われるのだが、そうなると今回の事故は環境汚染という点ではチッソによる水俣病事件、あるいは足尾鉱毒事件と類似しているようだが、国の意思決定が企業行動に深くコミットしていた側面をみれば寧ろ薬害訴訟事件とより多く共通しているとも考えられる。

こう考えるなら、今回原発事故において政府の責任は少なくとも水俣病のケースよりも大きく、薬害エイズ事件と比較しても公益事業を経営する東京電力には製薬企業ほどの経営の自由があったとは考えられず、政府の責任はより大きい。そう考えざるを得ない。

近頃、東京電力を救済するかのような処理案が噂され、それに対して救済するべきは被災者であり東京電力ではないという意見が提出されている。しかし、全体像を見れば東京電力は前線の師団であり、経済産業省は参謀本部である。敗れた師団を糾弾するのも救済するのも議論としては当然ある訳だが、真っ先に考えなければならないのはそのような戦略、作戦を立案した参謀本部であろう。百歩譲ったとしても、今回の事故調査に対して経済産業省に責任をもたせるべきではない。

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