2011年8月20日土曜日

リンク集 ― 製造業の衰退をどう考える

昨日は東京出張だった。今回は愚息が面会したい先輩がいるというのでついてきた。東京へ行くときは、この10数年、いつも10時30分新千歳発のANA56便を使っている。ところが昨日は、離陸後に東京というか首都圏周辺の天候がにわかに悪化し、雷雨となり、40分間仙台上空で旋回を繰り返すも、燃料切れとなり札幌に引き返した。折しも、お盆で代替機を用意することもできず、そのままキャンセル、払い戻しになった次第。着陸後は、欠航手続きを待つ長蛇の列。2時間ほどを費やして、ようやく欠航証明書を受け取った。こんな感じなもので、いつもは離れて暮らしている20代半ばの愚息と、かなりな量、会話できたわけである。

「法律の職業資格は国が独占しているだろ?だけど、いくら弁護士を増やしても、みんな大都市圏に溜まって、競争が激しくなるだけで、ちっとも地方に開業しない。もし職業資格を北海道が認定したらどうだ?開業は道内に限られるけど、北海道にはそれがプラスだろ?これができるなら、北海道立のロースクールを作って、道が実施する司法試験で資格を得て、道内で弁護士を開業する。まあ、おそらく、日弁連は反対するだろうけどね。だけど、地域社会にはこれが一番望まれていると思わないかい?」

「北海道にはそれが一番いいだろうね。」

「地方分権の話が進んでいるんだけどサ。職業資格認定権限を地方に移せって議論が必ず出ると思うよ。というか、出なけりゃ、おかしい。医者や薬剤師もそうだよね。道内で開業できる医師資格を道が経営する専門学校で与えれば、正規の医師をサポートすることだってできるはずだよ。大体、地域、地域で風邪をなおしたり、インフルエンザの診断をするのは、それほど高等な医療技術じゃない。ほとんどの治療はルーティン・ワークだよ。それをするのに、何百万円の授業料を払って私立の医大に行ったり、勉強ばっかりして国立や公立の医学部に行く必要はないと思うんだが、お前はどう考える?」

「検事とか裁判官はどうなるかなあ?」

「警察が自治体警察になったのは戦後なんだけど、これ形だけなんだ。おかしいと思わないかい?検事も中央から来て、単一の官庁が一律に起訴権限を独占しているなんて、おかしいって思うだろ?裁判だって地方社会で習慣、価値観が違っていても、おかしくはないだろ?」

仕事柄、勉強分野柄、上のような会話をしたのだが、こんな風に文章にメモってみると、何だか国家顛覆を謀議しているようではある・・・

× × ×

急速な円高もあって、毎日の新聞では「加速する海外移転」という見出しが絶えることはない有様だ。移転するってことは、何か財産を失ってしまうというつもりで書いているのだろうか?別に、「涙をのんで、断腸の思いで、当社も海外移転もやむなしとの結論に至ったわけでございます」。こんな演説をする代表取締役がいるわけはありませんよ。誰から命令されているわけでもありませんからね。移転するのは、海外に置くだけの生産資源を既に保有しているからである。それは財産保全のためである。なぜこう考えないのであろうか?やはり「コップの水は半分しかない」と考えるか、「半分も水がある」と考えるか、例のポジティブ・シンキング対ネガティブ・シンキングの議論がここでも該当するのだろうかと思う此の頃の報道ぶりである。

野口悠紀雄氏の論説。


震災後に加速している製造業の海外移転(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)
製造業の海外移転で300万人の雇用減(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

企業の海外移転は国内の従業員にはマイナス、海外の従業員にはプラスである。300万人の就業機会が日本で失われるなら、ほぼ300万人程度の就業機会が海外に生まれるだろう。と同時に、日本企業は競争上より有利になり、海外企業は日本企業に対して競争優位をその分だけ失うであろう。

もし300万人の新しい就業機会を日本国内で作れるなら、作れる以上は出ていく職場よりベターであるに決まっている理屈だ。問題はそんな機会があるかだ。

日本から移転する企業は当該国の資源を吸収するわけで、当該国でその産業分野の競争は激しくなる。価格も下がる。ということは、他の商品は当該国で割高になる。故に、日本は日本に残る(海外移転が必要でない)産業分野に資源を集中すればよい。

その産業分野とは何か?それが<新成長戦略>というわけなのだが、これについては「政府が無能であっても政策を立案する権限を独占しうるのか?」という根源的疑念がある。本来は、職業公務員ではない人材が、選挙で選ばれて政府の職を占め、民間にある人材が法律を定め、制度を作り、官僚はその手足となる。これが本来の民主主義国家のあり方だ。日本では、職業公務員が政策研究までをやっている。「これはおかしいのではないか」という感覚は、過激にすぎるのだろうか?
機能しない政府に政策立案を独占させるな!(田村耕太郎、ダイヤモンド・オンライン)

製造業の海外移転は(国家の観点から別の議論がありうるとしても)国民の利益にはプラスである。普通のエコノミストはこう考えるわけだが、これに異を唱えるというか、疑念を呈する向きもあるのだ。ロドリック氏の以下の見解には説得力がある ― ポスト産業社会は一日にして成らず。一言でいえば、そうなる。

The Manufacturing Imperative(Dani Rodrik, Project Syndicate)
The United States has experienced steady de-industrialization in recent decades, partly due to global competition and partly due to technological changes. Since 1990, manufacturing’s share of employment has fallen by nearly five percentage points. This would not necessarily have been a bad thing if labor productivity (and earnings) were not substantially higher in manufacturing than in the rest of the economy – 75% higher, in fact.
The service industries that have absorbed the labor released from manufacturing are a mixed bag. At the high end, finance, insurance, and business services, taken together, have productivity levels that are similar to manufacturing. These industries have created some new jobs, but not many – and that was before the financial crisis erupted in 2008.
製造業という衰退産業が海外に移転するのであれば、もっと多くの付加価値を生産できるニュービジネスが国内に育つはずである。それらニュービジネスとの国内競争に破れて旧来型の製造業は衰退し、したがって海外に新天地を求め出ていくのである。オーソドックスな経済学は、物事をそう見るのである。しかし、アメリカでも「新しい産業は十分育っては来なかった」、ロドリック氏はそう言っている。出ていく産業は出ていったが、代わりに育つサービス業が十分枝葉を伸ばせていない。そのために大量の負け組が発生した。

As economies develop and become richer, manufacturing – “making things” – inevitably becomes less important. But if this happens more rapidly than workers can acquire advanced skills, the result can be a dangerous imbalance between an economy’s productive structure and its workforce. We can see the consequences all over the world, in the form of economic underperformance, widening inequality, and divisive politics.
人間はすぐには変われない。必要なスキルや知識を自由自在に身に付けるわけには行かない。製造業であふれたからと言って、もっと良いサービス部門でいい仕事がありますよ、という具合には行かないというわけだ。この側面は放置して、成り行きに任せておけば、新しい世代が自らの歩むべき道を見出して、社会状況は自然に落ち着くべき均衡点に落ち着くのか?それは必ずしもわかっているわけではない。

あの市場原理主義に最も近い、規制の緩やかなアメリカにおいてすら、ニュービジネスの成長速度は不十分だと見る向きがあるのだ。まして官僚資本主義と言ってもよいほどのガチガチの規制国家であり、みんな平等を愛し本音では護送船団方式こそ最も慈愛に溢れた政策理念であると信じている、こんな風にすら思われる日本ではどうか。新しい成長産業など、そうそう出ては来れないのではないか?まるで新興産業が伝統ある製造業を追い出すようではないか。今日の日本を築いた大企業の名士を、新興成金が国外に追放するようなことをする、これを放置することが正しいのか?これこそ下克上ではないか?日本では、詰まるところ<是か非か>という正義論に焦点があたり、議論は極めて法学部的議論になってしまうものなのだ。

ロースクールの発想とビジネススクールの発想が常に拮抗しているアメリカとは構造が違うと思うのですね。

エネルギー戦略もそうである。一次エネルギーの最適ミクチャーが変化したとしても、古い均衡点から新しい均衡点に摩擦なく、コストなく、移ることはできない。移るための関連コストとありうべき混乱による非効率も全て計算に入れて、エネルギーの経済性を判断しないといけない。わずかな経済性の違いを、七転八倒して追い求めるなど無意味であろう。

Who Will Win the Clean-Energy Revolution?(Phyllis Cuttino and Michael Liebreich, Project Syndicate)

LONDON – After less than a year and a half in which so much energy news seemed troubling – nuclear meltdowns, oil spills, rising gas prices – it might be startling to find out that worldwide installed capacity of renewable energy has now surpassed that of nuclear power. In fact, global investment in clean energy, driven by enlightened, forward-looking national policies, grew to a record $243 billion in 2010, up 30% from the previous year.
既に、世界全体では再生可能エネルギー施設が原発施設を容量では凌駕している(無論、在来型の水力発電なども入れてのことであろう)。本日の日経朝刊には、三井化学、東芝、三井物産が愛知県に5万キロワット級のメガソーラーを建設する計画とのことだ。他方、三菱重工は沸騰水型原子炉を多く利用している西日本を中心に、原発安全投資が出てくることを見込んでおり、経営資源をその分野に重点投入していくそうである。おそらく加圧水型原子炉を得意とする日立、東芝もそうするだろう。

日本のエネルギー戦略も、政府が決められるかといえば、能力に余り、結局はビジネスの進展の中で自然解決されていく。それが(現在のところ)ありうべき将来かもしれない。

だとすると、政策の立案をなぜ政府だけが行えるの?現実にはそうでないでしょ。だったら議論を透明化したら、と。どこが本当は決めるのですか?この問い掛けが益々重要になってくると思われるのだ。

2011年8月18日木曜日

覚書 ― ビル・エモット氏のニッポン再興論

昨日の日経経済教室「ニッポン再興の時(上)」にイギリスの経済誌The Economistの元編集長であるビル・エモット氏が寄稿している。どんなことを書いているのだろうと、思わず読んでしまう。

要点は最後に近い以下の下りであろう。
日本は何をめざすべきだろうか。遠くから日本をみている外国人として、筆者は知識、ライフスタイル、サービスの面で大国をめざすのが日本にとって実現可能な正しい方向であると考える。別の言葉でいうなら、日本の真の長期資産を本当に生かせるような事業、産業、職業に集中することだ。この真の長期資産とは、日本の人々であり、その知力であり、助け合いや触れ合いである。 
過去半世紀、日本は主に製造業に力を入れてきた。かつては適切だったが、いまとなっては現代にふさわしいとはいえないし、筆者のみるところ真に日本的でもない。
日本の製造業を国内で経営しようとしても、もはや限界に来ている、何年も言われ続けていることであるが、大震災後の原発事故と電力不足で堰を切ったように海外移転が増えてきている。その中での上の指摘である。なぜ製造業は<現代的>ではなく、かつ<日本的>でもないと言うのだろうか?
現代的といえないのは、今日の富裕な先進国ではモノよりもサービス(法務、娯楽、レジャー、マーケティング、芸術、教育、医療、観光など)の取引の方が圧倒的に多いからである。経済活動の7割以上はサービスで占められているにもかかわらず、日本ではこうしたサービスが非常に遅れているうえ非効率だ。
日本的と思えないのは、日本文化の本質は助け合いや共同体づくりや問題への協調的な取り組みにあると考えるからだ。これらは工場で生み出されるものではない。人々の協力を促し強化するような知識やサービスこそが、威力を発揮する。日本は日本的であることをめざし、知識、ライフスタイル、サービス大国をめざすべきである。そのためには自信と共同体の連帯感を取り戻す必要がある。きっと日本にはできるはずだ。
サッカーと同じですね。日本人が日本のサッカーに徹することでライバルに対する優位性を獲得する。実にオーソドックスである。技術導入で勝てる時代ではありません。

だから今は「ポスト産業社会である」と、誰しもが耳にする。「もはや産業社会ではない」というのは、単なるモノを製造しても高い価値を認めてくれないからである。というより、もはやモノ作りは時代の最先端を切る産業分野ではなくなりつつあるからである。「付加価値をつけろ」というのは、コモディティという次元には属さない、自分と他者との違い(=差別化)を求めるということであり、それはオンリーワンの価値であるという意味で<自己表現>である。本当に他国・他人が高く評価するのは、単に<作れる>ということではなく、それを<創造>したということだ。<安く作れる>ことは本当に価値あることではなくなった。そんな認識が根底にある。ルーティン・ワークは重要ではあるが、誰でも訓練次第で出来るが故に、本当にかけがえのない価値ある働きではない。これは、やはりそうなのだ、と小生も思うわけだ。

客に対するそんな自己表現は、<馳走>であり、<一期一会>であり、伝統的な日本文化そのものでないか?言われれば当たっていると思うのですよね。

日本人は製造業ではなく、知識やライフスタイル、(他人への)サービスにおいて、どこよりも高い評価を目指すべきではないのか?筆者のエモット氏はそう言っているわけで、その目線はやはりイギリスから、というより歴史を通して外国が日本を見てきた目線なのではないか。そう感じてしまうのだ。自分の長所や強みは、中々、自分では分からない。もちろん短所や欠点も自分では分からないものだ。他人だから、日本に住んでない外国人だから、よく見えるってことはある。

本日の日経朝刊のコラム記事「新しい日本へ」。本当に戦争にでも負けて再出発している国なのか?タイトルだけをみるとそう見えますよね。IT企業セールスフォース・ドットコム社会長のマーク・ベニオフ氏の談話が載っている。

― (日本人は)ハードウェアの「ものづくり」は得意だが、ソフト・サービスは苦手という固定観念もあるようだ。

そんなことはない。携帯電話向けサービスを展開するグリーやディー・エヌ・エー(DeNA)は世界的にも有力なIT企業だ。楽天などインターネット企業も育っている。まつもとゆきひろ氏が開発したプログラミング言語の『ルビー』は世界に普及したではないか。
現実と先入観(もしくは偏見)に乖離があるということだろう。

先入観といえば、日経ビジネスの本年3月21日号に「日本人の競争力」が特集されていた。その中に「データで見る日本人 ― 内向き論のウソ」があった。学力や所得格差などにおいて傾向的に上位に来る小国を除き人口4千万人以上の大国だけで比較をすると、評価項目31項目のうち7項目で日本はトップとなり、2位ないし3位であるのが6項目ある。内向きであるとの批判が、特に若年層に向けて口にされることが多いが、確かにアメリカへの留学生の絶対数をみれば97年比で4割も減っている。しかし、18歳から29歳までの留学適齢期人口に占める比率で見ると、ずっと上昇傾向にある。留学先も、アメリカ集中型ではなく、北米が47%、アジアが30%、欧州が16%と分散型になってきている。減ったのは社内派遣の留学生であり、個人留学は増えている。

海外で働きたくないと回答する新入社員が49%もいたという調査結果(産業能率大学調べ)が公表されてショックを与えたが、「どんな国・地域でも働きたい」と答える新入社員も27%を占めて過去最高になっている。海外勤務・異動に積極的なのは、20代であり、30代、40代にかけて低くなっている。若年層が内向きというイメージと現実は随分違いがある。

日本勢が新興国との競争で苦戦を強いられることが多いのは、日本人の強みを発揮できない仕組みの下で勝負しているからではないのか?調査データをみても、本日引用した外国人の寸評とほぼ同様の実態が浮かび上がってくるのである。

事実認識が間違っていたら、どんなに頭を使っても勝利の方程式は絶対に見つからない。3月以降の福島原発騒動をみても、住民避難を見ても、共有するべきは正しい情報であり、間違ったデータや、タメにする流言を共有しても無意味である。というより有害である。正しい情報は、社会のニューラル・ネットワークであり、社会全体の生命を維持する公共財である。その意味で、ウソや隠ぺい、虚偽報告は、狭量な仲間意識と派閥主義がなせる社会悪であって、放置すれば日本人の相互信頼に亀裂が入り、連帯感が解体され、集団知が劣化することになる。

日本人は、特に日本のマスメディアは、党派的な情報操作行為に対して、もっと遥かに厳しい厳罰主義で臨むべきであると思うのだが、いかがだろうか?と同時に、政局の権謀術数で流れる噂や蔭口の類まで、コストをかけて提供するべき重要情報であるかのように、無批判に垂れ流す日本のマスメディアには、その経営方針を一度考え直してほしいものであると思うのだ。

2011年8月16日火曜日

韓国の不動産神話崩壊?

毎月曜日の日本経済新聞朝刊には「景気指標」というページがある。主要経済データの表が1ページ全面で掲載される。経済学を勉強するゼミ生には、その景気指標欄は必ず見るように話していたのですね。特に、個別の数字が上がっているか下がっているかだけではなく、毎週テーマが変わる解説記事は必読ですよ、と。最近はビジネスマン学生が主となったので、引き合いに出すのも大分減ってはきたが。

今日は火曜日だが、今朝、例によって「面白い話題はないかなあ・・・」と見ていると景気指標がある。そうか、昨日は終戦記念日だったよなあ、だからだな。解説記事は・・・ン?韓国も不動産神話が崩壊?これは面白いねえ、というわけで本ブログにメモっておこうという気になる。

韓国の実質GDP成長率は2010年が6.2%。2009年は0.3%だったから劇的回復だ。ところが解説によると、ソウル首都圏のマンション価格は低迷を続け、このところ16週連続で下落しているという。

朝鮮日報の論説主幹によれば、日本の生産年齢人口のピークは1995年。日経ダウが下落し始めたのは90年初からである。韓国の生産年齢人口のピークは今から4、5年後に来る。日本のパターンをそのままたどると、資産価格下落傾向に入ってもおかしくない時機である。<危険水域>にいつの間にか入ってきた。そんな危惧が韓国内には漂っている由。

韓国は55歳定年が多い。ところが年金の支給開始が65歳で10年間の無年金期間がある。預金は平均で400万円だが、住宅ローンの残債が平均で600万円あるという。これは非常に危うい家計状況なわけである。これから予想されるのは、リタイア後の生活資金作りのために持家を売却する世帯が増えるのではないか。これは住宅市場にとって相当の下落プレッシャになる。いつ不動産神話が崩壊してもおかしくない状況になってきた。そんな悲観的見通しを韓国のKB金融経営研究所が発表したというのだ。

こんな解説記事を読んで「韓国もこれから生活が苦しくなるみたいだねえ・・・預金をはたいてもローンを返しきれないとなるとなあ」とつぶやくと、小生のカミさん曰く「一緒に住んでる子供たちが親の面倒をみるから、困らないんじゃない?家は代々伝えていけばいいんだから」。

なるほど。その手があったよなあ。預金をはたいて無一文になって、それでも住宅ローンの残債が残ったとしても、子供たちが家を相続するつもりで、返済すればいいわけか。無年金10年間は、子供たちが恩返しに面倒をみればいいわけか、と。ふ~む、誠に「しろがねも こがねも玉も なにせむに まされる宝 子にしかめやも」であるのだなあ。

ただ、待てよ・・・55歳でリタイアするとして、子供たちは上の息子(娘)が大体、25歳から30歳くらいか。まだまだ若手で、あんまり収入も多くはない。子供はまだ小さく養育費はかからないとしても、両親の生活費を払えるかなあ?そうだ。<無年金特定親族扶養控除>を退職老親に認めてやって、所得控除とか税額控除をしてやればいい。その控除額も年収の増加に伴って抑えていき、ある金額以上の収入を得ている子供世帯には控除はゼロとする。で、65歳になって両親が年金を支給されるようになれば、子供世帯も控除を受けられない。こうすればいいのでないの?

年金という形ではないが、子供の税金をまけてあげて、子供が親にお金をあげるのだから、実は年金と同じである。というか、甲斐性のある子供がいるのなら、ずっと子が親の面倒を見ることにしておいて、はなから老齢年金は減額してもいいのじゃないか?収入の低い子供世帯には、多めの控除を認めておけば、最低限の国庫負担で<福祉国家>が建設できるではありませぬか?「身体髪膚、すべてこれ父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり」。モラルを政治利用していけないはずがない。それでも残る低収入老齢世帯だけは、生活保護制度で救済すればよい。

ここまで徹底的に割り切ることができれば、財政再建は1日にして成る。ま、できればの話である。

× × ×

経済データの方もざっと見た。

消費者物価指数は、2009年度が1.6%の下落。2010年が0.8%の下落。2011年度もずっと前年比マイナスを続けていて、直近の6月はマイナス0.2%。恐慌ではないが、これをデフレと言わずして、何をデフレと言う。先日、CPIは基準改定が行われ、物価下落品目のウェートが上昇した。値下げ品目の動向が旧基準指数より強く出るようになったのだ。パーシェ効果である。

生産は、鉱工業生産指数が2008年度にマイナス12.7%。2009年度は3月に底打ちするも年間ではマイナス8.8%。2010年になって8.9%のプラス。前年の低下を取り戻す。2011年に入ってからも、前年比でプラス水域にあったが、大震災で再び前年比でマイナス15.5%(4月)。ところが、速やかに立ち直って、現在の生産水準は昨年の10月時点とほぼ同じ高さだ。稼働率は、と・・・稼働率も今年6月と昨年10月が大体同じ。製造業の生産現場は、昨年10月頃と同じレベルにまで戻っている。

ポスト・リーマン、大震災前がいまの生産状況だ。

実質GDPも4~6月期の速報が8月15日に公表された。季節調整済み前期比で0.3%減。年率ではマイナス1.3%だ。減ってはいるが、このマイナスは予想ほどではない。日本経済はもはや「大震災直後」ではない。

先行指標はどうか。

まず景気動向指数の先行指数は、前月差で5月からプラスになっている。レベル的には大震災直前の2月とほぼ同じ景気状況にまで戻っている。現場の生産よりも前を走っているようだ。

国際商品市況は、ロイターが昨年末にかけて急上昇したが2011年に入ってから下がっている。日経国際商品指数の方は・・・下がっている。こちらは本年4月がピーク。以後、下げている。国際商品価格の低下は世界景気の停滞、新興国の金融引き締めが大きい。円高・政治・海外景気。これが日本にとっては心配のタネということだが、むしろ怖いのは、先行き不透明感。ボラティリティの拡大の方だろう。

2011年8月15日月曜日

金はマネーか財産か?

大国のソブリンリスク台頭の中で資産保有としての金が注目されている。そもそも金(さらに銀も)は、人類社会において財産保全に最も適した形として、ずっと選ばれ続けてきた。俗に言う<金銀財宝>は人を裏切らないという奴だ。

実際には、90年代を通して金価格は低迷し、金に執着する人たちはその愚かさを嗤われたものであった。


ところが、1オンス当たり450ドル程度であったのが、2000年代に入ってから急上昇を始め、最近は1800ドルを越していこうかという歴史的高水準に達している。実に4倍!金をマネーとしてではなく資産として見れば年率70%以上(17:50修正→15%程度)の高収益率となる。これはドル表示価格だが、円に換算しても2000年時点の対ドルレートは100円を少し上回る高さだった。それが最近は80円を割り込み、これは「円高」だと騒がれている。とはいえ、10年で30%高でしかない。円ベースの収益率はドル・ベースの収益率からマイナス3.5%だけ差し引いておけばよい計算になる。ドルで毎年平均70%以上(17:50修正→15%)も上がってくれたわけだから、円でみても文字通り<オンの字>である。それがこの10年の金価格の推移である。

その間、石油価格は下図のように動いてきた。



[世] 原油価格(WTI)の推移(年次:1980~2010年)


90年代を通して概ね1バレル当たり25ドルというところだ。それが90ドル超まで上がって急落。いまは元に戻っている。

そのボラティリティをみても、収益率をみても、何と金に投資する方が石油で投機を行うよりも効率的であった!信じられる?こんなことってある?

かつての金本位制を考えれば、ちょっと考えられないのである。金といえばマネーであった。マネーを持つことでこれ程まで儲かるというのは、デフレであるという理屈だ。もし今が金本位制の世界であるならば、過剰な工業製品にマネーサプライが追いつかず、価格が低落、実質金利が高止まりして長期停滞になっていたであろう。そうならなかったのは、不換紙幣制度、つまりはペーパーマネーのお陰である。特に国際通貨であるドルが金交換を停止し、そればかりではなく米国債をどんどん発行してドルを世界に供給してくれたお陰である。そう考えることもできるわけだ。

それにしても、2000年代に入って以降の金価格の急上昇はすごい。これはどう解釈しておけばいいのか?

日本で株式投資しても2000年時点より直近時点の方が株価は下回っている。概ね2000年時点の1万4千円から2010年の1万200円。大体30%のマイナス。この間の円の対ドル増価率にほぼ見合っている。ドルベースでは実質トントンであったことになる。日本で事業投資するよりも金投資をしたほうがはるかに収益率は高かったことになる。

Made In Japanの製品はずいぶん割安になったが(株価停滞はその反映)、世界の農産物に対する評価はぐんと上がった。たとえば農林水産省の資料「穀物等の国際価格の動向」を見ると、商品によって違いはあるが2000年以降、価格は大体3倍から4倍になっている。

金は、価格が上がると予想されるから保有するという投機的動機で買われている側面もある。しかし、成長する新興国が自国の外貨準備の実質購買力を失うことなく安全確実に保存しようと考える場合、農産物、エネルギー資源とパラレルに価格変動する金は価値保蔵手段として信頼性がある。そんな一面も見逃せない。

いや自国の財産保全に高い関心を持っているのは新興国ばかりではない。イギリスではTelegraph紙が前のブラウン政権による金売却を批判的に報道している。

金を基準として見ると、現在の世界経済では、工業製品についてデフレが進行している。しかし、農産物など一次産品については必ずしもデフレが進行しているわけではない。世界市場で全商品を対象にして考えると、比較的物価は安定している、ないし僅かなデフレ状況なのではあるまいか。

貨幣は国の数ほどある。しかも不換紙幣であるとすれば、貨幣表示の価格だけをみてインフレであるとか、デフレであるとかを議論しても意味がなく、特に特定国の通貨で議論することは全く無意味となる。経済は、80円で仕入れて100円で売るという具合に、相対価格によって状況が決まる。

そう考えると、国の数ほど通貨があって毎日レートが変動する現在の世界経済は、それ自体が極めてスパゲッティ的な状態と言ってよい。マネーだけを見ていると、分かりにくいこと夥しい。「分かりにくい」というのが小生だけであれば全く世の中に害はないが、企業経営者が「今の世の中は利益が出るのか出ないのか、全く読めん・・・」と、そんな風な心理が蔓延するとすれば、それは<個別国家>が世界経済の発展を阻害している主因であると責められても仕方がないところだろう。

2011年8月14日日曜日

日曜日の話し(8/14)

小生が、仕事にあきた時、 ― 簡単にいえば、怠けているわけなのだが ― ページをめくる一冊が中川一政の「いのち弾ける!」である。

中川は、大正初めに岸田劉生に認められたのがきっかけと言われているが、基本的に独学で大成した人であると聞いている。

ゴッホが、ヒマワリの画家と呼ばれているのに対して、中川は薔薇の画家である。というより、中川は陶芸にも書にも秀でた万能の芸術家である。日本には珍しい存在だと思うのだ。陶芸もやり、書もやると聞けば、かの北大路魯山人を思い起こすが、中川は料理の道にまで足を踏み入れることはなかったと思う。

薔薇、1973年

私は薔薇をかく。向日葵をかく。
しかし、私は薔薇をかいているのではなく、向日葵をかいているのでもない。
・・・「いのち弾ける!」、56ページ

画の勝負は美しいとか醜いとかいうものではない。生きているか、死んでいるかが問題だ。
美しいように見えて、死んでいるのがある。みにくいように見えて、生きているのがある。
・・・「いのち弾ける!」、58ページ

長崎風景、1960年

素人の道を、ゴッホ、セザンヌが開拓した。
先ず、身辺からはじめよ。目が進めば手が進むのだ。手が進むから目が進むのではない。
学校は技術を教える。教えられることには限度がある。大切なことは教えられない。
・・・「いのち弾ける!」、101ページ

われはでくなり、1981年

学校で何かを教えるには、まず体系的なカリキュラムを定める。単位を定める。配当年次を定める。卒業所要単位を定め、担当教授陣を整えて、授業料を定める。客観的な技術を教えるつもりでいながら、学校では既に特定の物差しをあてはめた結果が教えられている。特定の主義・思想が織り込まれている。というより、教師が授業で<話し>をしている。それをどう受け取るか?受け取るべきように受け取る人は学校では良い成績をとる。想定外の受け取り方をする人は成績が悪くなる。学校という組織である以上、これは仕方のないことだ。

それでも学校というシステムにはプラスの価値があると考えられてきた。

佐伯祐三がパリでブラマンクに初めて会ったとき、持って行った作品をみて「このアカデミズムが!」と怒鳴られたという。このアカデミズムが・・・こんな言葉が使える人が、いま日本にどのくらいいるだろうか?

所得格差が学歴格差を招き、学歴格差が社会階層の固定化を招くといわれる。そんな問題を考えているときに、中川一政を思い出すたび、小生は胸がすっとするのだ。

そんなものじゃないでしょ、と。
中川一政美術館は真鶴にある。

2011年8月13日土曜日

リンク集 ― 脱原発の風潮をめぐって

いまの時節、世はお盆にかけて夏休み一色になるのであるが、小生は商売柄もあって一年で一番忙しくなる。試験を採点して、成績をつけないといけない。北海道の大学は、夏季集中講義などもあって、学生はお盆もなく勉強させられます。昨日12日も、小生は追試験を一本実施した。最近は自己評価シート記入作業もある。これまた面倒。加えて、いま書いている本の初校ゲラが届いて、盆明けには戻してほしいと電話あり。勘弁してくれよと泣きを入れたいほど、せっぱつまっている。

そんなわけで本日は、最近の脱原発をめぐって、メモっておいた資料を簡単に並べておいた。

広島市長、首相発言「脱原発」を批判(中国新聞8月10日付け)

確かに、正式に閣議決定され国会でも決議された政府方針であるのであれば許されもしようが、世界が注視する広島原爆記念日の式典において首相が話す公式の演説としては極めて不適切。顰蹙をかうのは無理もない。

脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている(田原総一郎、Nikkei BP Net)

東京電力、経済産業省、経団連を、最近<TKK>と呼んでいることは初めて耳にした。小生自身は<財界本流>という言葉を愛用しているし、上の三者を指す時は単に戦後日本エスタブリッシュメント層と言っている。

でもまあ、「とにかく、あいつら駄目だよな」という思考は世に広まりやすい。既得権益の形成と固定化、拡大が社会の癌だとすれば、分かりやすい一過性の激論は発熱のようなものだ。抑える一方ではいけないが、放置すると社会が損壊を被るだろう。

それにしても「60年安保」とは懐かしいですなあ。幕末ならば「攘夷」が時の流行思想であったろう。戦時中なら「鬼畜米英」かなあ。亡くなった両親がよく想い出話しに口にしていました。あれは、政府が一番熱心に指導していたようです。普通の人は、リプトン紅茶はもう買えないわねえとか、クラシック音楽はダメなのかなあとか、お上のいうことだから・・・位の態度であった由。ま、何にしても、頭に血がのぼっては家族ですら相談は成り立たないってものだ。大事な話はできぬ。

脱原発を唱えている人にとっては自然エネルギーの拡大が是ということになる。しかし、審議中の再エネ法案に関しては次のような指摘もある。

再生可能エネルギー特別措置法案に望む(飯田哲哉、ダイヤモンド・オンライン)

本日付けの北海道新聞によれば、北海道電力は風力発電による電力買取りをこれ以上増やすつもりはないとのこと。既に買取限度一杯まで買っているからであり、この措置は再エネ法案でも認められている例外規定に基づく。故に、風力発電の潜在的能力は大きいものの、北海道で新規参入事業者が現れる可能性は小さい。

報道によれば脱原発依存を支持する世論は、このところ頭打ちになっているとのこと。とはいえ、化石燃料依存を強めるのは、経済的な脆弱性を高めることになる。

覚えているだろうか?リーマン危機後の底打ちから何とかやってきて既に2年。今年の春先にかけて石油価格が非常に高くなってきた。最近の先進国の景気後退の前には<石油価格上昇>が必ず起こっている。投機だけではない。新興国も含めて景気拡大は石油価格の上昇プレッシャを生みだし、それがバブルとなって、世界経済を混乱させる。こんなパターンを既に何度も繰り返しているのである。

A Weakening Economy (econbrowser)

石油依存はもう限界である。

そこでシェールガス革命が進む液化天然ガス(LNG)が、自然エネルギー効率化までをつなぐ有望なエネルギー源として注目されるようになった。しかし、中東一極集中よりはましかもしれないが、国際的な価格支配力はどうなっているだろう?

玄葉国家戦略相は分散立地型の小型新鋭原子炉を有力な選択肢として考え始めた様子だ。Wall Street Journalが先に報道していたが、日本の新聞でもとりあげられていた。
TOKYO—The Japanese government's minister in charge of national strategy said a new generation of smaller nuclear reactors might be the answer for a country traumatized by the March Fukushima Daiichi crisis, at a time when much of the nation is looking toward a nuclear-free future.
<< WSJ, 2011 August 12
日立、東芝などの原子力メーカーは、輸出を想定して小型原子炉を開発してきたらしいが、今後は日本での販売も想定しながら新製品を開発していくとのことだ。それでも製品化されるには、10年程度は必要で、やはり当面の脱原発依存は中々難しい。福島県は<脱原発>を県の復興計画で宣言するようだし、廃炉になる第一はもちろん、第二も再稼働は不可能だろう。となると、新潟県も福島に右へ倣えするのではあるまいか?それを霞が関が抑えるのは、もう無理ではないか?というより、中央官庁が東京を捨てて、全国分散設置を目指すかも知れません・・・

そんな中で、製造業の海外移転は加速する見通しだ。

トヨタ、HV基幹部品の生産を海外へ

量的な制約もあるが、電力価格は必ず上がる。これを否定できる人は日本にはいないのではないか?企業経営者もそう思っている。

具体的に、何を一次エネルギーとして活用していくかは、これから審議される「新エネルギー基本計画」いかんによるのだが、ただ一つ、電気料金は上がる。これだけは、ほぼ確実に決まっている。秋口の台風予測ではないが「確率95%で電力料金はアップする」。これだけは言えると思うし、だとすれば日本人のライフスタイルは頼まれずとも自ら変えていくしかないだろう。

2011年8月12日金曜日

円高を解決するのは財務省か日銀か?

今週の週刊エコノミスト(8月9日号)の特集テーマは<強固な円高>である。英国のThe Economistはイギリス国内の暴動がメインである。ま、置かれている立場、起こっている事件、それぞれであって雑誌編集も違っていて当然であります。

日本のエコノミストの方が(当然ながら)面白かったので目を通したが、色々と意見が分かれている。どれもが一面の真理をついていると思われるが、(それほど高度のツールや概念を活用しているわけでもないのに)精読すると理解しにくい記事があるのも事実である。

明晰かつシンプルなメッセージを伝えているのは翁邦雄氏による「中央銀行と為替相場」。それから安達誠司氏による「円高の理由 ― マンデル・フレミング効果」である。ほかにも円高の理由として、熊野英生氏がバラッサ・サミュエルソン効果を引き合いに出し、会田卓司氏が特に日本の民間企業部門の過剰貯蓄体質をとりあげている。

翁レポートは趣旨が明快である。
「為替相場は?」とサマーズが聞く。ローマーは「他のさまざまな価格同様、市場の力で形成され・・・・」と答え始める。「違う!」とサマーズが怒鳴る。「為替相場は財務省の管轄下にあり、米国政府は強いドルを志向している、が答えだ!」。
公聴会等に備えた会話の一部分である由。筆者曰く「日本でも為替相場は財務省の管轄下にある」、この点に間違いはないのである。但し、本ブログにも投稿したように、財務省の裁量のままに為替レートをコントロールすることは、実際は(長期的に)不可能である。

翁氏が言うように
日本企業の競争力を正確に測るには、マスコミが注目するドル・円相場よりも各貿易相手国との為替相場変動をインフレ格差で調整し貿易額などで加重平均した実質実効為替相場を見る方がよい。この指標でみると、現在は既往ピークに比べ、かなりの円安である。しかし、この事実に(日銀)総裁が言及すれば、それ自体が円高容認と受け取られかねない。
その意味で、筆者が指摘するように「日銀総裁の為替相場についての発言には大きな制約がある」。この辺り、日銀出身の超一流エコノミストとして面目躍如たるものがある。日銀の本音を憶測している点も見逃せない。

  1. 金融政策は、為替相場を変動させる多様な要因の中の一つに過ぎない。
  2. 経済へのインパクトという観点からみて、円安はプラス、円高はマイナスという単純な図式はあてはまらない。
  3. 金融政策は経済全体とのバランスの下で決められる。為替相場の変動と1対1の関係で決まるわけではない。 ― 物価と為替相場という二つの変数を制御するには二つの手段が必要。失業率にも関心があるなら更に多くの政策手段が必要だ(本ブログ投稿者追加)。
  4. とはいえ、急速な円高が企業マインドを委縮させる点は重要。経済の実態として注意を払う必要がある。

金融当局、というよりもマネーと実体経済との関係をどう見るかという点で、翁レポートは大変オーソドックスである。

しかし、それと同時に安達氏の提起する事実もまた正統派経済学でよく議論されていることだ。

安達は、現在の円高は、必ずしも米国要因(ドル安)だけで進行しているわけではない、と強調している。

氏が引き合いに出しているのは<アセット・アプローチ>である。そもそも為替相場の理論だが、2カ国の投資収益率に違いがある場合、等しくなるように為替レートが調整される、というのが基本的な理屈だ。たとえば、高金利国(アメリカ)と低金利国(日本)で収益率がバランスするためには円高期待がなければならない。この期待は、先物市場でまず形成されるのだが、先物市場での期待は現物市場によって裏付けられないと持続しない。で、実際に円高傾向をたどるという議論になる。しかし、現実はそうではなく、高金利国の為替相場が強くなりがちなのですね。理論通りに為替相場は中々動いてくれない。

そこで安達氏が指摘するように、中央銀行の政策スタンス、具体的には、マネー拡大に中央銀行がどの程度コミットしているか、それを重要視する観点がある。中央銀行のバランスシートの資産側を見るわけだ。下の図は、阪神大震災当時のマネタリーベース(日銀券+日銀当座預金残高)と円ドルレートの動向。

95年1月に阪神大震災が発生して、まずは復興事業のため補正予算が組まれた。ところが日銀はマネタリーベースを低めにキープしたことが図から読み取れる。標準的なマンデル・フレミング・モデルによれば、国際的な資本移動が自由で、かつ変動相場制を採用している場合、必ず金利の上昇圧力が発生して円高になる。円高が緩和されたのは、日銀のスタンスがマネー拡大に転換してからであることがグラフから明瞭に見てとれる。

下の図は、今回の大震災前後の同様のグラフである。


東日本大震災後に、日銀当座預金が急増しているのは、大量の資金供給のためである。現在は、市場からマネーを回収しつつある段階である。実際、日銀当座預金残高は震災直後に比べれば低目の高さにある。こんな状況で7月25日には第1次補正予算が成立しているから、現在の財政金融政策は<財政拡大・金融引き締め>に当たるというのが、安達氏の見解である。

つまり、阪神大震災が起きてから間もなくの時点と同じようなロジックが働いて円高を招いている、という趣旨だ。もちろん、今回の円高の全てが日本の政策当局の行動によって引き起こされたものであるとは言えないような気がする。アメリカにもドル安の原因があり、欧州にもユーロ安の原因がある。アジア通貨安には各国それぞれの政策的意図が無視できない。

しかし、「為替レートを政策目標に割り当ててない日銀にとっては、大震災直後の大量の資金供給はあくまでも金融システム全体についての健全性を監視するマクロ・プルーデンス政策に則ったものだった。システミック・リスクが後退すれば、その政策的役割は終えた、として資金を吸収するのは妥当かもしれない」、この指摘は非常に説得力があるのですね。痛い所ではあるように思う。少なくとも事後的に(つまり事前の意図はないにしても)、4月以降夏までの日銀の行動が今回の円高進行を促進する方向で寄与したとは、言えるのではないか?

政策当局の行動が、レートの決定には有意な影響を与えないとしても、変動を拡大させているとすれば、このことによって実体経済にマイナスの影響を与えている。この指摘は(指摘として)有効かもしれない。

ちょうど、株価は株式の価格であって、財貨・サービスの価格ではない、だから生産活動には影響を与えない理屈だ。だからといって、根拠のない期待に基づく、根拠のない株価変動を抑制することに意味がないわけじゃない。実態経済から余計なリスクが除かれれば、生産活動にはプラスの効果が期待できる。為替相場はマネーという資産の価格である。資産価格安定に政策当局はどのような考え方でコミットすればよいのか?最後は、この問題に行きつくわけである。