2011年10月9日日曜日

日曜日の話し(10/9)

部屋を整理していると本年6月20日付の日経朝刊19面を抜き取ったのが出てきた。「美の美」を特集している。セザンヌの名画「カルタをする二人の男」が大きく印刷されている。オリジナル作品は47.5センチ×58センチの小品である。その絵の上にあるタイトルは「生きることの孤独、悲しみ ― カンバスの底 深く流れる」。小林秀雄「近代絵画」を引用しつつ、最後は
小林はセザンヌの「革新的技法」にはこころを動かされない。独創的な芸術家の「静かな悲しみ」に感動しているのである。
そう締めくくっている。ふ~~む、静かな悲しみ、ですか・・・同じ紙面には、「セザンヌ夫人の肖像」も印刷されている。静かな悲しみは、夫人の肖像の方なのか・・・それも違うようだ。


セザンヌ、カルタをする二人の男、1895年前後

確かにセザンヌは、印象派展に出展はしたことがあるものの、生涯の大半を田舎エクス・アン・プロバンスで過ごし、印象派で一緒に活動した旧友たちとも疎遠になり、「隠者」と呼ばれるようになったのは事実だ。しかし、例えば印象派の画家オーギュスト・ルノワールの息子ジャン・ルノワールが著した「わが父 ルノワール」を読んでみると、セザンヌの名はこの本の中で圧倒的に多く登場している。それは巻末の索引を見るだけで直ちに分かるほどだ。その中で108ページに記されている何行かを引用すると
とうとう(父オーギュストが)セザンヌと会う日がやってきた。「ひと眼で、彼の絵も見ないうちから、私には彼が天才だとわかったね。」この二人の友情は一生のあいだ続くこととなる。そればかりか二人の子孫にまで続いている。息子のポール・セザンヌは、私にとって友人以上の存在だった。兄弟以外のものと考えようなどとは思いもしなかっただろう。彼はナチによる占領を経験したのち死んだ。われわれ両家は、今も一体だ。(PP.108) 
セザンヌはルノワールより二つしか年上ではなかったが、ずっと年長に見えた。「針ねずみみたいな気むずかし屋でね!」彼の動作はなにか眼に見えぬ枠で外から締めつけられているようだった。声もそうだった。(pp.108)
こんな風にセザンヌを記憶している友人の息子、そして友人その人がいた。そんな人は決して孤独であったはずがない。実際、小生がセザンヌの真物を観た時に感じるのは、ひたすら絵として限りなく美しい、ただそれだけだ。

そう言えば、孤独とか不安を表現したと言われる画家ムンク。彼の有名な作品「叫び」も、余計な哲学を抜きにして、「とにかく美しい絵だ」、それが私にとってのムンクの発見だった。そんな文章を今日書店で立ち読みした何かの雑誌に見つけたのだが・・・何だったかな、その雑誌の名前は?ともかくもムンクの「叫び」の色彩をある程度正しく伝えている画像ファイルは中々見つからない。

Munch、Scream、1893年

セザンヌとムンク。上の二つの作品はほぼ同じ年に描かれている。ムンクはドイツ表現主義 ― 北ドイツの分離派でカンディンスキー達のミュンヘンとは少し方向が違う ― には欠かせない人物である。パリを訪れたときにはゴーギャンやゴッホにも影響を与えたとWikipediaなどには記されているが、この辺詳細を知らない。

2011年10月8日土曜日

正論も愚論も、雨雪の如し

先週末から今週にかけて、レギュラーな仕事に加え、会議や新学期特有の面談が入り、週末の今日は疲労困憊してしまった。それで、昼食をとってから近場の温泉に行き、サウナ、掛け湯、寝湯に順番に入り、のぼせては露天風呂脇にある椅子に腰をおろして、山を眺めながらボオッとしていた。かつて大都市圏に住んでいた頃には、中々こんな時間を持つことが出来ず、いざ余暇を楽しもうと出かければ、多数の同客が雑踏をつくっていて、何も出来ず、ただ金を費消して、帰宅したものだった。田舎に居住し始めてから失ったものはうんと多かったが、確かに得たものもある。何が得か、何が損か、過ぎてからでも分からないものだなあ・・・・そんなことを思いめぐらしていると、気分が欝になるようでもあり、躁になるようでもあり、実は単にここで生きているというだけのことなのだろう。そんな所に落ちつくのであります。

休憩室に入り新聞を開く。パラパラとめくる。米雇用9月は10万人増。失業率は9.1%で高止まり。これはプラス評価だな。米、両極の先鋭化鮮明、来年の大統領選挙にらみ対決。リベラル派の陰も。ふ~む。観衆がいると、プレーヤーはハトではなく、タカになりたがるものである、それは力を誇示することによって相手がハト戦術を選ぶことを強いるコミットメントでもあるし、更にはブレない候補者、信念のある政治家という評価をかちとる戦略でもある。これがゲーム論からも確認されることで、まあ、定石って奴である。・・・(ゴロンと寝転がる)しかし、日本では違うんだよなあ。相手と対決する論陣を張るのではなく、むしろなるべく違いをなくそうとする。細かい所に論争の場を限定し、そこで政治家にしては細かすぎる議論をしようとする。これは何故だろうねえ?ま、見当はついているが・・・

温泉に入りに来ても、こんな風に新聞を読むようじゃ、気が晴れねえなあ、そうも思うわけだ。

するとコラム記事「エネルギー版TPPを提言」という文字が目に入った。何々?日本生産性本部の日本創成会議(座長:増田寛也元岩手県知事、元総務相)はエネルギー政策に関する提言を発表した。日本を含むアジア・オセアニア地域に送電網を敷設し、電力を融通しあう「エネルギー版TPP」構想を提示とのこと。国際送電網への接続に備え、国内では発電、送電部門を分離し、送電体制を全国で一本化すべきだとした。なるほど、なるほど、これはいいねえ。同じページには、八田達夫氏が「料金変動で需要抑制」、高橋洋氏が「発送電分離、競争促す」、河野龍太郎氏が「原発や送電、免許別に」、各氏がそれぞれのタイトルで意見を寄せている。どれも正論である。こんな正論があるなら、全く心配することはないわな。まずは一安心して湯屋を出た。

帰宅して手にとったのは昨日購入した「日本人はなぜ戦争へ向かったのか(上)」(NHK出版)だ。

なぜ日本は孤立化の道を歩んだのか。それは時代の選択の一つひとつが、確とした長期計画の下に行われなかったという点があげられる。(pp.46)
これは陳腐な指摘であるなあ。
いったい誰が情報をとりまとめ、誰が方針を決めるのか。そしていったん決まったことがなぜ覆るのか。(pp.46)
日本の中枢部の組織原理は何にも変わってはいないってことだ。何度こんな指摘を読ませられればいいのかなあ。とはいえ、当然過ぎて読みやすいのでグングンと読む。そうすると、内容のレベルもグッと上がってきた。
- ある意味で、関東軍の行動は関東軍にとってみれば合理的なことだったということですか? 
- 非常に合理的だったと思います。現地は軍中央と必ずしも同じ目的ではなかったかもしれませんし、情報は全く非対称的でしたので、モラルハザードが合理的に起こった可能性があります。そういうかたちの不正で訴えられた人は「私のような状況に置かれた人はみんな同じことをやるんじゃないですか」と言うでしょうね。 
- ましてや石原莞爾が起こした満州事変は強烈な事例です。「不正に行動しても、結果が良ければOK」という事例になりましたから、モラルハザードは起こります。 
- その後、実際に暴走の連鎖が起こります。 
- これが数年前に話題になった成果主義なのです。成果主義の怖いところは、モラルハザードをひき起こすことです。本当は「やってはならない」と言われているのに、結果が良ければ許されるということがわかっていますから、隠れてこっそりやってしまう。ですから、成果主義のもとではモラルハザードが起こりやすいのです。(同書pp.166、菊澤研宗「日本が陥った負の組織論」より、一部編集のうえ引用させていただいた)
関東軍の暴走的南下を止めようと軍中央は天津軍を増強した。そうしたら急な増強に対する中国側の反日感情が高まった。そんな中、天津軍が廬溝橋事件を起こしてしまった。これについて、時の陸軍省軍務局長であった武藤章はこんな手紙を出しているとのことだ。
軍務局長着任以来、支那事変を急速に解決することを主眼として、他列国とは絶対に事を構えてはならぬと考えて、一切のことをやってきた。(pp.129)
国家の意思が末端を制御できない状態が続く。人間の身体で言えば、アルコール中毒、パーキンソン氏病、筋無力症などに相当しよう。 日本人の性癖というより、組織設計に問題があったというべきだ。ここを考えなければ、同じ誤りを何度も繰り返す。
 近衛文麿文書中には・・「政府側としては軍部が斯くの如く講話を急がるゝには何等かそこに深き事情が存するに非ずやと推測せざるを得ず」とある。(中略)木戸も1937年12月21日の時点で原田に「どうも参謀本部があれほどまでに熱心になっていることはすこぶるおかしい」と述べ、閣議の場などでも、「連戦連勝」の国である日本が蒋介石との和平交渉を急ぐのは筋違いであるとする近衛首相と共に、対中交渉の早期打ち切りを強く主張していた。家近亮子氏が論ずるように、蒋介石は1938年1月12日の時点までは対日和平を真剣に考えており、同16日、日本政府の「爾後国民政府を対手とせず」声明によって初めて「降伏せず」との決意を固めたことがわかっている。(pp.242)
本書を大括りにまとめれば、戦前の日本を誰も望まない太平洋戦争に導いていったのは、肥大化した帝国陸軍だった。しかし陸軍組織が意図的、計画的に対米戦争に邁進したという事実はなく、むしろ対英米との開戦は絶対に避けるべき事態であった。それでも開戦をしてしまった。

う~む、文字通り、時に正論、時に愚論。それらは百家争鳴の中で雨や雪の一粒のようでしかなく、全く是非の区別は付けられなかった。こんなことって近代国家にあるのでしょうか?唸ります。そして国家は誰もが予想すらしていなかった方向へと歩んでいった。

正に文字通り、人間万事漠として窮まり無し(福翁)。まして国家、社会においてをや。アメリカ社会、ヨーロッパ社会の未来を誰が予想できようか?

気になる指摘もしてあった。大正期を通して進んできた戦前期日本の民主化の完成は1925年の普通選挙実施である。身分や納税額などに関係なく、広く国民が投票権を持ち、政治に参加すれば、その中で大新聞が世論を形成するようになる。日本が急速に軍国主義化し、天皇側近の重臣、学界の有識者の影響力、指導層へのリスペクトが失われたのはそれからのことである。このシンクロナイゼーションに何か真剣に考察するべき意味があるのか。読み終えてから、残ったのはこの疑問である。

今日は湯屋談義から読書感想文となり、いつものリンク集はまた先延ばしとなった。

2011年10月6日木曜日

スティーブ・ジョブズの死を悼んで記す

アップル・コンピューターの前CEO、というより創業者の一人であるジョブズが死去した。

小生のコンピューター経験は富士通の大型汎用機FACOMからである。当時は、80カラム様式のパンチカード1枚に1行のステートメントを穴を開けて入力し、さらにIBM準拠のMVS言語で書き下したジョブ制御文(JCL)を加えてから、カード一式をカードリーダー上に据え置き、それを光学式に読むとることでコンパイル、リンク、実行までを指示していた。一回に読み取るカードは、千枚にもなったが(とにかく重いのだ)、考えてみれば誠にささやかなものだった。その頃、小生が担当していたプログラムのうち最大のサイズはFORTRANで1万5千行程度だったが、最近のソフトは多くなるとソースプログラムで100万行にもなり、その他に数十個のライブラリが加わって、一つの製品になる。

コンピューター、というより<電算機>は、縦横30メートル程度の電算機室に配置され、内部は15度位であったろうか、適温に維持されていた。電算機といっても、1個の本体が置かれているわけではなく、演算装置、磁気ディスク装置、磁気テープ装置、ラインプリンター、制御装置等々の各種機器が整然と配置されていたわけだ。

「電算機ではなくて、電算機システムなんだよね。操作はシステム・オペレーターの資格がないとできませんから。」
「このレコードサイズとか、ブロックサイズとか、何の意味ですか?」
「それはね・・・テープを読む時に1行ずつ読んでいると時間がかかるから、他のユーザーに迷惑でしょ。だから10行とか100行ずつとか、まとめて読んでバッファーに置いておくんですよ。」

いやあ、最初は全然分からなかったなあ、電算機って奴は。それを制御装置のキーボードを叩いて運用するオペレーターの人たちは白衣などを着て(単に寒かっただけでしょうが)、神々しいオーラを見るようであった。

計算はカードで指示をしたジョブ1単位ごとに優先クラスが設けられ、緊急性に応じて、順番に処理されるというバッチ処理が原則だった。オペレーターの資格を持っていない一般のユーザー達は、室外のディスプレイの前に群がり、空港で離発着状況を確かめようとしている乗客よろしく、自分が依頼した計算業務がどの段階にあるのかを知ろうと、画面に見入っていたものだ。

「あれ、まだやってないの!?遅いねえ。ああ、こんなに混んでいるのか、仕方ねえなあ」
「これじゃあ結果が出るまで、まだ1時間はかかるだろうよ」

電算機と飛行機は、正に同じ感覚のエリート御用達のツールであったのだ。パンチ室は生暖かったが、扉向こうの電算機室内は真夏でもカーディガンをして入った。中央の制御盤では無数のランプが点滅していた。磁気テープ装置ではフルサイズ(何インチだったかなあ?)のオープンリール・テープが順方向に半回転しては、逆方向にリワインドされている。アメリカのNASAがアポロ計画を推進している時と全く同じ風景であり、その中で仕事をすることに興奮したものだったなあ、と。実際の演算能力は今のPCの何十分の1位のものだったのだが、それでもなお小生が知る電算機の原風景であったことに変わりはない。

パソコンは、NECのPC98が最初だ。最初は9801-UVだったかと記憶している。ワープロはどこかのメーカーが作った「EW」(イー・ダブリューとそのまま読んでいたと記憶している)。そのうちラップトップ型のLTを購入し、これはオフィスに持って行っては、自宅に持ち帰っては、という具合に大いに活躍した ― 小生の青春時代そのものだったのかも。

DOSユーザーが登場間もないMacintoshを見ると文字通りの別世界でありました。とはいえ、PC98のRA2辺りまではマック文化を横に見る傍観者であり続けた。そんな小生が、最初に買ったマックはSE/30。これは素晴らしい名機であり、動かなくなった今も部屋の本箱の上に鎮座している。まるで横浜港に係留されている氷川丸である。当時愛用していた日本語FEPのスウィート・ジャムとインクジェット・プリンターDesk Writerの印字品質には目を見張ったものだった。何しろ大型汎用機のラインプリンターとドットインパクト式プリンターしか知らなかった私である。その後マックはカラーになった。形も普通のパソコンのような筐体になった。1990年代の終りに衝動買いしたQuadra。これもいい機械だった。小生が最初に専門学術誌に掲載することができた論文、そこで報告したデータ解析はQuadraのお陰である。計量経済分析ソフトウェアTSPで何から何までやっていたものだ。

ジョブズ氏が、一時期、アップル社を去っていたのはその頃ではなかったか。まさかまた復帰して、iMacをヒットさせるとは思わなかった。更にiPod、iPhone、iPadと想像を絶する様な製品を切れ目なく出し続け、パソコンというよりデジタル世界のあり方を一変させてしまったのは、文字通り、夢のようであった。本日の投稿はパナソニックのLet's Noteで書いており、OSはWindows7である。とはいえAppleは小生の仕事道具から家族の愛用品として宅の中に浸透した。カミさんは隣室でAir Macを使っている。いつの間にか家族全員がiPhoneを持つにいたり、愚息一人はiPadを買うに至った。iPodも何個か転がっている。思えば拙宅におけるアップル製品の数量とソニー製品の数量は、マイナスの相関関係にあると感じる。2000年代における我が宅内のアップルの増加はソニーの退潮とシンクロしている。野口悠紀雄氏が東洋経済オンライン上でアップルとソニーの10年間を語っていたが、この2社が目指すべきであった事業は、かなり重なっていたのに違いない。そしてアップルはやるべきことをやった。・・・コンピューター屋が電話を作って売るなんてねえ、ATTとも相談しないでねえ、つぶされるぞ、えっ、何?音楽をネットで売るって、あの電算機メーカーが、iTunesって、ハッ・・・、謙譲の美徳ってやつを知らんのかねえ。日本の経営者はビジネスマナーが良いので、こんな風に批評していたのではないかと思う。

書けばそれだけ、いくらでも細かなことを書きたくなる。今日はプライベートな思いをつづってしまったようだ。これも素晴らしきアントレプレナーMr. Jobsに敬意と哀悼をこの場に書き留めておきたかった。それだけである。

A lot of thanks, Steve,  for your great fun, creative things and beautiful destruction !

2011年10月4日火曜日

自己破壊行動とその動機は今や研究テーマである

日本統計学会のメーリングリストで以下のような研究会の案内が回ってきた:

この度10月14日に「自殺リスクに関する研究会」を開催させていただく事になりましたので,ご連絡申し上げます.

日本における自殺の統計について,また自殺の対策についてなど様々な視点からの現在行われている研究について報告があります.また,研究報告ののちに「意見交換会」も設けておりますので,
是非ご参加いただければ幸いでございます.

どうぞよろしくお願いします.

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「自殺リスクに関する研究会」

日時:2011年10月14日(金),10:30~15:30
場所:統計数理研究所(東京都立川市)
3階 セミナー室5(3階 D313,D314)
(14:30~の意見交換会は,5階 A512)
参加費:無料
参加登録:不要

プログラム:
10:30~10:35 開会挨拶・趣旨説明 椿 広計(統計数理研究所)
<10:35~11:45 座長:久保田 貴文(統計数理研究所)>
10:35~10:45
「空間自己相関および集積性の指標を用いた自殺死亡データの地域特性」
久保田 貴文(統計数理研究所)
10:45~11:05
「自殺死亡データの時空間集積性について」
石岡 文生(岡山大学)
11:05~11:25
「日本人自殺者データの時間およびその期間差に注目した時空間集積性」
冨田 誠(東京医科歯科大学)
11:25~11:45
「日本の自殺希少地域に共通する地理的特性の分析―1973年~2002年の
全国市区町村自殺統計より標準化死亡比を用いて―」
岡 檀(慶応大学大学院)
<11:45~13:00 昼 休憩>
<13:00~14:10 座長:椿 広計(統計数理研究所)>
13:00~13:20
「自殺死亡データの地理空間相関分析-死別・失業と自殺の関係について-」
久保田 貴文(統計数理研究所)
13:20~13:50
「自殺対策の現状と自殺予防総合対策センターの研究紹介」
*竹島 正(国立精神・神経医療研究センター),
立森 久照(国立精神・神経医療研究センター)・*山内 貴史(国立精神・
神経医療研究センター)
13:50~14:10
「社会人口統計指標による地域分類と自殺死亡に関する分析」
須賀 万智 (東京慈恵会医科大学)
<14:30~15:30 意見交換会 場所を5階A512に移動して行います>

× × ×

ずいぶん以前より、日本の自殺率の高さは国際比較をしても歴然としていた。ようやく真剣な研究テーマとして注目されてきたようだ。毎年、交通事故で落命するよりも多くの人が自ら命を絶っている現状は大変悲しいことではないか ― 反面、南北アメリカ大陸では他殺率が高い。これまた悲惨なことである。

人間が生きていく上で直面するリスクは数多くある。たとえば失業リスク、転勤リスク、降格リスク、収入変動リスク(≒景気変動リスク)、更には人間関係悪化リスク、離婚リスク、冤罪リスクなども挙げられるだろう。

リスクというのは、うれしい誤算と裏腹の関係にある。うれしい誤算でダメになる人もいるが、想定外のネガティブ・リスクを乗り越えることができずに、そのままドロップアウトしてしまう人が本当に多いのが現代の日本である。中国、ロシアなどと並んで日本人の幸福度指標が低いのは、リスク対応が下手で、現実世界の不安定性がそのまま生きる個人の不安、暮らしの不安に直結しているためだと考えられる。

リスク対応力。即ち、資本主義であれば保険サービス分野の商品開発力でもあり、その開発を柔軟に認める行政当局の態度でもある。社会民主主義であれば、政府や議会の制度設計力でもある。この両方において、日本は実質、精神ともに中途半端であり、徹底していない。そのため、個人でも核家族でも抱えきれない、対応しきれないほどの大きなリスクに日本人は翻弄されている。これが現状なのではあるまいか。日本の自殺率が高止まりしている根因はこんな風に言えるのではないだろうか?

2011年10月3日月曜日

世論調査 ― サンプリング誤差を報道しているなら、即ち誤報である

今朝の北海道新聞のトップニュースは、何と共同通信社実施の世論調査である。まさか、世論調査が地方とはいえ有数の大新聞のトップを飾るとはねえ・・・報道するに値する事実は何だと、デスクは認識しているのであろうか?



世論調査については、小生の仕事柄、本ブログで何度もとりあげてきた。で、全くの出鱈目と考える根拠はなく、ランダム標本の回答が示す傾向は、一部の有識者の意見などにある意図的なバイアスから免れている、ある意味で社会全体の認識を知る目安として、十分有用な情報になる。こんな趣旨のことを書いてきた。

しかし、世論調査は通常は電話調査である。質問の仕方が回答者に影響を与える余地がある。ランダム標本とは言っても、電話が通じなかった場合の取り扱い、回答を保留した被回答者の取り扱い等々、実はデータ収集過程でいろいろと詰めなければならない問題箇所は多い。集めたデータから直ちに統計分析に進むのは、意図的なら<統計のウソ>、故意でないなら<データの罠>に陥る危ないルートであることは、この分野で仕事をしているなら周知のことだ。

世論調査は、通常は1000強のサンプルをとっていると思うのだが、データの品質について十分自信があるのだろうか?ほとんど同じ時点に異なったマスメディアが実施した世論調査で同じ質問に対して相当異なる結果が示されたこともあった。本ブログでも、そのことは記したが、「まあ、その程度と思って結果を参考にしていけばよい」というには、今日の道新は余りにもバランスを失った報道ぶりであるなあ、と。

ランダム標本の結果には誤差が含まれている。大体、支持率が社会全体で50%で拮抗している場合、1000世帯のサンプルの結果なら、1.6%位の標準誤差がある。故に、確率95%まで誤差の発生を考慮して、3%ちょっとまでは誤差の範囲と考えるのが常識だ。ということは、53%から47%まで数字が低下したからと言って、この結果は丸ごとサンプリング・エラーのなせる結果とも解釈されるため、ニュースにしてはいけない。誤差など、何の説明もつかず、中身はエンプティであるからだ。一口に言って、統計的誤差を中身のあるニュースであるかのように報道するマスメディア企業があるとすれば、それはズバリ<誤報>であると小生は断定したい。社会にはマイナスの価値しか提供していない。

× × ×

ただ、復興増税に反対する人が社会で増えているという変化は、小生には何となく分かるような気もする。これまでは被災地復興のためなら日本人として負担を増やすのは致し方あるまいと考えていたが、いざ実行しようという段階で、いややっぱり嫌だよ。そんな敵前逃亡的な卑怯な心情を普通の国民がもっているというのは、ちょっと理解しがたいのだな。そうではなく、この反応はこれまた<官僚政治>への反発なのではないかと思うのだ。半分以上の国民が支持をし、まだなお過半の回答者が支持すると回答している野田首相の理念が伝わってこないままで増税をする。実は、首相ではなく、顔も知らぬ、声も聞かぬ高級官僚の筋書きなのではないか?だとすると、官僚集団の意のままに、都合の良いように費消されてしまうのではないか?

こんな方向から、こんな視線でもって世論調査の数字の変化をみると、何となく分かるような気はするのだ ― それならそうと、もっと丁寧に解説するのが新聞社ってものでしょう、とは言いたいが。

本ブログで戦後日本を支えた官僚組織は、権力を執行する統治機構としては、国民の信を失っているのが実態ではないかと記したことがある。実際、大蔵省の流れを汲む財務省、通産省の流れを汲む経産省、いずれの大官庁も政治家のツールとしては有用なのだろうが、その官庁の暖簾を使って政治を進めるのは、もはや無理だ。官僚排除ではなく、政官対立でもなく、政治家が官僚を使う政治でなければ国民は拒否する。それが時代の流れだろうと思うのだ。とすれば、官僚の側にもとるべき姿勢がある。いわゆる<優秀な官僚>のモデルが激しく変容しつつある。そう思うのだ。官僚が政治家を使うシステムではなく、真の意味で政治家に仕える優秀な官僚が組織化されるまでは、<日本の夜明け>は来ないような気がする。

それまで優秀な人材と企業が海外に移転し、ジリジリと国力を失い、本能的に行政介入を強めるであろう日本が、どのくらいの時間持ちこたえられるか、分からないが。今週の週刊ダイヤモンドの特集テーマは「日本を見捨てる富裕層」。それから「富裕層に学べ、資産と家族の日本脱出法」、「あなたもできる海外移住」。いやはや、脱出と見るか、進出と見るかは後世の歴史家が判断すればいいことだが、大変な時代の変わり目であることに間違いはない。

2011年10月2日日曜日

日曜日の話し(10/2)

前週はクリムトの話題になったが、クリムトを始めとするウィーン分離派、というよりヨーロッパの世紀末芸術全般にジャポニスムの色彩を濃厚に見てとれることは、以前から言われていることだ。

分離派のメンバーであったオルリクは、チェコに生まれ、音楽家マーラーの友人でもあったが、1900年には念願の日本を訪れている。その時、日本に滞在していた米人フェノロサや作家ラフカディオ・ハーンと交流があり、ハーンの怪談の挿絵はオルリクが描いている。

Orlic、日本の画家、1902年

歴史になると、形式的な枠組みとロジックの議論に堕してしまうところを、人と人とのつながりに目を向けると、にわかに過去という時間が本来持っていたリアリティが蘇るから不思議だ。

1873年のウィーン万博には日本館が展示されたが、1901年にはプラーター公園で桜祭りが開催されているとのことだ(参考:千足伸行「世紀末ウィーンの美術」東京美術)。幕末、長崎近郊で医療に従事したフィリップ・フォン・シーボルトの息子ハインリッヒ・シーボルトは、駐日オーストリア大使館に勤務し、日本の女性と結婚している。彼が持ち帰った日本の文物がウィーン分離派を刺激したことは大変面白いではないか。

開国の後、日本が海外から豊かな文化を受容したのは事実だが、それと同時に海外もまた日本から色々な文物を受容して一層豊かになったことも事実である。これもまた19世紀世界のグローバル化がもたらした進歩の一つであったろう。幕末から明治にかけて日本は大変な社会的激動を経験したのだったが、その時の衝撃と混乱は長い歴史の中で十分<モトをとった>のではあるまいか?

2011年10月1日土曜日

採算性よりも志が経営には重要なのかもしれない

今日は土曜であるにもかかわらず、ビジネススクールの卒業演習が朝から夕刻まであり、小生もグループ討論のオブザーバーをつとめた。この演習は今日が第一回目で、途中に中間発表会をはさんで、来年2月上旬の最終発表会まで続く、長丁場のコースである。

昼休み時間中に、一度部屋まで戻り、車に忘れてきた小銭入れをとりに行こうと構内駐車場に出てみると、満車近くになった中で、なおも来訪者を誘導している担当者が目に入った。一体これは何事ぞと思うに、今日の午後、学部の保護者会が開催されるのを思い出した。

「そうか、保護者会に来ているのか」、「しかし、学生本人は同席しないわけだしなあ」、「一体親だけが大学に来て話しをきいて、教員と面談したからといって、何がどうなるのかなあ・・・今さら学生が親の言うことを聞くわけじゃないし」、「意味ないのじゃないかねえ・・・」。こんなことを口に出していうと人に嫌われるだろうが、正直、そう思ったわけだ。

が、待てよ。ビジネスに不可欠な非協調型ゲーム理論には<チェーンストアの逆説>というのがある。例えば100地点に店舗を出店しようと計画している小売企業があるとする。地元には既存スーパーがあるだろう。同じ地点に出店を考えている潜在的企業もあるかもしれない。そういったライバルは、自社が進出を考えていると予測すると、まずは店内を改装し、安値には安値で対抗するべく万全の態勢を整えるだろう。こんな時、準備万端のライバル企業としのぎを削るよりは、協調的な高値を維持して利益を確保するほうが、よほど合理的な行動である。互いに傷つき合うよりは共存共栄を目指すほうが賢明である。

もしも計画している店舗が1店舗であるなら、必ず上のような賢明な選択をするに違いない。では100店舗を計画しているならどうか?最後の100番目は、これで最後なのだから、最も賢明な選択をする。つまり自爆的な安値競争などはしない。では99番目はどうか?100番目の店舗進出ではどうするか決まっているのだから、99番目が実質最後である。だから99番目も賢明に行動するはずだ。同じ理屈で98番目もそうだ。という風に考えると、そもそも最初から100番目まで、このチェーンストア企業は常にライバル企業と協調的かつ融和的な行動を取るに違いない。これが合理的な考察である。

しかし、現実はこうでないことは多くの人が知っている。もしも1番目から30番目までの進出に際して、徹底的にアグレッシブな安値戦術をとって地元企業をたたきつぶし、潜在的なライバル企業までを辟易とさせれば、以後の進出において地元企業は自社に対して戦う意志を放棄して提携を申しでるだろう。参入を考えていた企業も自社が進出しようとしていることを知ると、その町に立地することは諦めるだろう。かくして、このチェーンストア企業は31番目から100番目までは、ほぼ独占的な状況を得て、巨額の独占利潤を享受するだろう。ここの鍵になるのは、決して敵を容赦しない、その時の採算性を度外視しても、タフな相手であるという市場からの評価を大事にする、この行動方針を貫くという点にある。

チェーンストアの逆説で伝えようとしているのは<限定合理性>である。人間のとる行動は、その時点、その時点で最も合理的な行動ではない。その時の利益をもっと増やすことが可能なことが多い。長期的な利益を目指していると言えば耳あたりは良いが、単に虚栄を張っている、メンツを気にしている。それだけのことは、案外、多いものだ。そんな時、「もっと賢くなれよ」。クールな理論家はそう教え諭す。

しかし、知性や計算に従ってばかりいると、大きな利益を得るチャンスを自ら放棄する。そんなことは現実の世界で意外に多いのだ、というのが上の話のミソである。創業の理念と志を倒れるまで守りぬくという経営者の魂が、社員一同を団結させ、奮い立たせ、困難とされていた事業をテイクオフさせ、当初は赤字続きだった事業が稼ぎ頭になるというケースは実は多いことを忘れてはいけない。

そういえば、上のようなことを話してから1年もまだ経っていない。今年もビジネス経済学の授業でまた話すのだったなあ、と。とすれば、保護者会もいまは全く意味のない、下らない行事に思われるが、学生の両親を大事にする態度を守り続けることが地域からの信頼を高めることになるのかもしれない。そして、それが最も大事な戦略的目標そのものだったりする。

そうなのかなあ?そんな高邁な志の話なのかなあ?などと思いつつ、自動販売機で珈琲を買って、また部屋に戻っていった。

小生の田舎には<キョロマ>という蔑視的呼称がある。いわゆる<利口バカ>というキャラクターを指しているのだが、その時、その時の損得の見込みによって、行動を変えることの愚かさを、ま一口に言って、笑っているのですね。案外、ずっと昔から日本人は頑固さの戦略的価値を熟知しているのかもしれない。