2011年10月2日日曜日

日曜日の話し(10/2)

前週はクリムトの話題になったが、クリムトを始めとするウィーン分離派、というよりヨーロッパの世紀末芸術全般にジャポニスムの色彩を濃厚に見てとれることは、以前から言われていることだ。

分離派のメンバーであったオルリクは、チェコに生まれ、音楽家マーラーの友人でもあったが、1900年には念願の日本を訪れている。その時、日本に滞在していた米人フェノロサや作家ラフカディオ・ハーンと交流があり、ハーンの怪談の挿絵はオルリクが描いている。

Orlic、日本の画家、1902年

歴史になると、形式的な枠組みとロジックの議論に堕してしまうところを、人と人とのつながりに目を向けると、にわかに過去という時間が本来持っていたリアリティが蘇るから不思議だ。

1873年のウィーン万博には日本館が展示されたが、1901年にはプラーター公園で桜祭りが開催されているとのことだ(参考:千足伸行「世紀末ウィーンの美術」東京美術)。幕末、長崎近郊で医療に従事したフィリップ・フォン・シーボルトの息子ハインリッヒ・シーボルトは、駐日オーストリア大使館に勤務し、日本の女性と結婚している。彼が持ち帰った日本の文物がウィーン分離派を刺激したことは大変面白いではないか。

開国の後、日本が海外から豊かな文化を受容したのは事実だが、それと同時に海外もまた日本から色々な文物を受容して一層豊かになったことも事実である。これもまた19世紀世界のグローバル化がもたらした進歩の一つであったろう。幕末から明治にかけて日本は大変な社会的激動を経験したのだったが、その時の衝撃と混乱は長い歴史の中で十分<モトをとった>のではあるまいか?

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