2011年10月20日木曜日

個人芸とイノベーションとの違いはどこにあるか?

直近の週刊エコノミスト(10月18日号)がメールボックスにあったので部屋に戻ってパラパラめくってみた。すると、News of The Week "Flash!"でスティーブ・ジョブズの死を論じていた。
1976年にアップルコンピューターを設立して以来、パソコン「マッキントッシュ」や多機能携帯電話(iPhone)、多機能携帯端末(iPad)など、IT業界に革命を引き起こす商品を次々と世に送り出してきたカリスマの伝説は幕を閉じた。
ソフトバンクの孫社長が言うようにレオナルド・ダ・ビンチ級の多角的天才として歴史を刻んだのかどうか、そこまで同感するには躊躇を覚えるのだが、エジソンに匹敵する感性の持ち主であり、同時に起業家であったというのは、多分、そんなポジションを占めるのじゃないかなあという気はする。
単一商品大量生産でクォリティの高い製品を世に送り出すことに注力した・・・。デザインの良さを製品に反映するためにはコストがかかるが、数千万台を作るという判断を下せば、1台当たりのコストは小さくなる。そして、それだけの台数を売るために、商品を徹底して魅力的なものに仕上げるだけでなく、魅力的な「売り方」までシステム化する。直営店「アップルストア」を運営し、買い物体験の高度化にこだわるのもそのためだ。 
この面だけをみると 、単品大量生産の王者である初代ヘンリー・フォードを連想する。自動車という金持ちが使う乗り物を安価で便利な大衆の足として普及させたフォードと、コンピューターとネットワークというエリートが使う道具を普通の人が手にする文房具にしたジョブズと、二人がビジネス史において活躍したフェーズは奇妙に似通っているとも見られるだろう。ジョブズにはフォードに加えて、ある種のSense of Wonderを世の中に提供してきた。この点で、小生は同氏がエジソンにも匹敵するのじゃないかと思うわけだ。ビジネススクール流の製品多様化による利益拡大、多角化の利益。ブランドの傘の構築など、そんな理屈はクソ喰らえなのだろう。

何か新しいものが始まると感覚させる能力。これに対して、凡庸な経営者は、間違いなく運営されていると感覚させる能力の持ち主でしかない。
そのやり方はある意味独善的であり、他者との軋轢の原因にもなってきた。
ジョブズ後のアップル社に懸念が抱かれている。しかし、ジョブズが独善的に進めてきたことが、真に独善的なものであったなら、その理念やアイデアが世の中に受けいられることはなく、それより以前に「あれほど付き合いにくい」創業者と協力し、道を開くために人生をかける同僚があれほど多く現れることもなかっただろう。独善性と独自性は本質的に違う。理解された独善は、もはや独善とは言わない。世に受け入れられた独善は、もはやイノベーションであって、成功した革命になる。
このようなことは、ジョブズ氏の発想で生まれたものではあるが、彼一人の力で実現できるものではない。近年、アップルは、徹底した「チーム」での作業にこだわり、ビジネスを進めてきた。・・・単純にジョブズ氏がいなくなったから力は失われると決めつけるのは早計だ。
古くは原始キリスト教団、イスラム教団を思い起こしてもよいし、日本の織豊政権・徳川政権への交代期、中国の清朝入関の故事を考えてもいい。上に引用した文章のジョブズを、たとえばキリストとかマホメットに置き換えても文章の意味はそのまま通じる。織田信長は暗殺されたが、後継者の秀吉はそれまでの織田政権の路線を変えることはできなかった。その豊臣政権を倒した徳川政権も、前の政権は否定したが前の政権が進めてきた政策は概ね受け入れるしかなかった。清朝は中国では異民族であったが、漢人李自成が作ろうとした王朝は受け入れられず、清が中国を治めた。リーダーは、特定の個人だが個人芸で始めた仕事はその個人とともに消える。しかし、社会が認め、継続を望まれる進行方向は、そのリーダーがいなくなっても人物が集まり、その組織を支え、ずっと継続し、結果として発展していくものである。

ジョブズが成功した裏側には、同氏の理念を理解した組織と、その理念に高い価値を与えた社会があった。ジョブズは社会にもともとあった欲求を現実のものにしただけだ。それは今もある。アップル社は、<ジョブズ自身がいなくとも>、生命を失うことはないと思われる。しかし、社会経済の変化の中で、これまで通りのビジネスではダメだ、そんな状況がやがてやってくるだろう。その時に、アップル社はどう行動するのか?どこにアップルのアイデンティティを置こうとするのか?創業者の理念を否定して、破壊と再建を進めるのか?それに成功するのか?それは誰にも分からない。

創業の理念は、しばしばコーポレート・アイデンティティと一体のものである。社の理念を捨て去るよりも死守するべきだ。社のアイデンティティを否定するのではなく守るべきだ。何もかも捨て去ろうとする企業は、そもそも存在する必要のない組織であり、市場から退出するべきである。よくそんな風に言われる。組織はただ存続のみを目指しても、それだけで生き残ることは難しい。それは確かにその通りだ。いま多くの日本企業が、守るべきものと捨てるべきものを、見極められずにいる。とはいえ、アップルという会社が、現在の日本メーカーと同じ苦境に立つことは、まだまだ先のことであると見ている。

2011年10月18日火曜日

iPhone販売戦争の行方は?

昨日辺りの日経では、ソフトバンクとKDDI(AU)との間で現在進行中のiPhone販売戦争が報道されている。

KDDIは、通信料をソフトバンクと横並びにすると予想する向きもあったが、実際はKDDIの毎月通信料が4980円とソフトバンクより570円高くなった。これに関しては「当社は山の上にも基地局がある」というKDDI社長の言が紹介されている。つまり、より良質の通信品質を提供できる以上、KDDIはより高い通信料金を課しても顧客は納得できるはずだ。そういう議論に見受けられる。

しかし、それほど回線品質に自信があるのであれば、料金を横並びにすれば全面的に顧客を奪うことが可能なはずだ。それを敢えてせず、相対的に高い料金を設定したのは契約数量を抑えて、利幅重視の販売方針を選んだものと見える。契約数量を抑えるのは、利用者急増による回線劣化を避け、既存ユーザーをつなぎとめるためだろう。

しかし、この料金設定によってAUのiPhoneを選ぶインセンティブは弱まる。端的にいえば、経済的には両者イーブンと言えるかもしれない。品質が良ければ価格は高い。品質が劣れば価格は安い。ここ10年の間、日本のマーケットでヒットしてきたのは、品質はまあまあだが、価格が安い商品である。元々、ソフトバンクはユーザー急増で3Gから無線LANへ流し込み、回線の混雑緩和を迫られていた。条件がイーブンとすれば新規顧客獲得で両者は50%ずつシェアを分けるかもしれない。確かに新規契約者の増加率は鈍化するだろうが、回線への負担はソフトバンクで軽くなり、KDDIで重くなる。KDDIが評価されるポイントである回線品質は、契約数増加で相対的に魅力を落とすだろう。そうなれば通信料金を維持することも難しいかもしれない。

KDDIは、回線品質で勝負するようだが、どうもこの勝負、激しい価格競争を経て通信回線自体のコモディティ化が進み、結局、KDDIは自社回線の差異を守れないのではないかと予想する。ソフトバンク側に立って見ると、iPhoneは金のなる木ではなくなるかもしれない。Appleの政策変更によって迫られた事態であるにせよ、アンドロイド機種を導入することは、iPhoneに偏った製品構成をリバランスする「縮小戦略」になる。日本市場においてドコモが優位なポジションを作りつつあるアンドロイド市場に参入し、正面から競争を挑む模倣戦術をとる一方で、iPhone市場の過当競争を回避する。ビジネススクールであれば、このような戦略案は聴衆の関心をひきつけるだろう。

このように戦略的意図が分かりやすいのはソフトバンクの方である。KDDIはレイトカマーとしてiPhone を選んだ。なぜアンドロイドではなくiPhoneを採ったのか。KDDIはマイクロソフトのウィンドウズフォンも販売開始したはずだ。こちらは、あまり周知されていない。小生はWindows Mobileは侮れないと思っている。KDDIの真の目的はどこを向いているのだろうか?同社は、アンドロイド機種のホームページを閉鎖した。

2011年10月16日日曜日

日曜日の話し(10/16)

「摘録 劉生日記」(岩波文庫)を購入する。画家岸田劉生が記した大正9年から大正14年までの日記である。日記は大正12年9月に起こった関東大震災を間に挟んで、同氏が藤沢市鵠沼に住んだ時分から、震災の後、京都市南禅寺艸川町に転居しそこで暮らした頃にまたがる。その後、劉生は京都から鎌倉に居を移すのであるが、京都在住時代の画家岸田劉生の評判はあまり良くはない。その辺をめぐる人間的内面のひだが当人の日記の文章からもそこはかとなく匂ってくる。魅力はここにある。

というより本書の魅力は酒井忠康氏の手になる巻末の解説にもある。大変些事にわたるが、同氏は小生がいま住んでいる所の隣町の出身であり、また小生と大学が同じなのだ。そんな人物が尊敬する画家の評論を書いていることもあって、ま、店頭で手にとってみて、何がなし親近感を覚えたのが購入したきっかけである。
この年月のうちから父が得た物は、父の仕事をより幅広いものにし、この年月のうちから失ったもののために、父は命を縮めたといってもさしつかえはないと思う。父が心の淋しさにもう少し堪え得る強さを持っていたら、またもう少し早く酒と遊びの生活の誘惑から抜け出すことができていたら、もう四、五年、いやあと十年は生きられたかもしれない。では、父の失ったものは何か。失ったものは一つではない。日向と影とがあるように、得たものの後ろには失わなければならないものがある。父の失ったものの一つは友情であった。(470頁、麗子の回想)
小生も「内地」の大都市圏から二十年ほど前に北海道に移住した者であるから、たとえ交通事情が劉生存命の当時と比較にならないとしても、気持ちとして上の文章は非常によく分かったりするのである。

岸田劉生、寺子屋舞台図、1922年

上の作品を制作して一年後、劉生は震災で鵠沼の宅も被災し、名古屋を経て、京都に引き移った。彼は春陽会を脱退し、画壇から孤立し、京都で金の工面をしながら古美術収集と遊興に毎日を過ごすようになった。彼は昭和4年に38歳で病気により急逝するのだが、震災後の作品をみることは少ない。しかし、劉生が「避難先」の京都でどんな風に暮らしていたか、日記に記されている。

岸田劉生は1891年の生まれである。昭和時代になるが早いか亡くなっているので、随分昔の、歴史上の人物であるように思える。ところが、たとえば藤田嗣治は1886年生まれで劉生よりも年長である。藤田は長命で、東京オリンピックが開催された後、1968年に82歳を迎えるまで長生きした。藤田嗣治の名を聞くとき、藤田に関心を持っている人は<現代>の香りを感じるはずだ。少なくとも<過去>を感じない。しかし、藤田より岸田劉生のほうが年下である。

長生きをすると、仕事を続けない限り、子供でもいない限り生活資金に困るわけであるが ― そこを解決するのが公的年金という社会共同体理念に基づく制度なのだが ― 多くの時間を持つことができて、多くの後世代の人々と交際することができて、色々な仕事をし、色々な成果を残すことができる。早く死んだ者には与えられないものが、長生きをしたものには与えられるのが浮世の現実だ。

長生きをするものが、早く死ぬものから金まで頂戴する。年金保険の原理は実に残酷なものだ。早く死んだものが残した保険料は遺された家族に与えたい、それが生命保険だ。こんな風に考えると、年金保険や生命保険や火災保険や盗難保険など、万が一の備えは家族とも相談しながら、本来は個人個人が名々で決めるべきものだろう。

人生をどう送るかに国家が介入する必要はない。介入をさせないためには甘えないことが大事であると思う。

2011年10月15日土曜日

リンク集 ― 興味を感じた記事色々(未読)

学期初めの雑務に紛れている間、色々なサイトを閲覧する時間が持てなかった。特に最近は、パワーポイントで授業を進める方式が定着しつつあり、以前のように特定の教科書を何年か使って、固まった授業を提供すればよいという様子でなくなった。パワーポイントは、その年ごとに毎回の授業進度が違うので、結局、1年前のファイルを使いながらその年のパワーポイントを再編集することになる。便利な道具ではあるが、結局、かかる手間は書籍媒体のテキストよりも明らかに大きい。小生はそう感じている。これで学生の理解度が上がれば、教育の生産性は上がっているのか下がっているのか、微妙なところだが、もし理解の浸透が以前のとおりだとすれば、最新兵器のITツールを使うことで、生産性はむしろ落ちている。多分、袴をはいて野球をやっている、そんなところなのだろうが。

牛刀を鶏に使う例えもある。「それはそう使うんじゃないよ」と言われれば、それまでだ。

以下、ざっとみて面白そうだと感じた記事である。まだ丁寧に目を通してはいない - 後で丁寧に読んでおこうと思うが、残ってないかも。

ダイヤモンド・オンラインから

鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!(上杉隆)To Cure the Economy(Joseph E. Stiglitz)

Econbrowserから

The Wrong Track, in Figures
Pragmatic Capitalismから


内閣府ホームページから

今週の指標 No.1008 株価による景気予測

2011年10月14日金曜日

公的年金を<最大のアンフェア>にしてはならない

公的年金の支給開始年齢引き上げが、唐突に(というわけではなく、やっと出て来た話題ではあるが)関心を集めている。提案通りに改正 — 改正と称していいのであれば — されれば、68歳支給開始になりそうである。今朝の - 今となっては昨日だが - 「とくダネ!」に呼ばれていた専門家は、68歳は無理だろう、67歳に落ち着きそうだ、そんなことを言っている。いずれにしてもデフレ下の年金減額とともに、新規受給者の支給開始年齢引き上げは、出るべき課題が出て来た。そんなところだ。

しかし — 今更、ソモソモ論をやったって仕方がないが — 老齢年金というのは何のために、これほどまで喧々諤々と議論をする、それも中央政府が詰めなければならない問題なのだろうか?

ここにAさんがいる。彼は高齢になった時に、いくらの資産を保有しているか分からない。何歳まで生きるか分からない。どんな暮らしをするか分からない。金持ちになるかもしれない。貧困になるかもしれない。何歳まで仕事をするか分からない。自営業なら定年はない。サラリーマンなら退職金を支給されるかもしれない・・・と、まあ、人生色々だ。にも関わらず、彼が日本人であるという理由で、彼が65歳になってから以降は、一定額のお金を支給してもらう権利がある、日本人全体はその責務を共同して負っている。そう考えるロジカルな根拠は何か?ロジカルな根拠があるからこそ、どうしたらお金を支給できるのだろうか。できなければAさんに対して申し訳なし。そう思って、頭を捻っているのである。しかし、Aさんの顔を知っている人はほとんどいないのだ。

もちろん昔は年金などというものはなかった、と言えば嘘になる。長生きをすれば生活資金も必要になるから<年金保険>というものはあった。なかったというのは、一人残らず年金保険契約を結ばせる。だから政府が国家直営で保険業務を運営するという発想である。

一体なぜ政府が業務展開しなければならないのか?高齢になり生活に窮した方は、生活保護をするのが最も単純明快な、誰でも共感できる行政ではあるまいか?それには税を財源とするのが筋であるし、税しかないであろう。なぜ生活に窮しているか、その理由や経緯を精査することもなく、現実に困っている日本人を助けてあげたいという気持ちは実に自然である。生活保護は憲法25条で規定されている、いわば政府と国民の<社会契約>の一環である。

しかし年金は生活保護政策とは違う。だから年金の財源として保険料を徴収している。年金保険というからには、契約者が払った保険料総額と、保険金を受領する状態に陥った人が得る保険金総額は - 長期的には - バランスしないといけない。でなければ経営不可能である。いま年金保険金を受領する条件は<65歳まで長生きしてしまう!?>というものだ。言うまでもなく、こんなリスクはリスクとは言えない。平均寿命が80歳前後にまで延びている現在、65歳まで自分が生きるという事態は当然予測しておくべきである。第一、ほぼ大半が65歳プラス何年かまで生きるのであれば、保険料はほぼ全員が費消する。払った保険料を使い果たした時点でアウトになる。年金保険は短命で死ぬ人が払った保険料を長寿の人が受け取る仕組みに他ならない。だから収支がバランスするのだ。この位は生きるはずだと予想できるなら、その時の自分の生活資金は自分が作っておく。それが日本国憲法が規定している<勤労の義務>の趣旨であろう。

長生きリスクへの対応が年金保険である以上、まあ大雑把に言って、「ここまで長生きする人は10%くらいだよね」。そのくらいの、「長生きリスク」と言うに十分であるほど高い年齢に支給要件を決めておかないと、年金保険は運営できないだろう。運営できるかのように錯覚するのは、保険料ではなく、税金まで使うからである。消費税を年金の財源にするため消費税率を引き上げようと議論をしているではないか。

ここがわからないのだ。税金を使ってまで年金を支給する以上、もらう人は困っている人であるべきでなかろうか?生活に困ってもいないのに、自らが支払った保険料を超えて年金を受領している社会集団がいるとすれば、それは別の集団から行政を利用して所得を奪取していることになるわけであり、これこそ<最大のアンフェア>ではないか?生活資金に困っている高齢者には生活保護政策を充実するということを越えて、困ってもいない日本人にまで定額の年金を支給する、支払った保険料に加算して税金を充当してでも支給する。それが正しいと考えるロジックは何か?政治家の選挙対策なのか?中央政府が税以外の金を徴収する便法ではないのか?なぜ普通の年金保険を契約するやり方でいけないのか?そんな保険商品を契約できず、現実に困っている人は保護するべきだが、なぜ全ての日本人を対象に政府直営の公的年金保険制度を日本国は必要としているのだろうか?ま、そういう疑問ですね。

官僚は細かな計算で忙しい。根本的な疑問に正面から立ち向かい、日本人なら誰でも納得できる理念を伝える責務は、日本の政治家が負っている。これだけは確かなことだろう。

2011年10月12日水曜日

TPP参加の是非は数で決まるのだろう

今日あたりの日経には、民主党内で進んでいるTPP参加論議が紹介されている。

先ずは農業問題。(高率関税が許される)例外品目は一つしか認められない可能性が大きい。そんな読みがあるようだ。とすれば、米だけ守っても、酪農・畜産が打撃を受けるだろう。こんな心配をしているグループがいる。

そもそも政権交代ができた要因の一つに農家戸別所得補償がある。農林票が若手民主党議員の支持基盤になっているケースが多いということだ。となれば、農業関係者の意見がそこに反映されるのは仕方がない。

更には、医療や金融を心配する人がいる。農業だけではなく、医療や金融なども完全自由化されると、水準が大幅に低下する。そんな主張もあるようだ。反対派が開く集会には日本医師会なども招かれるそうである。

これらの反対論を要約すると、一口で言えば、<変えるな>。つまりは、現在の収入基盤を失いたくない。ここに動機があるのは、(改めていう必要もないだろうが)明白である。当然だ。損する(と思う)から、反対するのである。

農産品に高い関税をかけると輸入品価格が上がる。だから、国内農産物も売れる。売れる以上は生産を続けるから、農地も手離さない。経営統合にも消極的だ。TPP賛成派は、ここに問題があると言っている。自由化をすれば競争が働くので、同じ人数、同じ土地を使って、多くの農産物を作らないとコストが下がらない。価格競争力を失う。日本の農家の生産現場を能率的にするためには、国際競争の場に入るのが一番だというわけだ。また、競争力は十分持てると言っているのが、賛成派だ。

確かに高齢者が片手間に農業をやりながら - いや、増えているケースは、休耕田にしたり耕作放棄地として何もせず放置してしまう - 農業を経営するよりは、農地、もっと根源的には<土づくり>にまで遡って、メンテナンスをしていかないと、農業自体が継続不能になる。そうすると、歴史を通して日本に伝えられてきた技術資産、人的資産のつながりが、根こそぎ失われてしまう。何度も耳にするのは、こちらの問題のほうだ。

保護を続けるか、弱肉強食を押し付けるか、では最早ないのだろうなあ。色々な意見を聞いているとそう思う。そうではなく、日本の農業の半分を自然死させるか、不効率な部分を退出させて、農地をまとめて有能なマネジャーに経営させるか?問いかけはこちらの方だ。国際競争は後者の路線を進めるための、行政ツール。まあ、日本お得意の<外圧>であります。農林水産省が何を言ってもダメだから、国際競争のプレッシャの中で、やって行くしかないという判断でありますな。

それ故、農業については、これはもう仕方がないのだろうなあ。そう思っている。農地は日本の資源であり、いかに個人財産とはいえ、ただ寝かせておくだけの遊休地として持ち続ける権利まで農家が持っているとは思えないからだ。

では医療はどうか?金融はどうか?「完全に自由化されれば、水準が大幅に低下する」。これは間違いである。水準は大幅に向上するはずである。現に高額の医療費を支払っても、日本でハイレベルの治療を受けたい人は多数いるのだから。自由化されれば医療の水準は必ず上がる。ハイレベルの治療技術をもつ医師は、日本にいながら収入が倍増、三倍増になるであろう。容易に予想がつくように、規制社会から自由社会に変わって、最も変わることは「みんながホドホドのものを平等に消費する社会」から「ハイエンドからローエンドまで自分の予算に応じて自らの意志で選ぶ社会」になるという点に尽きる。高額サービスからエコノミークラスまで選択範囲が広がるのは、まさに市場メカニズムが働いている家庭電気製品、テーマパークなどレジャー施設と同じである。医療も金融も、自由化されれば、必ずそうなる。だから「質が低下する」という予想は嘘である。

最も先鋭的な論点になるのは、これが良いかどうかである。どちらが正解かなど、エコノミストも法律専門家も判断はできない。結論は数で決まる。そもそもこの問題は全員一致というのはあり得ない - 経済学では補償によって全員が一致して賛成する余地があるならゴー。保障の落とし所がないならストップ。そんな純粋理論もあるが、ま、理論である。

ただ貧乏人は高額治療を受けられないのか?こんな問いかけがある。これは間違っている。自動車には自賠責のほかに任意保険のコースを自分の裁量で選ぶことができる。対人保障を無制限にしてもよいし、上限3億円まで保険会社が保障することにしてもよい。このように医療ビジネスが自由化されれば、民間の医療保険商品が多く開発されるだろう。また金融庁は、保険企業のこうした取り組みを抑えるべきではない。こういう風にことが進展すれば、政府直営の健康保険制度はその効率性が批判され、民間保険に押されるようにしてスリム化され、自動車保険の自賠責のようになってしまうだろう。というより、政府直営の基礎的医療保険は国から自治体に移管され、保険料ではなく、住民税があてられると思う。

新聞にも「国民皆保険制度の崩壊につながる」といういずれかの関係者による刺激的な科白が報道されているが、一面は真であり、一面は嘘である。政府直営の保険制度は崩壊するが、民間の保険ビジネスは必ず拡大する。まさに宅配業界がたどった道と同じである。日本郵政が直面している問題と同じだ。自由化をするとは、そういうことだ。

マスメディアは、マッチポンプのように、こんなことを言って反対している人がいる、あんなことを言って賛成している人がいると言うが、そればかりではなく、TPPに参加して自由化を徹底すれば、どんな社会がやってくると予想されるのか?逆に、TPPに参加せずに現状を維持するとすれば、どんな社会になっていくと予想されるのか?まずは、この疑問に答えてあげるような啓発を、記事にして書き込んでいくべきではあるまいか。新聞というメディアに期待されているのは、そういう貢献だと思う。

2011年10月10日月曜日

日銀は王より飛車をかわいがっているのか?

デフレは円ベースで表した商品や資産の価格が継続的に下落する現象をいう。技術進歩や嗜好の変化による相対価格の変動ではなく、全ての商品全般にわたる価格低下であり、その原因は国内外のマネー要因にあると考えるのが常識だった。この点では、ミルトン・フリードマンが、デフレとは真逆のマクロ経済的病理であるインフレーションについて
Inflation is always and everywhere a monetary phenomenon.
(インフレーションは何時でも何処でも貨幣的現象である)
このように言ったとおり、日本のデフレーションの根本的原因も円やドル、ユーロ、元、ウォン・・・など各国のマネーサプライにある、つまりは各国中央銀行が採っている金融政策と市場との関連で理解するべき問題だ。

この点は当然すぎるほど当然の理解だと思うのだが、最近は日銀がどれほど頑張ってもデフレが解消しない。そんな状況からか、日銀が国債買取を増やしてベースマネーを供給すればデフレが解消するなどと考えるのは一知半解の虚妄であるとか、金融政策で現在のデフレが解決すると考えるほど、いまのデフレは単純なものではない、などなど。デフレの原因はマネーサプライ以外の実体経済に求めるべきであるという指摘が浸透してきているようだ。

本日の日本経済新聞には、邦銀で増加しつつある「不良債権予備軍」について報道されていた。
銀行融資のうち「不良債権予備軍」といえる貸し出しが全体の1割、44兆円規模に上ることが日銀の調査でわかった。2008年秋のリーマン・ショック後の中小企業金融円滑化法(返済猶予法)の導入などで不良債権化はしていないが、経営改善が遅れている企業が多いことを裏付けた。欧米銀に比べ、邦銀の財務は比較的健全とされるが、こうした企業の再生が課題となる。(玉木淳)(出所:日本経済新聞WEB版2011/10/10 2:34配信)
アメリカで懸念されているのは下げ止まらない住宅市場で返済能力が毀損されつつある家計部門である。日本のデフレが止まらなければ、返済能力が懸念される企業債務(=金融債権)が増加するのは当たり前である。デフレによって実質金利が高止まるとか、債権を保有しようとする経済主体より債務を負担しようとする経済主体の方が、事業を創造し、需要創出に貢献し、社会を進歩させていく確率が高いのだが - もちろん愚かな事業に着手する経営者もいる、確率でみないといけない - デフレはそうした前向きの動きを抑えてしまう、などデフレの害悪についての説明は様々にされているので、ここでは繰り返さない。

奇妙なのは円高によるデフレの説明を行なっておきながら、デフレの原因をマネーに求めない議論がすんなりと受け入れられることだ。為替レートは、各国の通貨の交換比率である。通貨の交換比率は、マネーサプライに対する通貨発行当局(=中央銀行)の姿勢によって決まってくるのは、単純な理屈である。日銀が現在とっている<超物価安定政策>が円の価値を保証していると海外から認められ、円の実質価値が低下する可能性が低いと思われているからこそ、ドルやユーロの信認性に疑念が高まった時に、円を保有しようとするのである。だから円は高くなるのである。

円の通貨価値を守る。

日本のデフレーションの真因の一つに日銀の超真面目な政策スタンスがあるのは否定できないと見ている。円の通貨価値がドルやユーロと同じ速度で毀損されても、その時はその時で、金というハードカレンシーを保有すれば財産保全としては十分安全である。

不換紙幣(=ペーパーマネー)は、それ自体に価値があるのではなく、マクロ経済をうまく運営するための単なるツールである。もしもハイパー・インフレーションを誘発しても - 貯蓄超過の低圧経済で純債権国でもある日本でハイパーインフレーションが近々起こるとは全く考えられないが - それを解決するための特効薬はわかっている(日銀は不手際の責任を追求されようが)。それより、円の通貨価値を守ろうとして、そのことにより海外の中央銀行の政策スタンスとの違いが目立ち、そのことで意味のない為替増価を招き、それが過渡的であるにもせよ企業全体の経営基盤をボラタイルにさせ、ひいては日本のマクロ経済を混乱させるのであれば、文字通りの本末転倒である。これこそ<王(=国民と企業)より飛車(=円)をかわいがり>と後の世に批評されても、金融当局は文句を言えまい。

デフレは決して逃げることのできない蟻地獄ではない。