2012年3月18日日曜日

日曜日の話し(3/18)

四国に里帰りしていた — とはいえ兄が一人いるだけであり、その兄も難しい病気なのであるが — カミさんが、本日、北海道に帰る。そのカミさんの実家がらみで16世紀の話しになっていた。

× × ×

尻取りのようにしてもう少し続けよう。16世紀欧州の一方の大立て者が神聖ローマ皇帝カール5世であることは意見が一致するだろう。そのハプスブルグ家出身の皇帝の最大のライバルがフランス王フランソワ1世であった点も意見が一致するだろう。フランソワ1世はヴァロワ家から出た王である。彼の王はフランス芸術の確立にも力を注いだ。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチを招きアンボワーズ城に隣接するクロ・リュセ(Château du Clos Lucé)に住まわせたのはフランソワ1世である。それ故、イタリア人画家レオナルドの名作モナリザがパリ・ルーブル美術館に所蔵されることになった。

フランソワ1世の下でフランス的美の感覚が生まれた。その美意識はフランス絵画の伝統にもなり、何度かの芸術革命を経て色彩や形の表現は変容しながらも、本質的な感性は今日に至るまで継承されていると言われる — それは日本の芸術についても言えると思うが。ただフランソワ1世の宮廷で主流であったのはイタリア芸術の流れを汲むフォンテーヌブロー派であるそうだ。ロッソ・フィオレンティーノはイタリア・ルネサンス末期のマニエリスムをフランスに移植する役割を果たした画家である。

ロッソ・フィオレンティーノ、十字架降架、1521年
Wikepediaから引用

16世紀から17世紀にかけて欧州の宗教対立 — 純粋に宗教思想上の対立のみではない、国民国家が太陽系のように誕生しつつある時代であり経済的要因も見逃せない — は拡大激化し、遂にはドイツ三十年戦争となる。ハプスブルグ時代は終焉を迎え、フランス・ヴァロア朝を継承したブルボン朝が勝者となる。同じ頃、日本では幕藩体制が確立し、中国では明から清に王朝が交代した。17世紀は歴史の中では現代のすぐ下の地層であり、今日もなお残香を感じられる時代である。しかし、その下には16世紀という前の時代があり、更にその前には遥かな過去がある。

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そう考えると人生は駅伝のようなものであって、いま生きている世代は前の世代から襷をもらって次の世代に渡そうと走っているようなものかもしれない。実は、先日、愚息にそんな話しをしたのですね。
「お前、これから生きていく中で最も大事にするものは何だ?」
「・・・」
「仕事か?仕事の成功を一番大事にするつもりか?」
「それは違う、仕事は自分にとって一番大事なことではない」
「じゃあ、何だ?家族か?仕事はおれにとっては三番目に大事だ」
「そうだなあ・・・家族ってことになるのかなあ・・・」
まあ、たかだか24歳の若造から正解が出てくるはずはない。小生だって、悟りの境地にはまだまだ、日暮れて道遠し、だ。ただこんな風には話しておいた。

「気がついたら生きているのが人生だ。それはおれの両親も同じだったよ。長生きできていたらもっと幸せだったかもしれないけどね。だけど一番大事なことはやり遂げた、さ。その前の爺さんや祖母さんも、な。3代前、4代前もずっとそうだ。こうやって全体を振り返ってみるとな、何度も生き死にを繰り返しながら、いままでこの家は生きて来た。それは否定できない事実だ。意味があるとすればこの事実だな。だから、お前がやるべきことは、それを続けて、生き続けるってことだ。襷を渡せ。渡す相手を作って育てるのもお前のやるべきことだ。そのためには、ジャングルに放り込まれたら、生きて戻る。病気になったら必ず治して生還する。リタイアするなんて権利はお前にはない。走り通すんだ。それ以外ないな。仕事はそのための手段だよ。手段と目的をゴッチャにしちゃあいけない。何が大事な目的で、何が手段かを間違えるなよ。手段に合わせて目的を変えるんじゃない。目的を実現するために手段を変えるんだ」。

セイコーマートの500円ワインが侮りがたい程の味を実現しているのに驚きながら、そんな話しをした。

2012年3月17日土曜日

21世紀の日本に派閥対立があるとすれば

今日はまとまりのない雑駁なことを覚書きとして書いておきたい。

それは<派閥>についてである。
政策の選択では常に対立があるものだ。

誰もが必要と客観的には認めるしかないのが消費税率引き上げなのだが、それでも「小さい政府」路線をこれから過激に追い求めるのであれば、増税は必要ない。しかし、それには公務員ゼロ賃金などでは追いつかない。焼け石に水だ。それこそ、年金、医療、介護、教育、公共事業、国防まであらゆる事業の経費をスリム化しなければならない。そもそも日本の財政状況はギリシアよりも悪いのであるから、求められる財政緊縮も(機械的に考えれば)ギリシアよりも過酷であって当然なのだ。

戦後日本、昭和20年代には「開発主義」と「貿易主義」の路線対立があった。貿易主義は、その当時の産業別競争力をベースにして貿易を行って、日本人の経済的利益を実現していこうという、まあ経済理論にも沿ったオーソドックスな考え方。開発主義はいまアジアが実行しているような戦略的な輸入代替路線である。輸出志向産業政策と言っても、まあ、近い。

いまの日本には真の意味で路線対立がないとよく言われる。どっちに向かったらよく分からないという気持ちなのかもしれない。だからこそ<閉塞状況>と言われるのかもしれない。確かに高齢者と若年層は利害が対立している。しかし<老人党>と<青年党>など、韓流時代劇の「老論派」と「少論派」じゃあるまいし、そんな政党はできませんって。

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しかし政党でも派閥でも、<対立>というのは、本来、社会の活力の源である。戦争ばかりでなく、論争する時も人たるもの、全力で立ち向かうものだ。知恵は静寂の中で、力は激流の中で、だ。ただし、対立の基軸なき対立は単なる茶番である。茶番には本心からエネルギーを投入できない。価値というか、理念というか、目的の違いから自然に形成されるのが本来の<派閥>である。

だとすると、現在の日本にも派閥対立の基軸は厳然としてある。それは個人の<幸福>を最終目標にするか、国家・組織の<利益>を目的指標におくかだ。

「公益」がないって?ありませんよ、そんなものは。公益は国家の利益、公的利益である。利益と反対側にあるのが賃金だ。社会主義は鏡の裏側にある利益重視思想と解釈できる。ただし所得分配はゼロサムゲームではない。国民所得が成長するときには協調が成り立つ。その意味では労使協調体制も組織重視・利益重視のデリバティブである。利益重視の観点に立てばどうなるだろう。政治は組織重視型になる。組織の拡大、組織の成長、組織の管理、効率性と戦略という言葉がキーワードになる。これは論理的には当然のことだ。同じ利益でも国家の利益と私的企業の利益の区別がある。が、それは単なる山分けの話であって、本質的な問題ではない。

一方、幸福重視の観点に立てば、どうだろう。組織は幸福を享受する能力がない。幸福を享受しうるのは現実に存在する個人だけである。従って政治は個人志向になる理屈だ。小生の勘に過ぎないが、まずは政治と宗教の分離の見直しが論じられるはずだ。英国国教会のような形もあれば、独キリスト教民主・社会同盟などキリスト教民主主義の流れもある。宗教と政治には色々な関係が本来はありうる。日本でも「人間重視の党」や「フォーラム共生と命」等々の政党が、比較的大規模でブランド価値のある ― まずはまとまりの良い浄土真宗系か、キリスト教系か ― 宗教団体の支援を得て結成されるであろう。現在、世界で広がりつつある「みどりの党」がそれに該当する党派であるのかどうかは、小生はまだ判断しかねている。次に「憲法上の天皇の地位の見直し」も議論の俎上に乗るかもしれない。天皇制は ― 元々そんな意図は全く込められていないにせよ ― 日本人を(理屈上どうしても)天皇に近い位置の仕事を担当するかどうかで、上下の階層に序列化するように(暗黙のうちに)機能してしまうからだ — 首都での仕事を地方での同一の仕事より上位に感じる心的傾向はその一例である。税制も見直されよう。法人実体説ではなく法人擬制説が主になろう。更には、会社有限責任主義の見直しもアジェンダに入ってくるかもしれない。仮にそうなれば、近代経済成長を支えた自由資本主義は根底から消滅し、新しい歴史の段階に入って行くだろう。ラディカルに方向転換がなされると、今よりは<経済音痴>の社会へと至るかもしれない。全体としてイノベーションへの動機が弱まり、非効率化し、集権から分権に向かうかもしれない。生活水準は停滞するかもしれない。

もちろん上に述べた対立軸とて時間の中で風化するだろう。党組織は時代の中で<適応>し、自己変革していかないと、頑固な老舗のように朽ち果てるだけである。ちなみに組織の耐用年数は30年と言われる。30年以上の寿命を得るには自己革新する必要があるというわけだ。だから、はるかな将来のことは誰にも分からない。

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今の<社会保障と税の一体改革>をめぐる騒動は、理想と理想のぶつかりあいではなく、たまたま入った政党組織の主流派と反主流派による<口喧嘩>であり、かつて吉田茂元首相がいった<猿山のサル的な猿芝居>である。

2012年3月16日金曜日

一生「やること」をやりながら人生を終えるのか?

一昨日は兵庫三田まで赴き、いまはもう縁者とて住んでいないが、阪神大震災で倒壊し、知らぬ間に無縁仏になっていたカミさんの先祖の塚から魂を抜く儀式を執り行ってきた。

昨日は小生の親の墓参りをしてきた。

で、今日、北海道に戻るのだが、時間に余裕があり芝離宮公園を散策した。老夫婦がいる。ご主人はカメラを持っている。いいねえと思いながら二人を眺めていた。それほどシゲシゲとみていたのではないが、ご主人、撮影対象をこまめに見つけては、小走りに動き回り、奥さんはあとを追っている。もどかしげにレンズキャップをとるご主人から、それを預かったりしている。そのキビキビとした動きからは<勤勉の徳>をよく感じ取ることができた。ああ、そんな風に仕事をこなしてきたのだろうなあと、真面目な人柄が伝わってくるようなのである。

この投稿はiPhoneアプリのBloggerを使っている。初稿の投稿も芝離宮公園からだ。便利だが、日本語モードのキーボードとはまだ同調されていない。日本語キーボードにすると、変換候補で邪魔されて文の最終行が見えないのだ。但し、英文モードに切り替えれば画面が修正されて最終行から書き足せるのだが、日本語での操作感は合格水準には届いていない。この最終稿は帰宅してから完成させたものだ。


さて老夫婦である。この二人は撮影に余念がないせいであろうか、会話がないように窺えるのだ。老夫婦の間に会話がないからといって、べつに小生がとやかく言うべきことじゃない。しかし、老夫婦を見ていると、小生の両親を思い出した。小生の父も真面目なエンジニアだった。自宅で余暇があっても勉強をしないといけないと言って本を読んでいた。「勉強」という言葉を小生は小学校にあがる前から、いわば憧れにも近い語感で聞いていたように記憶している。隔世の感があります。「勉強して下さいよ」と小売業者の人にいうのは「まけてくださいよ」という意味であった。ベクトルとしては上方、前向き、明るいイメージの言葉でありましたな。いま「勉強」というとどんな感覚なのだろう?方向感すらも失った単なる普通名詞になってしまったか。

さて芝離宮公園を撮影しつつ奥さんと散策しているご主人のこと。その人は退職して間もないようだ ー 大体今日は平日だし、他の入園者も高齢である。そのご主人、やることが文字どおりなくなって、写真の撮り歩きに熱中しているのかもしれない。最近のデジタル一眼レフは使いやすい。バシバシとレンズを向けては撮っている。奥さんは旦那さんがやることを手伝っているのかもしれない。多分、そうやって生きてきたのだろうし、これからもそのように生きていくのだろうなあ、と。そんな風なことを思いながら、早春にしては寒い風の中、時間を過ごした。他人の小生がどうこういう筋合いではないが、この老夫婦をみていると確かに暖かくなる心の片隅で<淋し味>をも同時に感じる。

ひと様のありようを評するようなことは、小生、大嫌いだ。評されるのはもっと嫌いである。ただ、人の価値は「やったこと、やっていること」で決まる。これは常識なのだろうか。では小生は非常識である。やることがないと不安だから退職してからやることを探す。まるで社会の中で居場所を探すように。社会から認めてほしいために。人間の価値は「やること」で決まると思い込んでいるのだろうか。だとすると、これこそ人間を<不幸>にする間違った見方だと思っている。

小生はへそ曲がりだから、今の仕事を定年退職したら「やる」ことを探すなぞ、そんな気持ちは毛頭ない。「くう、ねるところ、住むところ」があれば、かみさんと話したいことを話して、空を流れる雲の行方を観察しようと思っている。それで文句あるかと思っている。漱石の猫と同じで、生まれて来て気がついたら此の世にいた。それだけで沢山だと思っている。社会なんてクソ食らえと思っている。

神を信じるものが救われるとキリスト教は論じている。南無六字を唱える信仰からその人は救われると浄土宗教は説いている。救われるのは個人である。社会なんて神や仏がお出ましになるほどの大事じゃない。国なんてなくなってもよいのである。「国破れて山河あり」というでしょう。幸福になるのは個人である。社会や組織は<幸福>を感じることができない。個人の幸福を目指す能力を社会や組織は持っていない。持っていると議論するのは欺瞞であり偽善であると思っている。社会や組織が目指すのは公益であり、利益である。それは幸福とは違う。空行く雲を眺めながら、「シャカイ?そんなものはクソ食らえだ」、大きな声で言うのを、小生は密かな楽しみにしているのである。

2012年3月13日火曜日

小国ギリシャは今や政争の具になっていないか?

社会保障と税の一体改革を人質にして解散を迫る自民党のやりくちは政治家集団として美しくはない。日本の将来を<政争の具>にして党利党略にふけっている。そんな言い方がされる。

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ロイターが以下のように報じている。
[ブリュッセル 12日 ロイター] 2人の欧州連合(EU)当局者が12日、明らかにしたところによると、ギリシャの債務交換への民間投資家の参加率が今後高まれば、ギリシャのソブリン債務は2020年までに対国内総生産(GDP)比120%を大幅に下回る可能性がある。
国際通貨基金(IMF)と欧州委員会が実施したギリシャ債務見通しに関する最新の分析によると、同国の債務水準は、今後どの程度多くの民間投資家が債務交換に応じるかによって、対GDP比116─117%に低下する可能性がある。
ギリシア3月危機は何とか避けられそうである。しかしながら、債務交換に応じて資産を一部分にせよ失ったわけだから、債権者の立場からいえば「ギリシアが破綻するというのは事実だった」と、そう感じるだろう。これからギリシアの財政緊縮がどれだけ過激に進められるかにギリシア国民の未来はかかっている、と — これが世間の受け取り方である。

一方、欧州では金融取引税の検討が進みそうな塩梅になって来た。積極的なのはドイツとフランスだ。議長国になったデンマークは本音では反対だが、大国の圧力に屈した様子である。英国は、ギリギリの債務調整をやりながら、あくまでもギリシアをユーロ圏内にとどまらせ、その上でギリシアに財政再建を強要するドイツを継続的に批判している。金融取引税については「狂っている」の一言である。日米が導入しないのに、欧州だけが金融規制するのは反対だと言っている。アイルランドも導入するなら導入するで足並みをそろえよと言っている。スウェーデンもそうだ。オランダもそうじゃないかな?

独仏が無理を通そうとしているのは<政略>である。ドイツが金融取引税導入に前のめりなのは、欧州財政統合案を議会で批准してもらうには、「みどり」や社民党が求める金融規制に同調する必要があるからだ。フランスのサルコジ大統領は再選を目指しているが、対立候補は金融規制の強化を主張している。この面では差異化を強めるよりも模倣を選ぶほうが有利だと踏んだのだろう。ドイツは、ズバリ、議会対策、フランスは再選戦略から金融取引税を導入しようとしているわけだ。ここをイギリスは「狂ってる」と批判しているわけだ、な。小生も、イギリスの言い分の方に合理性があると思う。

ではギリシアをユーロから脱退させないのは何故か?それはギリシア通貨ドラクマの暴落を嫌悪しているからだ。 それはユーロにも衝撃を及ぼすだろう。アク抜けしたユーロは急騰するかもしれない。将来を不安視されて暴落するかもしれない。急騰する事態は、既に輸出比率が50%を超えたドイツ経済だけではなく — 欧州は水平貿易が多く、輸出比率は日本よりもずっと高い — ソブリン危機に怯えるスペイン、イタリア経済からみても、絶対に避けたいところだ。暴落すれば欧州金融界の破滅である。それゆえ、ギリシアにはユーロにとどまってもらう。ギリシア人には我慢してもらって借金返済と節約に励んでもらう。これまた、独仏伊西という大国の身勝手であると言えるだろう。

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しかし、まあ、こうして整理すると欧州の政治経済は、してはならない重要案件を政争の具にする日本と五十歩百歩。汚く表現すると目糞、鼻くそではないか。そう感じながら記事に目を通したところである。

2012年3月12日月曜日

ワイドショーの専門家の「専門家」ぶりについて

北海道某TV局で放送している地方番組でも、復興庁による復興交付金一次配分が問題になっていた。被災県の間で違いがありすぎるという批判だ。文字通りマスメディアは袋叩きの憤激ぶりであって復興相が陳謝するような雲行きだ。いずれも国に「袖にされた」宮城県知事に同情する意見を開陳している。

今朝テレビに登場した「専門家」は概ねこんな風に発言していた — 細部までこの通りというわけではない、発言趣旨ということだ。

事業費も結局は官僚が配分するわけですからネ、そこで官僚は自分たちの存在を主張できるわけです・・・私が考えますに、まず何も言わずにお金を県にあげるべきなんですよ。何がいけなかったか、何が悪かったか、実情調査をすることから始めるべきだと思います。やはり失敗例を公開して、共有知にする。そうしないとまた同じ間違いを繰り返すと思うのです・・・
やれやれ、と思いましたなあ。

そもそも何を話しているのか、さっぱり分かりませぬ。

「事業費は官僚が配分する」ことを批判してらっしゃるが、「配分作業」自体に反対なのであろうか?先着順で受け付けて、全部お金を使い切ったら、もうありません、と。手続きが遅れたのは、そのこと自体、復興への熱意が足りないことですよね、と。そんなことを言って、お引き取り願う。そう諭すのが良いとお考えか?聞いてみたいですねえ。

配分作業に官僚がタッチするのがいけないと云うなら、誰がせよ、と。大臣自ら、鉛筆を舐め舐めせよとでも。アメリカでは長官のことをセクレタリー(Secretary)という。元来の意味は「秘書」であるのだな。長官は大統領から見れば、個別分野を所管する秘書室長であり、その手足が官僚という書記官だ。日本では大臣はミニスター(Minister)だ。そのミニスターの下僚が国家公務員であり、命じられる業務の報酬として給与をもらっている。予算を被災地に配分せよというのは、大臣からの業務命令である。いくら官僚でも、復興予算を自分のカネだと思う輩はいない。いれば横領だ。

今回の騒動は、岩手県が90%超の採択率であるのに対して、宮城県は申請の50%程度しか配分されなかった。その差が大きすぎるというのが直接のきっかけだ。申請額に対する採択率だけではなく、配分額についても語るべきだ。北海道新聞では次のように報じている。


復興交付金の配分額決定 7県に計3053億円
復興庁は2日、東日本大震災で被災した自治体に対する復興交付金の第1回配分額を決定した。対象は7県59市町村、総額は3053億円で、県別では岩手957億円、宮城1436億円、福島603億円、青森、茨城、栃木、千葉が計56億円。産業復興や住宅再建など緊急性の高い事業への配分を優先した結果、自治体側の要望額4991億円の約6割に圧縮された。市町村別では仙台市の509億円が最高。 
配分額は地方負担を含めた総事業費ベース。地方負担は後日、特別交付税で穴埋めする。2日に各県と市町村に通知され、工事の発注が可能になる。第2回配分要望は3月末まで受け付ける。(出所:北海道新聞、03/02 12:32、03/02 13:09 更新)

宮城県は、申請に対して採択率が50%程度ということは、申請が2800億円程度であったことになる。岩手県はほぼ申請通りの960億円程度であったのだろう。もし申請通り満額を手渡すとして、岩手県には申請通りに960億円程度、宮城県には2800億円程度をそのまま支給してもいいのだろうか?それが賢明なのだろうか?どうしても、小生、金額をみるとアンバランスに思えるのだなあ。東北地域一帯を襲った地震による被害復興だ。宮城は岩手の3倍もらって当然なのだろうか?

震災被害は、宮城県では津波が中枢部を襲ったので、中央部分に集中しているという特徴がある。反面、岩手県は陸中海岸沿いに広く災害が南北に拡散している傾向がある。小規模の町では行政機能が崩壊している箇所もあると聞く。そんな地域では復興計画をとりまとめ、申請を出すにも時間がかかるのではあるまいか?それが岩手県と宮城県の今回の申請額の違いになって現れたのではないか。まして福島県は原発被害と避難の継続で地元に帰れないという事情もある。復興計画など作成できるのか、福島は?福島県への配分額は岩手県よりもさらに小額だが、申請自体が少なかったのではなかろうか。

こういう時は、先に出した者勝ちだ。宮城県がそんな気持ちでいるわけではないと思う。しかし採択率が低すぎるという理由で憤激するのは、あまりにも地域の状況の違いを無視した身勝手だと思うけどねえ。決して好感を感じませぬ。それが小生の偽らざる心情である。

この位、専門家であれば、語ってほしいのである。何が「官僚は予算配分で自己主張できますからね、カネを出すなら口も出すってことですよ」なのか・・・その辺の奥さんがやっている井戸端会議でももっとマシな話しをしている。いやしくもテレビという画面に<専門家>という立場で出るなら、もう少し素人では見落とすようなことを堂々と語るべきではないか。

テレビ番組の低品質ぶりには落胆することが多く、特にリーマン危機後は激増しているのであるが、今日の「専門家」の方にも呆れた次第であった。

2012年3月11日日曜日

日曜日の話し(3/11)

東日本大震災は一年前の今日だった。カミさんと買い物に出かけて帰宅したちょうどその時刻、ユラユラと揺れるような気がしたのでテレビをつけると、震度7の大地震が東北地方を襲った映像を流していた。巨大津波が来襲した様子を画面でみたのは間もなくである。

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16世紀は前の15世紀末から次の17世紀初頭までをひっくるめて「長い16世紀」と呼ばれることもある。経済的には価格革命が進行した大インフレーションの時代である。芸術的にはイタリア・ルネサンスが完成期を迎えマニエリスムと呼ばれるようになるのと並行して、ベルギー、オランダ、ドイツなど北方にも人間復興の精神が伝播して北方ルネサンスが開花した。そんな時代だ。宗教的にはローマン・カトリックの権威が失墜し、ルターによる宗教改革が始まった。政治的にはハプスブルグ家による欧州制覇を目指した戦争が繰り広げられ、その途中には神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊によるローマ略奪もあった。これは盛期ルネサンスの終焉を画した大事件になった。

この時代、日本では雪村周継による水墨画が創作されていたのだが、ドイツでとなるとグリューネヴァルト(Grünewald)を挙げたい。下は彼の傑作「イーゼンハイム祭壇画」の<平日面>である。


Grünewald, Isenheimer Altar, 第1面、1511-1515

祭壇画は仏壇のように観音開きの扉を開閉して見える絵を交替させる。上は扉を閉じた状態で平日はこの作品を人はみた。

日曜になると扉をあけて下の<日曜面>を鑑賞することになっていた。


Grünewald, Isenheimer Altar, 第2面、1511-1515

祭壇画はヨーロッパ北方で普及していた。先日、東京の国立西洋美術館に行ったが、そこにも幾つかの祭壇画が展示されていた。誰のだったか?ちょっと思い出せないが。

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今週は、とある用事で兵庫県三田市に行く。カミさんの実家の先祖は三田藩士だったそうだ。そのカミさんの実家の先祖がらみで一寸片付ける用事があるのだ。三田は九鬼家の殿様が支配していた土地である。九鬼家は伊勢地方の海賊をしていたのだが、たまたま織田信長が大阪本願寺との戦争で苦戦し、その苦戦の原因が毛利家による後方支援にあることを知って、九鬼水軍に命じて補給に向かう毛利水軍を迎撃させた。そんな武勇でなる家柄だそうだ。その九鬼家も関ヶ原では西軍についたため徳川家康の措置で伊勢から三田に移されたよし。海がないので自慢の水軍も解散となった。これらのことは全て長い16世紀のことである。

日本にとっての16世紀は、鉄砲伝来とフランシスコ・ザビエル来日のほうが歴史上は有名か。同時代の人々にも歴史の時計が回転する音を聞ける時代はそうそうは訪れないが、16世紀はその一つだったろう。それはヨーロッパでも、歴史の偶然か、ほぼ同様だった。

2012年3月10日土曜日

官僚派 vs 党人派の政争の二番煎じはいただけません

自民党の派閥政治が華やかなりし時代、官僚派や党人派というニックネームが流行した。官僚派は簡単に言えば、昭和20年代に主流であった吉田派の流れを汲む議員グループで、池田勇人や佐藤栄作が率いた派閥。党人派というのは選挙に当選して這い上がって来た議員で河野一郎や三木武夫といった面々がいた。田中角栄は官僚派の佐藤派に所属し官僚操作の達人であったと伝えられるが、経歴はもちろん党人派の典型である。二つのグループは政策路線ばかりではなく、人脈、感性までをも異にし、その違いが派閥の雰囲気にまで染み通っていたらしい — そう耳にしている、ただし小生自身近くで観ていたことも昔あったが、体感的感覚はない。

現在の社会保障と税の一体改革、消費税率引き上げをめぐる政争をみていると、使い古された官僚派と党人派の抗争を思い出してしまうのだ、な。あれっ、民主党は<政治主導>ではなかったっけ?それはそうだが、官僚集団が提案してくる政策構想にどれだけストレートに則して政治を行うか、こうした面から眺めると野田現政権は<直官内閣>である。そうは言えると思うのだ、な。大体、野田首相の厳父は自衛官である。岡田副総理は元官僚である。党税調会長の藤井議員は古手の元大蔵官僚である。古川戦略相も元官僚である。玄葉外相は県議出身であるが政治家一家で育ったエリートである。枝野経産相は弁護士出身とはいえ、法曹専門家はエリートの一翼をなす。官僚派という形容から外れているとするなら、では中国流に<太子党>と呼ぶのはどうか。中々よい形容ではないかと感じるのだが。

ただ、どう見ればいいのか?太子党なる人間集団に共感を感じることはない。それでも確かに、巨額の国債発行に原発停止、最近の原油高が重なり合って、日本経済は緊急事態に突入している。それが持つべき認識だと小生は思う。放置すれば<マクロ経済的失速>という大事に至るかもしれず、万が一そうなれば、ギリシア的な<緊急引き締め>、具体的に言えば<公定歩合の緊急引き上げ>が絶対にないとはいえない状態になって来た。金利引き上げですよ。そうでなければ貿易以外の為替取引の許可制導入。資金流出の防止。この位は財務省の権限で簡単にできる。そうなれば日本はIMFと事態打開の協議を開始し、結局、増税を約束し、消費税率は15%程度に上がるだろう。その間、国内の物価は激しく変動して、国内の経済取引は麻痺するであろう。これが最近、時折、思いめぐらす近未来の悪夢である。

巡航速度で社会が発展しているときには民意をうけた政治家が日本国の将来を決めていくべきである。しかし、緊急状態においては必ずしもそうは言えないと、小生、思うのだな。

乱気流で衝撃的な急降下を経験すると、地面が見えることに恐怖を感じるようになる。しかし、着陸するには降下しないといけない。地面が見えると、子供が泣く、母親が「やめて」と叫ぶ。そんな時に<民意>を受けたパイロットが操縦していれば、飛行機が墜落するのは時間の問題であろう。システミック・リスクを回避するには、専門家が期間限定で権力を行使しなければならない。緊急事態は<敵国>が来襲するときに限ったことではないのである。そんな風にすら思われてくる、この頃である。

それにしても小沢一郎議員の判決はどうなるのか?状況証拠だけで死刑を判決できる国情である。判決は裁判官次第であろうと思う。有罪、無罪、どちらを出しても政治的意図を勘ぐられるだけに、裁判官も実に「やりたくない」と思う判決であろう。ま、今やこの話題は些事ではあるが、当該議員グループからは、いにしえの党人派的な、別の表現を使うと<大衆政治家>的な体臭を感じるのですね。<国民の本音>を当該グループが伝えているのか?それが、小生、このところ分からなくなっている点なのである。