2012年3月16日金曜日

一生「やること」をやりながら人生を終えるのか?

一昨日は兵庫三田まで赴き、いまはもう縁者とて住んでいないが、阪神大震災で倒壊し、知らぬ間に無縁仏になっていたカミさんの先祖の塚から魂を抜く儀式を執り行ってきた。

昨日は小生の親の墓参りをしてきた。

で、今日、北海道に戻るのだが、時間に余裕があり芝離宮公園を散策した。老夫婦がいる。ご主人はカメラを持っている。いいねえと思いながら二人を眺めていた。それほどシゲシゲとみていたのではないが、ご主人、撮影対象をこまめに見つけては、小走りに動き回り、奥さんはあとを追っている。もどかしげにレンズキャップをとるご主人から、それを預かったりしている。そのキビキビとした動きからは<勤勉の徳>をよく感じ取ることができた。ああ、そんな風に仕事をこなしてきたのだろうなあと、真面目な人柄が伝わってくるようなのである。

この投稿はiPhoneアプリのBloggerを使っている。初稿の投稿も芝離宮公園からだ。便利だが、日本語モードのキーボードとはまだ同調されていない。日本語キーボードにすると、変換候補で邪魔されて文の最終行が見えないのだ。但し、英文モードに切り替えれば画面が修正されて最終行から書き足せるのだが、日本語での操作感は合格水準には届いていない。この最終稿は帰宅してから完成させたものだ。


さて老夫婦である。この二人は撮影に余念がないせいであろうか、会話がないように窺えるのだ。老夫婦の間に会話がないからといって、べつに小生がとやかく言うべきことじゃない。しかし、老夫婦を見ていると、小生の両親を思い出した。小生の父も真面目なエンジニアだった。自宅で余暇があっても勉強をしないといけないと言って本を読んでいた。「勉強」という言葉を小生は小学校にあがる前から、いわば憧れにも近い語感で聞いていたように記憶している。隔世の感があります。「勉強して下さいよ」と小売業者の人にいうのは「まけてくださいよ」という意味であった。ベクトルとしては上方、前向き、明るいイメージの言葉でありましたな。いま「勉強」というとどんな感覚なのだろう?方向感すらも失った単なる普通名詞になってしまったか。

さて芝離宮公園を撮影しつつ奥さんと散策しているご主人のこと。その人は退職して間もないようだ ー 大体今日は平日だし、他の入園者も高齢である。そのご主人、やることが文字どおりなくなって、写真の撮り歩きに熱中しているのかもしれない。最近のデジタル一眼レフは使いやすい。バシバシとレンズを向けては撮っている。奥さんは旦那さんがやることを手伝っているのかもしれない。多分、そうやって生きてきたのだろうし、これからもそのように生きていくのだろうなあ、と。そんな風なことを思いながら、早春にしては寒い風の中、時間を過ごした。他人の小生がどうこういう筋合いではないが、この老夫婦をみていると確かに暖かくなる心の片隅で<淋し味>をも同時に感じる。

ひと様のありようを評するようなことは、小生、大嫌いだ。評されるのはもっと嫌いである。ただ、人の価値は「やったこと、やっていること」で決まる。これは常識なのだろうか。では小生は非常識である。やることがないと不安だから退職してからやることを探す。まるで社会の中で居場所を探すように。社会から認めてほしいために。人間の価値は「やること」で決まると思い込んでいるのだろうか。だとすると、これこそ人間を<不幸>にする間違った見方だと思っている。

小生はへそ曲がりだから、今の仕事を定年退職したら「やる」ことを探すなぞ、そんな気持ちは毛頭ない。「くう、ねるところ、住むところ」があれば、かみさんと話したいことを話して、空を流れる雲の行方を観察しようと思っている。それで文句あるかと思っている。漱石の猫と同じで、生まれて来て気がついたら此の世にいた。それだけで沢山だと思っている。社会なんてクソ食らえと思っている。

神を信じるものが救われるとキリスト教は論じている。南無六字を唱える信仰からその人は救われると浄土宗教は説いている。救われるのは個人である。社会なんて神や仏がお出ましになるほどの大事じゃない。国なんてなくなってもよいのである。「国破れて山河あり」というでしょう。幸福になるのは個人である。社会や組織は<幸福>を感じることができない。個人の幸福を目指す能力を社会や組織は持っていない。持っていると議論するのは欺瞞であり偽善であると思っている。社会や組織が目指すのは公益であり、利益である。それは幸福とは違う。空行く雲を眺めながら、「シャカイ?そんなものはクソ食らえだ」、大きな声で言うのを、小生は密かな楽しみにしているのである。

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