2019年10月13日日曜日

一言メモ: 日本的精神論は右も左も問わずに出てくる

台風19号による記録的豪雨が各地で河川氾濫をひきおこした。先日は千葉県で台風15号の強風が吹き荒れ多数の家屋の屋根を吹き飛ばし長期停電をひきおこした。

専門家は地球温暖化が背景にある、その原因は二酸化炭素排出にあると明言している。

その二酸化炭素排出の主因の一つである火力発電所を日本は増設・拡大している。原子力の未来に疑いを持ち始めたからだ。

小泉新環境相は「脱・化石燃料」を語り始めた。と同時に、「脱・原発」も口にしている。他に話していることはない。ということは「入・再エネ」なのだろう。

日本の上層部が「脱〇入▲」を語り始めるとロクな事がない、というのは歴史が証明する帰納的事実である。

これから乱伐、農地転用、地下水脈喪失等々が加速されるだろう。

***

今日のワイドショーでもその話がされていた。『一体どうするんでしょうか?』と司会者が問いかけると、『頑張っていく、知恵を出していく、とにかく頑張るということですネ』と繰り返す。

戦争中の東條首相は多くの人が「いい奴」だったと評している。昭和天皇もむしろ良い印象をもっていたと伝えられている。面倒見の良さを慕う部下も多かったらしい。1+4は80になると応えるのも真面目で諦めない善人だからである。飛行機は高射砲で撃ち落とすのではない、精神で撃ち落とすんだというのも「君なら出来る」、「あきらめるな」と言いたかったからだろう。

善い指導者や、善いコメンテーターは「私たちには出来る」と常にいうものである。そして、最初に心配したとおり事がうまく行かなかった時には最初に言った人はどこかに消えているものである。

***

何であれ成功に至るには事業と同じく「PDCAサイクル」を避けることはできない。苦労はつきものだ。『いけるぞ』という気合に『ハイ!』という返事をきいて安心するだけではこれは応援団長の行動パターンであって、問題解決には全くつながらず、これでは覚束ないわけである。

2019年10月12日土曜日

雑感: またモーツアルトをよく聴くようになって

高校生の頃からモーツアルトが好きになった。どの先生であったか思い出せないが『君たちの年齢でモーツアルトが好きにになるのは私はあまり感心はしないナア』と言っていたので、その頃の小生、17、8歳の我鬼にしては余程ひねくれていたのだろうと思う。

その後、成長してからはモーツアルトから疎遠になっていたが、どうしてだか最近になってまたモーツアルトに戻ってきた。多感な思春期より老いたる駑馬になった今になって寧ろ微細な箇所のニュアンスが鋭敏に感じとれるようになった感覚がするのは実に不思議である。昔と違って管弦楽をよく聴くようになっている。モーツアルトが若かった時分の作品に遡って聴くことも増えた。母の生前に聴いていたレコードは全て傑作との評価が定まったピアノ曲である。一人で下宿をしていた大学生の頃はオペラが好きだった。このところよく聴いているモーツアルトは母は一度も耳にしたことはないはずだ。モーツアルトは時に現代の映画音楽作曲家も顔負けするようなポピュラーな旋律を創っているので母が『これなんて言うの?』と聞くのに対して小生が『これモーツアルトだよ』と応えると驚くに違いない。とはいえ、いま聴いているのは、どちらかといえば地味で、多くの人は知らず、小生が勝手に探し出してくるような作品が多い。

掘り出しては悦に入るのが年をとってから好きになってきたのかもしれない。時間がだんだん出来たことの単純な表れかもしれない。人の行動変化の背景は案外に単純なものだ。

ヴィオロンと ヴィオラのごとし 歩み来し
   夫婦二人の  生 ( せい ) のえにしは
幼少の頃から戦中戦後を経て生きぬいた父と母の人生は必ずしも幸福な期間が長くは続かなかったと子である小生は思っているのだが、それでも父と母は一様に不幸であったわけではなく、むしろ幸福感が勝ったときも家庭では確かにあったのである。

『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』(K.364)を聴きながら両親の人生を思い出して上の一首が頭に浮かんだのだが、ひょっとすると小生とカミさんが歩いてきた道にも当たっているのかもしれない。

それにしても、昔の高価なLPからCD,レンタルCD,デジタル音楽サイト、そして無料のYouTubeと変遷してきた音楽世界の進化は驚異である。

2019年10月7日月曜日

ビッグデータ活用とワイドショーに共通する一面について

スマホなる物が日常生活に浸透してからもう相当の年数がたつ。小生も初代iPhoneには興味を抱いた一人であり、早速注文し、それまで使っていたガラケーとの違いに爆発的飛翔感を感じたものである ― いまではその独占価格の高さに辟易し"android"に移ってしまったが。

そのスマホで例えば鉄道人身事故などを<大っぴらに隠し撮り>してそれをSNSにアップして拡散する、そんな<非道徳的行為>がこのところ非難されているそうである。

周囲の人たちは『昔はスマホがなかっただけ』、『マスコミも同じことをやっている』などと語り、鉄道会社が撮影を止めるようにアナウンスしても怯むそぶりを見せないそうである。

これを非道徳的と言うべきなのだろうか?モラルに反していると言うべきだろうか?

★ ★ ★

『マスコミも同じことをやってる』というのは、当のマスメディア関係者には頭が痛いかもしれない。

特にテレビ局を念頭に置いて述べることにする。

実際、この20年ほどというべきだろうか、何か事件があると、テレビ各局のワイドショーがそれぞれレポーターを多数派遣して、現場の風景や行きかう人々を無遠慮に撮影する。近隣の人にインタビューを申し込んだりする。それも相当強引である。近隣の人はテレビカメラを向けられることには慣れていない様子でトツトツと質問に答えていたりする。その様子がまたテレビ受像機の前にいる全国視聴者に臨場感を感じさせるのだろう・・・確かにこんな理屈はあるのだろうが、上に述べたように『じゃあ、自分も同じことをやってみるか…』と、そんな誘因を社会に醸し出している、これも事実だろう。

『私たちには伝える義務がある』とメディア関係者は言うのだろうが、それは現場の人たちがデスクなり、プロデューサーなりに指示されたから「義務」だと言っているのであって、指示したプロデューサーやデスクは自社の利益とは無縁の社会的使命感ではなくて視聴率アップや部数増加にどんな映像、紙面が必要かという視点から指示を出すわけである ― もしこれが間違いであれば寧ろ喜ばしいことだ。

このブログでも何度か投稿していることだが、近年のワイドショーは、現実に社会で生活している人たちをそのまま番組素材に組み入れるという手法で編集されるようになってきている。ネット経由で得られる素材をそのまま利用していることも多い。確かにニュースといえばこれも「ニュース」である。テレビ画面の映像と現実の生活空間はますます密着しつつある。日常の生活空間の延長にTV画面があると言っても過言ではなくなってきた。一つながりになりつつある。この意味でTVのワイドショーはネット化した。TVとYouTubeでは本質的違いがあるはずなのだが、違いが理解できる人は少ないかもしれない。傷ましい事故を「取材」するのはいいが、スマホで「隠し撮り」するのはモラルに反すると言われても理解できる人は少ないだろう。

さてテレビである。

民間TV局が追求する作業目標は理念はともかく先ずは視聴率であるから、要するに普通の人たちがテレビ番組の視聴率向上努力にいつ巻き込まれてもおかしくはない。そんな時代になってきた。そう言ってもよい時代だと思う。

★ ★ ★

こう書くと、どこかで出会ったロジックと同じことに気がついた。

個々人の行動パターンがビッグデータとしてあらゆる場所で蓄積されて、そのデータが売買され、民間企業が自社利益を拡大するための資源となる。個々人のデータがマネタイズされる。故に、ますます企業は個々人に密着しようとする。微細な行動までも記録しようとする。この企業行動が人権保護、個人情報の財産価値横領という観点から大きな問題になってきている。

人が人の行動を付け回せばストーカーになるが、企業が個人の購買履歴を微細に追跡すればそれはビッグデータの活用になるという理屈を理解できる人は少ないかもしれない。

ビッグデータの活用と個々人の権利・財産とのバランスは今後の社会で大きな問題であり続けるだろう。こんな観点にたつと、個々人の生活空間の風景がそのままの形で民間テレビ局(に限った話ではないものの)という企業の利益拡大に一方的に利用されるようになってきているというこの側面がビッグデータをとりまく最近の問題と同じ構造になっている。

企業は生産の場、日常生活の場は消費の場であった。消費の場に溶け込むように混在する小売店もあるが、これまでは小さな鮮魚店であったり、八百屋であったり、文具店であったり、あるいは建築、板金、塗装業者であったりして、生きている人間がそこにはおり感情の交流があった。ところが、そんな空間に入ってくるメディアはそこで暮らしている人ではなく、企業が送っている現場担当者であり、指示されたミッションを遂行しているに過ぎないわけである。もちろんメディアだけではない。家の中からPCで接続する先のAmazonや楽天は人間ではない。しかしその町の住人のことをよく知っている。が、生きている人間として寄り添っているわけではない。微細なデータを人の記憶であるかのように活用して利益を引き出すことに目的がある。生活空間の場で生まれる個人情報を活用するか、個人個人のあり方を映像として活用するか、活用方法は違うが事業のロジックは同じである。その事業のミッションはそこで暮らしている人の幸福向上ではなく、所属している組織の利益である……、多少アニメ風に叙述すればこんな語り方になる。

★ ★ ★

以前の投稿で日本の公共放送とされるNHKに関連してこんなことを書いたことがある:

もう一つ。良い放送サービスが公共財的な側面を持つからと言っても、単独の公的企業を一社だけ設置する方法が最善であるという理屈にはならない。良質な番組を編成するための<受信料>を業界団体である<放送連盟>がプールして、それを各社が制作する公共放送の企画に配分する方式でも目的は十分に達成できるはずだ。既得権益が構造化しやすい特別会社を設けるより、そのほうが遥かに効率的であるばかりではなく、資金の使徒をモニタリングすることによって受信料の支払い側と受け取り側との相互信頼が守られるはずだ。真に緊急性のある報道、真に中立的かつ正確な解説番組など、公共的視点から提供が望まれる番組編成については、NHKであるかないかとは別に、また視聴率とは別の基準で、多数の事業者が受信料を活用できる体制にしておく方が国民の便益にかなうのではないか。

報道とは国民の知る権利に応える行為であり、一人一人の個人が自由意志で観るか観ないかという選択からは独立している。視聴率の高低と報道の重要性は本質的には無関係である。伝えることにこそ社会的価値がある。

小生は、全放送局を対象に「公共放送」のカテゴリーを設け、何らかの公的メカニズムを通して徴収された資金を財源として「報道番組とそれに準じる番組」を編集する方式が社会的にはずっと良いと思っている。

もちろん、こうしたからといって上に述べたような粗暴な取材や隠し撮り、眉を顰めるような強引な取材を行うレポーターや取材記者がゼロになるわけではない。しかし、品質が公的に保障された事実報道が一定の分量提供されれば、低品質のワイドショーはニュースとしては信頼性を失い、加えて編集コスト面の制約から元のバラエティ路線に戻っていくであろう。

とはいえ、これもまた「腐蝕の構造」ではないが、一朝一夕には変わらないとは思うが……。

2019年10月4日金曜日

政治からの独立とは? 五輪の場合

柔道の山下氏が全盛期の頃、モスクワ五輪での金メダルが確実視されていたが、たまたまソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻してアフガン戦争が始まった。それに抗議して西側諸国はモスクワ五輪をボイコットした。

それより前、ソ連がチェコスロバキアの第一書記であるドプチェク氏を追い落とすために首都プラハに戦車部隊を派遣した。ソ連はその後のメキシコ五輪に参加したが、ソ連選手には観衆からブーイングが浴びせられた。

また、いつの五輪だったか、男子200メートルで金、銀メダルを獲得した米国のスミスとカーロスの両選手は表彰式で奏せられるアメリカ国歌と星条旗に対して拳を突き出して米国内の黒人差別に抗議する意志を表現した。

いずれも五輪の場に国際政治、国内政治を持ち込む行為であり、五輪憲章や五輪精神に反する「不祥事」である。ポリティカリー・コレクトであっても、近代五輪運動の趣旨に照らせば「不祥事」と結論することが求められる。

***

いままた五輪の場で戦前日本の軍旗であり、現自衛隊旗でもある「旭日旗」を使用禁止にするべく韓国政府はIOCに対して働きかけている。IOCは五輪憲章の上に存在する組織であるから政治的意味合いを込めた要請は、その要請がその国にとっていかに重要な事項であっても、受け入れないと小生個人は予想している。

仮に旭日旗の使用が来年の東京五輪で容認されるとして、それに抗議して韓国が五輪をボイコットするとすれば、上に述べたソ連に対する西側諸国の抗議と軌を一にする不祥事であるはずだ。

国が資金を出すからには五輪参加にも<当然に>その国の政治事情が反映される。もしこんな思想が世界で浸透すれば、もはや巨額の資金を投入してオリンピックという祭典を開催する意義はほぼなくなったと言い切ってもよいのではないだろうか。

五輪憲章に共感して開催に協力する国はどこであれ敵対国や外交上の危機に陥っている国をもっているものだ。五輪が政治の場になりうるなら、求めて開催費用を自ら負担する国は出ては来なくなるだろう……、全くの無駄である。政治的対立勢力に利用されるだけでカネの無駄である。戦前のヒトラー政権下のドイツのように何らかのプロパガンダをしたいという政治的意図をもっている国を除けば、お目出たくも開催を引き受ける国があるとは思われない。そんな「祭典」は不必要だろう。

もちろん上のロジックは日本側にも当てはまるわけであって、平和の祭典である五輪の競技の応援に戦争の象徴である「軍旗」を持って応援する必要はない。右翼勢力が自らを誇示する場に五輪を利用するとすればこれ自体が国内政治活動にあたる。普通に「国旗」で応援すればよいことだ。ただ「旭日」という意匠は大漁旗などにも使われている。これも「軍旗」であると強弁すれば、他国の文化的表現を中傷する行為になるのも事実だ。批判するなら批判する側が批判の対象を厳密に定義したうえで批判するのが筋道というものだろう。

2019年10月2日水曜日

一言メモ: "Business of America"は何?

来年の米大統領選挙に向けて誰が優勢であるか混とんとしている。このままではトランプ大統領の再選は覚束ないという予測がある。一方で、バイデン元副大統領はともかく、本当に民主党のウォーレンやサンダースでアメリカは大丈夫なのかという心配もあるようだ。

こんな報道がある:
(前略)
ウォーレン氏はすぐさまツイッターで「本当に最悪なのは、フェイスブックのような巨大企業による不正な反競争的慣行を許し、個人のプライバシー権の侵害を招くような腐敗した制度を放置することではないか」と反論した。 
また、フェイスブックが近年、ワッツアップやインスタグラム買収を通じて市場支配力を一段と強めてきたとし、「ソーシャルネットワークに絡むトラフィックの85%以上はフェイスブックが保有または運営するサイトを通る」と指摘。「同社は強い力を持ち、ほとんど競争にさらされず、説明責任もほぼ問われない」とした。 
さらに「同社は競争を排除し、ユーザーの個人情報を利益のために利用し、民主主義を弱体化させた」などと批判した。
(中略) 
フェイスブックなどハイテク大手を巡っては、他の民主党大統領選候補者も批判的な見方を示しており、サンダース上院議員はフェイスブック、アルファベット(GOOGL.O)傘下のグーグル、アマゾン・ドット・コム(AMZN.O)の解体を検討する考えを示している。ハリス上院議員も解体を「真剣に」検討する必要があるとしている。
出所:ロイター、2019年10月1日

製造業が衰えたアメリカ経済がまだなお世界で優勢であるのは、1990年代以降に成長したIT企業があるからだ。GAFAを解体するのはアメリカの自傷行為である。産業組織に問題があれば適切に誘導すればよい。1990年代にマイクロソフトは解体の危機に瀕しながらもそれで成長を続け、今日のアメリカ経済を支える柱にもなってきた。

"The business of America is business"と語ったのは1920年代に米大統領であったカルヴィン・クーリッジである。 前任者ウォーレン・ハーディングが民主党から政権を取り戻したとき彼が言ったのは"America First!"であり、"Return to Normalcy"だった。その時代にアメリカが追求するべき政治課題をよく認識していたと小生は考えている。

どうやら現在の米民主党の政治家が言いたいことは
The business of America is democracy.
こちらであるとみえる。

「普遍的価値」もよろしいが、またぞろ世界中の他国に押し付けてくるかもしれないと思うと、今から辟易たる気分になる。アメリカではもう普通の人は政治家になろうとはしないのか……


2019年10月1日火曜日

一言メモ: 日本の民間放送局の無責任さの一例

香港は大変である。同じデモであっても韓国内の色々なデモンストレーションとは風景が違う。硝煙も漂っている。正面衝突である。警察による実弾発射も発生するなど予断を許さない。

ところが事態を報じる某民間テレビ放送局の報道番組を聴いていると耳を疑った。女子アナウンサーが最後に

この事態に日本政府にできることはあるのでしょうか?

日本政府が何か行動したり言明するとすれば、日本を代表するものと理解されるだろう。うまく行けば日本人の善意、失敗すれば日本政府と日本人は別ですと言い訳をするつもりだろうが、そうそううまくは行くまい。

ここは自分たち自身をも含めて

この事態に私たち日本人に何かできることはあるのでしょうか?

問いかけるならこちらの台詞だろうと思う。ずっとリアリティがある。これを言う勇気がないのであれば、『今後の推移が心配されます』と冷静に言っておけばよいのである。報道として何もおかしくはない。

どうも最近のテレビの悪い癖で「口だけ寄り添う、言葉の友」を演じたいようである。報道担当者は何か居心地の悪い後ろめたさを感じているのだろうか。むしろこちらの方を憶測してしまう。

電力業界: この典型的な「腐蝕の構造」

松本清張に名作『腐蝕の構造』というミステリーがある……、とここまで書いた所で念のために確認すると、森村誠一の作品であると分かった。いや、よかった。それにしても、松本と森村。二人が関心を寄せるテーマは相当重なり合っていたんだなあと改めて実感する。

関西電力経営陣が原発の町である福井県高浜町の元助役、別名「Mさん」という陰の権力者から多額の金品を受け取っていたそうである。「Mさん」は懇意の事業会社から裏金を受け取り、その金で関電幹部に金品を送り、関電はその事業会社に原発関連事業の発注を増やしていた。

これはもう典型的な「腐蝕の構造」である。小説の世界でもやはり核融合、つまり原子力産業の汚れた構造がテーマとなっていた。違うのは、小説では汚れた構造が事件捜査を通して露見して解決されて行ったに対して、現実の世界ではMさんが他界した後、事業会社の税務調査が行われ、そこから不透明なカネの流れがやっと明るみに出たという点だ。

★ ★ ★

「Mさん」は、原発を高浜町に誘致した頃は町の助役であったが、その後は退官し一介の民間人であった。にもかかわらず、関西電力はその後もMさんにずっと気を使い、金品を送られるとそれを受け取らざるを得なかったと、そんなことを話しているようだ。

どちらが犯罪の主導者であり、どちらが共謀に巻き込まれた側なのかは今の段階では分からない。文字通りの「構造」である。

まあ、多少同情的な視点をあげるとすれば、20世紀半ばから後半の日本の最大の問題は「エネルギー危機の克服」であったという事実だ。太平洋戦争開戦の動機も正にそうであった。1970年代には石油危機が二度にわたって発生した。安定したエネルギー自給こそ最優先の国策であったのである。そのために確立された「国体」として機能したのがエネルギー産業であったとすれば、それを現在の技術と倫理から「腐蝕の構造」と断罪するのは、自分が立っている足場が誰によって築かれたかを省みない幼稚な正義感であると。ひょっとすると、旧世代の闘士はこんな憤りの心情を抱くかもしれない。ま、小生の近親者に電力産業従事者が一人もいないのは幸いかもしれない。

★ ★ ★

人によっては、民間企業が勝手に渡したカネをつかって民間の個人が親しい民間企業の取締役に勝手に贈答品を送りつけた。それをわざわざ返すと付き合いづらくなるので受け取っておいた。それだけだ、と。こんな表現をする人もいる。

しかしながら、自由市場の効率性とは財貨サービスの品質で真に競争力のある企業が勝ち残ることによってもたらされるものだ。事業実施の熟練度を吟味することなく、人的コネクションによって事業を発注するという行為は、市場経済の最終目的である経済・産業の成長を阻害するものだ。健全な経営にも反する。

罪は深い。

この種の経営行動をとる背景は、決して倒産することはない現在の電力産業の構造にある。これ自体が「腐食の構造」かもしれない。

1990年代から2000年代初めにかけて金融産業は破綻と合併の嵐が吹き荒れた。電力産業、いや広く公益事業全般について産業の規律付けと必要な部門は国有化を検討する議論が求められている。そんな方向への契機になるなら、今回の騒動も無駄ではない。