2011年7月7日木曜日

総理突出、これは破壊か、創造か?

本日の日経、手にとるとヘッドラインが目に飛び込んできた。

「原発、今夏の再稼働困難 ― 首相一転、安全宣言を撤回」、海江田経済産業大臣は、またハシゴを外されてしまった。首相と直接面談を希望していた佐賀県知事は態度を硬化。どうやら、この夏の原発再稼働はあり得ず、今後、定期検査に入る原発があることを考えると、この冬から来年春にかけての日本国内の電力危機、パワークライシスは現実のものとなる気配になってきた。

う~ん、なってきましたねえ、危機がやってきましたねえ。
そんな呑気なことを言っている人は、危機が現実になると言うときの現実がピンと来ているのか、と。ま、分かっていて、それもいいじゃないか、と心底から思っている人は、総理シンパじゃないかと想像します。

同じ1面には、三井物産と東京海上アセットが太陽光投資ファンドを設立するとの記事。その上には、経産省幹部による株式インサイダー取引疑惑のスクープ。「とうとう、やったな」、しかし売買したのは東電株ではない。想像するに、東電株不正取引は切り札にとっているのであろう。対象は半導体メーカー・エルピーダ株だ。政府がリーマン危機後の支援策を公表する直前に株を取得していたという疑惑である。

あるわなあ、そりゃ。ツイッターの場でも東電救済劇とお上公認のインサイダー取引奨励劇が同時進行で進んでいると何度も書いた。疑惑を受けているキャリア官僚は、資源エネルギー庁前次長である。IT産業を所掌する商務情報政策局担当の審議官を歴任し、現エネルギー基本計画で一層の原発推進が提唱された直後、昨年7月にエネ庁次長に就任したとのことだ。明らかに経済産業省主流派のホープである。

海江田経産相は新規原発については原子力安全委員会の意見を諮問するが、再稼働の場合はその必要はないと判断し、安全宣言を出す際にも総理と事前協議を行ってなかったよし。担当大臣のこの行動が、経産省事務当局の判断を踏まえたものであることは自明である。

総理が経済産業大臣のハシゴを外したことと、幹部のインサイダー取引が表面化したことは偶然ではない。

× × ×

昨日の投稿では、「組織の進化を実現する主体は、既存組織の突出した部分である」ことを述べた、というより名著「失敗の本質」の結論部分を紹介した。菅総理大臣は、自らがそのトンガッた部分になろうとしている。もはや総理の政略ははっきりと眼に見えるようになったと言えるのではあるまいか?

チキンレースと言ってしまえば身も蓋もないが、ちぇすと~で発する薩摩示現流とでも言うか、犬死覚悟の特攻攻撃というか、まさに激突覚悟の抜刀突撃である。総理自ら、こんな行動に出るだろうと、与党、野党のどの議員が事前に予想していたであろうか?同じ船にのっている細野大臣は一蓮托生と腹をくくっているのだろうかなあ?

辞めると言いながら辞任しない行動を「嘘をついている」と言うのであれば、その人は政治家ではなくて、政界に縁のない普通の人である。辞任しないための政略であったわけであり、泥をかぶった小沢、鳩山氏は政治的に「暗殺」されたようなものではないか?

そこまでして、何をやりたいのか?

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それが退陣3条件の中の再エネ法案ということになるのだろうが、それなら何故もっと早くそれを言わなかったのか?

現行のエネルギー基本計画は昨年6月に公表されている。そこでは
2030 年までに、少なくとも 14 基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約 90%を目指していく。これらの実現により、水力等に加え、原子力を含むゼロ・エミッション電源比率を、2020 年までに 50%以上、2030 年までに約 70%とすることを目指す。
と記載されている。このエネルギー基本計画を了解し公表したのは、政権発足直後の菅総理である。今後、審議されようとしている電力固定価格買取制度創設は、上の基本計画に基づいて作成された法案による。再生エネルギーを拡大することは、既に提唱されているのだが、柱はまずは原発に置くというのが、現行のエネルギー基本計画なのだ。

自分としては認めたくなかったエネルギー基本計画であった可能性はある。とはいえ、長く政権にいたいので、個人的には改変したい計画を認めておいただけなのかもしれない。それを今は否定し、政府のエネルギー計画はゼロに戻って見直すと何度も発言している。と同時に、脱原発を唱え、再エネ法案を通そうとしている。通せば辞めると言っている。

どうも一連の言動と急変を見ると、言いたかったことをやっと言い出し、自爆覚悟の特攻戦略を選んだ。どうも、そんな風にも見えるのですね、小生には。そのために先ずは経済産業省の既存勢力をひっくり返す行動に出たのではないか?

そもそも経産省は電力市場自由化、強大化しすぎた東電の弱体化を省の方針としている。とはいえ、現在の電力体制を覆そうとまではしていない。それは省益に反するからだ。それは官僚組織に共通のグラジュアリズム(=漸進主義)なのである。それを総理は弥縫策として否定し、ここで一挙に脱原発、電力発送電分離にまで持って行こう。総理の狙いは今や明確な形をとりつつあるではないか。

だとすれば、小生は先日にも予想したとおり、やはり政界、経済界、国民を真っ二つに分断するエネルギー選挙を、総理が仕掛ける確率は相当高いと思うのだ。

聞けば自民党の谷垣総裁は、歴代自民党政権による原発政策を再検討しているよし。遅い!菅総理は、自民党の態勢が整うまでノンビリと待つ意志はないと想像する。自民党もまた、原発推進派、自然エネルギー拡大派に分離するベクトルが働く。何故なら、総理が自らの敵を原発派と呼んで攻撃を仕掛けるとき、第一に被災地の現状がある。第二に、核アレルギーの底流がある。第三に、政権には基本的に従う日本の大手マスコミがある。メディアは、自然エネルギー派を支援し、原発推進派には冷淡な態度をとるだろう。国民もそんなメディアを追認するはずだ。

既にソフトバンクは定款に電力事業を追加した。楽天は現行の電力政策に異論ありとして経団連を脱退した。

節電や計画停電に困り果てている国民に「だから原発を維持するしか仕方がないのですよ」というか、「地域地域で小規模な自然エネルギー発電設備を持とうじゃないですか?それを電力会社が持っている電線で配電しようじゃないですか?」というか、どちらの言い分を国民はとるであろうか?小生は、もう今の現状を見るだけで、このガチンコ勝負。勝負は明らかではあるまいかと思うのだ。

この一連の政争劇が、日本の社会組織、産業組織が本当の意味で進化するステップであるのかどうか。そこまではなお明らかではないが、自己変革は組織内の主流派が行うものではない、異端派がなすことである。これが一般的にいえることなのであれば、いま現実に見られる日本の政治状況は、かなり典型的な進化現象であるとも思うのだ。

残る話題は、と。原発をどうするかですね?ずっと停めてしまえば、民間企業はその無駄に耐え切れず、放り出します。それを国費で安く買収すれば日本原子力発電公社を作れます。必要とあれば、国が国の責任で原発を行うことになるのではありますまいか?

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最後の残る疑問。海江田経産相は、憤懣に堪えずケツマクッテ、大臣を辞任するのだろうか?それとも総理になおも従っていくのだろうか?(投稿時点、この点について情報を得ておりません)

2011年7月6日水曜日

再読 ― 戸部・寺本・鎌田・杉之尾・野中「失敗の本質」

同僚が、アントレプレナーシップの系譜とリーダーシップについて本を書いている。原稿について意見を聞かせてくれというので、今日は午後1時から6時までぶっつづけで議論をした。疲れたあ・・・お茶を何倍飲みましたかね、もうダブダブです。

主たる対象が、創業期のベンチャー企業におけるリーダーの役割だから、いわゆる組織分析の目線は比較的薄い。とはいえ、ホンダが採用したリーダー養成のシステマティックな組織戦略、SONYが陥った大企業病、京セラが形成した極めて日本的な、それでいて創造的な企業文化。大半の時間は、常に革新を生み続ける組織とは何か、について話しをしたのである。

戸部他5名の共著になる「失敗の本質」は、今や古典である。

小生も随分昔に読んで、折あるごとに参照してきたが、最終30頁はあまり熟読した記憶がない。確か自己変革組織について何か抽象的なことが書かれていたなあと、今度また、読みなおしてみたわけだ。傑作です、これは、やはり。なぜもっと丁寧に読まなかったか。元来、この本は帝国陸海軍はなぜ組織として自己変革できなかったのか、その原因分析をしている研究書である。最後の30頁は、一番大事な勘所ではないか。そういうことも分かった。

成功するにせよ、衰退するにせよ、組織は必ず五つの因子がバックボーンになっている。

第1は<組織の価値>。口でこう言っても多分分からない。建前ではないのだ。「何をもって貴しとなす」と各成員は考えているか?これである。理念ではない。帝国海軍は理念としては、たとえば「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」とか唱えていた。これはお経である。そうではなく、こうありたい、このように行動したい、それは当然評価するべきでしょ、そんな価値尺度をどこに置いているか?それが企業組織だけではなく社会組織にとっても最重要な因子であるというのだ。帝国海軍にあっては「艦隊決戦」。ズバリ、この言葉にトドメをさしている。バルチック艦隊と大海戦をやって勝利した連合艦隊のようでありたい。帝国海軍軍人たるもの、正面から海戦を挑んで戦う、それこそ疑いのない美事である。航空戦力よりは大艦巨砲、そのための猛訓練。海戦に至るまでの敵戦力漸減作戦。全ての戦略は、組織が最高善と認める価値尺度から導かれている。これは卓見だと思いませんか?

第2は、組織の価値を体現した<英雄=ヒーロー>が必ずいるものである。この指摘。海軍だと東郷平八郎。参謀タイプであれば秋山真之先任参謀。分野を問わず誰でも憧憬の人物はいるであろう。物理学者であれば湯川博士?数学者であれば岡潔?(古いか)SONYであれば井深大か、それとも盛田昭夫か。ホンダであれば創業者本田宗一郎か、それとも販売の神様である藤沢副社長か。組織の成員が目指す人物像がずっと同じであるということは、組織の価値尺度もまた変わっていない、同じであることを意味している。

第3は、<リーダー>の役割。リーダーシップといえば同義反復なのだが、つまりは組織の価値をリーダーの言動を通して再確認するわけだ。その組織を象徴するヒーローの代わりに現時点のリーダー、現在のトップの言動に毎日、毎日、触れることによって、全ての成員は自分がどんな人間であるべきか、どんな風に行動するべきか、仕事を通して何を求めるべきかを再確認する。それが組織運営の日常においては最も大事なステージであると書かれている。

第4は<儀式>だ。文字通りの式典、たとえば入社式や表彰式だけではない。賞罰もそうだが、いわゆる会議、委員会。これらもまたプログラム化された一連の行動、慣習化された言語表現、挙措動作などを学習し、再確認するための場なのであると指摘されている。最近、日本企業で復活しつつあると言われる社員旅行。小生は、若かりし頃に某オフィスに勤務したことがあるが「意識統一」という言葉を盛んに使った。会議を頻繁に開催する目的は、何かを結論として得るというよりも、「同じ釜の飯を食う」という経験を、追経験することにある。いわばそのためのプロトコル、つまりは挨拶に類した目的を持っているのだという指摘だ。ここまで書いて、こりゃ目から鱗だな、と昔感じ入ったことを、いま思い出した。

第5は、その組織の<行動規範>である。銀行はいかにも銀行マンらしい。具体的行名を使って恐縮だが(他意はありません)、三井住友マンはいかにも三井住友の色に染まっているし、みずほの方はいかにもそうである。東レの人は銀行の方とは雰囲気が違うし、丸紅の人は話しをするとやっぱり商社の香りがする。色々な業界の方が勤務している部署で若い頃仕事をしたのだが、その賜物かどうかは分からないが、企業にはその企業、その企業で社風がある。企業文化がしっかりと形成されていることに異論を唱える人はまずいないだろう。それが大事だと指摘している。その企業文化は、それ自体が大切なのではなくて、最初の<組織の価値>を追求するための方策として、自然に形成されてきたものである。そんな風に説明されている。

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一定の環境の下で企業が設立され、次第に成長して、上場を果たし、大企業になる。すべてそんな風にして企業は発展する。一定のモデルに準拠して、その品質を高め、コストを節減し、市場シェアを高めていく。そのための競争をする。これを「適応」というのだが、競争優位に立つために社訓を設け(組織の価値)、肖像画(ヒーロー)を掲げ、リーダーは和を保ち(リーダーの役割)、定例会議をこなしながら(儀式)、手順に沿った仕事を進める(行動規範)、この一連のレベルアップに日本人、ならびに日本の組織は非常に強いと指摘している。

これに対して、環境が激変するときには価値の転換 ― パラダイムシフトともいうが、組織の価値尺度自体を見直さないとならなくなる。価値の転換は、ヒーローの交代であり、リーダー像の変革であり、儀式の改廃、行動規範の変更につながる。自己完成ではありえず、自己否定となる。否定を乗り越えた自己変革。これを著者たちは「進化」という言葉で表現している。

毎年何%かずつ生活水準が上昇する経済成長は、個々の企業組織の適応、つまり条件変化への部内調整で実現するのだが、技術革新やイノベーションが引き起こす真の経済発展は企業組織の自己変革、つまり社会の進化によって初めて実現する。「今までと同じことをやっていてもダメ」と口で言うのは易しいのだが、創造的破壊、これは自己否定なのである。日本社会では極めて認めてもらいにくい言動なのである。今日、同僚と話したことなのだが、日本で真の自己変革が起こったのは二回しかない。それは明治維新と敗戦である。前者は、外国という存在から刺激された意味で受動的な変革、後者は勝利者による強制的価値転換だった。

日本の社会組織内部に備わったDNAが発現して、真の自己変革を行ったことはない。

戦前期の帝国陸海軍は、この自己否定的というか、創造的破壊を伴う真の自己変革、つまりは進化ができない組織であった。この自己変革能力において、日本の軍隊組織はアメリカ軍に対し最も劣後する。これが著者がよって立つ観点である。

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自己否定をともなう組織進化。それは頻繁に、経常的に進められる組織改善とは質的に異なる。ここも大事だ。というのは、組織進化は、ほとんどの場合、組織の異分子が正統派から権力を奪取することによって実現するからだ。この異分子を、著者たちは「突出した部分」と呼んでいる。そのトンガッた部分を、トンガッたまま内部に抱え込んでおくことによって組織は絶え間のない緊張状態におかれる。これが<多様性>なのだが、環境変化によって、組織内部では各勢力が交代する。新技術が普及する局面では、組織内部の均衡は崩れないが、産業史の長期循環における局面転換のように従来とは商品思想が異なる革新期においては、組織の不均衡がもたらす緊張が限界を超えて、従来の組織を維持することが不可能になる。ま、そんな風なイメージである。

日本的組織は、しばしば多様化とは逆の意識統一を過剰に行う。ディバーシファイではなくて、成員の行動規範に到るまで組織の各次元を全て特定の価値尺度に沿うようにユニファイしてしまうのだな。これが特定の環境に対する過剰適応。技術普及局面では勝利できても、革新期ではゲームのルールの変更についていけずに敗北する。自己変革的進化が下手な組織。それが日本的組織であると。今度は何度目か覚えてないが、何度目かの部分読みをしても、やっぱりこれは凄い本だと思う。大体20年くらい前の本である。

これから日本が更に発展していくためにはイノベーションが必要だとよく言われる。しかし、日本の社会組織で「突出した部分」はどのように受け止められ、どのように評価されているのだろうか?ずいぶん昔に大河ドラマで流行した「△△丸は、かくありたい」、ありたい人物像は日本人の心のなかで激しく変わってきただろうか?あんな人間にはなりたかねえ。あんな行動はしたくねえ。今と昔でどれだけ変わったろうか?同じであるとすれば、それは自己否定はしていない、やっているのは進化のための変革ではなくて、調整であり適応である。日本社会の進化の途中では、どこかで価値の逆転を伴わないといけない。自己否定が伴わなくてはならない。そうでなければ、日本社会発展の駆動力となりうる人物が、現実に日本を変えて、新しい活力のある日本国に再生させていく。そんな行動を社会全体が抑制するはずだ。

現実に日本社会で働くのは、反進化力。そんな経路もありうる。これが今日の話だった。

2011年7月4日月曜日

戦後三回目のエネルギー革命は起こるのか?

今日の日経に「新エネ”日陰者”を脱するか」という記事があった。副題は「経産省主導に消えぬ不安」。中々適切な打ち出しだ。広く共有されている期待、共有されている不安をよく表現するタイトルではないか!

こんな図を載せている。


グラフによれば、自然エネルギー発電設備容量では、日本はアメリカ、ドイツのほぼ10分の1ないし8分の1程度。インドと比べても、半分未満である。これと裏腹のことだが、自然エネルギーへの毎年の投資額も極めて低水準である。上の右図のとおり、日本の自然エネルギー投資額は桁違いに少ない。

記事本文には「再生可能エネルギーや電力自由化に関する後ろ向きの政策が、ベンチャー企業の多くを苦しめてきた」という日総研の創発戦略センター所長による発言が紹介されており、三菱重工が生産する世界最大サイズの風力発電機は、ほぼ全てがアメリカに納入され、生産量の95%は外国に輸出されているとも書かれている。

エネルギー計画の見直しは、日陰にいた企業に陽が射す。日向にいた企業に影がさす。まさに栄枯盛衰。国策の転換の中で企業も交代するのである。だからこそ、再エネ法案をめぐる政争はそのまま経済的利害をめぐる代理戦争ともなるわけだ。


さらに記事を読んでいく。家庭での太陽光発電コストは、10年以内に電気料金を下回る。環境エネルギー政策研究所長はそう予測している。新しい生産技術がどんなスピードで成熟していくか?学習曲線をどう見るか?そう言えば、天然ガス事業で起こっている革命に、日本企業が乗り遅れた原因は、予測の甘さ、情報分析力の弱さ、それ故のリスク回避にあったと分析されていた。


先日投稿した「リスク度外視は、それ自体、リスクです」でも述べたことだが、すべて技術情報が詳細に明らかとなるまでは、事業の経済性評価に自ら疑いをもち、リスクの存在に非常に敏感となる。それが過剰になると、結果として企業を苦境に陥れる。確実な世界で事業戦略を考えたいという、文字通り矛盾しているというか、それでも気持ちはよく理解できるような、そんな殿様商売マインドが実は最も危険な賭けなのである。ライバルが自分の思惑通りに行動してくれる。自分が立つまで待ってくれる。そういう<甘い>期待。これこそ、勝利の方程式とは真逆の、敗北への道ではないか?このことは、急速に進んだシェールガス革命へ臨機応変な対処ができたかどうかにとどまらず、(最大とは言わないが)最大級の原発事故を経験したいま、原子力と自然エネルギーをどう順序付けるか?この問題を考える際にも、やはり大事なポイントになってくると思うのだ。

リスクを負担するためにはリスク・プレミアムをコストとして認め、大きな創業者利得を約束しなければならない。夢を追う創業者がいたからこそホンダもSONYも成長したのである。技術革新は、確率的にランダムに進むのではなくて、集中的に進むものだ。電気然り。内燃機関然り。抗生物質然り。化学繊維然り・・・

戦後日本は、石炭から石油へと転換した高度成長時代、二度のオイルショックを契機に石油依存度を低めるため原子力利用へと舵をきった1980年代、二度のエネルギー革命を成功させた。いま菅首相が力こぶを入れる「再エネ法案(=電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案)」が可決されれば、三度目のエネルギー革命が今後日本で進むことになるのだろうか?

それは一つの経済革命である。それには革命を担う人が出てこないといけない。エネルギー事業のために人生をかけようという天才、奇人、変人が続々と困難に挑戦するような社会的雰囲気がいま作られつつあるのだろうか?今日の日経が懸念を表明しているとすれば、ズバリ、この点につきるのではあるまいか?

記事によれば、国会で検討される再エネ法案には、ドイツなどと比べると、いくつか不徹底な点がある。たとえば、ドイツでは風力、バイオマスなど一次エネルギーによって異なる買取価格を設定している。日本では一律だ。これではバイオマス事業者は参入が難しいという。ドイツでは、事業規模が大きくなるに伴って買取価格を差別化しているなど、自然エネルギー拡大という政策目的が明確に追求されている。日本はこの辺が不徹底だ。

特に大きな問題になりそうなのは第5条。そこでは、電力会社の円滑な供給に支障が生じる恐れがある場合には、電気を買い取る義務を免ぜられる規則になっている。更に、法案の付則には、施行後10年以内に法律廃止を含む見直しをするとある。これでは、自然エネルギー分野に参入する事業者の事業リスクが相当高くなってしまう。

参入事業者が細々とした状況が何年も続くと、可能なはずの低コスト化が現実には実現せず、電力価格上昇という負の側面だけを耐え忍ぶことになる。自然エネルギーによる余剰電力を固定価格で買い取らせるための財政支援が限界に達する確率が高まる。そもそも着手したくもないエネルギー革命を中途半端にはじめ、予想通りに中途半端な結果だけを得てから、そのまま諦めるのであれば、最初からやらないほうが経済的である。何十兆円もの財政資金をドブに捨てる余裕はない。

経済産業省は既存の電力企業と余りにも長い間、甘えと義理の関係をとり結んで来てしまった。今日紹介した記事を執筆したコラムニスト氏が、自然エネルギー利用を主導するのは寧ろ環境省(そうでなければ文部科学省)が適任であると述べているのは、小生も同感できるのだ。

石炭から石油への転換は、通産省が炎となってやり遂げた。それは高度成長時代だから乗り切れたのだと思う。これから再び、集中立地から分散立地、原子力から自然エネルギーへの置き換えが、否が応でも進むだろう。経済産業省という同一組織が両方を抱え込むのは無理ではないのか?原発推進と原発規制を共存させて失敗したかと思うと、今度は原発推進と脱原発を同じ組織に共存させて失敗する。仮にもそうなったら、今度はSamurai Japanとは誰も言ってはくれない。ただ一言”Silly”とのみ言うだろう。

2011年7月3日日曜日

日曜日の話し(7/3)

日曜は仕事とは関係のない話題を気の向くまま書き留めている。いわばマイオウン・ツレヅレ・ストーリーなわけだが、先週、毎月予約購読していた雑誌の裏表紙にあったモネの絵を言った。確か、セザンヌもあったと思うし、絵は有名なサント・ビクトワール山だったと思う。

セザンヌ、サント・ビクトワール山

この山は、何枚も描いているので、1880年代末か最晩年に近い1905年前後の作品か、現時点、確認できていない。少年時代に雑誌で見たのは、別のサント・ビクトワール山だったかもしれない。

いま見ると、たとえ画像ファイルであっても「いいねえ」と感じるのだが、子供がみると「これくらい誰でも描けるんじゃないかなあ」と、へへーといった感じ。これだけは覚えているのだな。

そういえば、ドランの絵も、一度、裏表紙になっていた。何が載ったか、流石に忘れたが、辟易したことだけ覚えている。たとえば下の絵のようだった。

ドラン、ロンドン・ブリッジ、1906年

ロンドンブリッジにも複数の作品があるのだが、これも1906年だと思う。テレビの散乱光ではないが、子供の目には刺激が強すぎた。

しかし、今はフォービズム(野獣派)、好きですよ。日本では佐伯祐三とか荻須高徳かな。カンディンスキーと比べても意味はないが、敢えていうと、ドランって人、インテリではない。知性のきらめきは感じない。レオナルドとか、知性を感じるでしょ?それはない。というか、ドランは美術史上、最も人付き合いの下手な人物であったそうだ。

何をきいてもア~う~としか言わず、道で知人を見かけると、恥ずかしいのか路地にサッと隠れ、パーティに招待されても返事を一度も出したことがなし。いやあ、それでも一家をなしたのだから、人間、我が道を行けばよい。ま、ドランを少年向けの雑誌に採用したのは、そこまで伝えたいということではなかったのだろうが・・・とにかく小生にとっては気が楽になる「癒し系」の画家なのだ。

ちなみに年を経てからドランは、極めて古典的な作品を描くようになった。振幅が激しい人だ。元祖ミステリアスでもあったのでしょう。

2011年7月2日土曜日

リンク集 ― 東電はほんとに四面楚歌?

インターネット上の議論が、日本の「世論」かと言えば、必ずしもそうとは限らない。小生はそう感じている。ネット上の議論は、それこそ風に波立つ海面のようであり、本当の世論、世を動かす本当の力は潮流、海流のようなものだと思う。風の向きと潮の流れは、しばしば、正反対である。

とはいうものの、東電をとりまく世評はどん底である。

福島第一原発事故をめぐっては、かなり早い時点で政府による救済策が批判されていた。

東京電力は原発事故に適切に対応できるか(岩本康志のブログから)
奉加帳ふたたび(池田信夫blog part2から)

両氏とも「どんな経営をするにせよ救済されるのであれば、あるべき企業統治が毀損される」ことを懸念している。大変正当な指摘であり、小生も同感だ。

但し、日本のエネルギー選択と原発事業の推進は、企業経営者が自社利益拡大の観点から自ら追い求めてきた事業なのか、国が指導したものか、そこが今ひとつ定かではない。欧州の電力需給がスパゲッティ状態だとよく言われるが、日本の電力産業をとりまく事業責任の有り様も、これまたスパゲッティ、というか日本的という意味合いで、鍋焼きうどん状態になっている。

東電の株価は、昨日終値が328円。一時は200円台になり、もう終わりかと思われたが、政府による賠償スキームの進展など政治状況の変化で、その都度風向きが変わる。小生は、ツイッターの場で「政治家の言動、官庁の見解一つで激しく株価が乱高下する現状は、お上公認のインサイダー取引奨励劇」と形容している。

するとトウトウ、というかヤッパリ、東電家宅捜索論が出てきた。
なぜ東京地検特捜部は東京電力本店を家宅捜索しないのか(上杉隆、ダイヤモンド・オンライン)

今回の事故にかかわる情報隠蔽、情報操作ばかりではなく、福島第一原発の安全性をめぐる社内の議論一切までもが隠蔽されていると感じるのは、多数の人の共通の感覚であろう。

かと思うと、経済産業省内部の主流派・反主流派バトルも見え隠れしている。

経済産業省の現役官僚である古賀茂明氏が退職勧奨をうけているという風評も、その背景が色々と憶測され、「東電批判につながる見解を著書で公表したためか」であるとか、これまた政府=東電一体論とこれを批判する反主流派勢力の存在が見え隠れするわけである。二つの勢力の間で今後展開されるであろう興亡劇が今から想像されるわけである。どちらにしても、異端排除を優先する現政権から、限りなき不透明なグレーを感じるのは、小生だけではありますまい。

自民党と民主党、菅総理と執行部、小沢グループと反小沢。どれをとっても、日本株式会社のヘゲモニーを握る財界主流派と反主流派の代理戦争である一面も否定できないわけであります。

エネルギー計画の今後の基本的方向としては、やはり分散型エネルギーというか、大規模集中立地型エネルギー供給から中小規模分散型エネルギー供給システムに移行することを、かなりの国民が是とするのではあるまいか?この方向に沿う意見としては

電力の需要サイドが主導権を握る ― 次世代エネルギーシステムで日本の復興を(井熊均、ダイヤモンド・オンライン)

エネルギー転換と言うと、直ちに「この国が食っていくことを考えるのが最優先だろう」と多くの人が口にするが、それは日本の産業構造をどうするかによる。産業構造の選択は、国民の望む暮らしによる。何を求めるかによる。一得一失。あるものを失うことは、別の何かを得ることでもある。「これしかない」という答えは経済学にはないのである。

白砂青松を捨てて化学コンビナートを建設したのも、一つの選択。重化学工業を捨てて、再生エネルギーをとるのもひとつの選択である。どちらが正しいと決める権限は誰ひとりとして持ってはおらず、ただただひたすらに、多くの国民はどちらを選ぶか?ただそれだけである。

マスメディアも官僚も政治家も、何かといえば「これしかない、こうするしかない」と口にするが、古来、賢明な参謀、宰相は「三つの策がございます」と提議したものである。上策、中策、下策の三案くらいは、立案してもバチは当たらないだろう。ましてやそれが仕事ではないか。普通に仕事ができる程度の政治家、官僚、専門家を日本国民も持ちたいのではあるまいか?

そんな風に考えると、

脱原発で解散せよ(原淳二郎、アゴラ)

気持ちは分かるが、こんな風に二者択一の選択を迫るスタイルは、国民の思考能力を一切認めない究極の愚民論である。原発しかない、自然エネルギーしかない、両方とも極端なのである。歯切れの良さに騙されてはいけないと思う。

本当に仕事ができる人は、生存中は案外評判が悪いものである。問題を解決しようとすると、敵ができるものだ。

荻原重秀の政策への評価(牛さん熊さんブログ)

江戸幕府五代将軍である徳川綱吉が抜擢した勘定奉行に荻原重秀がいる。荻原のとった財政金融政策はインフレ政策であるとして史上極めて評判が悪い。次代の家宣政権下で実質的な執政であった新井白石に批判され、悲劇的な最期を遂げたとも言われる。後の田沼意次とも共通するが、政治家や官僚は問題解決のために存在しているのであって、何かのモラルとか理想のために居るのではない。

才あるものは徳が薄く、徳あるものは才が薄い(藤沢周平「市塵」、講談社文庫、下巻69頁より)。「何分よろしく」を繰り返すばかりの<そうせい公>ではなく、ネットという井戸端会議の場があるのだから、世論作りに参加する国民を演じて、はじめて民主主義国家の主人になれるのではあるまいか?





2011年7月1日金曜日

リスク度外視は、それ自体、リスクです

時間があって、図書館で週刊エコノミストを適当に手にとって、パラパラとみていた。すると、一見すると話は無関係に思われるものの、実は本質は同じ失敗である、そんな二つの記事があることに気がついた。

× × ×

一つは、6月21日号「ガス復権」特集号からだ。非在来型天然ガスの埋蔵量が在来型天然ガスの埋蔵量の5倍はあることが分かり、にわかにアメリカの一次エネルギー自給率がはねあがる、それで、北米はシェールガス・バブルに入っている。ガス田開発権益は、今は巨額のカネを支払わないと買えない状況だ。日本の石油会社は、シェールガス・ブームの将来性を完全に見誤り、「これは行ける」と気がついたときには「あなた方、遅すぎますね」という状況となり、今から開発に参加しても利益率は大したことはない。どうにも、日本の石油会社は、早い段階から経済性を評価して、リスクをとりに行かない。それで失敗しているわけである。

そこへ行くと日本の誇る総合商社はしっかりと食い込んでいる。三井物産はペンシルベニア州でLNGを年間約294万トン、三菱商事はカナダで同350万トンのLNGを輸出できる事業に参加。また、丸紅もオーストラリアで同400万トンのLNGを輸出できる事業化調査を進めている。日本のLNG輸入量は年間6900万トンだから上にあげた三件だけで15%の増量となる。誠に大したものである。

記事にはこんな風に解説されている。シェールガスは、開発技術がこの2、3年で急速に進歩し、確認埋蔵量が急激に増加。生産コストの見積もりも、単位熱量当たりで100ドルから何と2ドル(!)まで劇的に低下したよし。こんな状況でプロジェクトの収益率を推計するには、開発に伴うノウハウの蓄積が生産コストの低下をもたらす学習曲線をいかに正確に推量して数字をはじくか?その技術と情報が不可欠になる。数字通りにならない際のリスクの大小も評価しておく必要がある。これがリスクプレミアムとなり価格から回収できるコスト部分となる。こうした経済性とリスク評価の技術で、日本企業は大きく遅れていて、そのために大きなチャンスに気がつかず、外国にいいところをとられている。総合商社は、流石にアンテナの感度が高く、そこはしっかりとジョイントに食い込んでいる。そういう図式の話である。

物事にいまだ不確実な側面があり、収益率が確定できないというのは、つまりはリスクがあるわけだ。大得をするかもしれないが、大損をするかもしれない。日本人というか、日本企業はわりとそんなリスクを嫌うわけである。「もっと数字を固めんとな、これじゃ乗れんよ」、蛮勇を奮う上司も怖いが、煮え切らない上司も会社を苦境に陥れる怖い存在なのだ。リスクテイクが苦手なのは、つまりはリスク評価が苦手、収益率評価一般が苦手ということで、リスク・プレミアムにも鈍感ということになる。最悪の場合、「価格のこの部分はリスク・プレミアム、当社が負担するリスクの保険料に相当する部分です」という発想を語ることができないビジネスマンと相成ってしまう。現実には事業リスクがあるにもかかわらず、リスクがない時の発想しかできないのは、事後的に極めて危険であるという他山の石。それが上の天然ガス開発をめぐる日本の石油会社の苦境である。そう読めるわけだ。

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もう一つは、例の外貨取崩しによる震災復興費調達に関連する。これは週刊エコノミストの6月14日号に掲載されているラインハート女史のインタビュー記事。同女史の業績は先日も紹介したので繰り返す必要はあるまい。

外貨取り崩しによる震災復興費調達を聞いた日本の官僚は、専門家よろしく「日本の外貨準備というものはですネ、それに見合う負債がありますので、資産だけを取り崩して使うことなど、できないのですヨ」と、あたかも「こんなことも知らないのですか?」と言わんばかりの専門家風を吹かせるわけだが、この話の勘所はそんな当たり前の点にはないのである。それこそ「そんなことは当然。あなた、当たり前のことを、さも大事なことであるかのように、何を話しているのですか?」というのが客観的状況なのである。

外貨準備は、官僚が言うとおり日本国内から短期証券で円資金を調達してドルを購入した結果、蓄積されたものである。なぜドルを買ったかといえば、概ね円高を防止するための市場介入を繰り返してきたからだ。つまりは、円を吸い上げ、ドルを買う。ドルを売った人は円をもらう。その結果、国内の円資金は等量となる。これを「不胎化介入」と言います。ドルを買って、円を国内に供給する単純介入(=非不胎化介入)ではない。ドルから円への動きを相殺する分、円からドルへの取引をお上が国内で作り出しているわけである。政府は、買ったドルを主にアメリカ国債で運用している。円高防止を名目にお上がカネを集めて、アメリカ国債を買いましょうという営業を行なっている。そう解釈してまず間違いはない。

そうなると、国内マネーをアメリカ国債に振り向けて投資をするだけの収益性が本当にあるのか、という議論になる。この点をラインハート女史は論じているのである。

日本政府は国内から低金利でカネを集めアメリカ国債に投資すれば利ざやを抜けるというが、アメリカも量的金融緩和を進めてきたので、米5年物国債で利回りはせいぜい1.6%。円建ての国内短期証券の金利は0.1%として1.5%の利益しか出ない。円ドルレートは昨年5月からの平均85円。レート変化の標準偏差が3円94銭。ボラティリティは4.6%もある。単純にいうと、期待収益率である1.6%に対して、プラスマイナス4.6%のリスクがある。

本ブログでも投稿したが、日本の対外資産の利回りは2000年代後半でイギリスとほぼ同等、10%前後に達する。それに対して、同じドル投資をお上がやれば、期待収益率が1.6%、ボラティリティが4.6%。これは余りにもハイリスク・ローリターンではありませんか?これが「外貨準備は取り崩して、必要な国内事業に回したほうが、死に金が生きることになりませんか?」ということの本当の意味合いである。

まして、中国に次ぐ巨額の外貨準備マネーをなぜ日本はつみあげて放置しているのです?中国は対ドル固定レートを守ろうとしているからまだ理解できる。日本は変動レート制でしょ?中国とは制度が違いますよね。どの国だって、変動レート制をとるなら、外貨準備は普通もちません。なぜ外貨準備を持つのです?「それは円高を防止したいからですよ」、「じゃあ、固定レート制度を採用すればいいじゃないですか?」。どうも日本は中国よりも、さらに一層ロジカルでないわけである。

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話が海外投資の話であるにもかかわらず、経済合理性に全く触れることなく、「負債で調達したお金ですから財源にはなりません」と木で鼻をくくるかのような説明をするのは、専門家とはいえ官僚は主として法学部出身であるためだ。Finance&Investmentは、法律専門家には土台無理である。無理な人たちが無理な仕事をしていると、リスクと収益性の話をしているときに、「ええ~これは負債でございまして・・・」などとアサッテに顔を向けた話をして恥をかく。

リスクと経済性評価が求められているときに、確実な議論ばかりをしたがるというのは、それ自体が一つのリスクとなる。上の石油会社と日本の財務省当局。似ているなあと思った次第である。

2011年6月29日水曜日

覚書 ― 震災後の日米エネルギー対話

本日の日経「経済教室」にケント・カルダー氏(ジョンズ・ホプキンズ大学ライシャワー東アジア研究所長)が「エネルギー対話の強化を ‐ 震災後の日米関係」を寄稿していた。

見逃してしまうには惜しい内容が書かれていたので概略を書き留めておきたい。新聞紙上では三つのポイントが挙げられていた。

  1. 経済面での日米協力の明確な構想が必要だ(=相互の利益をよく理解した上で戦略的協力を進めるということ)
  2. 原発整備へ事業者の賠償責任に上限を設けよ(=本文で必要性と根拠を考察)
  3. 技術開発の協力や知的交流の活性化も課題(=具体論は一部紹介にとどまる)

というものだ。しかし、これ以外に関心をひく点も多く含まれている。順番にとりあげていこう。

  • 日本もアメリカも今や対中貿易が、対米、対日貿易を上回っている。中国の台頭に伴って、日米どちらの国にとっても、日米関係の内容と相対的ウェイトは変化している。しかし、中国とは共有できない日米固有の補完性に基づいて相互協力ができる分野がある。それはエネルギー、テクノロジー、貿易、知的交流だ。
  • 最も重要なのはエネルギー分野だ。エネルギー消費量をみると、1980年には日米合計が中印合計の3倍だった。これが2035年(24年後)には、中印合計が日米合計の2倍の高さに達し、完全に逆転するというのがIEA(国際エネルギー機関)の展望だ。エネルギー効率化、技術革新を進めなければ、エネルギー源をめぐる競争が一段と激化する。
  • 再生可能エネルギーの開発と省エネルギー技術は、アメリカが日本に教わる所が多い。一方、原発も日米双方にとって将来のエネルギー政策に欠かせない選択肢だ。電気自動車の普及など輸送部門で電力需要が急拡大する可能性が高い。これに対応していくことも大事だ。日本の経済産業省の試算によれば、今後2030年までに日本が必要とするエネルギー関連投資は130兆円に達する。この巨額の投資を行うには、民間資金の活用が不可欠であり、それにはエネルギー市場における投資家の信頼を得ることが必要だ。特に、安全な原発事業に投資が向うには、事業者の賠償負担に上限を設ける必要がある。アメリカでは、プライス・アンダーソン法がこの役割を果たしている。
  • テクノロジーはエネルギーと深く結び付いている。富士電機とGEはスマートメーター(次世代電力計)の開発で事業提携した。IBMはリアルタイムの都市運営を実現するシステムを提供できる。他方、日本の日立はIT技術を駆使した環境配慮型都市開発の技術に優れている。省エネルギー技術、情報、原発の他にも金属、精密機械、光電子工学など戦略的提携の可能な産業分野は日米間に多い。
  • 技術交流をスピーディに進めるには、より多くの参加者が参入できるように、開かれた貿易の枠組みを整えておくことが大事だ。日本のTPPの参加もこの点から考えてほしい。農産品は、既に間接的な貿易障壁が一部減らされているが、さらに価格支持政策から直接的な農家の戸別所得補償に力点がシフトしており、農業貿易の自由化を促す状況になっている。
  • 知的交流は、日本からアメリカへの留学生減少が話題になっている。日本の教育機関のアメリカ進出が望まれている。その一例として日本の5大学が共同でワシントンに設けたシンクタンク「日米研究インスティテュート」が挙げられている。ワーキングホリデーなどの協定を日米で結び、日本人留学生(社会人学生だろう)が働きながらアメリカの教育機関で学ぶ機会を増やすことも一案だ。

このように全体を眺めると、最大の問題意識は、エネルギーを主として何に求めるかという戦略だ。これから20年くらいの間に、競争が非常に激化するという点が最重要ポイント。そのエネルギー戦略を日米で選んでいく時に、日米で連携・結託・協同できる分野が多いという指摘。これが寄稿の眼目とみられる。「共同利益を最大化していかないか?」、アメリカの日本に対するソフト・コミットメントでありますな。

ゲーム論では、ソフト・コミットメントに対しては、ソフトに応じる戦略的補完性の論理がよく適用される。しかし、常に相手に合わせて共同利益ばかりを考えていると、自国の利益が最大化されないことにはなる。相手の意志決定に影響を与える、自国の意志は曲げないという姿勢を貫く。そんな超強気の限定合理的行動もあることはある。しかし、下手をすると両方が損をする「囚人のジレンマ」状況に陥る。というか、尖閣・北方領土で醜態をさらしてしまった現在、日本が強気に突っ張っても外国に対しては「空の脅し」でありましょう。まあ、常識的には相手のアプローチをまずは真剣に考えてみるというのが定石である。

確かに中国、インドのエネルギー開発政策はすごいのだ。たとえば各国の原発建設計画をみると、下の図のようになっている(文字が小さいので画像を別に表示してほしい)。データの出所は、現時点で手元にメモがないのだが、原資料は図の下にあるようにWNA(世界原子力協会)による。


これによると中国は今後80基の原発施設を建設する計画になっている。現在も中国政府は第4世代原子炉の安全性を信頼しており、福島第一の事故とは事情は異なるという発言をしている。原発にどの程度までウェイトをかけるかは、各国によって違いがある。違いはあるのだが、原発でなければ、つまり石油・天然ガスの化石燃料、でなければ再生可能エネルギー、というのが大まかな選択肢である。最近の一次エネルギー自給率を各国で比べると、フランスが51%、ドイツが40%、イギリスが104%、アメリカが72%、中国が96%に対して、日本は18%である(エネルギー白書2010、67ページ)。化石燃料依存を高めるという選択は難しかろう。そこで、再生エネルギー利用技術が進歩するまでは、原発を活用せざるを得ないだろうというのがカルダー氏の提案の一つの眼目だ。そのためには、民間資金の活用、投資環境の整備、その一環として投資家(6/29修正:投資家→企業)の有限責任制度を確立するという提案となる。この辺り、相当ロジカルである。

エネルギー産業への投資環境整備。これは、日本で今後必要となる投資規模が巨額だと見込まれることとも関連する。2030年まで130兆円。1年当たりで大体6兆円から7兆円。日本全体で毎年企業が設備投資に使っているお金は7、80兆円だ(GDP統計の名目数値から)。その内の1割程度をエネルギー分野にコンスタントに充てるという展望だ。震災復興事業は概ね20兆円か30兆円と言われている。これは一回限りの復興事業。あとは継続で別に資金を調達して個々の事業を進めることになる。毎年数兆円のエネルギー投資がこれから継続的に必要だという試算は、極めて衝撃的ではあるまいか。

この資金は、当然、民間から投入しないといけないし、高齢化が進む日本国内だけからエネルギー投資がまかなえるか?この点も考察の視野に入るだろう。となれば、日本のエネルギー産業が魅力のある事業分野になっているかが、非常に大事なポイントになってくるのではないか?そんな問い掛けを、外国は黙っていてくれ、と言わんばかりでは、戦略性に欠ける意志決定を行ってしまう確率が高い。やはり日本の国益をよく考えないといけないだろう。

TPP参加がこの議論から出てくるのは、ある意味で自然だ。「多数の民間事業者が自由に参加する中で日米双方の経済問題をうまく解決していけると思わない?」相手はそう言っているわけだから、日本は「確かにそうだね」というか、あるいは「いや、そうは思わないなあ」と言えばいいのである。日立は原発事業部門をグループ全体の中核に据えていたはずで、現在は戦略練り直しをしていることと思われる。ただ日立グループとしては、上でも紹介されているように社会インフラ事業もコア事業である。こちらはデータ処理と環境ビジネスの融合が売りだ。日立の社員の方々は、当然のことながら、今日のカルダー氏の寄稿を興味深く読んでいることでありましょう。

このように、中国の台頭を考えながら将来戦略を決めていくのは日米で共通だが、日米の2国間だけで連携・共同による利益があるかどうかを考えると、共同利益は数多くの分野にある。そんな提案である。日本としては、より大きな利益が見込める戦略があれば、その戦略を企画すればよいし、その戦略が他国との連携を必要とするものであれば、その他国にとって日本の戦略が魅力的であることを日本から提案すればよい。そんな上手い提案がないのであれば、日米2国間で、もっと日本の利益になる連携のあり方を探していけばよい。今日のカルダー氏の寄稿は、アメリカの観点から提案された一つの共同戦略案として考える価値が大いにあると思うが、いかがであろうか?