2011年7月2日土曜日

リンク集 ― 東電はほんとに四面楚歌?

インターネット上の議論が、日本の「世論」かと言えば、必ずしもそうとは限らない。小生はそう感じている。ネット上の議論は、それこそ風に波立つ海面のようであり、本当の世論、世を動かす本当の力は潮流、海流のようなものだと思う。風の向きと潮の流れは、しばしば、正反対である。

とはいうものの、東電をとりまく世評はどん底である。

福島第一原発事故をめぐっては、かなり早い時点で政府による救済策が批判されていた。

東京電力は原発事故に適切に対応できるか(岩本康志のブログから)
奉加帳ふたたび(池田信夫blog part2から)

両氏とも「どんな経営をするにせよ救済されるのであれば、あるべき企業統治が毀損される」ことを懸念している。大変正当な指摘であり、小生も同感だ。

但し、日本のエネルギー選択と原発事業の推進は、企業経営者が自社利益拡大の観点から自ら追い求めてきた事業なのか、国が指導したものか、そこが今ひとつ定かではない。欧州の電力需給がスパゲッティ状態だとよく言われるが、日本の電力産業をとりまく事業責任の有り様も、これまたスパゲッティ、というか日本的という意味合いで、鍋焼きうどん状態になっている。

東電の株価は、昨日終値が328円。一時は200円台になり、もう終わりかと思われたが、政府による賠償スキームの進展など政治状況の変化で、その都度風向きが変わる。小生は、ツイッターの場で「政治家の言動、官庁の見解一つで激しく株価が乱高下する現状は、お上公認のインサイダー取引奨励劇」と形容している。

するとトウトウ、というかヤッパリ、東電家宅捜索論が出てきた。
なぜ東京地検特捜部は東京電力本店を家宅捜索しないのか(上杉隆、ダイヤモンド・オンライン)

今回の事故にかかわる情報隠蔽、情報操作ばかりではなく、福島第一原発の安全性をめぐる社内の議論一切までもが隠蔽されていると感じるのは、多数の人の共通の感覚であろう。

かと思うと、経済産業省内部の主流派・反主流派バトルも見え隠れしている。

経済産業省の現役官僚である古賀茂明氏が退職勧奨をうけているという風評も、その背景が色々と憶測され、「東電批判につながる見解を著書で公表したためか」であるとか、これまた政府=東電一体論とこれを批判する反主流派勢力の存在が見え隠れするわけである。二つの勢力の間で今後展開されるであろう興亡劇が今から想像されるわけである。どちらにしても、異端排除を優先する現政権から、限りなき不透明なグレーを感じるのは、小生だけではありますまい。

自民党と民主党、菅総理と執行部、小沢グループと反小沢。どれをとっても、日本株式会社のヘゲモニーを握る財界主流派と反主流派の代理戦争である一面も否定できないわけであります。

エネルギー計画の今後の基本的方向としては、やはり分散型エネルギーというか、大規模集中立地型エネルギー供給から中小規模分散型エネルギー供給システムに移行することを、かなりの国民が是とするのではあるまいか?この方向に沿う意見としては

電力の需要サイドが主導権を握る ― 次世代エネルギーシステムで日本の復興を(井熊均、ダイヤモンド・オンライン)

エネルギー転換と言うと、直ちに「この国が食っていくことを考えるのが最優先だろう」と多くの人が口にするが、それは日本の産業構造をどうするかによる。産業構造の選択は、国民の望む暮らしによる。何を求めるかによる。一得一失。あるものを失うことは、別の何かを得ることでもある。「これしかない」という答えは経済学にはないのである。

白砂青松を捨てて化学コンビナートを建設したのも、一つの選択。重化学工業を捨てて、再生エネルギーをとるのもひとつの選択である。どちらが正しいと決める権限は誰ひとりとして持ってはおらず、ただただひたすらに、多くの国民はどちらを選ぶか?ただそれだけである。

マスメディアも官僚も政治家も、何かといえば「これしかない、こうするしかない」と口にするが、古来、賢明な参謀、宰相は「三つの策がございます」と提議したものである。上策、中策、下策の三案くらいは、立案してもバチは当たらないだろう。ましてやそれが仕事ではないか。普通に仕事ができる程度の政治家、官僚、専門家を日本国民も持ちたいのではあるまいか?

そんな風に考えると、

脱原発で解散せよ(原淳二郎、アゴラ)

気持ちは分かるが、こんな風に二者択一の選択を迫るスタイルは、国民の思考能力を一切認めない究極の愚民論である。原発しかない、自然エネルギーしかない、両方とも極端なのである。歯切れの良さに騙されてはいけないと思う。

本当に仕事ができる人は、生存中は案外評判が悪いものである。問題を解決しようとすると、敵ができるものだ。

荻原重秀の政策への評価(牛さん熊さんブログ)

江戸幕府五代将軍である徳川綱吉が抜擢した勘定奉行に荻原重秀がいる。荻原のとった財政金融政策はインフレ政策であるとして史上極めて評判が悪い。次代の家宣政権下で実質的な執政であった新井白石に批判され、悲劇的な最期を遂げたとも言われる。後の田沼意次とも共通するが、政治家や官僚は問題解決のために存在しているのであって、何かのモラルとか理想のために居るのではない。

才あるものは徳が薄く、徳あるものは才が薄い(藤沢周平「市塵」、講談社文庫、下巻69頁より)。「何分よろしく」を繰り返すばかりの<そうせい公>ではなく、ネットという井戸端会議の場があるのだから、世論作りに参加する国民を演じて、はじめて民主主義国家の主人になれるのではあるまいか?





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