2014年7月30日水曜日

大学の役割ーどこまで広く考えるか、限定的に考えるか

大学は「学校」の中の一段階である。いまの共通認識としては、これが最も共有度が高い理解のされ方ではないだろうか。

学校というのは人を育てる、人を社会に送り出すことが主な役割である。つまり主たるミッションは教育である。

しかし大学は、研究の拠点としても期待されている。研究というのは「新しい知的成果」を発見したり、開発したりする活動だ。もちろん研究現場でも人は育つのだが、育つ人はそもそも育つだけの潜在能力を秘めた人材だけであって、平均以下の素材を育てるという発想は研究現場にはない。

大学はどちらを主として追求するのか。これは、大げさに言えば、制度化された「大学」という組織がとりくむべき永遠の課題だろうと思う。

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本日の日経の社説でも大学が議論されている。
教授会の力がそがれ、学内に表立った批判が出なくなったからといって、トップが恣意的な施策を打ち出したり不適切な人事に走ったりするならキャンパスはかえって混乱するだろう。そういう恐れのない、聡明(そうめい)な学長ばかりかどうか心配は残る。

 さまざまな「知」が集積する大学という場の特質をわきまえ、同時に現実感覚も失わず長期的な経営判断ができる学長は、残念ながらそんなに多くはいまい。ならば今回の改革を機に、大学は学長を「育てる」ことを心がける必要がある。あるいは経営と教育・研究の分離も課題となるはずだ。

 ひとくちにガバナンス改革というが、いまの大学は極めて多様である。いきなり学長に全責任を押しつけてよしとするのではなく、それぞれの実情に合ったやり方を探る必要もあろう。
 (出所)日本経済新聞、2014年7月30日

ムムム、人を育てると同時に、大学は学長も育てるのでありますか……。ま、こんな突っ込みはやめておこう。

とにかく経営と研究・教育を同一人物が兼業するなど、土台無理な話しであるのも確かなことだ。

一つだけ確実なことは、たとえ学長に人事・組織・カリキュラム・予算など全権限を集中したとしても、やりたいことが実現できるわけではないということだ。なぜなら、学長一人だけでは何もできないからであり、理念を理解し、ずっと協力してくれる多数の人が必要だからである。多数の人に動いてもらうためには、独裁的学長といえども妥協が必要である。協力者・部下のメンツを立てることも必要になってくる。というか、学長の求める理念が、周囲の多くの人の利益にもなるのでなければ、絶対に人はついてこない。ならぬ堪忍、するが堪忍が、これからの学長がきざむ座右の銘になること確実である。

江戸幕府を開いた将軍・徳川家康であっても主立った重臣への礼儀と遠慮があり、言いたいことを我慢することもしばしばであったと伝え聞く。まさに『人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず』であったのだろう。まして現代のオバマ米大統領、中国の共産党総書記・習近平は、細心の上にも細心を重ねて、自陣営の理解を固め、敵対するグループを切り崩し、弱体化しようと努力をし続けているはずである。

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いやあ、制度上の権限はあるかもしれないが、「学長」などはたとえ頼まれてもイヤだなあ……と、正直、そう思うのである。研究は自分の努力によって成果が得られる可能性がある。教育は自分がそのために使った時間に概ね比例して教え子からは感謝されるものである。統治者は、常に努力することが求められ、努力をすればするほど敵陣営からはもちろん、自陣営からも辟易される。むしろここまで努力をしなければ、責任は全うできない。そんな職務であるのだ。必然的に「孤独」である。

議員に当選したら言いたいことや、やりたいことをやってみて、それが問題になって辞職する人が多数発生している。ヒラ議員の間は我慢しても大臣になったら放言して問題となる。所詮、志が低いのだ、な。

たとえトップになっても、自分のやりたいことの半分もできないのが、現実ではないかと思われる。これは大学、会社、官界、政界を問わない。そして独裁的なトップであればあるほど、その地位を去ってからの後が惨憺たるものになる。それも経験的事実である。所詮、「勝敗は時の運」である。トップといえども「人事を尽くして天命をまつ」しか、やりようがないのである。

にもかかわらず、大学のトップを任せるに足る人物を「育てる」と……。大体、そんな人生目的をもつ人は、そもそも大学院に進む時点で一人もいないと思う。

大学の統治者として最良のトレーニングは、大学を出てすぐに学長の身近に置き、その仕事を補助させることである。そうなると学問上の成果は諦めざるを得ないだろう。ではあるが、やり甲斐はある。そんな人生をおくってもよいと考える有志の学生がいるかもしれない。そんな若者を見いだせるかどうかという疑問はあるのだが。

ここまで考えるなら、それこそ「学長を育てる」という表現に当てはまるかもしれない。こういう話しは、やっぱり具体的に議論しないとダメだと思うのだ、な。

いかなる大学を構築するか、いかなる会社組織を是とするか、いかなる官僚組織をつくって日々の行政をまかせるか……、すべて国の形の勘所である。学長に大学の基本を問うても筋違いである。レストランの雇われ店長にあるべきレストランの姿を問うても無駄である。基本的な決定はオーナーが為すべき事柄である。国立大学のオーナーは国民である。私立大学のオーナーは創立者及び創立者の理念を継承する評議会である。

オーナーにアイデアがないので、現場の長にどうしたらよいかを考えてもらう。そんな図式であろう。学長権限強化にどことなく無責任の香りがするのはそのためだ。

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思わず暗い話しになってしまった。これも中に身を置いているからであろう。

上に引用した記事では、大学を「知の集積する場」と表現している。具体的に言えば、知の伝達、知の発見、知の保存に分かれるだろう。

人を育てるには知を伝え、定着させなければならない。知の発見は、本来はアカデミズムの柱であるが、カネを使う研究に社会的な有用性を求められても仕方がない。カスミを食って生きることはできぬ。とはいえ、役に立たない知の成果は捨てればよいと考えるのは間違いだ。ピタゴラスの定理は、測量の役に立つくらいであったのが、いまでは関数空間、ヒルベルト空間で姿を変えていき続け、ロケットの軌道計算の役にも立っている。大学は「役に立たない知の保存」にもエネルギーを注がなければならない。

知の発見・伝達・保存のうちで何が大学の主たるミッションだろうか。

異なった組織原理で行動することが求められるので、大学もそれぞれの目的に応じて別組織に分けておくべきだろう。学問分野ごとの学部に縦割りで組織化して、学部に所属するスタッフが本来区別するべき複数の目標を同時に達成しようと内部で苦闘するのは不効率だと(小生は)思うようになった。

ま、まだ書き足りないが、少し疲れてきた。今日はこの辺で。

2014年7月27日日曜日

メモ-ポスト集団的自衛権の内閣支持率について

日経に内閣支持率の調査結果が載っている。
日本経済新聞社とテレビ東京による25~27日の世論調査で、安倍内閣の支持率が6月の前回調査より5ポイント下がって48%となり、2012年12月の第2次安倍内閣発足後、初めて50%を割り最低となった。不支持率は2ポイント上昇し38%と最も高くなった。20~30歳代の支持率が10ポイント、40歳代は9ポイント下がるなど、比較的若い世代での低下が目立った。
(出所)日本経済新聞、2014年7月27日

『5ポイント下がった』と聞けば、やっぱり集団的自衛権の解釈変更がきいたよねえとか、原発再稼働に前のめりになっているのも支持率低下の原因かもねえとか、色々な背景が思い浮かんで、まあ納得できる結果である。そんな印象が強いのではないかと思う。

そうではないのじゃないか。集団的自衛権の憲法解釈変更は、違憲訴訟いかんで実際にどうなっていくか分からないが、「使わない」と言っていた権利を「使う」といい始めたのだから、正反対に舵をきったといえば言えそうである。

それでもなお支持率が48%ある。こう見ないと本筋をはずすのではないか。

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経済政策については評価する人の割合が多い。経済政策で中間派をとりこんで、強固な保守層の支持と併せて自らの政治課題を実現していくという基本戦略はいまのところ奏功している。

TPPで損失を蒙る国内農林漁業者は、アメリカの中間選挙後に急速に進展するはずの最終調整までに、政府による所得補償・その他救済措置で矛をおさめるものと予想する。農林漁業者以外の日本人にとっては、TPPによる「聖域5品目の関税、限りなきゼロへ」は大きな恩恵である。一度分かればTPP賛成派が大半を占めると予想するのがそもそもの理屈である。

とはいえ、安倍政権は、日本国の長期ビジョンを語っていない。安全保障についても、エネルギーについても議論を避けている — 議論をして、意見を集約する仕掛けをこの20年の間に壊してしまったことも大きい。避けているので何でもかんでもトップの総理にきくのだろうが、国民から広く意見を集約することに消極的であるのも確かだと思う。その点、現内閣は決して誠実とはいえない。ただ、誠実ではないという批判から、支持率が低下したのではない、と。小生はそう見ているところだ。


2014年7月26日土曜日

シベリア山火事発「PM2.5」の薄煙の中で

シベリアの山火事で発生した煙が季節外れの北西風に乗って、北海道に到達しているとのことで、速報値によると小生が暮らしている港町ではPM2.5濃度が今日12時現在で$65 \mu g / m^3$であるよし。S市の一部町域では、昨日午後よりはマシであるものの、「注意喚起」相当の99に達している。

そのため今日は一日中、窓を閉めている-北海道のこととてエアコンは設置していない。これが首都圏であれば、室内熱中症でこちらの方こそ心配だ。

窓の外は、いつもなら山並みの緑が間近に迫って見れるのだが、今日は靄がかかり遠くの稜線は白い煙幕に隠されている。もっとも北の梅雨がそろそろやってくるので、そのせいなのかもしれない。

思い出すのは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』だ。地獄の業火で地球が焼き尽くされた一週間のあと、地上世界の大気は「瘴気(しょうき)」に毒され、ガスマスクなしでは生きていくことができなくなった。正に今日がそれである。環境は決して一定の状態を中心にして安定的なサイクルをたどっているわけではない。寧ろその時々の環境に応じて、生息可能な生物が自然によって選ばれてきたのが実態である。

もしも神が存在するなら、人類にとってのみ造物主であるわけではない。すべての命にとって神は神である理屈だ。人類が生息不能な環境に変化していくとしても、それは神がいないことの証明でもないし、この世界を神が愛していない証しでもない。どのような生物種が繁栄するとしても、それは最初に誕生した一群の単細胞生物の末裔であることに変わりはない。

……それにしても、今日は夏祭りで埠頭辺りには大勢の観衆がつめかけるはずなのだが、激しい運動をしなければ大丈夫なのだろうか。

2014年7月25日金曜日

荷風-「計画」への不信・「自然」への共感

前期の授業も実質あと一回。今日は学務課に期末試験の印刷を依頼した。今年度の上期は色々と仕事が押し寄せたが、夏が来てさすがに潮が引いていくように余暇が増えてきた。次は9月に仕事の大波が来る。その前にシステムキッチン入れ替えの工事が入る。どうもバタバタしているのが今年の特徴だ。

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今日は一段落したので、リハビリ帰りのカミさんを拾って帰宅した午後、Kindleで永井荷風の随筆を読みふけった。『日和下駄』の「閑地」の章だ。

荷風は、同時代の人たちより非常に豊かな在外経験をもっていた故だと思われるが、徹底した反・進歩、反・政府、反・国家戦略の作家である。アメリカで暮らした時は「あめりか物語」を書き、パリでは伝統あるフランス文明の深さに感動し「ふらんす物語」を作品にした。日本に帰国してからは、消え去りゆく江戸の町を惜しみつつ、日本伝統の美をこよなく愛した人である。

二人は早速閑地の草原を横切って、大勢釣する人の集っている古池の渚へと急いだ。池はその後に聳ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米二十余万石の城主の館が築かれていた時分には、現在水の漂っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気ながら心の中に描出した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気もなく破壊して兵営や兵器の製造場にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更の如くつくづくと思知るのであった。
(出所)青空文庫「永井荷風-日和下駄」

上は、荷風が慶應義塾への出勤の帰途、友人とともに三田にあった旧・有馬屋敷に入り込み、日本三大化け猫騒動のあと建てられたと伝えられる猫塚を探し当てた、そのあとの下りである。

明治維新の富国強兵政策は、権力を得た政治家が選択した国家百年の計画であったろうが、半世紀もたって振り返ってみると、伝えるべき・遺すべき随分貴重な文化が永遠に失われてしまったではないかと。失われたというより、積極的に破壊してしまったじゃあないかと。それで日本人はどれだけ豊かな文明の中にいるのかと。大久保利通や伊藤博文、山縣有朋には無情な言い方だろうが、ま、そんな目線である。

☆ ☆

政治家は、それも総理や大物議員になれば、やったほうがよいと考えれば、それを実行するだけの地位につく。しかし、やればプラスだというだけでは、実際にそれを実行する価値があることにはならない。すべてプラスの結果だけがもたらされる計画は実は稀なのであり、何かを実行すれば何かが失われる。マイナスの結果も生まれてくるものだ。全部総合して、それでもプラスなら実行すればよいのだが、それを判断するのは権力をもっている人物だ。それが駄目だと荷風は言うのだな。

私は喜多川歌麿きたがわうたまろの描いた『絵本虫撰むしえらび』を愛して止やまざる理由は、この浮世絵師が南宗なんそうの画家も四条派しじょうはの画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花そうかと昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取ひろいとって、自由にこれを芸術化せしめた大だいなる功績を担になうものである。
(出所)上と同じ

自然に生い茂る雑草の美に目を向ける美意識と、自然に発展する市場経済社会の健全さを信じる思想は、本質的な部分を共有していると思うのだな。雑草が汚らしいという人は、市場経済の儲け主義が不潔だと責めるであろう。そんな感覚は実は貴族趣味なのである。エリート主義に通じると言ってもよい。

そもそも政府が何かを-経済でも、国民の生活でも、戦争でも何でもよいが-計画して、<計画通りに>ことが進み、目標に合致した結果がもたらされたことは、これまで一度もないはずである。

高度成長は「嬉しい誤算」である。最悪の場合は破滅的な敗戦、金融崩壊へと至るものである。おそらく年金崩壊も可能性の一つに数えるべき段階に入ってきた。そう言えるのかもしれない。

2014年7月21日月曜日

「改善」より「ゼロから新しく造る」ほうが簡単なことは多い

本日付の日経「経済教室」は示唆に富む。テーマはイノベーション(=技術革新)である。もはや使い古された言葉であり、イノベーションを叫んだところで、それ自体はイノベーションには全くあたらない。
……。既存企業はそもそも新しい知の組み合わせによる環境変化に対応しにくいことだ。例えば、米ハーバード大学のレベッカ・ヘンダーソン教授とキム・クラーク教授(当時)は、90年に発表した論文で「アーキテクチュアル・イノベーション(設計思想の革新)」という概念を提唱した。これは、ある産業分野の「部品」に技術革新が起きなくても、部品同士の「組み合わせが新しくなる」ことで革新的な製品が生み出されることだ。

 しかし既存企業は新しい組み合わせに対応するのが難しい。なぜなら、企業の組織構造が「既存製品の部品の組み合わせ」に準じているので、組み合わせの変化に必要な異なる部署間の新しい交流が難しいからだ。

 例えば、50年代にソニーが小型トランジスタラジオを「新しい部品の組み合わせ」で開発して米市場に乗り込んだとき、ライバルだった米RCAは部品それぞれの技術は非常に高く、ソニーのラジオに技術供与までしていた。しかし、RCAの組織が既存のラジオの部品の組み合わせに対応した構造になっていたために部門間の新しい組み合わせの交流が起きず、結局ソニーに対抗する製品を出せないまま市場シェアを奪われた。

 逆にソニーが、50年後に米アップルの「iPod」に対抗する製品を「作れるはずなのに、すぐに出せなかった」のは印象的である。多くの場合、新しい組み合わせを阻むのは技術問題よりも、組織問題の本質と捉えるべきだ。
(出所)日本経済新聞、2014年7月21日

 新しい試み自体が、会社という組織にとって本質的・能力的・技術的に不可能であることは寧ろ少ない。可能であるにもかかわらず、チャンスを実現できないままに終わるのは、能力ではなく組織に問題があるという指摘は非常に重要だ。

その組織は、戦略に従い、戦略は目的に従うものである。一定の目的にしたがって構築された組織が、ひとたび構築されると組織内のヒエラルヒー(=階層的秩序)が定まり、その組織内価値観が共有され、いわゆる主流と傍流が形成されるにいたるものだ。既存組織の中で真に革新的なイノベーションを引き起こすのが大変困難である理由は、本当の革新が完成された組織内秩序と矛盾するからである。

経営・政治を問わず、体制内革新を断行して、既存組織を再活性化させる人物がしばしば傍流から輩出されているのは、まさに理の当然でもあるのだ、な。

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この8月下旬にキッチン・トイレをリフォームすることにした。来年度以降は浴室、玄関、それから壁紙を含めた全体的な内装を変えるつもりだ。

それで市内のリフォーム専門企業の経営者と相談を進めているのだが、その人によれば増改築で一番難しいのは『あれを残し、ここはこういう形で残しながら、あとは新しいものを入れて、全体としてはパリッとした風にしたい』と、そんなリクエストであるそうだ。求められている課題が難しいので、検討に時間がかかり、そのためコストも割高になり、価格交渉にも時間を必要とする。それでまた割高になるという悪循環になるそうだ。

『ゼロから新しいものを入れる』、これが一番簡単で効率的、安くて効果も上がる近道だという。確かにそんな感覚を覚えることは多い。統計学の数理的な論文を読むことが多いが、人の書いた証明を読み進めるのは本当に面倒だ。ロジックの骨格としてどんな話をしたいのか、あらかじめ説明を聞いていると、もう証明の本文を読む必要はないくらいで、自分でゼロから書いてみるのがかえって手っ取り速い。すると人の書いたものとは書き方が随分違ってくる。それでいいのである。真偽を確認できればいいのだから。

日本の明治維新、戦後の復興期も、ゼロから造り直す作業の一例だったのだろう。

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どんなイノベーションも実現する前は「単なるアイデア」でしかない。それを具体的な商品としてコンテンツを定め、生産・販売ラインに乗せていくのは、住宅建築と似た作業であるに違いない。組織の設計も最適化しなければならないので面倒だ。『ここは従来通りで…、あそこは手を入れないように…ここは考え方だけを反映するようにして、……できた商品の斬新性が犠牲になるのは本末転倒ですからネ…』、複雑で迷路のような企画は、それ自体として失格のはずなのだが、それを何とかこなしながら苦闘してきたのが、最近20年の日本企業の経営史であったのかもしれない。



Picasso, Factory in Horta de Ebbo, 1909

天才ピカソは、人生の中で画風が激しく変化した画家として知られている。たとえばモネやセザンヌは、初期の作品と晩年の作品をみて、モネはやっぱりモネだと思うし、セザンヌはどこまでもセザンヌであると感じる。つまり、生涯を通しての一貫性があるのだ、な。そこに安心感とか安定感、方向感があると思うのだが、ピカソは違う。


Picasso, Death of The Treador, 1933
Source: 上と同じ

絵画画面の構成原理はまったく違うが、ピカソの作品と聞けば、上の二つには何かの共通点があるのも確かである。それが同一の人間の同じ感性と精神からつくられたという証しであるのだろう。

理念と方法の選択、作業と運営、完成に至るまで、そこには統一性がなければならない。巨大企業が、組織内で妥協を繰り返しながら、いくらイノベーションを目指しても、出てくるアウトプットは「革新」ではなくて「改善」である。

「お荷物」となった事業分野をいくら改善してもタカがしれている。社内エリートが担当している「花形」もやがて「お荷物」になるのがプロダクト・サイクルである。未来の成長は「問題児」によって実現される。ずっと昔から言われていることだ。

ゼロから造るのではなく、組織内改革でイノベーションを成し遂げるには、真の目的にそって組織内破壊を繰り返すことが避けられない。そんな破壊を、統一的・効率的・迅速に進めるには、選ばれた人物の能力への信望が揺るがない原理が必要だ。アメリカの老舗・大企業でも苦手な領域だ。まして日本の伝統的大企業では容認不能な考え方かもしれない。

だから、新しい事業を始めるなら、そのための組織をゼロから造るのが最速の道かもしれない。

日本人は、しかし、モノだけではなく習慣もまた大事にする。縁を大事にする。一度できたものを磨き上げるには適した国民性だが、見込みのないものを捨てて、新しいものを育てることで割り切るには、とても向いていない。狭い国土で、無駄を省きながら、一所懸命に暮らしてきた中で形成された文化だと思う。

自分に適したやり方で行くしかない。これを今日の結論にしておこう。

2014年7月20日日曜日

犯罪の巣窟より、犯罪の背景が本当の暗黒である

倉敷市で起きた女児拉致事件が無事解決されて周囲の人たちはホッと安堵しているに違いない。犯人のアウトラインは何となく想像できたが、同じ犯罪でも語るも情けない無恥蒙昧さを感じるのは小生だけではあるまい。

拉致監禁の現行犯で逮捕された犯人は、想像のとおり、「無職」であった。

無職であったから犯罪への誘因を覚えたか?それとも犯罪歴があるので、無職を続けざるを得なかったのか?それは現時点では分からない。これからまた週刊誌が、読者の興味に応えようと熱心に犯人の人間像を描くのだろうが、ほとんどはフィクションとノンフィクションが入り混じった読み物になるだろう。

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日本国憲法には第30条で納税の義務が定められている。しかし、税を納めるには所得がいる。所得を得るには仕事がいる。

何度も投稿したことだが、憲法で納税の義務を定める以上は、所得機会の提供に政府は責任を負っているというべきだろう。したがって、転職など摩擦的要因を除外したうえで完全雇用を実現するため、政府はあらゆる努力を払うことを義務付ける「完全雇用法」が法制化されても、決してそれは「違憲」とはなるまい。集団的自衛権よりは、よほど合憲への論理を含んでいると思う。

完全雇用を議論する際には、必ず完全就業と不可全就業が論点になる。全体の4割を超えてもはや「非正規」ともいえない「非正規労働者」を完全就業とみなすかどうか、議論は錯綜するだろう。いま必要な議論はそんな議論かもしれない。

納税を憲法で義務付けておきながら、たとえば所得税に限っていえば、非納税者が千数百万人もいる―参考資料へのリンクをつけておく。もちろん税には住民税もある。消費税もある。まったく税金を払っていない人は、日本国民の中で本当に極々少数であるに違いない。

しかし、3%の納税者が60%の所得税を納めている状況を「これも良し」と納得するには、それなりの合理的理由がいる。それでもなお国家において全て国民は平等の権利をもつ。本当にそうあるべきだと言い切れるのか。「おかしい」と根本的な疑問を感じる人が今後増えてくるかもしれない。

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だからこそ、雇用問題はしばしば時の政権の死命を制する。社会の不安は、何より雇用の不安からもたらされるのだ。

社会の公正に対する国民の信頼の低下は、『社会の根本的変革もやむを得ない』と考える人を相対的に増加させる。破壊への衝動が倫理的にも正しいと感じられるときに本当に破壊が進むものだ。社会全体では、しかし、今までに成し遂げたことの方が、解決するべき問題点よりはるかに多いはずだ。しかし、変革こそ正義という認識はレジーム・スイッチングの社会的コストを乗り越えるべき試練だと言いくるめてしまうのだな。何も日本がかつて歩んだ大正デモクラシーから軍国主義への急速な変化を、もう一度思い出す必要はないはずだ。

「仕事」は、働く人の尊厳を守るものである。カネをもらえばいいというわけではない。職業訓練と職業紹介にカネを使うことは、リターンの高い社会的投資であろう。国籍を問わず、宗教・民族を問わず、良い仕事が日本ではできるというメッセージこそ、今世紀に日本がとるべき国際戦略の王道だと思うのだがどうだろう。

2014年7月19日土曜日

歴史とは真理なのか―原因は過去にあるとは限らない

すべて結果には何らかの原因があるはずだと前提してかかる、いわゆる<因果律>の虚妄性を指摘したのは、英国の哲学者ヒュームである。ヒュームは英国・経験主義哲学の代表者で、カントを独断の夢から覚醒させた先覚者としても有名だ。

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何も雷鳴と稲妻の例を引き出すまでもない。先にあったことが後に来ることの原因であるとは限らない。古代ローマの時代から"post hoc ergo propter hoc"(=これよりも後に、つまりこれ故に)の誤りは、広く認識されていた。

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かくかくしかじかの故に戦争状態に移行した。これは時間的順序に基づいた認識だ。しかし、人間の行動、社会の変化の原因は、結果が起こった時点より前にあるとは限らない。

自然現象ですら時間的前後がそのまま因果関係を証明するものではない。

まして人間関係、社会的現象は人間行動からもたらされるものである。人は、計画し、予知し、将来を先取りして行動するものだ。Aがある行動をとったから、Bがある行動をとったのだと考えるより、Bがその行動をとると分かったから、Aはその行動をとった。それをみてBは実際にその行動をとったのだ。こんな例の方が現実には多かろう。

囚人のゲームで、各プレーヤーが非協力的に自己利益を求めているならば、論理の必然として双方は最悪の選択をする。最悪の結果になるが、どちらに責任があるわけではない。相互依存関係の下で同時決定されているのだ。どちらが先に相手を裏切ったかを論じることに、大した意味はなく、むしろ虚妄に陥る。

人間集団を分析するには、時系列データ(=歴史)も必要だが、集団の構造を知ることが何より重要だ。

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歴史は、ある結末の遠因を求めて、どんどん過去に遡っていく。いわゆる『春秋の筆法』は、小説的興味をそそられるが、科学的に考えて何百年も前の事柄が「原因」となって、現時点の「結果」がもたらされるトランスミッション・メカニズムを想像すらできない。ズバリ、「迷信」である。

しかし、迷信だと思いつつ、人は神社で祈願をし、寺に賽銭を投げる。賽銭を投げたから、何か望ましい結果がもたらされるわけではないが、賽銭を投げたから成功したのだという迷信を人は好むものである。どれほど近代化しても迷信が世の中からなくならない理由の一つは、時間的順序のマジックにある。そのマジックをしばしば歴史家は悪用する。