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何も雷鳴と稲妻の例を引き出すまでもない。先にあったことが後に来ることの原因であるとは限らない。古代ローマの時代から"post hoc ergo propter hoc"(=これよりも後に、つまりこれ故に)の誤りは、広く認識されていた。
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かくかくしかじかの故に戦争状態に移行した。これは時間的順序に基づいた認識だ。しかし、人間の行動、社会の変化の原因は、結果が起こった時点より前にあるとは限らない。
自然現象ですら時間的前後がそのまま因果関係を証明するものではない。
まして人間関係、社会的現象は人間行動からもたらされるものである。人は、計画し、予知し、将来を先取りして行動するものだ。Aがある行動をとったから、Bがある行動をとったのだと考えるより、Bがその行動をとると分かったから、Aはその行動をとった。それをみてBは実際にその行動をとったのだ。こんな例の方が現実には多かろう。
囚人のゲームで、各プレーヤーが非協力的に自己利益を求めているならば、論理の必然として双方は最悪の選択をする。最悪の結果になるが、どちらに責任があるわけではない。相互依存関係の下で同時決定されているのだ。どちらが先に相手を裏切ったかを論じることに、大した意味はなく、むしろ虚妄に陥る。
人間集団を分析するには、時系列データ(=歴史)も必要だが、集団の構造を知ることが何より重要だ。
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歴史は、ある結末の遠因を求めて、どんどん過去に遡っていく。いわゆる『春秋の筆法』は、小説的興味をそそられるが、科学的に考えて何百年も前の事柄が「原因」となって、現時点の「結果」がもたらされるトランスミッション・メカニズムを想像すらできない。ズバリ、「迷信」である。
しかし、迷信だと思いつつ、人は神社で祈願をし、寺に賽銭を投げる。賽銭を投げたから、何か望ましい結果がもたらされるわけではないが、賽銭を投げたから成功したのだという迷信を人は好むものである。どれほど近代化しても迷信が世の中からなくならない理由の一つは、時間的順序のマジックにある。そのマジックをしばしば歴史家は悪用する。
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