2011年12月22日木曜日

家政婦のミタ - 小生、不幸への共感能力が衰えてしまったのか?

日テレ系のドラマ「家政婦のミタ」の最終回が昨日放映されたところ、平均視聴率で40%、瞬間視聴率では42.8%に達したとのこと。

小生の宅では、1回目から連続視聴しようとしたのだが、主人公が勤務する家庭のあまりのバラバラぶり、不幸な生活が画面で展開されるにつけ、「面白い」というより「心が痛い」というか、わざわざチャンネルを合わせて、または録画予約までして、時間を消費して見続ける意義を見失い、それですっぱり止めた。その時点で20%を超えたとか、何とか報道されていた。

その後、記録的な大ヒットになっていると知っても、ドラマのプロットが非現実的であるように感じられ、どうせ非現実的な虚構を劇化するのであれば、そこには誰もが陥るかもしれない運命的な悲劇とか、人間の業ともいえるような愛憎劇でないと、画面に引き込まれないよなあ、家内とはそんな話をして、再び観はじめる気にはなれなかったのだ。小生のいまの仕事は、チームの中で仕事をしているスタイルでもないし、周囲の話題になっているTVドラマを自分もみる、そんな動機ももってないし、ね。

しかし、非常に多数の人は、このドラマが面白いと感じて、観たのだなあ。なぜ・・・?という素朴な疑問があったりする。

ともかく父親像が、見ていて不愉快であった。何かというと人に頼って - 身近な人と相互協力するのではなく - 問題を解決しようとする安直な家族も見ていて不愉快であった。家政婦サービスという経済取引で、家族愛に生じた問題を解決しようというドラマ構想自体にプロデューサーの感性の低さを感じて、それも嫌でありましたな。多くの視聴者は、あえて不愉快な気持ちになりたいがために、自分の意志でドラマであれ、映画であれ、作品を観るはずがない。それはあらゆる芸術作品、芸能作品に共通のことだろう。自ら求めて不愉快な気持ち、嫌な気持ち、腹立たしい気持ちに、なりたいと思う人はいないと考えるのが常識だ。だとすれば、「家政婦のミタ」を視聴した多数の方たちは、小生とは違って、あのドラマから不愉快な気持ち、嫌な気持ちを感じることがなかったと推測せざるを得ない。小生は、追体験することはなかった、というか出来なかったが、他人の不幸を画面で観ることによって、<蜜の味>を覚えるのではなく、ひょっとすると<不安の共有>、<不幸の共有>、<悲哀の共有>、<馬鹿の共有>がそこで為されていたのかもしれないなあ、と。その果ての<心の救済>に大きな関心を抱いたのかもしれないなあ、と。だとすれば、「家政婦のミタ」というドラマは、昔あった「となりの芝生」を代表とするような他人の愚かさ、他人の不幸を素材にした<勧善懲悪もの>ではなくて、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というタイプの<例外なき救済劇>として、多くの人の心に届いたのかもしれぬ、まあ、こんな風に頭の中で屁理屈をこねくり回しているところだ。とすれば、ミタさんって、<阿弥陀如来(=ア、ミタ、如来>なんですか、こりゃ、このドラマのタイトル、二重のパクリだったのか、とね。

いろいろ屁理屈はこねられるが、ただひとつ、上に書いたようには小生、どうしても画面の中に入って行けなかった。不幸な家族像をみて<蜜の味>を感じるのは自己嫌悪に陥るし、かといって<共感>も感じられなかった。<共有>の意識をもつことも出来なかった。これは年齢を重ねた小生が、他の人と何か悲しいことを<共有>する能力が衰えていることを示すのだろうか?それ自体、過剰な幸福を与えられていることを意味するのだろうか?

ドラマ一本くらい何ほどのこともないと普通なら結論することだが、あまりに世間の受け取り方と感覚が合わなかったので、書き留めておく次第だ。

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