Malevich, Suprematism, 1917
モンドリアンのようでもある。もとよりこの二人にカンディンスキーを加えると、抽象絵画という未知の領域を切り開いた創始者になる。この作品ならクレーだと言っても通るかもしれない。
カンディンスキーは第一次大戦勃発後にロシアに単身帰国し、革命後のロシアに何等かの貢献をしようと幾つかの公職に就くのであるが、その際に革命政府との仲介役になったのが、マレーヴィチやタトリンなどロシア・アバンギャルドの面々だった。しかし、まもなくして美学論上の、そうして路線上の対立からカンディンスキーは再びロシアを捨てて、招待されたドイツ・バウハウスにおもむくことになった。
Kandinsky's ideas brought him into conflict with his Constructivist colleagues at INKhUK, Moscow's Institute for Artistic Culture. The Constructivists banned all subjective and atmospheric elements from their painting,... and therefore rejected Kandinsky's art as "harmonious" and "painterly", as "spiritualistic malformations".
Source: Ulrike Becks-Malorny, "Kandinsky" (Taschen), pp.126
良くも悪くも、ロシア社会主義は唯物史観に基づく主観否定を出発点にしていた。人間個人の精神性の尊重、個性の尊重は<ブルジョア思想>として何よりも唾棄するべき誤りであった。すべての歴史の進歩は<労働と生活の現実>からしか生まれ得ないと断定されていた。
冷戦終結後の現在、上のような思想が正当性を認められることはまずないだろう。おそらく過剰なほどに、全く認めるべき価値はない、と断じられるに違いない。しかしながら、人間がかつて提案した思想に、100%間違ったものはないと、小生は思っている。社会的現実よりも、個人の考え方、個人の欲望、個人の信念を優先する考え方が、100%正しいとは小生はどうしても思えないのだ。そんな見方は、唯物史観と同じく、どこか偏ったところがある。
カンディンスキーは、革命ロシアには受け入れられずに国を捨てることになったが、その後のカンディンスキーの作品をみると、明らかに同じ抽象画でも大戦前に制作していた作品とは雰囲気を異にしている。生きる上で相容れなかった芸術家達も、一度自らが受容し、消化した相手からの影響は、いざ敵になったからといって自分の身の内から抹消することはできないということが分かる。
Kandinsky、Composition VIII、1923
対立する相手の考えであっても自分の内面から表出するのであれば、それは自分自身の一部だ。自己表現には率直であることが不可欠だが、それは自分が変わらないことを意味しない。実は変わっているにもかかわらず、変わっていないかのように演技をすることが誠実だと考えるなら、そんな考え方こそ偽善を奨励する誤った思想であるに違いない。
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