2011年12月23日金曜日

うさぎ年は多事多端なのかな?

歳末も押し詰まった昨日の株式市場:
来年4月に電気料金を値上げする方針を発表した東京電力は、収益改善の期待から値上がりし、終値は前日より11円(5.21%)高い222円だった。(出所: 朝日新聞、2011年12月22日15時17分配信)
そりゃあ、電力料金を引き上げれば、東電の売上収入は増える。経営にはプラスになる。
そうかと思うと:
東電を破綻処理すれば、金融機関からの4兆円の融資や株主資本のカット、東電の資産売却、使用済み核燃料再処理積立金約2.5兆円などで国民負担はかなり軽減できるのですが、そうではなくて政府が検討しているのは新株を発行しての国有化。となれば、金融機関も株主も救済され、東電も現状維持されていく可能性があり、そのぶんの負担を、私たちが税金や電気料金で負っていくことになりそうです。 (出所: 朝日新聞、2011年12月14日10時28分配信)
こういう声も以前からある。つまり、東電の株主、東電に対する債権者が損をすれば、それ以外の国民が得をし、国民の損を少なくするためには東電の株主、債権者が負担を増やすしかない。そういう図式で事態はとらえられている、ということだ。

一方の得は他方の損という状況を<ゼロサムゲーム>という。政治の役割の一つは、囚人のジレンマに陥ることを避けて、社会が集団合理的な選択を行うよう議論や説得を通して誘導していくことである。しかし、状況が真にゼロサム・ゲームなのであれば、上手な政治を行うことで社会にプラスの価値を残すことは、理屈からして不可能であり、政治家のなすべきことは、決めるべきことを速やかに決める、そのための手順を踏むこと以外には選択肢はない。その場合、損と得が必ず合計として等しい以上、得をする人の人数が多いほうの案を選択するべきだ。少数の人の損失を避けるために、多数の人が損をするロジックはない。明らかに東電の株主、債権者よりは一般国民の数が多いので、以上の観点からする議論の結論はあまりにも明瞭。東電を一般企業と同じ原理で破綻処理するべきである。

それ故に、東京電力という企業組織を残すことにして、またそれが可能なように国民が広く負担をするには、そうしたほうが他ならぬ国民を含めた社会全体にとってプラスだ。そのことを国民が理解する必要がある。「損をするのではなく、得になるのです」ということを。

これはとても難しいハードルだ。

× × ×

今日は年賀状を印刷した。今年は多くの人が亡くなり、小生の親しい人も世を去った。実に多事多難な一年だった。前のうさぎ年は1999年、その前は1987年だ。1987年といえばアメリカの<ブラック・マンデー>。その年の10月19日月曜日、NY市場ダウ平均は前週末より一挙に508ドルの大暴落となった。下落率は22.6%。これは1929年の大恐慌を超える史上最大の金融激震となったのである。他方、1999年は前年のロシア危機、前々年のアジア危機、拓銀破綻、三洋証券、山一証券倒産など金融パニックで事件が出尽くしたのか、それほどの重大事件はない。うさぎ年だから何かが起きるとは言えないようだ。

印刷した年賀状にはゴッホのスケッチ「アニエールの舟」を彩色してみた作品を入れた。岩波文庫「ゴッホの手紙(中)」の扉裏に挿入されている作品だ。




先日亡くなった叔父を悼む気持ちだろう、親族からは欠礼状が届いているし、届いていない親戚たちも年賀を祝わないことは、当然と思っているに違いない。しかし、小生の弟はいわき市で暮らしており、幸運なことに東日本大震災では家族一同無事であり、家屋、会社ともに何の損壊をも被らなかった。甥が通っている高校では、既にたくさんのクラスメートが遠方に転居するため、福島を離れたよし。同じ場所で、家族がそろって、正月を迎えることは大変幸運なことであると改めて悟る次第だ。だから兄弟がみんな無事に元日を迎えられたことが、小生にとっては何より嬉しい。だから、嬉しい気持ちは伝え合おう。そんな連絡をしたところだ。亡くなった人への哀悼は持ちながらも、やはり残った人と新年を迎えることは、悲しいのではなく、事実として嬉しいのだ。

差し引き計算ってことになるのかもしれないなあ。

家族を失った人、大事な人を失った人、それでも生き残った人と語り合っている人たちはどんな気持ちであるのだろう。

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