2011年12月3日土曜日

抵抗勢力は、結局、何に抵抗するのか?

最高権力を奪取した政治家であっても、やりたいことをやれるわけではない。このことは、戦後日本政治を振り返っても直ちに確認できる。吉田、佐藤、中曽根、小泉といった記録に残る長期政権が、政権として実際に為したことは、極めて限られた事柄でしかなかった。まして個人的な政治信条をどの位まで達成したかとなると、(当人の回顧録を精読するしかないものの)不満ばかりがつのる毎日であったろう。

現実とはそうしたものだと、誰しもが分かっているはずだ。

天皇絶対の中央集権制度であった戦前日本でも、権力者の思い通りにならない事情は同じであった。対英米戦を回避しようと正に東條政権までが努力したにもかかわらず、そのための国家権力はあったはずであるにもかかわらず、また英米から先に戦争を望んだわけではないと見られるにもかかわらず、努力は無に帰した。「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHK出版)の全三巻を読み終えたが、最新時点の事実確認に基づいて、再考察を加えた内容が実に面白い。バブルや戦争についてはマスメディアの果たす役割が大きいとは指摘されているが、戦前日本におけるそのロジックは何か?何も決められない政治を革新するための近衛新体制 − それは権力のコアを生むことになり、幕府政治をもたらすのではないかという懸念によって実現不能になった。

本日の北海道新聞には「小泉改革、民主が主張?」との記事が掲載されている。
「小泉路線にかけていたのはセーフティネット。構造改革は必要だ。改革が悪いという意識に立つとジリ貧になる」。民主党の前原誠司政調会長はこう断言、TPP交渉参加の意義を強調する。
これに対して、
小泉改革を終わらせようとして政権交代を果たしたのに、野田政権は逆行している。
これはTPP慎重派つまり反主流派の主張だ。

派閥抗争盛んなりし時代の儒学政治であるな。「大義名分から逸脱しておる」という批判が、意外なほどに人に訴えかけるのは何故か?それは人が政治に対して複数の価値を求めるからだろう。<社会の進歩>だけではなく<正義>も求める。<正義>をこえた<福祉・恩愛>をも願っている。結局、権力を握った者は、天秤を手に持ってバランスをとるしかない。どうバランスをとるかで無数の選択肢があり、考え方が分かれ、結果として派閥抗争は避けられない。絶対に。

では、政治対立を解決するのは何か?それは政治家の力量ではなく、社会が進もうとする方向とマッチした話しを<そのとき偶々>している人は誰かで決まるのではないか。政治家個人の悲喜劇は、そのとき自分が何をしゃべるか、それは政敵に勝つために「いまはこういうしかない」という巡り合わせで決まるからではないのか。

その意味で小沢一郎を支持する派閥が「反TPP」を掲げ、「反消費税率引き上げ」を掲げるのは、全く皮肉なことだ。自民党がまだ政権の座についていれば、TPP参加を決断できたか、また消費税率引き上げを決断できたか、全く定かではない。定かではないが、もし自民党が決断できずTPPには参加せず、国債と公共事業に頼り続けるならば、民主党は政権交代を目指して一丸となって、TPP推進と財政再建を主張できていただろう。

現在の農業保護政策は、不在地主制度を打破して意欲のある自作農に農地を解放するという当初の理念が、農業保護=国是というイデオロギーに変じる中で進められた政策だ。反自民党政治であれば、反農業保護路線をとるのが自然である。もしも戦前日本のまま大地主に農地所有権が集中していれば、20世紀最後の25年間で、日本の農業は経営大規模化が進み、株式会社の参入もとっくの昔に実現していたであろう。しかし、それを現にいま言っているのは小沢の政敵である。小沢にとっては実に皮肉である。

モノだけが古くなる訳ではない。理念もそうだ。人々をひきつけた大義名分も、時間がたてば古くなる。<抵抗勢力>が抵抗する相手は目の前の政敵ではない。政治家は思想で行動しているわけではないからだ。目の前の政敵を倒しても、それは本来の政敵ではない。抵抗勢力は、移り気な時代の流れというものに対して、抵抗しているのだ。古い価値にこだわって抵抗しているのである。そうする限り、一人の政敵を倒しても、別の政敵がまた現れるだけだ。生き残るためには、時代の流れを味方につける方策を考えるのが政治家の仕事である。

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