2013年10月6日日曜日

日曜日の話し(10/6)

昨日は卒年次生が作成するワークショップ第1回のコメンテーターを務めてきた。朝10時半から昼までは準備作業、午後1時からグループ単位で順番にプレゼン、質疑応答を繰り返す。一人当たりで概ね小一時間はかかる。終わると夕方である。学生相互でダメ出しをしたり、評価できる箇所を指摘したりするのだが、最後に教員サイドの意見を求められてくるので、やはりよく聴いて適切な意見を用意しておかないと沽券にかかわるのである。一方的に話をするレクチャーのほうが、かえって楽かもしれない。一人対一人で対話をする<ソクラテス式教育法>であれば、どうということはないのだが、いま大学で進めている双方向授業は、一人対多人数のダイアレクトであり、こんな対話はソクラテスといえども滅多にやっていない。将棋の名人が多人数を相手に対局するようなもので、非常な知力を必要とするのだな。プラトンが残した幾つかの対話篇を読んでも、登場人物は多いものの、ソクラテスが相手にするのは常に一人ずつである。他の人物は二人のやりとりを聞いているだけだ。だから対話を重視する双方向型の授業を多人数を相手に繰り広げると、本来、時間がかかるのだ。

ということで、この一週間は本当に疲れた。ウォーミングアップもなく、いきなり試合が始まった感じだ。

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母方の祖父の名はT次郎という。名の通り、旧松山藩に出入りをしていた呉服屋の次男坊であった。但し、店は明治維新で後ろ盾をなくし、明治中ごろにはつぶれてしまい、祖父の父が-当時としては破天荒なことだと思うが-独りでアメリカ西海岸に出稼ぎにわたって、日本に帰ってから再興してくれたお蔭で上の学校まで進学することができたということだ。一生判事を務めた人であり、昭和初めに任官し、敗戦と憲法改正を経て、高度成長がはじまった昭和30年代半ばまで司法官としての仕事に携わり、退職してからは郷里である松山市の南町2丁目2番地25号にさして大きくはない隠宅をもうけて、亡くなるまで祖母と二人でそこに暮らした。退職後には一応「▲▲法律事務所」と墨書した看板を玄関に掲げていたが、顧客と相談している祖父の姿は滅多に見たことがない。また愛媛大学法学部の非常勤講師をしたとも耳にしたが、大学の講義や学生の気質について話をきいたことは一度もない。

その祖父の家を、小生は数えきれないほど訪れては話をしたが、結局、一度も聞けなかったことは数多くある。中でも残念なのは、敗戦と日本国憲法への改憲のあと、どんな思いで法廷に臨んでいたのかである。仕事盛りの中年であったと思うし、昭和26年には小生の父と母が結婚している。家庭の父親として、世の中の激変をどんなふうに語り、そのころ思春期だったはずの私の母や叔父たちはどんな思いで父親の話しを聴いていたのだろうか。そして、祖父の勤務する裁判所はその当時、どんな雰囲気で新しい憲法や、新しい民法を受け入れて、判決を出していたのだろうか。こんな質問を口にしたいと思っていたが、とうとう一度も聞くことはなかった。

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戦時においては、ほとんどの芸術家、たとえば画家は戦争絵画を描いていたようである。中でもパリを愛し、最後はエトランゼとして死んだレオナール・フジタ(=藤田嗣治)の戦争絵画は有名である。どうした拍子か、日本が太平洋戦争を開戦した年、藤田は日本に帰ってきていた。


藤田嗣治、「12月8日の真珠湾」、昭和17年

藤田は、太平洋戦争中に相当の数の戦争画を驚くほどのスピードで制作したという。こうした作品は、藤田芸術という範囲の中でとりあげられることが少ないようだが、まぎれもなく藤田嗣治という芸術家が制作した作品の相当部分を構成するのである。


藤田嗣治、「サイパン島同胞臣節を全うす」の一部分、昭和20年(?)
(出所)上と同じ

上の二作品の引用元であるブログでは
暗い中、赤ん坊に乳を飲ませる母親、自分の足で銃を引く日本兵、崖より投身する女性たちの姿が描かれている。 (中略) 藤田は想像力だけで、これだけリアルな場面を描けたのだろうか?
と質問を投げかけている?

この作品にも「扇動した人たちとその誤りの結果を担う人たちとが違う」という日本社会の持病のような痼疾がうかがわれる。古代ギリシアにおいて、ただ政敵を倒さんがためにアテネ市民をペロポネソス戦争継続へと扇動したクレオンは、最後は身をもって軍隊を指揮し、戦死という形で自身を清算したから、罪は罪として大変立派である。日本においては、国民を扇動する政治家が言行を一致させることは極めて稀であり、最後は国民だけが盾となって命を失うのである。

リアリズムは、何の主観をも交えずありのままに目に見える情景を描くことで、まさにそうすることによって、自分自身の全ての想念を伝える技法である。しかし、上のブログの筆者も問うているように、サイパン島が玉砕するその時に、藤田嗣治は現場にいたわけではない。だから、上の作品は画伯・藤田嗣治の心を表現した作品であるとみるべきだろう。

「戦争画」というカテゴリーに分類されるが、それをみる現時点の私たちには寧ろ<戦争=愚行>という自然な認識が伝わってくるのを否めない。藤田ばかりではなく、当時の芸術家の心の中の本音がどうであったかはともかく、戦争画がそれを見る人を<国粋主義者>に変えることなどできそうにもないと思われる。できると思うのは皮相的だ。軍人に求められるがままに、戦争画を大量に制作したからといって、軍国主義に迎合し戦争を賛美する活動に従事したとは言えない。その証拠はいま戦争画をみる私たちの心の中にある。




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