2013年10月27日日曜日

日曜日の話し(10/27)

一昨年の初冬、小生とはわずか七歳違いの叔父が急逝したという電話があって吃驚した。確か週の半ばであり、通夜には出られず、その後の進め方を世間の相場で予想して、同じ週末に葬儀・告別式があるのであろうと断定して飛行機で上京したものである。ところが、石神井にある叔父宅を訪れると叔母が出てきて、まだなのだという。斎場の順番を待っていて当分かかるのだという。棺も自宅にはもうないのだという。そういえば、最近の首都圏では葬儀を行うにも順番待ちをしているのだと何かの記事で読んだことがあるのを思い出した。それで僅かな香典と幼少時に叔父と二人で撮った古写真を預け、また彼岸頃にうかがうからと言い残して、北海道に戻ったのだ。

落胆しながら、芝の増上寺に立ち寄って、辺りを散策してから帰るかと思いついて境内に入ると、どういう拍子か、滅多に開いていない境内裏の徳川家霊廟が開放されていた。「まあ、これでも見て帰れや」と叔父が言っているのかと不思議な感じがしたが、永井荷風の随筆『霊廟』に書いてあったある下りを思い出した。もちろん文章を暗記していたはずはなく、帰宅してから確認したのは以下の箇所だった。

ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏蘭西の地層から切り出した石材のヴェルサイユは火事と暴風と白蟻との災禍を恐るる必要なく、時間の無限中に今ある如く不朽に残されるであろう。けれども我が木造の霊廟は已にこの間も隣接する増上寺の焔に脅かされた。凡ての物を滅して行く恐ろしい「時間」の力に思い及ぶ時、この哀れなる朱と金箔と漆の宮殿は、その命の今日か明日かと危ぶまれる美しい姫君のやつれきった面影にも等しいではないか。
 (出所)「永井荷風はこれだけ読め!」(Kindle版)所載、『霊廟』から引用

荷風は「まず順次に一番端れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣りする二代将軍の霊廟」を参拝している。これらの霊廟群は火災からは免れたものの、太平洋戦争時の空襲ですべて灰燼に帰したので、まさに荷風が予感したとおり、全ての物を滅していく恐ろしい「時間」の流れの下に沈みゆく運命をたどったわけである。


有章院(七代将軍)霊廟

現在は、上の写真に見るような、荷風が目にしていた建築物はもはやない。一部の燃え残った門が、東京プリンスホテルの敷地の一隅に残されているだけである。それでも墓所としては、増上寺の境内裏に集められて祀られている。叔父が亡くなって、葬儀に出席しようと上京して、それが空振りに終わったおかげでそこに参拝することが出来た次第なのだ。

小生がまだ四国・松山市近郊の漁村で暮らしていた時分、休みになると松山にある父の実家に遊びに行き、まだ中学生か高校生であったその叔父は、やれ蝉取りだとか、トンボとりだとかに小生を連れ出したものだ。小生が鳥もちで蝉をとるのを覚えたのは、その叔父のお蔭である。小生が父の転勤で伊豆・三島で暮らしていた頃、半月もあけずにわが家を訪れては、小生や弟妹たちの遊び相手になってくれたが、その頃叔父は立教大学の学生であり、東京から三島までは近くはなかったはずだ。それでもあれほど足しげく来てくれたのは、叔父が父の末弟であり父とは19歳も違っていて、叔父にしてみれば兄である父よりは、小生達とのほうがずっと会話しやすかったせいかもしれない。亡くなった時の叔父の遺影は、しかし、若いころの風貌とは様変わりで、むしろ小生が記憶している祖父の顔貌を思い出させるものだった。永年の無沙汰をその時ほど感じたことはない。

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