2013年10月26日土曜日

断想–思いついた事

「国立大学の授業料は、原理からいえば、無料でいいのですよ」と会議で発言していた先輩は既に引退してしまい、そんな意見をいう人はもういなくなった。聞いたその時は「それは経済の規律に反するだろう、受益者負担が本筋だ」と思ったのだが、その後だんだんと考え方が変わってきた。

最近、感じることの第一はトップマネジメント層の<デリカシーの欠如>というか、<鈍感>、<勘の悪さ>だ。現総理にもずっと以前から感じているし、それは結局、カネで苦労したことがない、親が病気になったり、いなくなったり、家庭の都合で何か大事なことを諦める辛さを味わったことがない、生きるための涙を流した経験がない、そんな風に順調に成人できた人が、余りにも多く日本の組織の上層部を占めるようになったためではないのか。そう感じることが増えた。つまり、世代交替を繰り返すたびに指導層は中流上層部(Upper-Middle)以上に限定されるようになってきてしまっているのじゃあないか。「法律専門家って、お金がないとなれないよねえ…こんなんじゃ、お金をもっている顧客の気持ちしか理解できなくなるのじゃないかねえ」、カミさんとそんなぼやきを言うことが増えたせいばかりではないと思うのだ。

小生と同年輩で亡くなった義兄は医師であったが、国立大学医学部の授業料は年間5万円も ― 当時の貨幣価値を考えても十分安い金額だ ― かからず、世帯主を亡くした家庭であっても下宿をして十分卒業可能な進路だった。現在は、国立大学といっても授業料だけで年間50万円強である。それでも私立大学に比べて不当に安いと批判されているが、この不平等よりも、国公立大学の授業料引上げがもたらした結果を重視するべきだと感じるようになった。

国公立学校プラス返済義務のない奨学金で一流の高等教育を受ける機会を一定数かつ十分な数、別枠で提供しておくのがよいと今では感じている。税で支えて他人の(将来性ある)子を育てるわけだが、支えてもらった子は国に感謝の気持ちをもち、その果実は皆に帰ってくると思うのだ、な。その人の出世を税金で助けるなどと狭量な気持ちをもつべきではないと思う。昔も今も人材は等しくこの世に生まれているはずだ。そして生まれる家は貧富を問わないのだ。社会が育てれば大きな花を咲かせる人材を、万が一、社会の底辺に沈むに任せるなら、これほどの人材の浪費はない。

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以前の投稿にクレームがつき管理者であるGoogleの裁量で削除されたことがワダカマリになっているわけじゃあないが、不特定多数が閲覧可能な文章でどこまで書けるかである。

もちろんマスメディア、出版業界は、ビジネスであるので「表現の自由」、いや「報道の自由」があると言っても、弱者である個人に配慮するというモラルは持つべきで、言っていいことに一定の範囲はあると思う。

しかし、個人として意見を表明している文章を閲覧できないようにする権利が、社会の側にあるのかというと、決して自明な問題じゃないと思うのだ。ブログで公開してはいけないというなら、印刷物を広く配布するのもダメだという理屈になる。演説をするのもダメだという論理になるだろう。他人を根拠なく誹謗中傷するのはなるほど違法だ。しかし、社会で起きた事柄を話題にして正邪善悪を語るとき、「自分は攻撃されている」と感じる人は当然いるであろう。不愉快な感情を与えるだろう。「だから、そんな話題をとりあげるべきではない」という結論にはしないというのが「表現の自由」ということではないだろうか。個々人の感情を超えて、社会として議論の自由は保障しておく。この理念が先にあると思うのだが、どうだろうか。

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昨日の投稿とは別に、景気の一服感があると政府は認識しているようだ。10月24日に公表された政府の「月例経済報告」では次のように表現を変更している。


輸出が足踏みしているが、企業経営者の心理面は大いに好転しているという状況だ。心理面が好転すれば積極的な経営戦略をとるようになろう。しかし、それが国内投資になるかどうかは不確定である。日本をビジネスの場にしようという企業は、国内勢だけではなく広く海外から招待するのがベストである。もう20年くらい、こんな話しをずっと続けている。もうやってもいいのじゃないか。


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