学力テストの成績公表については、たとえば産経新聞は次のように(基本的には)賛成論を展開しているので、個人的に関心をもっていた。
小中学校で実施される全国学力テストの結果を教育現場にどう生かしていくべきか。細かいことをいえば、<結果の公表>を行うのか<情報の公開>を行うのか、ここを明らかにしておく必要があるが、これはまた別の論点だろう。
学力テストの一部科目で今回、47都道府県中最下位だった静岡県の川勝平太知事が、全国平均を下回った学校については校長名を公表すると述べたこととも絡み、議論を呼んでいる。
学力テストの原点は、教育現場のレベルを高め、児童生徒の学力向上に役立てることにある。川勝氏の方式で学力伸長がはかれるかどうかは疑問だが、結果は、自分たちの学習到達度を知る上でも、基本的に公表するのが筋だろう。文部科学省は、その方向であらためて検討を進めるべきだ。(出所)MSN産経ニュース、2013年9月30日
静岡県知事は、全国平均を下回った学校については校長名を公表するという方針でもあったようだ。それはともかく、「自分たちの学習到達度」を知りたいのは、色々な立場の人がもっている願いであろうというのが賛成論の骨子だ。
小生も、職業柄、テストやレポートを評価しては成績をつけている。つけた成績は、最終結果だけでなく、できるだけ細部まで学生たちに分かるように努力している。学生たちの多くは、自分の評点をはやく知りたいようだ。悪ければ、悪い理由を分析し、良ければ自分の勉強方法に自信を感じるだろう。それは学習上、良いことだと思う。
しかし、学力試験の結果公表論争は、上のような内容の議論ではない。受験生個人に評点、校内順位、全体順位などを伝えるのではなく、学校別に成績を公表するというものだ。このような手法が、どんなメカニズムで生徒の学力向上に結び付くのか、決して自明ではないだろう。
また、公表するのは筆記試験の得点だけであって、子ども達が成長する過程で身につけるべき性質、参加することが望ましい活動など、筆記試験の得点以外の色々な次元については、なにも評価せず、フォローもしないのですかという疑問も出てくるだろう。
上の記事を読んで思い出した本がある。ずっと昔に読んだ本だが、著者は田辺英蔵という人だ。タイトルは残念ながら思い出せないが、確か『リーダーシップ・・・』のような語句があったかと思う。田辺氏は、ホテル経営者でありながら、日本では高名なヨットマンであり、同時にスキューバ・ダイビングの草分けである。氏が、月刊雑誌『KAZI-舵』に連載していた「キャビン夜話」は、小生も若いころ多少ヨットに乗っていたこともあるので、毎月楽しみにしていた。単行本も買い揃えた。そんな田辺氏の文章なのだが
一般にレストランの客の入りは、経営者たるオーナーの責任であり、シェフの責任でも、ホールの責任でもない。こんな風だったと記憶している。これを敷衍して、一般に戦争の勝敗の責任は、国の指導者の責任であり、戦場で戦った隊長や兵士の責任ではない。こんな風に応用することもできよう。もちろん、<一般に>である。
学区制が設けられている都道府県、市町村において、その学校の学力テスト平均点がいかなる順になるか。その順位を上げるのが、それ自体としてはいいに決まっているが、そのために学校の校長や教員が努力できることは極めて限定的である。というか、現場のスタッフで何とかなる余地は、小生は、ほとんどないのではないかと思案するのだ、な。仮に、学区制が廃止されて、家庭は子供を通学させたい学校に入れることができる、そうなったとしても現在の教育システムの中で、校長先生が単独で出来ることはほとんどない。小生の毎日の感想はこんなところだ。
寧ろ知事がそう考えるなら、静岡県が全体として、学力向上戦略を練りあげて、いくつかのモデル地区を定めて、新たな教育プログラムを導入するやり方が、もっと効果的だと思う。もちろん、その試みと目標を県民が了解している必要があるし、学校現場の運営責任者は、その戦略の意図を正しく理解したうえで、具体的なプランを実行する有能な校長でなければなるまい。
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今年2月の投稿が法的あるいはその他の基準に抵触してブログから削除されたとの通知がGoogleから届いた。タイトルもまるごと削除されたので、何を書いたのか覚えていないが、Googleが案内する手順によって調べてみると、そのうち詳細が確認できるようでもある。
これまた上の話題に似た事柄であって、誤りがあるなら、どこがどんな意味で誤りであったのか知りたいと感じるのが自然であり、「ならぬことはならぬのです」と服従を強いるのはアンフェアだろう。社会的マナーは、全うなブログ投稿者であれば自然に守ろうとするはずであるし、そうであれば何も社会的な問題はないというのが小生の立場だ。時に覚えずマナーに違反した際には書き手は謝罪をするべきなのである。もちろん小生もそうであり『本当に失礼なことを申し上げました』と言わなければならない。しかし、小生がしらずhurtfulないしillegalな記述をしていたとしても、それを謝罪ないし弁明する機会は(あまりに匿名のスパムコメントが多すぎるので今はGoogleアカウントもしくはOpenIDコメントに限定しているが)コメント欄で設けていたはずである。今回のことが仮に「このような見解を不特定多数が閲覧可能な形で述べるべきではない」と、匿名の権力がまるで憲兵のように活動していることの現れであるなら、覚え書きのようにブログを書いていこうという最初の目的とは相いれない。
縁があって、ずっとGoogleで書いてきたが、この世界が自分に適した世界であるのかどうか、時間がたてばやがて分かっても来ようと思うのだ、な。
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