2013年10月20日日曜日

日曜日の話し(10/20)

朝方夢をみる。貿易財市場の需要と供給の議論を誰かとしていて、需要曲線の方にはキンクがあり、ある価格以下で垂直になっている。円高になると輸入財は割安になるが、円高の度が過ぎると輸出産業への打撃が表面化してGDPが低下するので、輸入財への需要は増えない。それで世界のGDPは…、何だかそんな理屈を一生懸命にこね回しているのだ。大変、疲れる夢である…休息にならない。そう言えば、日中に解けなかった数学の問題を、小生、夢の中で解いたことがある。そのときは、いいタイミングで目覚め、まだ解き方を覚えていたので実際に紙のうえに書いてみた。そうしたら本当に解けていたのだ。「オレは天才かもしれないなあ」と思ったが、一度だけであった、そんなことは。

夢の中に母が登場するのは、母が亡くなる前からそうで、それはいいのだが、しかし何かを母と話していた夢は覚えていないのだ。父が仕事に行き詰まり体調をこわし、家にいる時間が増えてきた頃、ある朝小生の夢にでてきた母は窓辺のカーテンの端にいて、じっと立ち尽くして外を見ていた。夢をみている小生自身は、その夢の中にはいない様子で、ただじっと何をするでもなく寂しそうに佇んでいる母の姿を夢に見ているだけだった。このことをずっと覚えていたのだが、はるか後年になって家に帰ると、窓辺から外を見ていたらしい母が「おかえり」と言ったあと、また外の方に顔を向けてそのまま立ち尽くしていた。父が亡くなってあまり日数がたっていなかった頃のことである。今から30年も昔のことになってしまったが、その情景はこれからも忘れられそうもない。

絵画をみれば人物がそこにいる。肖像画もあるし、風景画であっても点景として人がそこにいるものだ。しかし、ほとんど多くの場合、人は画家の方を向いているものである。モネの風景画に出てくる人物はまさに点景としてであって、人とモネの間に交わされる思いがテーマになっていることはない。それでも人は画家をみている。マネもそうであるし、セザンヌもそうだ。人を描くとき、画家はその人の顔をみて、目や口を描いている。小生が夢に見たような「背を向けた人」を描き、何かを表現している作品はあまりないのだな。

エドガー・ドガは、絵の中にいる人と目を合わせていない、後ろ向きの人間の佇まいを描き、そのことで美しさとそこはかとない孤独を表現している芸術家だと気がついた。


Degas, Two Dancers In The Studio I

確かに主たるバレリーナは背を見せていないが、画家ドガを見ているわけではなく、こんな描き方でドガは二人の少女を描いていることになるのかというと、描いているのは人間ではないとあの世にいるドガが答えてきそうだ。寧ろこの絵を見る人がいだく思いは、背をむけた右側の少女の表情、心の中の感情へと向かうだろう。画家ドガは、一歩下がって、描く人に徹している。その分だけ、画家のいる世界と画中の人物がいる世界は、遠くにある。


Degas, Racehorses at Longchamps
Source: 上と同じ

この作品は、多くの人物がいるものの人物画(Portrait)ではなく、風景画(Landscape)にカテゴライズされているのだが、確かに誰もが人物画ではないと納得するだろう。それにも関わらず、やはりこの作品は人物がおらずして成り立たないわけで、描かれているのは背をむけて馬を歩ませて去る騎手達の姿である。

共通しているのは、バレリーナや騎手とドガが目を合わせているわけではなく、というかそもそも絵の中の人物にはドガという画家の存在が見えていないという点である。その意味で、絵の中の人物と画家は別の世界にいる。孤独と寂しさの香りがするのは、夢をみる人と、夢でみられる人が別の世界にいるのと同じ論理、同じ関係に支配されているからだ。そこに人がいて、親しさや愛しさを感じるのだが、それでも話しかけようもない自分は、この世界に一人でいる、そんな淋しい孤独をドガは描いている。



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