2013年10月3日木曜日

石橋湛山の靖国神社撤廃論

小泉元首相が脱原発を唱え始めて菅直人元首相と意気投合するなんてことが起こるのだから、世の中は変わるものだ。

昨日、勤務先のビジネススクールで後期が始まった。毎年度後半は、ビジネス経済学と将来予測を担当している。予測は構造時系列までは余裕がないのでいけず、ボックス・ジェンキンズまで。複数時系列は、定常化した後のVARで終わりだ。となると、共和分がそっくり抜けてしまうのだが、まあ2単位科目でそこまでは無理というものでござんす。それにしても時系列分析など、ずっと以前は「高級な株価チャート分析」と言われていたものだ。世間は変わるのだ。昨日もこんなやりとりをした。
学生: 景気が変化すると心理も変わりますよね。
小生: そうです。そのためにマクロの議論をするわけです。景気の局面を<レジーム>と言っているんですが、たとえば株価でもゴールデンクロスなんて言葉があるでしょう。25日平均線が75日平均線の下から上にクロスする。これは今後上昇を続ける兆しであるとかね。まったく非科学的なジンクスにすぎませんと、前には歯牙にもかけなかったんですが、これは心理が変わるということなんですよ。これからは弱気から強気になるぞと、それだけで株価の変動パターンは変わるわけなんですね。世の中は変わる、一律には当てはまらないということです。
世の中が変わるというと、伊勢神宮で式年遷宮があり安倍首相も参列した。政治と宗教の分離に反するという問題指摘もあるが、そんなことを言い出せば、米国の大統領は教会に行ってはいけないことになるし、そもそもドイツの与党は「キリスト教民主・社会同盟」だ。大体、在職中に亡くなった大平首相だが、何かの宗教行事の下で葬送を行っているのではないか。細かいことを言えば、不信任案が可決され解散となったので前議員であり、従って憲法上の現職首相ではありえないという理屈になるが、内閣の職務は次の首班指名があるまでそのままに継続されている。でないと行政権が不在となり政府機関を閉鎖するべきだという議論になる。こんな風に重箱の隅をつつくのは、おそらくクイズやペーパーテストなどの虚業が一番得意な輩であろう。

ともかく世の中、変わるものなのだが、変える人が現れない限り決して変わらない。そんな面があるのもまた事実だ。

× × ×

リンク集は、以前は面白いので定期的に作ったりしたが、その後はふっつりとやめた。ところが、これはリンク集になるのじゃないかと思ったのが、戦後日本における靖国神社の扱い、というか「敗戦国が負うべき戦争責任」というものについてである。

まず石橋湛山元首相がまだ経済誌編集部にいたころに公表した「靖国神社撤廃」の提案。

少々長文だが、ネットからなくなるといけないので、念のためここにも引用しておく。
 甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも,或は忘恩とも不義とも受取られるかも知れぬ。併し記者は深く諸般の事情を考え敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神杜を廃止し奉れと云うそれである。
 靖国神社は,言うまでもなく明治維新以来軍国の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし,其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程,我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り,靖国神杜の祭典も,果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や,疑わざるを得ざるに至った。
 殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し,其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には,未だ靖国神杜に祭られざる者が多数にある。之れを今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには,二年或は三年は日子を要し,年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが,果してそれは可能であろうか。
 啻に有形的のみでなく,亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が,何と之れを見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け,祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら,卸て戦没者に屈辱を与え,国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。
 又右〔上〕の如き国際的考慮は別にしても,靖国神杜は存続すべきものなりや否や。前述の如く,靖国神杜の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて,殊に其の大多数は日清,日露両戦役及び今回の大東亜戦争の従軍者である。然るに今,其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として,国家を殆ど亡国の危機に導き,日清,日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。
 遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても,之れを祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば,今後此の神社が存続する場合,後代の我が国民は如何なる感想を抱いて,其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば,之れは我が国家の将来の為めに計りて,断じて歓迎すべき事でない。
 言うまでもなく我が国民は,今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し,其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは,恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず,更生日本を建設することはむずかしい。
 我々は茲で全く心を新にし,真に無武装の平和日本を実現すると共に,引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それには此の際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切のものと錐も,之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し,或は戦没者自身の立場に於て考えても,斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する。
 以上に関連して,茲に一言付加して置きたいのは,既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず,或は祭り得ない場合に於て,生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く,此の戦争は国民全体の責任である。
 併し亦世に既に論議の存する如く,国民等しく罪ありとするも,其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくも満州事変以来事官民の指導的責任の住地に居った者は,其の内心は何うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が,依然政府の重要の住地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は,仮令連合国の干渉なきも,許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終るべきことではない。
(出所)ブログ「社会科学者の時評」、2010年10月9日から転載

石橋湛山は、戦前においては<小日本主義>を主張し、世間の<大日本主義>と対立した。そのことは知っていたが、戦後早々の昭和20年10月という時点で、早くも靖国神社の存続について本質的な疑問を呈していたことは、卓見というべきでないか。小生も聞いたことがあったような記憶はあるのだが、実際の論述をみるのは今回がはじめてだ。

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本ブログでも靖国神社は何度か登場しているが、小生の見るところも、上の引用と概ね同じである。但し、上記ブログを全体としてみると、昭和天皇の、というか「皇室」という存在が担うべき戦争責任を厳しく認識し、それを指摘している。厳しすぎるのではないかと心情的に感じる面もあるのだが、純ロジック的には正しいことを言っていると認めざるを得ない。

石橋湛山の靖国神社論については、ちくま新書「靖国問題」(高橋哲也)を論じたブログ
http://nzisida.lolipop.jp/05_06_04.htm
も一読の価値がある。

ドイツは、戦後アデナウアー政権の下で、公職追放となっていた元ナチ政権の関係者の大半を復職させた。またドイツ軍の名誉回復宣言を行っており、それが今日に至るドイツ国防政策の土台となっている。

それでも、戦争責任のとり方という面で、周辺欧州諸国と世界がドイツを見る目線は、日本が近隣諸国から受ける視線とは全く違うものがある。そんな違いをもたらす幾つかの要素として、<靖国神社>、<国家神道>、<天皇>という明治から昭和20年に至る戦前日本を支えた三つの太い柱が潜在していることは、まず否定できないとみているのだ。そして、大半の日本人にとって、上のファクターを<いまさら>批判されることは耐えがたいという感情がわきおこるのも、事実であろう。だから問題の解決は非常に難しい。それこそ西郷隆盛クラスの超カリスマ的リーダーが日本の側に出現しない限り、問題を突破できないのではないだろうか。



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