2018年3月17日土曜日

官僚人事システムに関する投稿の棚卸し

安倍政権の先も地平線の向こうに見えてきた状況になって、世間の関心はようやく内閣人事局の位置づけへと集約されようとしている。

遅い! というのが小生の感想だ。なぜマスメディアはもっと早期に集中的人事管理のマイナス面を取材しようとしなかったのだろうか。財務省による文書改竄事件に至る前に、細かな兆候、保身現象は少し取材すれば容易に得られたはずである。それを広く報道するだけでも現在の混迷を避けることができたかもしれない。

『後悔、先に立たず』ではないだろうか。

これまでの投稿を<内閣人事局>で検索すると以下の3本がかかってきた。

メモ: 行政における政治家の役割(?)と内閣人事局(2017年6月28日)

覚え書 − 「問題があるのはまずい」症候群の一例(2015年6月8日)

覚え書き − 国会の在り方は分岐点にあるのではないか(2012年11月7日)

★ ★ ★

一番古いものは2012年11月7日に投稿している。安倍内閣発足前である。この時点で書いているのは「内閣人事局」という具体的組織というよりも、むしろ国会が果たすべき役割、議員の資質というものだった  ―  多分、民主党政権の唱える「政治主導」に心底から失望してこんな事を書いたのだろうと推測される。さわりの部分を引用しておく。

国会議員という人間集団は概ね<素人>である、というか素人でも偶々投票日当日に多くの有権者から票を集めれば、さしたる資格審査や業績審査を経ることなく、自動的に国会議員になるのが現行の制度だ。こんな風であるにもかかわらず、戦後日本においては国会は国権の最高機関であり、立法府としての役割だけではなく、専門知識を必要とする行政府にも議院内閣制や政務三役という名目で人を送り込み、行政の細部にまで彼らの裁量が働く形になっている。特に経済政策は、とるべき方向がロジックとして決まることが多いのだが、審議する議員がその議論を理解できない、用語を理解できないという状態が仮にあるとすれば、運転を知らない人が助手席に座って運転を指示するようなものであろう。

今日の時点になって修正するとすれば、国会議員という人間集団は<素人>である、という文章だろう。国会議員は明らかに<素人>ではない。政治のプロであり、集票にかけるスキルは並みの水準ではない。選挙区において支持母体を管理し、人心を掌握する資質も持っている必要がある。多数者の支持を集めるスキルがあるのだとすれば、国会議員はプロでなければなるまい。

2012年の投稿では、このような分野におけるプロ集団が官僚集団の業務の場に入ってきて、具体的指示を行うことが可能なのか、適切なのか、そんなことを書いている。

その線で人事というキーワードにかかったものとみえる。

直接的に「内閣人事局」についてまとめている投稿は昨年6月のものである。

行政府は、国会の立法意志を実行するための実働部隊である。事後的な結果としては、行政府の公務員は常に与党の側の意志を実行する。だから社会の多数派の利益の側に立って行動する。個々の公務員は政治的意志を持ってはならない。国会議員を中心とする内閣の命令によって行動しなければならない。内閣に従っている限り、国会の意志を実行していることを意味し、個々の官僚はニュートラルであり、不偏不党であり、行政機関が政治的に活動することにはならない。 
これは統治の論理として確かにトリッキーなところだ。 
 とはいえ、こう考えると政治家が政治家であるのは国会議員としてであり、内閣の一員として大臣の椅子に座っている時ではない。
『公平であるべき行政が歪められた』という指摘は、昨年の加計学園問題で時の人となった前川・前文部事務次官のほかにも、新聞・TVなどマスメディアでよく口にされる批判である。しかし、行政は政治によって決せられ、その政治は民主的に選ばれた議会の多数派が方向づけていく。そんな原則に沿って考えれば、行政は事後的には決して公平ではありえない。この点を書いているのは、今でも有効だと思う。と同時に、国家の行政は法令に根拠づけて実行される以上、法の運用にバイアスがあってはならない。もし法の運用段階において、一部の人間集団が優遇されることがあれば、それは「行政が歪められた」と、そんな批判がなされてしかるべきだ。そんな筋道にもなる。

その上で、内閣人事局については以下のように述べている。

政治と行政は明確に線を引くべきだ、と。こういうことかもしれない。内閣は政治の執行部で、政治は国会という場で行う。これが戦後日本の国の形なのだろう。 
上級官僚の人事は、内閣官房に人事局が設けられ、内閣が決定できることになった。それは縦割り官庁の弊害を避け、政治のスムーズな実行に必要だとされたからだ。しかし、官庁が政治の意図通りに行動しないのであれば、行動するように規則を密に定めればよい。進捗を報告させればよいだけの話だ。国会にはそれができる。 
もしもマイナス面が大きいなら、内閣が人事統制を行う先験的ロジックはない。何しろ国会は内閣総理大臣も指名しているのだ。上級官僚の人事を了承したって奇妙でないだろう。行政府が人事原案を提出する必要はあるだろうが、国会が人事原案を検証し、承認する権利をもつほうが、ひょっとすると文字通りの「政治主導」になるとともに、むしろこの方が官僚の士気は上がるのかもしれない ― 両院で承認するのか、衆参のどちらか適当な院で承認するかの判断は別にあるだろうが。
高級官僚人事の内閣による集中一元管理は、その昔の<党高政低>現象への反省から実現したものだ。政府の主たる業務はつまるところ予算編成に帰するのだが、予算を所掌する大蔵省に対して、自民党では政務調査会が農林族、道路族等々の族議員を養成することで高い調整能力を持つにいたり、官僚組織と自民党組織が一体化・融合化するに至った。行政官庁の長たる大臣より、自民党の族議員の意向に官僚は従い、ついには官庁内部の人事にも自民党族議員の意向が反映され、建前上の責任者である内閣は空洞化するに至った。その無責任体制への反省から内閣人事局による集中的人事管理を(及び政党の運営も政党交付金制度・政治資金規制強化を通して管理集中化を)すすめるべく大いに努力をし、マスメディアも支援をしたわけである。

なので、方向性として、内閣人事局を否定することはできない。この辺の論点を上の投稿では書いている。やはり、首相官邸が高級官僚の人事を一元的に決めるのではなく、国会による承認(=日銀総裁等と類似)、国会への報告、国会への回覧など、何らかの形で国会が最終的な認証機関となる必要がある。そんな趣旨のことを昨年は考えたようだ。

ま、昨年の考察に付け足すことはあまりない。あえて言えば、いま考え始めているのは日本国憲法の中で立法府、行政府、司法府を規定しているその骨格である。まず国会は国権の最高機関であると規定している。しかし、行政府の長である総理大臣は国会の指名に基づいて天皇が任命するとされている。総理大臣は内閣を組織し、天皇は内閣の指名に基づいて司法府の長である最高裁判所長官を任命する。そんな骨格だ。天皇は国会を召集するのであって議長を任命するわけではない。天皇に行政府の長と司法府の長を任命する権能を与えているのは、天皇は日本国民統合の象徴であると認識されているからである。この時点で、総理大臣は単に議会多数派の要望をそのまま機械的に実行するだけでは職務を果たしたことにならないという含意が読み取れる。思うのだが、戦前の大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法の大きな違いは、国会の新たな権能として確かにあるものの、戦前期の政党政治と現在の政党政治の本質的な違いは本当に現行憲法で実現されているのだろうかと疑わしくなる時がある。

こういう論点は1年前にはまだ言及されていない。ただ、行政府の人事に国会が関与することは(日銀総裁、公正取引委員長などごく一部の国会同意人事を除き)ないのであって、多くは天皇による認証を得る形になっている。例えば、各官庁の副大臣以上は認証官であるし、法務・検察の検事長以上、外務省の大使も天皇による認証官である。しかし、各官庁の事務次官以下は天皇も国会も関与せず、首相官邸の意向にすべてゆだねられている。

日本の中枢をどう人事構成するかということに関連して、日本という国で天皇と国会とがそれぞれどのような機能を果たすべきなのか。もう一度、ロジックを整理する必要があるのではないか。現行の憲法には大日本帝国憲法の思想が少なからず残されているのではないか。そう思ったりもするのだ。

小生も、その昔、小役人として雑事に追われる毎日を送った経験があるが、官僚の人事システムは特に現在はバランスがとれていないように感じられる。

最後の2015年の投稿。これは正に内閣人事局批判をとりあげた投稿だ  ―  それも軽く論じている。

引用のそのまた引用になるが、さわりの部分というのは以下の通り:

 省庁の縦割り排除や女性登用を進めるだけでなく、人事権を通じて、安倍内閣が掲げる「政治主導」を強化する役割も果たしている。
(中略)
ただ、人事の決定に当たっては菅氏と内閣人事局長の加藤氏の意向が強く働いているとされ、霞が関からは「官邸に嫌われたら、出世できない」(中堅)との嘆きも漏れる。安倍首相が進める農業・医療などの規制を緩和する「岩盤規制改革」でも、人事権を握る官邸の反応を気にして、規制権限を持つ関係省庁の腰が引けているとの声もある。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2015-05030

縦割り官庁の弊害と上にあげた党高政低問題は同根であった。内閣人事局に行き過ぎの弊害があるからと言って、時計を逆に回すようなことをすれば、元の木阿弥。これまでの努力は無に帰するだけである。

最後に書いている次の下り:
一元化するのであれば、人事戦略についてもチャンと一元化しているのか、そもそも高級官僚システムの包括的人事戦略というのはあるのか。不勉強のせいかあまり聞くことがない。疑問はつきない。
行政府の包括人事戦略を構築するとすれば、それはロジックから言って、内閣が原案をつくり、国会がそれを了承し、以後の進捗報告は内閣の義務となる。そんな筋道になろう。

官僚集団の士気を高めると同時に、国会が真の意味で日本国を統治していると評価されうるためにやるべき事は多いのが現実だ。

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