2018年3月19日月曜日

角界の暴力的体質 ― そもそも論なき状況判断はマズイのでは

相撲界には相変わらず「暴力体質」があるようだ。

某ワイドショーでは、今回の貴乃花部屋の一件と、昨年の日馬富士暴行引退事件とは一線を引いて区別するべきだという「専門家」もいるようだが、「マ、具合は悪いヨネ」というのが正直なところだろう。「お前の所にもあるじゃないか、もっとあるんだろ?」というやり取りが想像される。

思うのだが、相撲は文字通りの闘技である。それも張り手あり、ブチカマシあり、頭突きあり、土俵下への突き飛ばしあり、常識的な意味合いでは相撲自体が「暴行」に相当する。それも体重無制限の無差別勝負である。なので相撲の世界は、即ち非日常の世界といえる。

上手・下手の技術の違いではない。日常と非日常をわける違いが普通の人が暮らす世間と角界との間にはある。この違いは相撲の本質を考えるとき打ち消しがたいものである。

相撲は興行であるか、スポーツであるか判然としないと世間では言われている。が、興行とすれば、これ程にまで暴力肯定的な興行エンターテインメントは極めて例外的である。例外的なほどに暴力的な格闘技であるからこそ、例外的な荒稽古もまた普段から必要とされるのだと考えるのは大変自然である。

スポーツと認定するにも無理があると小生は思う。大体、相撲ほど露わに暴力を肯定し、ラフプレーすれすれの取り組みで怪我がつきもののプロ・スポーツは他にない。ボクシングには厳格な体重制限がある。プロ・レスリングは(内情に通じているわけではないが)戦いのマナーが厳然としてあると聞いている。実際、プロレス界では相撲ほど頻繁に負傷欠場というのはないように感じる。

◇ ◇ ◇

やはり日本社会において相撲というのは、かなりの部分、「神事」として受け止められているのだろうと推測する。独特の身支度、挙措動作が奇異と感じられていないのはその反映である。ある種の宗教的感情、それも日本人の土着の感情によって肯定されているのが相撲だとみるのが正しいのではないか。

日常では許されない荒事が(八百長を許さないほどに真剣に)許されるばかりでなく、期待すらもされているのは、八百万の神々に奉納する真剣勝負を戦っている力士が日本人の元来の<民族感情>を刺激するからだろうと最近は思うようになった。

その感覚が理解できない日本人は世間の常識に沿って角界の「暴力体質」は根絶されるべきだと議論をするだろうし、相撲は神事であると感じて本場所や巡業に自ら足を運ぶ人たちは軟弱な取り組みを「八百長」と呼んで非難するのだろう、と。どうも小生、そう感じられてならない。

だとすると、相撲の世界からいわゆる(と敢えて付け足しておく)<暴力的体質>を根絶していくのが是か非か? この問いかけに対しては、日本人の間にも埋めがたいギャップがあるのだと推測する。

そのギャップは、たとえば女性宮家を認めるか認めないか、戦前の旧宮家を皇籍復帰させてでも男系皇族による皇位継承を守るべきか否か。靖国神社は廃止してもかまわないと思うか否か、果ては「大和魂」や「大和心」が日本にとって何よりも大事だと思うか否か、こういう日本文化の本質と伝統に関する根本的論点について日本人の間には埋めがたく深い溝が現実にある。それと同じ、いや同根なのかもしれないと思う。

角界のいわゆる「暴力的体質」をどう見るかという問いかけに対する意見のホンネの部分の相違は、その深い溝と同根の溝であって、自称「専門家」たちが半年程度常識的な議論を重ねるくらいで根本的解決策を得られるなどとは到底想像できない。そんな洞察するべき問題を中に含んでいると今では思うようになった。


◇ ◇ ◇

日本社会で継承されてきた活動、文芸、文化は、日本人の歴史そのものだろう。これらをどうするのか。守っていくのか、続けていくのか、やめていくのか。現代日本社会を律している善悪の基準や世間的常識とどうすり合わせていけば続けていけるのか。

こうした論点にも配慮しながら、<そもそも論>に立ち返って深い考察を重ねなければ、満足な結論はでるものではない。ましてワイドショーの軽薄なノリで「こうしましょうか」という世間話のレベルで最適な解決策が形成されるなどとは全く感じられない。浅はかな世間の井戸端会議がメディアの電波や紙に載って日本社会をより一層薄っぺらくするだけではないか。薄っぺらくなれば透明にもなるという理屈だ。

どうしてもそう思われるのだ、な。

このような場合、理想的には自生的な秩序が現代の日本社会で形成されるのを支援する方向が正しい。法令万能主義で交通整理をしても混迷するだけである。これが小生のいつもの立場だ。

マスメディアが「世間の常識」にたって暴力否定の論陣を張るのは当たり前のことである。それが角界の「伝統」にかえって負の影響を及ぼし、日本人が求めている伝統的行事の継承にマイナスだと思われるなら、そう思う人たちがマスメディア産業に対して抗議運動を行ったり、(必要なら)不買運動や集団的対抗運動を繰り広げることを法的に抑制するべきではない。双方ともに表現の自由があり、最終的には数の力で社会的均衡点に達するものである。

社会のことは社会の力学に委ねる。これが常に正しいというのが小生の基本的意見だ。現実に「暴行」とも形容しうる荒事を肯定する行事が「神事」として現実に受け入れられているのであれば、その行事を継承するための荒稽古もまた暴行罪や障害罪など刑法を適用するべき犯罪とは認識しない、と。そういう方向もあってよいし、あったからこそ現代にまで継承されてきた。いま現時点にたつ現世代はこれをどうするのか。これが問題の要点になるはずだ。

日本社会の伝統と現代的法制との両立を深く考察することが「角界の暴力的体質」という問題の本質的解決には重要だろうと、そう思われてならない。

・・・稽古の中であればいい、稽古ではない処で殴るのが許せないのだ、という風なあまりにも幼稚な意見は聞くにたえない。稽古中であれば相撲であって暴力ではない、稽古でないなら暴力だというなら、その場では殴らず、稽古にかこつけてシゴクという具合に行動が陰険になるだけのことであって、状況は必然的に悪化する。というより、常住坐臥修行という精神は禅宗に限らず日本人なら誰もが共感する精神であって、相撲という伝統社会にも反映しているはずである。いまは練習中、何時以降は休憩時間という西洋的合理主義はそもそも角界の精神文化としては根付いていない可能性が高い。以上、短いながら思い出したので補筆まで。


0 件のコメント: