転居を繰り返している間、最も淋しい思いをしたのは、もちろん住み慣れた住居を出る日である。新しい暮らしが待っているとはいうものの、10回も引っ越しを経験すると、どこか自分が根無し草であるように感じられたものだった。
小生は永井荷風の作風を愛するものだが、短編の傑作『雨瀟瀟』の末尾には身につまされる思いがした。
住み馴れた家を去る時はさすがに悲哀であった。明詩綜載する處の茅氏の絶句にいふ。
壁ニ蒼苔アリ、甑ニ塵有リ
家園一旦西鄰ニ属ス
傷心見ルヲ畏ル門前ノ柳
明日相看レバ是レ路人
その中賣宅記とでも題してまた書かう。(大正十年正月脱稿)
一昨日は永年使い慣れた研究室を大学に返納した。部屋は小生が当地に来て新しく研究室を割り当てられた直後の状態に戻った。
上の絶句の第3句を少し変えれば、今の小生の心象風景と一致する。
傷心見ルヲ畏ル窓ノ白樺
明日相看レバ是レ路人
当地に移住してから2回目の春、偶々思い浮かんだ愚作をもって締めくくるとしよう。
季節のめぐりくるごとに 私はうたを口ずさむ
ふきのとうの花のいろをしった朝 ほおじろの群れが大学の窓辺をおとずれた
ぼおおおお……いつの間に海はこんなに青い原っぱのように淋しくなったのだろう
雨がコンクリートの壁を打つ さびしい壁を 放浪者のような淋しい雨が「日本を我が住まいとなす」という位の気持ちで、その実は放浪者のように町から町へと移り住んだあと、25年余りの比較的長い時間を一か所で暮らしたとなれば、若い時分の心情からは異なった別の心持が自然と生まれてくるものである。それが衰退か、順応かはまだよくわからないが。
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