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みていると柔道などで納得しかねる判定もあるようだ。日本と韓国の選手の試合では、旗判定になったところ、最初の判定が取り消しになって、日本選手の勝ちとなった。韓国の中継アナは、この瞬間「こんなバカなことがあるか!」と絶叫し、「勝ったのです、確かに勝ったのです」と繰り返したよし。これまさに正義の観念がほとばしり出ているのであろう。
またまた古代ギリシア人の人間理解の話しをするが、怒りは感情であって、理性の働きではない。愛も道理から出てくるものではない。中国を中心とした儒学では、根本に仁愛と道義を据えて、人間社会のありかたを理論的に定めるというが、その仁愛は感情から発する心の作用である。道義、つまりは正義の感覚も、詰まる所は怒りの感情に基づくのじゃないかと思う。であれば、よく正邪善悪というが、根底は感情論ではないのか。理智の働きで、道理によって、正邪善悪を証明する事など不可能じゃないか。だから必要な公理をどう置くかで人によって結論が違う、そこで学派が分かれ、派閥を形成したのじゃないか。小生には、そう思われるのだ、な。
正しいとされる判断には神が貼った札でもついているのか?善い事とされる行動は、結果が善いだろうと予想されるから善いのか、それとも善かれと思ってしている事だから善いのか?こういう問題は、人類にとっては永遠の謎である。小生、謎は謎として、正邪善悪の問題には正解などはないと認識しておくのが科学的であると思う。この辺、やっぱり統計学の専門家ですから。
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そんな風なので、何かの決定が間違っているとか、正しくないと怒りをあらわにして抗議をする人をみると、まずは順番に話しませんかと言いたくなる。正義よりも強いもの、愛すらも勝てないもの、それは<事実>と<論理>である。事実の確認から話し合いは始めなければならない。仕事は、事実と論理の積み重ねであって、正義や愛情の入り込む余地はない。農業のみが主たる産業で自然の意のままに凶作と豊作が繰り返された時代なら、この道理は周知のことだったろう。努力や丹精とは関係なく、自然は人智を超えた影響を人間に与えてきた。「自然ありき」で生きてきたのが人間だ。トーマス・マンの創造した人間トニオ・クレーゲルが、自己と世間との亀裂に悩むのと同じで、世間の仕事と高邁な理念は相容れない。世間の現実に美を求めても失望するだけである。正義の感覚をもちこむと、無用の混乱が生まれやすい。
「それを混乱というのか?」
「秩序を乱しておりますがゆえ」
「秩序が乱れるというが、正しい状態にすることは善い事ではないか」
「仕事をしている当人たちは、誰も自分たちが悪をなしているとは考えておりません。法をおかしてもおりません。無縁の人たちが、彼らを正しくないと糾弾しているのです。彼らの意に沿うように世を変えようとしているのです。これが秩序をこわし、混乱をもたらしているのでなく、なんでありましょう」
こんな風なロジックのぶつかり合いを日本のドラマでも聴きたいものである。そうすれば、夏休みの楽しみになるのだがなあ、と。