2014年7月30日水曜日

大学の役割ーどこまで広く考えるか、限定的に考えるか

大学は「学校」の中の一段階である。いまの共通認識としては、これが最も共有度が高い理解のされ方ではないだろうか。

学校というのは人を育てる、人を社会に送り出すことが主な役割である。つまり主たるミッションは教育である。

しかし大学は、研究の拠点としても期待されている。研究というのは「新しい知的成果」を発見したり、開発したりする活動だ。もちろん研究現場でも人は育つのだが、育つ人はそもそも育つだけの潜在能力を秘めた人材だけであって、平均以下の素材を育てるという発想は研究現場にはない。

大学はどちらを主として追求するのか。これは、大げさに言えば、制度化された「大学」という組織がとりくむべき永遠の課題だろうと思う。

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本日の日経の社説でも大学が議論されている。
教授会の力がそがれ、学内に表立った批判が出なくなったからといって、トップが恣意的な施策を打ち出したり不適切な人事に走ったりするならキャンパスはかえって混乱するだろう。そういう恐れのない、聡明(そうめい)な学長ばかりかどうか心配は残る。

 さまざまな「知」が集積する大学という場の特質をわきまえ、同時に現実感覚も失わず長期的な経営判断ができる学長は、残念ながらそんなに多くはいまい。ならば今回の改革を機に、大学は学長を「育てる」ことを心がける必要がある。あるいは経営と教育・研究の分離も課題となるはずだ。

 ひとくちにガバナンス改革というが、いまの大学は極めて多様である。いきなり学長に全責任を押しつけてよしとするのではなく、それぞれの実情に合ったやり方を探る必要もあろう。
 (出所)日本経済新聞、2014年7月30日

ムムム、人を育てると同時に、大学は学長も育てるのでありますか……。ま、こんな突っ込みはやめておこう。

とにかく経営と研究・教育を同一人物が兼業するなど、土台無理な話しであるのも確かなことだ。

一つだけ確実なことは、たとえ学長に人事・組織・カリキュラム・予算など全権限を集中したとしても、やりたいことが実現できるわけではないということだ。なぜなら、学長一人だけでは何もできないからであり、理念を理解し、ずっと協力してくれる多数の人が必要だからである。多数の人に動いてもらうためには、独裁的学長といえども妥協が必要である。協力者・部下のメンツを立てることも必要になってくる。というか、学長の求める理念が、周囲の多くの人の利益にもなるのでなければ、絶対に人はついてこない。ならぬ堪忍、するが堪忍が、これからの学長がきざむ座右の銘になること確実である。

江戸幕府を開いた将軍・徳川家康であっても主立った重臣への礼儀と遠慮があり、言いたいことを我慢することもしばしばであったと伝え聞く。まさに『人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず』であったのだろう。まして現代のオバマ米大統領、中国の共産党総書記・習近平は、細心の上にも細心を重ねて、自陣営の理解を固め、敵対するグループを切り崩し、弱体化しようと努力をし続けているはずである。

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いやあ、制度上の権限はあるかもしれないが、「学長」などはたとえ頼まれてもイヤだなあ……と、正直、そう思うのである。研究は自分の努力によって成果が得られる可能性がある。教育は自分がそのために使った時間に概ね比例して教え子からは感謝されるものである。統治者は、常に努力することが求められ、努力をすればするほど敵陣営からはもちろん、自陣営からも辟易される。むしろここまで努力をしなければ、責任は全うできない。そんな職務であるのだ。必然的に「孤独」である。

議員に当選したら言いたいことや、やりたいことをやってみて、それが問題になって辞職する人が多数発生している。ヒラ議員の間は我慢しても大臣になったら放言して問題となる。所詮、志が低いのだ、な。

たとえトップになっても、自分のやりたいことの半分もできないのが、現実ではないかと思われる。これは大学、会社、官界、政界を問わない。そして独裁的なトップであればあるほど、その地位を去ってからの後が惨憺たるものになる。それも経験的事実である。所詮、「勝敗は時の運」である。トップといえども「人事を尽くして天命をまつ」しか、やりようがないのである。

にもかかわらず、大学のトップを任せるに足る人物を「育てる」と……。大体、そんな人生目的をもつ人は、そもそも大学院に進む時点で一人もいないと思う。

大学の統治者として最良のトレーニングは、大学を出てすぐに学長の身近に置き、その仕事を補助させることである。そうなると学問上の成果は諦めざるを得ないだろう。ではあるが、やり甲斐はある。そんな人生をおくってもよいと考える有志の学生がいるかもしれない。そんな若者を見いだせるかどうかという疑問はあるのだが。

ここまで考えるなら、それこそ「学長を育てる」という表現に当てはまるかもしれない。こういう話しは、やっぱり具体的に議論しないとダメだと思うのだ、な。

いかなる大学を構築するか、いかなる会社組織を是とするか、いかなる官僚組織をつくって日々の行政をまかせるか……、すべて国の形の勘所である。学長に大学の基本を問うても筋違いである。レストランの雇われ店長にあるべきレストランの姿を問うても無駄である。基本的な決定はオーナーが為すべき事柄である。国立大学のオーナーは国民である。私立大学のオーナーは創立者及び創立者の理念を継承する評議会である。

オーナーにアイデアがないので、現場の長にどうしたらよいかを考えてもらう。そんな図式であろう。学長権限強化にどことなく無責任の香りがするのはそのためだ。

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思わず暗い話しになってしまった。これも中に身を置いているからであろう。

上に引用した記事では、大学を「知の集積する場」と表現している。具体的に言えば、知の伝達、知の発見、知の保存に分かれるだろう。

人を育てるには知を伝え、定着させなければならない。知の発見は、本来はアカデミズムの柱であるが、カネを使う研究に社会的な有用性を求められても仕方がない。カスミを食って生きることはできぬ。とはいえ、役に立たない知の成果は捨てればよいと考えるのは間違いだ。ピタゴラスの定理は、測量の役に立つくらいであったのが、いまでは関数空間、ヒルベルト空間で姿を変えていき続け、ロケットの軌道計算の役にも立っている。大学は「役に立たない知の保存」にもエネルギーを注がなければならない。

知の発見・伝達・保存のうちで何が大学の主たるミッションだろうか。

異なった組織原理で行動することが求められるので、大学もそれぞれの目的に応じて別組織に分けておくべきだろう。学問分野ごとの学部に縦割りで組織化して、学部に所属するスタッフが本来区別するべき複数の目標を同時に達成しようと内部で苦闘するのは不効率だと(小生は)思うようになった。

ま、まだ書き足りないが、少し疲れてきた。今日はこの辺で。

2014年7月27日日曜日

メモ-ポスト集団的自衛権の内閣支持率について

日経に内閣支持率の調査結果が載っている。
日本経済新聞社とテレビ東京による25~27日の世論調査で、安倍内閣の支持率が6月の前回調査より5ポイント下がって48%となり、2012年12月の第2次安倍内閣発足後、初めて50%を割り最低となった。不支持率は2ポイント上昇し38%と最も高くなった。20~30歳代の支持率が10ポイント、40歳代は9ポイント下がるなど、比較的若い世代での低下が目立った。
(出所)日本経済新聞、2014年7月27日

『5ポイント下がった』と聞けば、やっぱり集団的自衛権の解釈変更がきいたよねえとか、原発再稼働に前のめりになっているのも支持率低下の原因かもねえとか、色々な背景が思い浮かんで、まあ納得できる結果である。そんな印象が強いのではないかと思う。

そうではないのじゃないか。集団的自衛権の憲法解釈変更は、違憲訴訟いかんで実際にどうなっていくか分からないが、「使わない」と言っていた権利を「使う」といい始めたのだから、正反対に舵をきったといえば言えそうである。

それでもなお支持率が48%ある。こう見ないと本筋をはずすのではないか。

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経済政策については評価する人の割合が多い。経済政策で中間派をとりこんで、強固な保守層の支持と併せて自らの政治課題を実現していくという基本戦略はいまのところ奏功している。

TPPで損失を蒙る国内農林漁業者は、アメリカの中間選挙後に急速に進展するはずの最終調整までに、政府による所得補償・その他救済措置で矛をおさめるものと予想する。農林漁業者以外の日本人にとっては、TPPによる「聖域5品目の関税、限りなきゼロへ」は大きな恩恵である。一度分かればTPP賛成派が大半を占めると予想するのがそもそもの理屈である。

とはいえ、安倍政権は、日本国の長期ビジョンを語っていない。安全保障についても、エネルギーについても議論を避けている — 議論をして、意見を集約する仕掛けをこの20年の間に壊してしまったことも大きい。避けているので何でもかんでもトップの総理にきくのだろうが、国民から広く意見を集約することに消極的であるのも確かだと思う。その点、現内閣は決して誠実とはいえない。ただ、誠実ではないという批判から、支持率が低下したのではない、と。小生はそう見ているところだ。


2014年7月26日土曜日

シベリア山火事発「PM2.5」の薄煙の中で

シベリアの山火事で発生した煙が季節外れの北西風に乗って、北海道に到達しているとのことで、速報値によると小生が暮らしている港町ではPM2.5濃度が今日12時現在で$65 \mu g / m^3$であるよし。S市の一部町域では、昨日午後よりはマシであるものの、「注意喚起」相当の99に達している。

そのため今日は一日中、窓を閉めている-北海道のこととてエアコンは設置していない。これが首都圏であれば、室内熱中症でこちらの方こそ心配だ。

窓の外は、いつもなら山並みの緑が間近に迫って見れるのだが、今日は靄がかかり遠くの稜線は白い煙幕に隠されている。もっとも北の梅雨がそろそろやってくるので、そのせいなのかもしれない。

思い出すのは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』だ。地獄の業火で地球が焼き尽くされた一週間のあと、地上世界の大気は「瘴気(しょうき)」に毒され、ガスマスクなしでは生きていくことができなくなった。正に今日がそれである。環境は決して一定の状態を中心にして安定的なサイクルをたどっているわけではない。寧ろその時々の環境に応じて、生息可能な生物が自然によって選ばれてきたのが実態である。

もしも神が存在するなら、人類にとってのみ造物主であるわけではない。すべての命にとって神は神である理屈だ。人類が生息不能な環境に変化していくとしても、それは神がいないことの証明でもないし、この世界を神が愛していない証しでもない。どのような生物種が繁栄するとしても、それは最初に誕生した一群の単細胞生物の末裔であることに変わりはない。

……それにしても、今日は夏祭りで埠頭辺りには大勢の観衆がつめかけるはずなのだが、激しい運動をしなければ大丈夫なのだろうか。

2014年7月25日金曜日

荷風-「計画」への不信・「自然」への共感

前期の授業も実質あと一回。今日は学務課に期末試験の印刷を依頼した。今年度の上期は色々と仕事が押し寄せたが、夏が来てさすがに潮が引いていくように余暇が増えてきた。次は9月に仕事の大波が来る。その前にシステムキッチン入れ替えの工事が入る。どうもバタバタしているのが今年の特徴だ。


今日は一段落したので、リハビリ帰りのカミさんを拾って帰宅した午後、Kindleで永井荷風の随筆を読みふけった。『日和下駄』の「閑地」の章だ。

荷風は、同時代の人たちより非常に豊かな在外経験をもっていた故だと思われるが、徹底した反・進歩、反・政府、反・国家戦略の作家である。アメリカで暮らした時は「あめりか物語」を書き、パリでは伝統あるフランス文明の深さに感動し「ふらんす物語」を作品にした。日本に帰国してからは、消え去りゆく江戸の町を惜しみつつ、日本伝統の美をこよなく愛した人である。

二人は早速閑地の草原を横切って、大勢釣する人の集っている古池の渚へと急いだ。池はその後に聳ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米二十余万石の城主の館が築かれていた時分には、現在水の漂っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気ながら心の中に描出した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気もなく破壊して兵営や兵器の製造場にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更の如くつくづくと思知るのであった。
(出所)青空文庫「永井荷風-日和下駄」

上は、荷風が慶應義塾への出勤の帰途、友人とともに三田にあった旧・有馬屋敷に入り込み、日本三大化け猫騒動のあと建てられたと伝えられる猫塚を探し当てた、そのあとの下りである。

明治維新の富国強兵政策は、権力を得た政治家が選択した国家百年の計画であったろうが、半世紀もたって振り返ってみると、伝えるべき・遺すべき随分貴重な文化が永遠に失われてしまったではないかと。失われたというより、積極的に破壊してしまったじゃあないかと。それで日本人はどれだけ豊かな文明の中にいるのかと。大久保利通や伊藤博文、山縣有朋には無情な言い方だろうが、ま、そんな目線である。

☆ ☆

政治家は、それも総理や大物議員になれば、やったほうがよいと考えれば、それを実行するだけの地位につく。しかし、やればプラスだというだけでは、実際にそれを実行する価値があることにはならない。すべてプラスの結果だけがもたらされる計画は実は稀なのであり、何かを実行すれば何かが失われる。マイナスの結果も生まれてくるものだ。全部総合して、それでもプラスなら実行すればよいのだが、それを判断するのは権力をもっている人物だ。それが駄目だと荷風は言うのだな。

私は喜多川歌麿きたがわうたまろの描いた『絵本虫撰むしえらび』を愛してまざる理由は、この浮世絵師が南宗なんそうの画家も四条派しじょうはの画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花そうかと昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取ひろいとって、自由にこれを芸術化せしめただいなる功績をになうものである。
(出所)上と同じ

自然に生い茂る雑草の美に目を向ける美意識と、自然に発展する市場経済社会の健全さを信じる思想は、本質的な部分を共有していると思うのだな。雑草が汚らしいという人は、市場経済の儲け主義が不潔だと責めるであろう。そんな感覚は実は貴族趣味なのである。エリート主義に通じると言ってもよい。

そもそも政府が何かを-経済でも、国民の生活でも、戦争でも何でもよいが-計画して、<計画通りに>ことが進み、目標に合致した結果がもたらされたことは、これまで一度もないはずである。

高度成長は「嬉しい誤算」である。最悪の場合は破滅的な敗戦、金融崩壊へと至るものである。おそらく年金崩壊も可能性の一つに数えるべき段階に入ってきた。そう言えるのかもしれない。

2014年7月21日月曜日

「改善」より「ゼロから新しく造る」ほうが簡単なことは多い

本日付の日経「経済教室」は示唆に富む。テーマはイノベーション(=技術革新)である。もはや使い古された言葉であり、イノベーションを叫んだところで、それ自体はイノベーションには全くあたらない。
……。既存企業はそもそも新しい知の組み合わせによる環境変化に対応しにくいことだ。例えば、米ハーバード大学のレベッカ・ヘンダーソン教授とキム・クラーク教授(当時)は、90年に発表した論文で「アーキテクチュアル・イノベーション(設計思想の革新)」という概念を提唱した。これは、ある産業分野の「部品」に技術革新が起きなくても、部品同士の「組み合わせが新しくなる」ことで革新的な製品が生み出されることだ。

 しかし既存企業は新しい組み合わせに対応するのが難しい。なぜなら、企業の組織構造が「既存製品の部品の組み合わせ」に準じているので、組み合わせの変化に必要な異なる部署間の新しい交流が難しいからだ。

 例えば、50年代にソニーが小型トランジスタラジオを「新しい部品の組み合わせ」で開発して米市場に乗り込んだとき、ライバルだった米RCAは部品それぞれの技術は非常に高く、ソニーのラジオに技術供与までしていた。しかし、RCAの組織が既存のラジオの部品の組み合わせに対応した構造になっていたために部門間の新しい組み合わせの交流が起きず、結局ソニーに対抗する製品を出せないまま市場シェアを奪われた。

 逆にソニーが、50年後に米アップルの「iPod」に対抗する製品を「作れるはずなのに、すぐに出せなかった」のは印象的である。多くの場合、新しい組み合わせを阻むのは技術問題よりも、組織問題の本質と捉えるべきだ。
(出所)日本経済新聞、2014年7月21日

 新しい試み自体が、会社という組織にとって本質的・能力的・技術的に不可能であることは寧ろ少ない。可能であるにもかかわらず、チャンスを実現できないままに終わるのは、能力ではなく組織に問題があるという指摘は非常に重要だ。

その組織は、戦略に従い、戦略は目的に従うものである。一定の目的にしたがって構築された組織が、ひとたび構築されると組織内のヒエラルヒー(=階層的秩序)が定まり、その組織内価値観が共有され、いわゆる主流と傍流が形成されるにいたるものだ。既存組織の中で真に革新的なイノベーションを引き起こすのが大変困難である理由は、本当の革新が完成された組織内秩序と矛盾するからである。

経営・政治を問わず、体制内革新を断行して、既存組織を再活性化させる人物がしばしば傍流から輩出されているのは、まさに理の当然でもあるのだ、な。

☆ ☆ ☆

この8月下旬にキッチン・トイレをリフォームすることにした。来年度以降は浴室、玄関、それから壁紙を含めた全体的な内装を変えるつもりだ。

それで市内のリフォーム専門企業の経営者と相談を進めているのだが、その人によれば増改築で一番難しいのは『あれを残し、ここはこういう形で残しながら、あとは新しいものを入れて、全体としてはパリッとした風にしたい』と、そんなリクエストであるそうだ。求められている課題が難しいので、検討に時間がかかり、そのためコストも割高になり、価格交渉にも時間を必要とする。それでまた割高になるという悪循環になるそうだ。

『ゼロから新しいものを入れる』、これが一番簡単で効率的、安くて効果も上がる近道だという。確かにそんな感覚を覚えることは多い。統計学の数理的な論文を読むことが多いが、人の書いた証明を読み進めるのは本当に面倒だ。ロジックの骨格としてどんな話をしたいのか、あらかじめ説明を聞いていると、もう証明の本文を読む必要はないくらいで、自分でゼロから書いてみるのがかえって手っ取り速い。すると人の書いたものとは書き方が随分違ってくる。それでいいのである。真偽を確認できればいいのだから。

日本の明治維新、戦後の復興期も、ゼロから造り直す作業の一例だったのだろう。

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どんなイノベーションも実現する前は「単なるアイデア」でしかない。それを具体的な商品としてコンテンツを定め、生産・販売ラインに乗せていくのは、住宅建築と似た作業であるに違いない。組織の設計も最適化しなければならないので面倒だ。『ここは従来通りで…、あそこは手を入れないように…ここは考え方だけを反映するようにして、……できた商品の斬新性が犠牲になるのは本末転倒ですからネ…』、複雑で迷路のような企画は、それ自体として失格のはずなのだが、それを何とかこなしながら苦闘してきたのが、最近20年の日本企業の経営史であったのかもしれない。



Picasso, Factory in Horta de Ebbo, 1909

天才ピカソは、人生の中で画風が激しく変化した画家として知られている。たとえばモネやセザンヌは、初期の作品と晩年の作品をみて、モネはやっぱりモネだと思うし、セザンヌはどこまでもセザンヌであると感じる。つまり、生涯を通しての一貫性があるのだ、な。そこに安心感とか安定感、方向感があると思うのだが、ピカソは違う。


Picasso, Death of The Treador, 1933
Source: 上と同じ

絵画画面の構成原理はまったく違うが、ピカソの作品と聞けば、上の二つには何かの共通点があるのも確かである。それが同一の人間の同じ感性と精神からつくられたという証しであるのだろう。

理念と方法の選択、作業と運営、完成に至るまで、そこには統一性がなければならない。巨大企業が、組織内で妥協を繰り返しながら、いくらイノベーションを目指しても、出てくるアウトプットは「革新」ではなくて「改善」である。

「お荷物」となった事業分野をいくら改善してもタカがしれている。社内エリートが担当している「花形」もやがて「お荷物」になるのがプロダクト・サイクルである。未来の成長は「問題児」によって実現される。ずっと昔から言われていることだ。

ゼロから造るのではなく、組織内改革でイノベーションを成し遂げるには、真の目的にそって組織内破壊を繰り返すことが避けられない。そんな破壊を、統一的・効率的・迅速に進めるには、選ばれた人物の能力への信望が揺るがない原理が必要だ。アメリカの老舗・大企業でも苦手な領域だ。まして日本の伝統的大企業では容認不能な考え方かもしれない。

だから、新しい事業を始めるなら、そのための組織をゼロから造るのが最速の道かもしれない。

日本人は、しかし、モノだけではなく習慣もまた大事にする。縁を大事にする。一度できたものを磨き上げるには適した国民性だが、見込みのないものを捨てて、新しいものを育てることで割り切るには、とても向いていない。狭い国土で、無駄を省きながら、一所懸命に暮らしてきた中で形成された文化だと思う。

自分に適したやり方で行くしかない。これを今日の結論にしておこう。

2014年7月20日日曜日

犯罪の巣窟より、犯罪の背景が本当の暗黒である

倉敷市で起きた女児拉致事件が無事解決されて周囲の人たちはホッと安堵しているに違いない。犯人のアウトラインは何となく想像できたが、同じ犯罪でも語るも情けない無恥蒙昧さを感じるのは小生だけではあるまい。

拉致監禁の現行犯で逮捕された犯人は、想像のとおり、「無職」であった。

無職であったから犯罪への誘因を覚えたか?それとも犯罪歴があるので、無職を続けざるを得なかったのか?それは現時点では分からない。これからまた週刊誌が、読者の興味に応えようと熱心に犯人の人間像を描くのだろうが、ほとんどはフィクションとノンフィクションが入り混じった読み物になるだろう。

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日本国憲法には第30条で納税の義務が定められている。しかし、税を納めるには所得がいる。所得を得るには仕事がいる。

何度も投稿したことだが、憲法で納税の義務を定める以上は、所得機会の提供に政府は責任を負っているというべきだろう。したがって、転職など摩擦的要因を除外したうえで完全雇用を実現するため、政府はあらゆる努力を払うことを義務付ける「完全雇用法」が法制化されても、決してそれは「違憲」とはなるまい。集団的自衛権よりは、よほど合憲への論理を含んでいると思う。

完全雇用を議論する際には、必ず完全就業と不可全就業が論点になる。全体の4割を超えてもはや「非正規」ともいえない「非正規労働者」を完全就業とみなすかどうか、議論は錯綜するだろう。いま必要な議論はそんな議論かもしれない。

納税を憲法で義務付けておきながら、たとえば所得税に限っていえば、非納税者が千数百万人もいる―参考資料へのリンクをつけておく。もちろん税には住民税もある。消費税もある。まったく税金を払っていない人は、日本国民の中で本当に極々少数であるに違いない。

しかし、3%の納税者が60%の所得税を納めている状況を「これも良し」と納得するには、それなりの合理的理由がいる。それでもなお国家において全て国民は平等の権利をもつ。本当にそうあるべきだと言い切れるのか。「おかしい」と根本的な疑問を感じる人が今後増えてくるかもしれない。

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だからこそ、雇用問題はしばしば時の政権の死命を制する。社会の不安は、何より雇用の不安からもたらされるのだ。

社会の公正に対する国民の信頼の低下は、『社会の根本的変革もやむを得ない』と考える人を相対的に増加させる。破壊への衝動が倫理的にも正しいと感じられるときに本当に破壊が進むものだ。社会全体では、しかし、今までに成し遂げたことの方が、解決するべき問題点よりはるかに多いはずだ。しかし、変革こそ正義という認識はレジーム・スイッチングの社会的コストを乗り越えるべき試練だと言いくるめてしまうのだな。何も日本がかつて歩んだ大正デモクラシーから軍国主義への急速な変化を、もう一度思い出す必要はないはずだ。

「仕事」は、働く人の尊厳を守るものである。カネをもらえばいいというわけではない。職業訓練と職業紹介にカネを使うことは、リターンの高い社会的投資であろう。国籍を問わず、宗教・民族を問わず、良い仕事が日本ではできるというメッセージこそ、今世紀に日本がとるべき国際戦略の王道だと思うのだがどうだろう。

2014年7月19日土曜日

歴史とは真理なのか―原因は過去にあるとは限らない

すべて結果には何らかの原因があるはずだと前提してかかる、いわゆる<因果律>の虚妄性を指摘したのは、英国の哲学者ヒュームである。ヒュームは英国・経験主義哲学の代表者で、カントを独断の夢から覚醒させた先覚者としても有名だ。


何も雷鳴と稲妻の例を引き出すまでもない。先にあったことが後に来ることの原因であるとは限らない。古代ローマの時代から"post hoc ergo propter hoc"(=これよりも後に、つまりこれ故に)の誤りは、広く認識されていた。

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かくかくしかじかの故に戦争状態に移行した。これは時間的順序に基づいた認識だ。しかし、人間の行動、社会の変化の原因は、結果が起こった時点より前にあるとは限らない。

自然現象ですら時間的前後がそのまま因果関係を証明するものではない。

まして人間関係、社会的現象は人間行動からもたらされるものである。人は、計画し、予知し、将来を先取りして行動するものだ。Aがある行動をとったから、Bがある行動をとったのだと考えるより、Bがその行動をとると分かったから、Aはその行動をとった。それをみてBは実際にその行動をとったのだ。こんな例の方が現実には多かろう。

囚人のゲームで、各プレーヤーが非協力的に自己利益を求めているならば、論理の必然として双方は最悪の選択をする。最悪の結果になるが、どちらに責任があるわけではない。相互依存関係の下で同時決定されているのだ。どちらが先に相手を裏切ったかを論じることに、大した意味はなく、むしろ虚妄に陥る。

人間集団を分析するには、時系列データ(=歴史)も必要だが、集団の構造を知ることが何より重要だ。

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歴史は、ある結末の遠因を求めて、どんどん過去に遡っていく。いわゆる『春秋の筆法』は、小説的興味をそそられるが、科学的に考えて何百年も前の事柄が「原因」となって、現時点の「結果」がもたらされるトランスミッション・メカニズムを想像すらできない。ズバリ、「迷信」である。

しかし、迷信だと思いつつ、人は神社で祈願をし、寺に賽銭を投げる。賽銭を投げたから、何か望ましい結果がもたらされるわけではないが、賽銭を投げたから成功したのだという迷信を人は好むものである。どれほど近代化しても迷信が世の中からなくならない理由の一つは、時間的順序のマジックにある。そのマジックをしばしば歴史家は悪用する。







2014年7月17日木曜日

屁理屈-戦争を忘れるって悪いことなの?

屁理屈をこねると、幼い頃、亡くなった父に叱られたものだ。というのは、屁理屈は、何かヤバいことを隠したい-近年流行の言葉でいうと隠蔽したい-ときか、そうでなければ自分は間違ってないと強弁したいときにこねるものだからだ。要するに、ロクなものではないのだな、屁理屈は。謝るべきこと、伝えるべきことがあれば、余計な小細工をせずに堂々と対応すればいいわけだ。

今週の『週刊現代』だったか、『ポスト』だったか、新聞広告が近接して載るので紛らわしいが、「戦争を忘れることは悪いことなのか」というタイトルが目に入った。

日本の大衆週刊誌は-というか、どこでも大衆紙はそうだと思うが-結構、保守的・愛国的なので、いつまでも戦争責任や敗戦国としての自省を求められるのは鬱陶しい、そんな右翼的心情がうかがえて、大丈夫かねえと感じたのだが、それより最近の井戸端会議、TVのワイドショーで頻繁に使われているフレーズ「〇〇することって悪いことなの?」。大変、危うさを感じました。こういう議論の仕方をされると、もともとロジカルなディベートに慣れていない日本人は、コロッと言いくるめられてしまうのじゃないか、と。

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戦争を忘れるって悪いことなの?

正しくはないけど、悪いとは言えないと思うとか、悪いということの定義で色々ありうるんじゃないかとか、討論にも値しない幼稚な雑談を始めると、どんな結論が出てきてもおかしくはない。

1+1は2でないとダメなの?地球を原点にとれば、太陽が回っていると考えても悪くはないよね?ほんと、色々と出てきますわな、もっともらしい議論は。いくらでも作れます。

上の問いかけは、しかし、一見正当な問いかけであるように見えるので始末がわるい。しかも三段論法に構成できるのでもっと困るわけだ。

忘れること自体が悪いとは言えない。戦争を忘れることも忘れるという行為の一例である。故に、戦争を忘れること自体が悪いとはいえない。
こんなロジックに騙されるとすれば、そもそも討論はできないと言われても仕方がない。もし上のような論法が正当なら次のように論じてもいいはずだ。
相手が怪我をした原因は私が走っていたからだ。しかし、走ること自体は悪くはない。故に、私は悪いことをしたわけではない。
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哲学者カントは、善意思より以上に善なるものを考えることはできない。つまり善の本質は善を求める人間の意思にあると考えた。そこから倫理について議論を始めている。

走ること自体はなるほど悪くはない。しかし、走ってぶつかって、相手が怪我をしても仕方がないと考えれば、それは「未必の故意」であり、悪い行為である。注意をすれば避けられたかもしれないのに、不注意で相手を倒してしまったら、それは「過失」である。

善悪は、人間の意思について問われるものである。

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戦争を忘れること自体は、なるほど悪いこととはいえないだろう。しかし、自らの戦争犯罪を忘れようとする、なかったこととしたい、済んだことにして責任は放棄しようとする。そんな意思が働いているのだとすれば、そんな意思を持っていることが悪いのだと糾弾されても仕方がない。

小生はそう思っている。

歴史戦略は不毛である。しかし、自分自身の行動の履歴は自分がよく知っているべきだ。記憶しておくべきだ。この点に変わりはない。

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今朝、愚息の出た高校が夏の甲子園大会予選を勝ち進んでいる夢をみた。父は高校野球の大ファンだった。夢の中でも父は亡くなっていた。父からみれば孫になる愚息と予選の話しをしたかったろうと眠りながら胸が熱くなった。涙が出そうになった。そこで覚めた。「……どうやら親父も思い残すことがなくなって、浄土に往けたのだなあ」と。仕事運に恵まれたとはいえない父の心が救われたのなら、母ももう心配なことはなく、安心立命できたに違いない。そう何となく思われた次第だ。以前は、父母の夢をよく見たのだが、今日のような夢は初めてだ。

2014年7月14日月曜日

W杯―スポーツ統計学隆盛を予感する結果

ドイツがアルゼンチンを下して欧州勢が南米の大会で初の栄冠を勝ちとった。

下馬評ではブラジルが最有力であったが、不運なアクシデントもあって、3位決定戦のオランダにも完敗した。

がしかし、スポーツに「タラ・レバ」を言っても意味がないものの、仮にブラジルのネイマール選手が負傷で離脱しておらずとも、それでもブラジルの優勝の確率は実は低かったのではないか。そうみる人も多いようだ。

☆ ☆ ☆

先日投稿では、この10年間でサッカーは完全に変わってしまったというアメリカ人の見方をとりあげた。その話を同僚と食事をしながら話題にしたら、その同僚はヨットが趣味なので『そうですか、ヨットのアメリカズ・カップと全く同じですね。もうスキッパーの勘じゃ勝てないんですよね。というか、レースの前に流体力学の計算をコンピューターでやって、勝てるヨットを造る、そこが最大のポイントになっていて、船体設計でイノベーションを成し遂げたチームが勝つ。そんな風に変わってきたと言われてます』。ヨットでそうだから、自動車のF1レースなどは完全にコンピューターとデータ解析の勝負になっている。ドライバーは最後に車を戦略どおりに運転する担当者という位置づけになっているという。チームで議論をして、理解する頭脳がドライバーには求められるというのだから、もはやアイルトン・セナが疾走した時代とは、やっていることの質が変わってしまった……。アメリカ人がサッカーを見ていると、『ま、野球やバスケットではとっくに科学的方法を取り入れているけどね』とそんな感覚を覚えつつ、サッカーはいかにも古臭い、いまだにフィジカル&テクニック万能のスポーツに見えるらしい。

ビジネススクールの前回の授業では男子100メートルの記録を年次系列で並べると、直線トレンドの決定係数が80%を超える話をした。つまり、この30年間、一定のペースで100メートルの記録は更新されてきている。そのトレンドが、記録短縮の大半を説明している。そうなるのだな。天才的素質をもったランナーが、一定の発生率でコンスタントに登場するという見方はどうも非現実的だ。むしろスポーツ科学のコンスタントな発展が、結果として100メートルの記録更新となって現れている。そう見るほうが、リアリティに合致するのではないか。だとすると、ジャマイカのウサイン・ボルト選手の驚異的な世界新記録も、天才ランナーの新たな登場と見るよりも、むしろスポーツ科学の発展の成果として科学的に予想された優秀な選手である。そう語るほうが適切であるのかもしれない。

いずれにせよ、すべてのデータを蓄積して、時々刻々と変化する試合状況におうじて、勝つ確率が最も高い戦術を常にとっていく。それができるチームを編成できた国が勝つ。近年の最先端スポーツ革命がサッカーにも及んできた。そう見るべき結果であるのかもしれない。『そんなのサッカーじゃない、俺たちは俺たちのサッカーをやろうぜ』、それじゃあ結果として勝てないよ。勝利の方程式を導く基本ツールは、自分たちのスタイルではなく、データ分析である。それが最先端プロスポーツの世界なのだ。そうなるとすれば、これは統計学は面白い専攻分野になること確実だ。ひょっとすると経済分析よりも面白いかもしれない。20年遅く生まれるべきだったねえ……。

2014年7月13日日曜日

カネの威力に限界はあるのか

愚息を相手に話しをしている時、こんな話題になったことがある。仕事を始めたらスーツがいるだろう。それは高いのかという話しだ。

そりゃあピンキリだよ。アルマーニとか、バーバリーとか、それもオーダーするとなると1着で30万とか50万は出さんとなあ、買えんよ。だけど着れればいいって割り切れば、2着で1万ウン千円というのも売ってるよ。

どのくらいがいいかなあ。

ズバリ、仕事の内容で違うね。昔、聞いたんだけどな、銀行はいいものを着ないとダメだ。安物を来ている営業担当者が預金をしてくれと頼んでも、心配で預ける気にはならんだろ。資金を預けるならリッチで上得意をたくさん持っている銀行を選びたいものさ。社長もそうだね。融資を申し込みに行く時、安物は着ていけんだろ。経営状態ダイジョブかって思われちまうさ。リッチであること、成功していることが求められる仕事なら、いいスーツを着る。これが原則だな。この発想を延長すると、弁護士もいいものを着る必要がある。安物を着ている弁護士に弁護を頼む気にはなれんからね。

その反対は国会議員だろうな。いいスーツを着るより、安いスーツを着て、一生懸命国事に奔走していると、人の胸を打つね。そう感じるだろ。首相や大臣が最高級のスーツを着ているとして、それが人を安心させたり、喜ばせたりするかい?人を裁く判事や検事も同じだね。高いスーツを着て、上物のネクタイをしている人に刑罰を定められるなんて、罪を犯した側が憐れじゃないか。犯罪はカネに困ってやっちまうことが多いんだよ。大体、公務員たるもの、カネをほしがっちゃあダメさ。カネにピーピーしていても、権力をもっているだろ。権力は使う、沢山のカネをもらう。そりゃダメだよ。経営者はここが逆だねえ。カネに困っている経営者は、それだけで失敗しているっていうかな、ま、失格だと言われるだろうなあ……

だからね…高いスーツを買うべきか、安いスーツを着るべきかは、仕事で決まるのサ。

ざっとこんな話をしたのだ。

× × ×

その時は、『たかがカネ、されどカネ』、月並みだがそんな話しでおわったような記憶がある。

ただ、「たかがカネ」と言い切れるほど、カネの力の限界はすぐにやってくるのだろうか。

命がカネで買える、寿命がカネで買える時代であることは、何も高額の保険外診療を持ち出さずとも、もう誰も疑いをもたないはずだ。

しかし、人の心はカネで買えない。ずっとそう話してきたが、そう限ったものでもないといつしか思うようになった。人はカネが入ると、まずは自分の欲しいものを買う。次に愛する人が欲しがるものを買う。買うものがなくなるとカネを増やす。そう思ってきたが、人間が欲しいものはモノや財産だけではない。人を支配したい、人に影響力を及ぼしたい、やれと言うことをやってくれる人を作っておきたい、それも願望の一つだ。そんな風に人の主になる近道は、やはりカネではなかろうか。愛による結びつきではなく、恩義と奉仕の結びつきである。そもそも昔の武士の社会では御恩奉公の原理で組織が作られていた。禄のためには死をも恐れぬのが武士道の一側面だ。禄というのは終身雇用どころではない、子孫代々含めた永代雇用が原則なのである。だから恩義ができる。忠義はその恩返しである。

人を支配できるということは、人の心をもカネで買えるという理屈になる。老後の生活を保障してくれる人がいれば、その御恩に報いるため、自分にできることは恩人や恩人の親族のために忠実に行うであろう。そこには一定のモラル、行動の美学が形成されるであろう。

人の形をしていない政府からカネを権利としてもらうなら、恩義などは感じようはずはない。小生、寡聞にして、厚生年金を受給しているから日本国に恩義を感じ、財政再建のために一肌脱ごうという人に出会ったことはない。

率直に行って、どちらの社会原理が善い社会をつくるのか、はっきりしなくなったと感じる。

× × ×

イタリア・ルネサンスの3大芸術家は、普通、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三人とされている。いずれも盛期ルネサンスを支えた巨匠であり、フィレンチェ近郊で生まれたか、そこで仕事をした縁があるかという共通点がある。また当時の芸術家は、権力者の保護を受けながら仕事をするという生き方をとらざるをえず、仕事を求めて都市から都市へと渡り歩いた点も共通している。フリーでやっていくというのは無理な時代だったのだ。


Leonardo da Vinci, Mona Lisa, 1503-1505


先日投稿のウォーホルもそうだったが、またまたモナリザである。

イタリア人であるレオナルド・ダ・ビンチの傑作「モナリザ」がなぜパリのルーブルにあるのか。知ったのはいつだったろうか。フランス王フランソワ一世が世界史に登場していたことは覚えているので、その時に一緒に話をきいたのが耳に残ったのか。いまでは忘れてしまったが、レオナルドが晩年を過ごしたのは、フランス王の居館であるアンボワーズ城であり、そこで最後の数年を弟子とおくった。フランソワ一世はフランス・ルネサンスの花を開かせた国王であり、と同時にスペイン・オーストリアを支配していたハプスブルグ家のカール5世とイタリアをめぐり何度も戦った間柄として知られている。

モナリザはレオナルドが永年持ち歩きながら筆を入れていた作品であるが、その作品は最期を看取ったフランス王の所有となった。名画「モナリザ」は、レオナルドの死後、弟子が相続し、それを国王がカネで買い取った。その後、王朝が変遷する中でルイ14世に寄贈されたとWikipediaには記載されている。それでいまもルーブルにある。

今はフランスが所蔵する最高の美術品の一つとして知らない人もいなくなったが、これを描いた人も買い取った人も、フランスという国家のために取引をしたわけではない。権力をもつ側は芸術家を保護し、芸術家は権力者のために仕事をした。王は富と力を得て、その富で芸術家の心も得た。ここにカネの力の限界を見ることは出来ない。

人間が生きていくのは、いつの時代でも容易なことではなかったが、分かりやすいシステムは複雑なシステムよりも、それ自体として善である。そんな当たり前の真理が見直される時が遠からず来るかもしれない。カネの集中が権力の形成につながれば、その中心には貴族や僭主、いわゆる支配階級や独裁者が生まれる(とされている)。それは民主主義を崩壊させる(とされている)。しかし世界は複雑な進路をへて発展してきた。人間の歴史も所詮は自然史の一部である。人間社会の将来こそ真の意味で不確実だ。


2014年7月11日金曜日

海とキッチン

先日、心疲れたときには海に行こうと言ったのは哲学者・森有正だと書いた。

今朝、まだはっきり目が覚める前に何の夢をみていたか覚えていないが、海に行こうと言ったのは森有正ではなくて、矢内原伊作であることを思い出した。

矢内原伊作の『顔について』は若い頃の愛読書だ。


この中に「海について」がある。
心おとろえたときは海に行こう。心熾んなときも海に行こう。衰弱と燃焼とは別のものではない。倦怠と瞋恚とは別のものではない。この世は人を疲れさせる。この世の限られ、歪められ、固定された時間と空間とは、自由な心を縛り、閉じ込め、悲しませる。……山はその高さと深さによってわれわれを我々自身に送り返し、われわれを内面へと向かわせるのである。海はそうではない。海はその涯しない広さと、生気にみちた明るさと、絶えまのない動きとによって、われわれを内部へではなく外部へと向かわせる。山は人を抱擁し、やすませ、休息させ、内省させるが、海は人を解放し、逃亡させ、活動させるのである。それゆえに海に行こう。(同書:62-63頁)
よく思い出したものだ。考えていないようでも、どこかで考えていたのだろうか。

☆ ☆ ☆

亡くなった祖父が残してくれたお金でキッチン周りをリニューアルすることにした。祖父は司法界で生涯をおくった人である。祖母も祖母の娘である母も、小生に後を継いでくれと何度も言ったものだ。が、小生はそうはならなかった。北の田舎に隠棲してサボり放題の人生を送ってきた。ところが愚息がそっくり同じ道ではないものの法律でメシを食っていく仕事を選んだ。愚息を育て上げたカミさんに何かしてあげてくれと些少の金を遺してくれていたのかもしれない。

それで今日は隣のS市にあるリクシルのショールームまで商品の現物を見に行ってきた。リフォーム業者は、来週月曜に見積もり金額を持ってくる、そのついでに電気業者も連れてきて工事の段取りも相談したいという。

それにしてもLixilって知らんなあ。そう思って調べてみると、サンウェーブやINAXなど数社が大合同して誕生した会社で業界最大手だという。そういえばサンウェーブって最近聞いてないよなあ、そうかいまはリクシルになったんか。小生がまだ両親と暮らしている時、確か台所はサンウェーブだったような記憶がある。あるんだねえ、今でも。

そんなことを思いつつ、今日はカミさんに付き合って疲れた。海に行きたくなった。というか、北の窓から海が見える。今日は外を眺めながらオフ・ワークとしようか。



2014年7月9日水曜日

メモ―いわゆる「絶叫型釈明」の是非について

兵庫県議会の某県議が公金の使用について釈明をしている途中、不覚の落涙どころか、絶叫を発するに至り、号泣しつつ弁明するという哀れこの上ない姿を満天下にさらしてしまった。

良心から出たものかどうかをさておき、もはや彼の御仁に議員の職責を委ねるには大半の人が躊躇するだろう。

☆ ☆

身の進退はさておき、挙措動作としてあのような絶叫型釈明というのはどうなのだろう?やってもいいのだろうか?

ま、表現の自由だから、ね。これまでの議員なら、批判や疑惑の的になった時、淡々とした態度で『まったくもって身の不徳の致すところであります』と、まずは謝罪をして、そのあと起立して深々と頭をたれる。そんな姿であれば、もう何度みたか知れない。今回もそんな風に謝っておけば良かったのじゃないか、あの某県議は。最初はそう思いました。

☆ ☆

ところが月並みのパターンで謝罪するという選択をしなかった。その点は、確かに「奇人・変人」のカテゴリーに分類されるようなお人柄なのかもしれないが、うがってみれば記憶に残るような行動をとった。そんな深い考えも心にあったのかもしれない。

実際、受け取りようによっては「公金横領」ともみられる行為をしたわけであり、今後の調査によってはどうなるか分からない。もしこれまで通りのパターンで『申し訳ござらぬ』と謝罪をするのであれば、『案外、腹の黒い人間よ』と、謝罪そのものが大衆、いや有権者の怒りの火に油をそそぐかもしれない。ところが、唖然とするような絶叫型の謝罪をして『世の中を変えようと、変えようと……』と連呼すれば、『バカな奴だねえ、まったく。世の中の常識ってえのを知らねえのかい。だけどよ、世の中を変えるのは案外こんな人間さね』。こんな風な見方も出てこないとは限らない。実際、幕府の世をひっくり返した志士たちは、常識的にみれば、とんでもない素っ頓狂であったに違いない。吉田松陰など、歴史に残る人物であるが、演出によって悲劇にも喜劇にもなりうる人物であろう。

噂の某県議も十数年も後に、いまは喜劇の主人公であるが、世に恵まれずに自爆した悲劇的な志士として私たちの子孫の記憶に残るかもしれないのだ。『事実は小説よりも奇なり』とも言うくらいだ。

2014年7月7日月曜日

日本の行政能力低下の現れか、年金圧力による思考停止か、これも作戦か?

この数日、小生のブログのCurrent Hitsに大層旧い投稿が登場している。2011年4月投稿だから東日本大震災直後に覚え書きを書いたものだ。タイトルは「復興の経過覚え書き(その2)」になっているが、記憶によると「その3」を投稿することは(多分)なかったので、あるところまでは予想通りに進んだが、その後はさっぱり見えなくなったので失望したか、はなから失望したかのいずれかであったのだろう。

時間もたったので、その間の感想は忘れてしまった。

読むと、しかし、えらく大胆な予想を立てたものだなあと、自分でも感心する。そんな意識で報道をチェックするなど、もうとっくにしなくなっていた。

☓ ☓ ☓

ホント、日本のマスコミは激しやすく冷めやすいのだねえ・・・、たとえばTPP。この春先までアメリカとの厳しい交渉が続き、農業団体などは連日の反対運動を繰り広げていた。一体、あの熱気、あの危機感はどこに行ったのでしょう。今頃は反対給付、つまりは環境相の申す「金目」でケリがついて、この秋にアメリカの中間選挙が終われば、一気呵成に決着と相成るのか?

誰もが油断をしている今こそ、TPPスクープのチャンスではないのか?この静まり方は奇妙だ。多分、集団自衛権で人的資源を投入した各メディアは、曲りにも閣議決定という形がついて一休憩しているのだろう。オバマ大統領が銀座の寿司屋で安倍総理とTPPの直談判をした直後から、総理は集団的自衛権に政治戦力を振り向けた。それに応じて、報道各社もそれをフォローした。その全体が、現政権による情報戦略、広報戦略であった可能性があるとみている。

こんな風に政治戦術という点では、面白い兆候が提供されているのだが、震災復興、エネルギー計画とのからみでは、全く新しい動きがない。というか、今のシステムで本当にずっとやっていけると思っているのか?中部電力や東京ガスが東電の代わりになって、いままでどおり首都圏に電気を供給してくれると本気で思っているのか?もしそうなら、いまの中央官庁は徳川家の私的権力に過ぎなかった江戸幕府よりもっと始末が悪い。

中央政府の行政能力自体が減退している兆しなのか?

☓ ☓ ☓

公的年金の崩壊が頻繁に指摘されるようになり、さすがに中央官僚もその事実を内心では認めざるを得なくなっているのかもしれない。震災復興も大事だが、所詮は国費で10兆、20兆の話しだろう。年金積立金残高は平成26年度末で126兆円である。しかし、いつでも戻せる現金でこれだけの金額を持っているわけではない。運用しているわけである。この巨額の資産を支える年金システムの正当性に疑念が高まり、基本的な変更を余儀なくされるとなれば、その衝撃は震災復興云々の比ではない。

いま霞が関で仕事をしていると、面白い時代になっているに違いない。いやいや…、太平洋戦争中ですら、海軍省に勤務している職員はほとんどが定時退庁を守っていたと聞いたことがある。巨大な政策課題を省内で丁々発止議論するなどという風景は考えにくいものがある。

2014年7月6日日曜日

芸術と疲労

数年前、仕事ばかりやってきた疲れを感じたのだろうか。若い頃の趣味だった油絵を再開した。すると水彩もやりたくなり、アクリルにも手を出し、パステルも試してみた。100作描くまでは、展覧会にも出さないし、個展もやらないと決めていた。ところが、描いた作品を他人がどう見るかが気になるようになった。本当は邪念なのだが、次々に公募展に出してみて、入選が何度か続くうちに、それなりの満足というか、やっぱり出し疲れなのだろうか。このところ、描く楽しみを感じなくなってきたのだ、な。何だか仕事のようになってくると、趣味ですら労苦に変わるものだ。

疲れた時は海に行こうと書いたのは哲学者・森有正である。山は自己を鍛えるが、海は慰めるのだ。そう書いている。

また疲れたときに聴く音楽はブルックナーがよいと言ったのは指揮者兼評論家・宇野功芳だ。モーツアルトとワーグナーの音楽には毒があるが、ブルックナーは疲れた心を慰める。この三者のどれも私は好きだが、そのとおりだと思う。

その伝で言うと、疲れたときに見たくなる絵は、(小生は)クリムトである。女性を描いた作品もそうだが、特にクリムトの風景画は分析することに疲れ果てた精神を休ませる効果がある。


Klimt、Bauernhaus mit Birken、 1900
Source: Klimt Museum

小生の勤務先にも白樺林があるが、若い頃には心慰められた林を吹く風にも、最近は「もういい加減にしてほしい」という倦怠や瞋恚(シンイ)を感じることが増えてきた。クリムトの描く緑の草原から疲れを覚えることはない。美しいからだろう。

人が真理に関心をもったり、善い行いを喜ぶのは分かる。しかし、人はなぜ美に触れたがるのか。美の本質は、真理や善と少し異質なところがあると思う。一つ言えるのは、疲れ果てたときや人生最後の日に、真理がどうこう言われても「どうでもよい」と思うだろうし、善い行いをみても「まあ、勝手にやっておれ」と言うだろう。しかし、美しいものが目の前にあれば、人生で傷ついた心は少しは安らぐような気がする。

いまアートブームだと言われるが、それだけ多くの人は疲れ果てているのかもしれない。それは資本主義のせいなのか、民主主義のせいなのか、個人主義のせいなのか、法治主義によるものか、宗教と信仰の喪失によるものか、家族愛の喪失によるものか……。豊かさだけは、確かに豊かになった…。もので栄えて、心で滅ぶ。そうなのか。おそらく現代社会の特徴が少しずつすべて現代人を疲れさせているのだろう。「もう、うんざりだ」。今日はそう書き留めておこう。




2014年7月4日金曜日

覚え書―「歴史」というカビ臭く不毛な戦略

小生の亡くなった祖母にもその気があったが、叱責する時にその時の行為を責めるのではなく、叱っている内に『先月にはこんなことがあった』、『その時にはこんな約束をしていたでしょ』、『去年にはあんなことがあったでしょ』と、どんどん話が過去に遡ってしまうのだ。

『過去のことは取り消しようがない』というと、歴史問題を真剣に問題提起している側からみると無責任の極みなのだろう。しかし、小生、「歴史!歴史!!」と連呼する人をみると、どうしても現在から過去へと時間を遡って、打ち消しようがない不正の歴史を攻めるネガティブ・キャンペーンの不毛性に思いを致さずにはおれない。

中国の国家主席が韓国のソウル大学で講演したそうだ。日経にはこんな風に紹介されている。
【ソウル=島田学】韓国を訪問している中国の習近平国家主席は4日午前、ソウル大学での講演で歴史問題に触れ、日本を批判した。習氏は「中韓両国には悲惨な抗日戦争を通じて緊密な関係が生まれた」と述べた。豊臣秀吉の朝鮮出兵や抗日戦争などを挙げて両国が共に日本と戦った歴史を強調した。(出所)日本経済新聞、2014年7月4日
どうせ遡るなら鎌倉時代の元寇まで遡るべきであるし、更に遡って騎馬民族の日本侵攻にまで遡ればよいのではないかと悪態をつきたくなるのは小生だけではあるまい。

ちょうど最近100年間の地球平均気温の上昇トレンドをみて、現代文明による二酸化炭素の排出が「原因」となって「地球温暖化」が進んでいると結論づけるようなものだ。じゃあ、中生代の恐竜時代には自動車も走っていなかったが、なぜいまよりも気温が高かったのか?なぜその後に気温は急低下したのか?

ごく短期間のデータや歴史的事実を切り取って、自分のビジネスに有利な結論を出したり、自己を正当化する行為は、俗に「我田引水」と呼ばれている。

× × ×

もともと歴史戦略は、他国を非、自国を是と定義する攻撃的なタフ・コミットメントであり、正統性を主張して覇権を得るのが目的である。是とする側は非とされる側から収奪を行っても正義に適うことになる。歴史を論じているようで、歴史の話しではないのだ。現代社会では、このような場合、ロジカルな交渉を行って合意点を探る。協調解を得ようとするわけだ。その意味では、歴史戦略は、啓蒙思想以来の近現代の発展とは異質の香りがするわけで、非寛容な原理主義が隠れて息をころしている。

そう考えると、歴史戦略を展開する精神は、まあ「ロマン主義」と言ってもよいが、小生は「反・知性主義」だと言っておく。過去は変えがたい、であるが故に歴史の真理は千年・万年たっても変わらないのだという論法ほど、人間理性の働きを阻害するものはないだろう。

では相手が歴史戦略を採って、自国を攻撃する場合、自国がとるべき最適反応は何か。目には目をか?押さば引けか?この問いかけに答えるためには、まず関係者全体のパレート最適な状態を認識しておくことが大事だ。最善の状態とは、最大多数の最大幸福であることに疑いの余地はないからだ。そのパレート最適はナッシュ均衡と異なる場合が多い。だとすれば、相手の行動に対する最適反応戦略をとることで問題は解決しない。自国の行動方針をコミットして、相手国が自国をみる見方に影響を与える。そして相手国の行動を変える。最終的には全参加者にとって最善の状態を目指していくことが基本戦略となる。

結局、本当に生産的な議論は、やはり「信念」や「思い込み」を排した科学的な議論である。他者がどのような姿勢をとろうと、真に優位性のあるアプローチを厳守すれば、最終的には優れた方法を採用した側が<適者>となるものだ。人間社会の歴史も、所詮は自然史の一部であって、正義や不正という倫理的価値ではなく、方法の優劣を競うことで決まるものである。

2014年7月3日木曜日

アンケート調査の公表方法への苦言

今日の授業のテーマは、データが集められた時に、たとえば平均値を公表する―支持率や視聴率はゼロイチ・データの平均値だ―、その平均値にどの位の誤差があるかであった。つまり標準誤差がなぜ分かるか、平均値については標準誤差をどのように求めればよいか、だった。

……データから何がわかるか?まず平均値を出しますね。大きさの目安がほしい時は平均値を求めて、それでいいわけです。大体その位だ、と。

……しかしデータから分かるのは平均値だけではないですよね。母集団の期待値と分散を決めてしまうと、平均値のサンプリング誤差も決まります。これを逆に考えると、データからバラツキの度合いもわかりますから、サンプリング誤差の大きさも大体分かってくる。

……平均値が知りたいとき、サンプルから平均値を出すのですが、それだけではなくその平均値に含まれている誤差の大きさも大体わかってくる。更にいうと、標準誤差の2倍を超えるような大きな誤差は確率5%しかないはずだ。これも言えてくる。ここまでレポートしないと、苦労をしてかどうかは人によりますけどネ、統計学を勉強した甲斐がない。そうでしょ?

……たとえば、ある高校の1年生男子からランダムに5名をとって100メートル走の記録をとると、平均が13.75秒になった。学年全体の平均値はいくらか?「5名だけから分かりませんよ」、これは間違ってますよね。5名は調べたのだから見当はつくだろうと。これが統計的な議論です。となると、おそらく学年平均も13.75秒くらいだろうと。これは小学生でも言える。じゃあ、学年平均が16秒とか、これはない。15秒とか、これもないかな?では14秒50は?う~ん、微妙だねえ。そう感じますよね。

……元データをみないと誤差は見当がつきません。知りたいのはばらつきなんです。それで、5名のデータの不偏分散が1.205だったとしましょうか。そうすると、学年全体については分かりませんが、5名の記録差をみると平均値の標準誤差は \[ \sqrt{\frac{1.205}{5}}=0.49 \] この位だと見当がつくわけです。

……誤差が上のように見当がつくとすれば、5名のサンプルから言えることは『学年平均タイムは、12.75秒から14.75秒までの間にある。その確率は大体95%である』、更にいうと『学年平均タイムが13秒よりも速いタイムである確率は7%もない』。せいぜいこの位であって、あまり詳しいことはわからない。まあ、調べたのはたったの5人ですからネ、当たり前といえば当たり前ですよね。

このように、5人を調べるだけでも学年平均タイムについて色々なことが確率的にわかるわけである。平均13.75秒になりました。ただそれだけの集計結果をレポートするより、よほど科学的である。そしてこの程度のことは、学部の授業で教えているような初歩の初歩の統計技術なのである。

☓ ☓ ☓

日本銀行から「生活意識に関するアンケート調査」(2014年6月)が公表された。

調査概要を読むと、標本数は4千人、その内有効回答数は2275人である。標本は完全無作為抽出ではなく、層化二段無作為抽出法である。これは結果の精度を向上させるためであるが、第1段と第2段の抽出法は説明がない。

報告に目を通していくと、こんな下りがある。


暮らし向きにゆとりがなくなってきた人が増え(+5.6%)、ゆとりが出てきたという人は減っている(▲0.7%)ようだ。とはいえ、変動はわずかなものだ。これが完全無作為標本であれば、標準誤差は大きくとって1%程度だ。だから±2%ポイント程度の違いは誤差の範囲内である。「ゆとりがなくなってきた人」は確かに増えているのだろう。しかし、標準誤差が公表されていないので、「ゆとりが出てきた人」の割合については、はっきりしたことは分からない。

さらにこんな結果も公表されている。


雇用不安である。不安をかなり感じる人は誤差を考慮しても増えているようだ。「よろしくないねえ・・・」と、いや待てよ。回答者の年齢構成を見ないと、これは何ともいえないところだ。

レポート巻末の集計対象標本の属性分布をみると、回答者の中に占める中高年層の割合が母集団より高くなっている。雇用不安をかなり感じると答える人の比率が上がるのは、当たり前であり、労働市場の現況を知る手掛かりにはなりにくい。では、このことによって、母集団平均値に対してどの程度のバイアスが出ているのか?これは分からない。

☓ ☓ ☓

層化多段抽出法は、調査コストを節約しながら、結果の信頼度を上げるため頻繁に採用されているが、そのことによって標準誤差がどの程度小さくなるのか。この位は、何らかの資料であらかじめ説明をしておくべきではなかろうか。また、高速コンピューターがあるのだから、2段階だろうが、3段階だろうが、多段標本抽出による結果の標準誤差は容易に評価できるはずだ。

データの結果には必ず誤差がある。重要な政策判断をするとき、集計結果だけをみて「分かった」といえる時代は終わったというべきだ。そうではないだろうか。


2014年7月2日水曜日

「集団的自衛権」論争は一過性の花火で終わるか?

集団的自衛権の行使はしないという憲法解釈から、行使するという憲法解釈へ、内閣はこれまでの解釈を変更する閣議決定をした。

たとえば朝日新聞など、いわゆる「護憲派」は一斉に反発しており、「暴挙」であると非難している。一つの典型的な意見は歴史学者の加藤陽子氏が同紙に寄せている以下のような立場であろう。
 ■東大教授(日本近現代史)・加藤陽子さん
 集団的自衛権の行使容認で、政権は中国へ無言の圧力をかけたいのだろう。だが、中国は歴史問題の使い方がうまい。閣議決定は、中国国内の不満を「反日」に振り向けるのに利用されかねない。尖閣周辺での偶発的衝突などは世界が危ぶんでいる。日本の最大の抑止力は「非戦」のはずだ。
 閣議決定にある「国民の権利が根底から覆される明白な危険」という言葉は、一見、発動を厳しく限定しているように見えるが、政権が、国の存立や国民の生命、自由の危機について扇動しやすくする面もある。
 かつて日本は、多くの兵士の犠牲によって得た中国での権益を「生命線」として手放せず、米英との戦争を避けられなかった。もし海外で自衛隊員が犠牲になれば、国民はその死を深く悼むだろう。追悼の「記憶」が、外交的妥結を難しくすることも懸念される。(出所:朝日新聞、2014年7月2日
集団的自衛権の行使容認は、なるほど対中外交で安倍政権がとった戦術であるという見方もできるわけで、それが本当に日本がいま選択するべき外交戦略であるのか疑わしいと。そういう見方もできるのだろうが、それだけが集団的自衛権を議論するときの唯一の論点ではないし、また最も重要な論点でもないような気がする。

× × ×

外交という視点に話を限ってみても、各国は何度も意思決定を行う時機があるもので、したがってゲーム論の中では1回限りのワンショット・ゲームではなく、一連の行動計画を最適化するダイナミック・ゲームになる。

その長期的に最適な行動方針を決めるときにポイントとなるのが、自国の行動が周辺国に与える直接的な効果と、自国の行動変化が相手国の意思決定に影響することでもたらされる戦略効果である。特に、後者の戦略効果が長期的には状況の変化を支配することが多いとされているので、重要だ。

本当に「非戦」へのコミットメントは平和を維持する最適な長期戦略なのだろうか?オバマ大統領が対シリア軍事介入はしないと平和攻勢をかけることで何かプラスの効果が得られたのか?この問いかけは普遍的な意味をもつだろう。ウクライナ紛争で軍事力を使うことはないとあらかじめ言明することが、どのような意味で<アメリカにとって>最適な戦略であるのか?

日本に戦後の平和をもたらしたのは、戦争を放棄した日本国憲法であるという見方は、あまりにも一面的な現実認識だろう。なるほど平和憲法もないよりある方が良かったろうが、日本国内と-とりわけ沖縄と-朝鮮半島に配置されるアメリカの軍事力が、戦後東アジアの平和を維持してきたという見方の方がより現実に当てはまっているのではないか。

確かにアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム、アフガニスタンとずっと戦争行為を続けてきた。しかし、アメリカは戦争をする国であるという事実こそ、日本の平和を守る最も有効な国際政治資源であった、こういうと護憲派に対して余りにも冷ややかな批判になるのだろうか。

日本は日本国憲法をもっている。それは国際的にも知られているのだろう。それは日本をみる眼差しを決める一因にもなっているのだろう。しかし、日本人は韓国の憲法を読んだことがあるのか?中国の憲法はどうなっているか?インドの憲法は?つまるところ、その国の憲法に書かれている文言が、その国の戦争と平和を決めてしまうという見方は、現実をみる上であまりにも夢想的でロマンティックにすぎると小生には思われるのだ、な。

世界から戦争をなくするためには、書かれた文章ではなく、現実に機能する力が必要である。それは日本の戦国時代に終止符をうったのは、平和運動ではなく、豊臣政権と次の徳川幕府という抗いがたい<武威>によるものだった。この事実をみても分かるのではないかと思う。

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ただ、内閣が憲法解釈を変えるのは自由だろうが、今後改正されるはずの自衛隊法が違憲訴訟に耐えられるかどうかはまた別の問題である。

マスメディアを通して伝えられている憲法学者の意見をみても最高裁が改正自衛隊法を違憲とする可能性は大いにある。憲法の文言から改正自衛隊法が論理的に出てくるものであるか?それは法理の世界で審議されるのであり、国際政治の力学とは無関係でなければならない。

混乱しなければいいけどねえ…、韓国政府も時に韓国最高裁に振り回されているが、この先日本でもそうなるのじゃないか、そんな予感もするのだ、な。