学校というのは人を育てる、人を社会に送り出すことが主な役割である。つまり主たるミッションは教育である。
しかし大学は、研究の拠点としても期待されている。研究というのは「新しい知的成果」を発見したり、開発したりする活動だ。もちろん研究現場でも人は育つのだが、育つ人はそもそも育つだけの潜在能力を秘めた人材だけであって、平均以下の素材を育てるという発想は研究現場にはない。
大学はどちらを主として追求するのか。これは、大げさに言えば、制度化された「大学」という組織がとりくむべき永遠の課題だろうと思う。
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本日の日経の社説でも大学が議論されている。
教授会の力がそがれ、学内に表立った批判が出なくなったからといって、トップが恣意的な施策を打ち出したり不適切な人事に走ったりするならキャンパスはかえって混乱するだろう。そういう恐れのない、聡明(そうめい)な学長ばかりかどうか心配は残る。(出所)日本経済新聞、2014年7月30日
さまざまな「知」が集積する大学という場の特質をわきまえ、同時に現実感覚も失わず長期的な経営判断ができる学長は、残念ながらそんなに多くはいまい。ならば今回の改革を機に、大学は学長を「育てる」ことを心がける必要がある。あるいは経営と教育・研究の分離も課題となるはずだ。
ひとくちにガバナンス改革というが、いまの大学は極めて多様である。いきなり学長に全責任を押しつけてよしとするのではなく、それぞれの実情に合ったやり方を探る必要もあろう。
ムムム、人を育てると同時に、大学は学長も育てるのでありますか……。ま、こんな突っ込みはやめておこう。
とにかく経営と研究・教育を同一人物が兼業するなど、土台無理な話しであるのも確かなことだ。
一つだけ確実なことは、たとえ学長に人事・組織・カリキュラム・予算など全権限を集中したとしても、やりたいことが実現できるわけではないということだ。なぜなら、学長一人だけでは何もできないからであり、理念を理解し、ずっと協力してくれる多数の人が必要だからである。多数の人に動いてもらうためには、独裁的学長といえども妥協が必要である。協力者・部下のメンツを立てることも必要になってくる。というか、学長の求める理念が、周囲の多くの人の利益にもなるのでなければ、絶対に人はついてこない。ならぬ堪忍、するが堪忍が、これからの学長がきざむ座右の銘になること確実である。
江戸幕府を開いた将軍・徳川家康であっても主立った重臣への礼儀と遠慮があり、言いたいことを我慢することもしばしばであったと伝え聞く。まさに『人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず』であったのだろう。まして現代のオバマ米大統領、中国の共産党総書記・習近平は、細心の上にも細心を重ねて、自陣営の理解を固め、敵対するグループを切り崩し、弱体化しようと努力をし続けているはずである。
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いやあ、制度上の権限はあるかもしれないが、「学長」などはたとえ頼まれてもイヤだなあ……と、正直、そう思うのである。研究は自分の努力によって成果が得られる可能性がある。教育は自分がそのために使った時間に概ね比例して教え子からは感謝されるものである。統治者は、常に努力することが求められ、努力をすればするほど敵陣営からはもちろん、自陣営からも辟易される。むしろここまで努力をしなければ、責任は全うできない。そんな職務であるのだ。必然的に「孤独」である。
議員に当選したら言いたいことや、やりたいことをやってみて、それが問題になって辞職する人が多数発生している。ヒラ議員の間は我慢しても大臣になったら放言して問題となる。所詮、志が低いのだ、な。
たとえトップになっても、自分のやりたいことの半分もできないのが、現実ではないかと思われる。これは大学、会社、官界、政界を問わない。そして独裁的なトップであればあるほど、その地位を去ってからの後が惨憺たるものになる。それも経験的事実である。所詮、「勝敗は時の運」である。トップといえども「人事を尽くして天命をまつ」しか、やりようがないのである。
にもかかわらず、大学のトップを任せるに足る人物を「育てる」と……。大体、そんな人生目的をもつ人は、そもそも大学院に進む時点で一人もいないと思う。
大学の統治者として最良のトレーニングは、大学を出てすぐに学長の身近に置き、その仕事を補助させることである。そうなると学問上の成果は諦めざるを得ないだろう。ではあるが、やり甲斐はある。そんな人生をおくってもよいと考える有志の学生がいるかもしれない。そんな若者を見いだせるかどうかという疑問はあるのだが。
ここまで考えるなら、それこそ「学長を育てる」という表現に当てはまるかもしれない。こういう話しは、やっぱり具体的に議論しないとダメだと思うのだ、な。
いかなる大学を構築するか、いかなる会社組織を是とするか、いかなる官僚組織をつくって日々の行政をまかせるか……、すべて国の形の勘所である。学長に大学の基本を問うても筋違いである。レストランの雇われ店長にあるべきレストランの姿を問うても無駄である。基本的な決定はオーナーが為すべき事柄である。国立大学のオーナーは国民である。私立大学のオーナーは創立者及び創立者の理念を継承する評議会である。
オーナーにアイデアがないので、現場の長にどうしたらよいかを考えてもらう。そんな図式であろう。学長権限強化にどことなく無責任の香りがするのはそのためだ。
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思わず暗い話しになってしまった。これも中に身を置いているからであろう。
上に引用した記事では、大学を「知の集積する場」と表現している。具体的に言えば、知の伝達、知の発見、知の保存に分かれるだろう。
人を育てるには知を伝え、定着させなければならない。知の発見は、本来はアカデミズムの柱であるが、カネを使う研究に社会的な有用性を求められても仕方がない。カスミを食って生きることはできぬ。とはいえ、役に立たない知の成果は捨てればよいと考えるのは間違いだ。ピタゴラスの定理は、測量の役に立つくらいであったのが、いまでは関数空間、ヒルベルト空間で姿を変えていき続け、ロケットの軌道計算の役にも立っている。大学は「役に立たない知の保存」にもエネルギーを注がなければならない。
知の発見・伝達・保存のうちで何が大学の主たるミッションだろうか。
異なった組織原理で行動することが求められるので、大学もそれぞれの目的に応じて別組織に分けておくべきだろう。学問分野ごとの学部に縦割りで組織化して、学部に所属するスタッフが本来区別するべき複数の目標を同時に達成しようと内部で苦闘するのは不効率だと(小生は)思うようになった。
ま、まだ書き足りないが、少し疲れてきた。今日はこの辺で。