2014年8月31日日曜日

短命の天才より長寿の凡才か……

ゲーテは大作-とはいってもデュマの『モンテクリスト伯』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に比べればずっと短いが-傑作『ファウスト』の完成に60年という歳月を費やした。まるで貴重なワインの仕上がりを待つように、物事には十分な時間をかけることが最も重要だと、エッカーマン『ゲーテとの対話』でも何回か語られている。

ゲーテとちょうど同時代に生きたドイツの画家、キャスパー・フリードリッヒはとても好きである。その当時、どうやら古代ギリシア・ローマへの憧れとともに廃墟趣味も世に広まっていたようで、フリードリッヒも何点か、崩れた石壁を描いている。ゲーテも中年にさしかかる前、一度、ローマに逃避行をしている。


Friedrich, Casper, Two Men By The Sea At Moonrise

まるでミレーの「晩鐘」のような色調であるが、晩鐘は1860年ころだから、1世代か2世代かフリードリッヒが先んじている。

ただこの作品をみると、北海道に暮らしている小生はどうしても岩内に近い雷電岬あたりを連想してしまうのだ。




岩礁のうえに二人の人物を点景として入れれば、上のフリードリッヒのモチーフと近似してくる。上る月と沈む太陽の違いがあるとしてもだ。

岩内や雷電岬といえば、やはり木田金次郎である。有島武郎が木田青年との交流を作品にした『生まれ出づる悩み』は、第一次大戦終了後の不況がほのかにうかがわれる描写もあったりして、経済学科であるにもかかわらず小生のゼミ生に「読め」といって読ませたことがある-それも10数年も昔になった。本当に歳月怱々、光陰矢の如しである。

木田画伯は、昭和29年、洞爺丸台風に煽られた岩内大火で多数の作品を失った。同伯が立ち直り、創作活動を再開できたのは、そうするだけの時間を天から与えられたからと聞いている。

才能も天からの贈り物である。その才能を十分に開花させるだけの時間を与えられない人もいる。それは使命をやりおおせたという証しなのだろうが、十分な時間こそ最大の贈り物であることに間違いはない。


2014年8月30日土曜日

カジノ誘致のいま

かなり以前になるが同僚が担当している授業を参観する仕事がまわってきた。その授業は、特定のテーマを決めてディベートを行うもので、賛成陣営、反対陣営に分かれ、自らの個人的意見とは無関係に賛成/反対の議論を行って、傍聴者の投票によって勝敗を決めるというものだ。

その日のテーマは『北海道へのカジノ誘致の是非』だった。これは面白い。残念ながら、参観時間は1限であったので、ディベートの現場を見ることはできなかったが、後できくと「カジノ賛成派」が勝利したそうである。

◎ ◎ ◎

もし小生が論じるとすればどんな点を強調するだろう。個人的には僅かな差で賛成しているのだが、反対の議論をせよと言われれば、反対するのも簡単だと思う。

ずっと昔、『▲▲先生は何でも反対するね』と言ったところ、『□■先生こそ、何でも賛成するやないか』と言われたことがあった。それはそうかもしれないとは自省しているところだ。

× × ×

北海道内で誘致に積極的な町は小樽、苫小牧、釧路である。大方の見方は、仮に北海道にカジノが開設されるとして―大いにありうると思っているが―小樽と苫小牧の争いではないかというものだそうだ。

釧路は不利か……、確かに釧路は、背後の釧路湿原まるごとラムサール条約に登録しているように、特異な自然の中に立地する町であるから、カジノをコアにしたリゾート開発には最も向かない町でしょう。そういう議論は必ず出てくるだろう。ホテルができたり、観光客の入り込みが増えてもいいのかと、環境保護団体が猛反発するのは必至である。とはいえ、カジノというのは<非日常的空間>に置くと最も効果的だ。「霧の街」釧路はロマンチックである。冬季の積雪が比較的少ないのも強みだろう。

ロマンチックであり、街の佇まいから非日常性を感じるとなれば小樽市も競争力はある。札幌からも近い。リゾート地として世界ブランドになりつつあるニセコも近い。新幹線も通る。本命はここではないかと思う時もある。しかしながら、小樽は市域全体が山の斜面にあり、狭隘である。鎌倉市と似ている地形である。一体、どこに作るつもりかねえ … …。投資するにも場所がないじゃないか。そう思います。

となると苫小牧か。まあ、土地はある。新千歳空港からも近い。少し行けば日高の牧場地域だ。まるで北太平洋のラスベガスではないか。しかし、苫小牧には産業集積がある。北海道随一の工業地帯である。苫小牧港は取扱い貨物量も大きく、市全域が「現役」というか、生産活動と暮らしの現場になっている。隣の白老町はアイヌ文化のメッカであり、近々、国立民族博物館ができる予定である。苫小牧といえば、産業と文化教育のメッカ。そこにカジノをつくるか……。カジノはもう少し目立たないところ、日常と切り離された時間と空間の場であってほしい。そういう願いはないだろうか。

なので、小生は世評とは違って、北海道なら小樽市と釧路市の争いなのじゃないかと、そうみている。

★ ★ ★

ただカジノ誘致には強い反対もあるのが現実だ。日弁連は推進法案の廃案を求める文書を公開している。反対の骨子は以下の通りだ。
  1. カジノによる経済効果への疑問
  2. 暴力団対策上の問題
  3. マネー・ローンダリング対策上の問題 
  4. ギャンブル依存症の拡大 
  5. 多重債務問題再燃の危険性 
  6. 青少年の健全育成への悪影響
  7. 民間企業の設置,運営によることの問題
要するに、プラス効果には疑問符がつく、マイナス効果は色々あると。反対論は常にこういう論理構成になる。

一般に「嗜好品」は健康を害する性質がある。酒、タバコだけではなく、厳密に言えば珈琲に含まれるカフェインもそうだし、1本1000円もするユンケル・スーパーも元気が出るからといって大量に飲むと害があるそうだ。何ごとも<適量>が原則であり、この原則はあらゆる薬品・ハーブに当てはまると言える。

適量原則が守られるし、守らせる制度も設けると前提しよう。この場合は、飲酒を容認する方が色々な激務や不運に押しつぶされそうになっている人たちを守ることになる。酒が体質に合わない人にはタバコがある。酒やタバコの販売を容認している背景にはストレス社会に生きる人に気晴らしを提供するという目的もある。人は「気晴らし」を求めるものだ。

酒やタバコには限らず、心の疲労をもみほぐす、価格的にもほどほどの値段で、短時間で元気を取り戻せるような手段や場は、マイナス面がありうるという可能性の議論だけでもって禁止しないで、需要と供給のメカニズムにまかせるほうがより良い状態をもたらしてくれるのではないか。田沼意次が展開した現実的政策をモラルの観点から否定するのは、分かりやすいが故に社会には有害であった-専門分野でもそう考える人が増えていると思う。要するに、マア、「経済効果論」ということになるが、もともと小生、経済学を勉強したものでどうしても自然で合理的な解決を志向してしまうのだ、な。

故に、ギャンブルもほどほどにするルール、制度を設ければ、カジノもないよりある方がよい … …、という風な議論をディベートでして、どんな反論が返ってくるだろう。想像するだけでも楽しいものだ。


2014年8月27日水曜日

日本人はなぜ最重要なことを議論しないのか?

いま何が一番重要なことだろうか?集団的自衛権?従軍慰安婦の解決策?、対中外交?対ロ外交?TPP?原発再稼働?辺野古埋め立て?安倍改造内閣の行方?etc. etc. ...

どれも違うと小生は思う。そして多くの人は「どれも違う」と答えるのではないかと思う。

なぜなら、多くの人、というより大多数の人の最大関心事は<幸福>であるはずだからだ。この点を否定するのは、小生、欺瞞だと思うのだな。

★ ★ ★

国にとって、地域社会にとって非常に重要な政策をどうするかで、自らの幸福も大きく左右されるだろうといわれれば、それは影響を受けないわけはないが、政治的環境がどう変わろうと人は生きていくものであるし、国や政治がどうなろうと何とかなるという性質のものである。しかし幸福でなければ人は生きていく気力を失うだろう。少なくとも人は国が戦争をしていても幸福にはなりうるものである。小生はそう思っている。でなければ、戦争なるものは人類社会から消失しているはずである。

18世紀後半の啓蒙思想を背景にして「幸福追求の権利」が基本的な人権として意識され、アメリカの独立宣言やフランス革命時の人権宣言で明確に主張されたことは日本でも世界史を勉強する中でよく知られているはずだ。しかし、日本人はそれを欧米流個人主義の象徴として受け取っているのではないだろうか?自分の幸せをまずは追求しようとする人生哲学から、自己利益を目的とする資本主義がうまれ、そこから領土的野心、支配欲を衣の下に隠した帝国主義が生まれる。まあ、ろくなイメージを連想しない。日本で、-そして中国や韓国でも当てはまるかもしれないが-幸福追求の権利をうたっても、心底からアピールしないのは、この理念に日本人の多くは共感しないためではないかと思われる。『幸福追求だけじゃだめだろが!!』、マアそんな心情である。

実際、その後の世界の憲法で「幸福追求の権利」が条文の中にどう明記されているかとなると、どの国でも国権と人権とのバランスをいかにしてとるかで苦心している面が強いようである。ま、「幸福追求権」という権利を「法的に」定義するなら、かなり難しい問題となるのは間違いない。

法律的に難しいことは間違いないが、この点を徹底的に再確認することの重要性は、何も変わっていない。小生はそう思うのだな。

★ ★ ★

<幸福>を定義するのは哲学上の最大の難問でもある。それは思想史が現にたどってきた紆余曲折からも察することができる。幸福とは、いうまでもないが<楽しい>とは違う。<面白い>とも違う。<恍惚感>とも<充実感>ともイコールではない。

古代ギリシアの哲学者プラトンは『ゴルギアス』の中で、人の幸福をあらゆる角度から検証している。その中で主人公ソクラテスは次々に質問している。家を建てるなら大工という専門家と相談する。詩を口ずさみたいなら詩人にきく。音楽をきくなら音楽家だ。病気に罹れば医者を探すだろう。では幸福になりたいと思えば、誰にきけばよいのだろう?それは哲学者である。哲学者とは、知を愛する者という意味である。幸福は哲学者が語るものであって、エンターテイナーが提供できるものではないのだと。そんなことを言っている。

幸福に至る道を二千年以上の時間をかけて探してきたのが西洋だ。中国の古代哲学は熟知しないが、日本で幸福を考え抜いた哲学者は何人いただろうか?別に西洋文明を崇拝するわけではないが、率直に言ってこの点は、日本社会のウィークポイントだと小生は思っている。

★ ★ ★

確かに、何が好きか?どんな食べ物が好きか?何をしたいか?何が楽しいか?どうありたいか?それは文字通り「人は色々、人は様々、たで食う虫もすきずき」である。しかし、最終的に幸福でありたいというのは、すべての人にとって共通の願望であろう。他に国民共通のどんな願望があるだろうか。自分一身のみ幸福でありたいと願う人は考えにくい。これもかなり明らかではないだろうか。故に、幸福について議論したり考えたりすることは、枝葉末節の政策を論じるより遥かに重要度が高いはずである。

幸福の向上が政治・経済の窮極的な目標であるとする—というか、小生は当然そうあるべきだと思うし、他には思いつかない。その大前提の下で、はじめて戦略を論じることができ、国内の制度が決まる。「国がとるべき行動は何だろうか?」、目的を定めることなくこの問いかけには答えられまい。経営目標が決まらずして、社内組織の是非など論じられるはずはない。それと同じである。この<目標>が日本ではいつも揺らぐ。何をするかを論じて、何故するのかを問わない。

いま日本にかけているのは『幸福論』だと思う。同じタイトルの本は、岩波文庫にヒルティの著作もあり、アランの作品もある。プラトンも考えたし、アリストテレスも考えた。ローマ時代のエピクテートスも考えた。近代ドイツのショーペンハウエルも考えた。エピクテートスはローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリアス帝の心の師であったと伝えられる。

<幸福>をどう理解するか?そして共有するか?それは社会的なことすべての基礎のはずである。そこを考えた思想の厚みが日本にはない。あまり真面目に議論してこなかった。ここに日本の弱さがあると思う。「富国強兵」が残した負の遺産をここに見るべきだと思う。


2014年8月26日火曜日

移りゆくものへの感性が日本文化の粋ではなかったか

先日、カミさんと隣町のアウトレットパークに行って、ただいま進行中の内装工事の騒音から逃れてきたことは既に投稿した。

どの店だったか、並んでいた食器をみていると、主菜、副菜を盛り付けるのに便利なように仕切りをつけた皿があった。「そういえば、うちも昔、こんな皿を使っていたなあ」と、しばらく懐かしくなって見ていたのだ、な。

★ ★ ★

小生はまだ小学生だったと記憶しているが、ある日、父と母が買い物に行くと言って家を出た。帰ってきてから包みをガシャガシャとほどき、家族の人数分の皿をテーブルの上にテキパキと並べていった。その皿には仕切りがあって、薄い緑色をしていたが、素材はプラスチックで、手に持ってみると大変軽かった。『これなら一枚の皿におかずを盛れるから効率的だ』、父はそんなことを言っていたように思うが、少年というのは邪気がないもので、物珍しい形の皿とプラスチックという言葉の響きに浮かれてしまって、しばらくはその一枚皿に盛られたおかずと、米飯、味噌汁というまるで学寮か軍隊のような食生活をおくりながら嬉々としていた。

ずっと後になってから思い出すと、プラスチックの一枚皿で毎日夕食をとった経験というのは、決して豊かさを感じさせるものではなく、むしろ友人に話すのも遠慮しがちで、父はなぜこんな皿を使って食事をしようと思いついたのか、もちろんそれは母の感覚とも違うので、ずっと疑問に思っていたのだ。

年月が経たのちにやっと分かる親の思いというのは、もう何年も前に尽き果てたかと思っていたが、どうもまだ残っていたとみえる。

粗末とも形容できるあの皿を買ったのは、一つには四国から慣れない伊豆に五人家族で転勤して、中々馴染めないでいた母の家事を少しでも楽なものにしてやりたいという気持ちに父はなっていたのかもしれない。洗い物の数が減れば母の負担は減るし、プラスチックは瀬戸物より割れにくい。そんな風に父は思ったのかもねえ…と。それから、新任地で新たに研究課題として与えられたプラスチック事業の見通しに何らかの参考になるのじゃないかという気持ち、こんな思いも父の心の中にあったかもしれない。父の会社は合成繊維メーカーだったが、プラスチックは何に使えるのか、父も土地勘がなかったのだろう。それで味も素っ気もない、給食にでも使えばいいような、緑灰色のモノトーンをしたプラスチック製の皿を買う気になったのじゃあないか。だとすると、こんな思いは子供には絶対わからんわな。そう気づいた次第だ。

母は父のそんな思いにもかかわらず30台後半から40代にかけて体調を崩し、伊豆から首都圏の某ベッドタウンに転居したすぐ後に入院を余儀なくされた。父の取り組んだプラスチック事業も、ニュービジネスにともなうリスクが顕在化したのだろう、結局はジョイント先との関係も悪化し、行き詰まり、多額の費用をかけて欧米を視察してきた甲斐もなく、事業としてはとん挫することになった。父はエンジニアとして悩みぬき、心身の健康をそこない、50台になって間もなく癌を患い亡くなった。そして母の命日である秋の彼岸がまたやってくる。もう24年になる。両親はお互いに思いやる気持ちを十分すぎるほど豊かにもっていたと、そのことを今更ながら知るに至ったのだが、会社や組織の中にいる人間の運命は所詮は自然の中で暮らす動物とあまり変わらないものである ―いや、広島の土砂崩れで明暗をわけた人たちを報道で見るにつけても、一人一人の智慧や才覚、思いやりや助け合いは、それだけでは人生の無事を約束するものではないことがわかる。

★ ★ ★

一人の人は一枚の葉のような存在なのだろう。いつ芽吹いて、いつ樹を離れるか、一本の樹が成長する中でみれば、それほど大事ではない。樹全体が生命活動であるからだ。

本日の日本経済新聞にはAmazonやGoogleが進めている無人飛行機や自動運転自動車が紹介され、最後は以下のように締めくくっている。タイトルは、『無人機時代、クルマには受難か』である。
……それはいい。ただし、自動運転車の時代は日本車メーカーにとって微妙だ。たくさんつくって売るのが自動車メーカーの伝統的なビジネスモデルだとすれば、自動運転車はIT(情報技術)を駆使して多くの人とクルマを共有し、稼働率を上げることを可能にする技術。要するに、車の数は必要最小限でいい、という時代の始まりになる可能性があるのだ。
 グーグルが資本参加したウーバーテクノロジーズが象徴的だろう。空いているハイヤーなどをチャーターし、「また貸し」しつつ、車の稼働率を上げて利益も得るビジネスである。
 日本にとって自動車産業は最後の砦(とりで)だ。空に、ITに、「無人」で扉をこじ開けようとの動きがでてきたとすれば、当然見逃せないことだ。
(出所)日本経済新聞、8月26日

自動車産業も日本経済という樹に育った大きな枝と葉の繁りである。いずれもっと高くなった樹の中で日陰となり、新しい葉はそこには生えなくなるものだ。自動車もプロダクト・サイクルの栄枯盛衰から逃れることはできない。「最後の砦」という見方は適切ではない。生命とは移り変わりゆくものである。

2014年8月24日日曜日

21世紀の政策課題-市場支配力と国家の権力

いまシステムキッチンとトイレを入れ替えている。昨日は、水を止めて、朝から設備担当、壁紙など内装担当の職人さんが入れかわり、立ちかわり入って来ては作業をするので、小生とカミさん二人は隣りのS市にあるアウトレット・パークに出かけ、半日の間、時間をつぶしてきた。

全体にブランド店が並んでいるので、いくら「アウトレット」とはいえ高いことは高い。それでも米国・サンフランシスコに本拠を置くGAPに入ると、手ごろな品が色々と並んでいる。先週は東京から帰省した下の愚息にリーガルの靴を買ってやったが、上の愚息の誕生日も近づいているので、上は上でポロシャツなどでも買ってやるか。バランスもとれると、そう思って、二つ、三つと手にとる。サイズは、米国製などで日本の表示とは異なっている。上の愚息は、大変小さいので『Sは大きいよ、ピッタリなのはXXS、XSでも合うことは合うけど丈が長くなるのじゃないかなあ…』、そんな話をしながら二着買う。

GAPと言えば日本のユニクロの最大のライバルである。最近、株式価値でGAPを超えたという記事を読んだことがある。ま、ユニクロと似ているといえば似た雰囲気の店舗だが、デザインの志向は全く異なっている。消費者は、好みに応じて両者を使い分ければいいわけで、選択の自由が与えられている分、社会全体としては豊かになるわけだ。

そのあと歩いている内に、カミさんはT‐falをみつけた。鍋がほしいと言っているカミさんは、しばらく鍋を探した。小生が『そういえば、こないだTVでホームベーカリーが売れていて、普及率が20%を超えたと言ってたね。あの一つはT‐falだったろ?』、『そうそう、あれどこかな?』と回りをカミさんがみると『あった、あった、あれだよ』という。近寄って、左右前後をみていると、店員が寄ってくる。『いまは1万5千円ですが、9月にはまた元の価格に戻す予定です』、『先週までは2万円でした』などとアピールする。『そうかあ、定価が4万円だから、60%以上ひいているわけか、これは買いだなあ』と。パナの「ゴパン」も競合品として有力だが、これだけの価格差ができると決めるのも容易だ。

これまた「選択の自由」である。どの国に住んでいても、良いものは国境をこえて販売され、それが良いと思う消費者がいれば、それを買う。豊かさとはそんなものだろう。これを被害者感情から出発して見れば『外国品が入れば国内品が売れなくなる』という反応になるのだが、国内の良いものを相手国に売るのも自由なのだから、自分が「被害者」と言うなら相手国への「加害者」でもあるわけだ。相手国のライバルはやっぱり『外国品が入ってくるのは困る』と思っている。企業から見るとお互い様、消費者から見ると豊かになる、合計すればプラスになる。これが国際化のロジックである。

× × ×

ただ、疑問もある。贅沢品を輸出して、必需品を輸入する。食料自給率はもっと低くなる。エネルギーや食品を外国に依存する。これでいいのか、心配だという意見は当然ある。そもそも"Made in Japan"の製品は、世界市場で激しく競争している。日本は顧客国に対して強い交渉力をもっているわけではない。いかに差別化に成功してオンリーワンのポジションを得るにしても、潜在的参入企業は常にいて世界市場で独占的な支配力をもてるわけではない。円高に対してもヴァルネラブルである。反対に、日本に石油を輸出している産油国は日本に対して強い交渉力をもつ。そもそも価格弾力性が1を下回る財貨については、<際限なき値上げ>が利益拡大の早道なのだ。価格非弾力的だから値上げは収入を増やす。数量をしぼればコストは低下する。利益が増えるのは当たり前なのだ。

経済の国際化は、確かに日本人を豊かにする。しかし、食糧とエネルギーを外国に依存するのは日本が豊かになる分、その分を日本との交渉で略取しようという誘因を外国に与えることになるだろう。日本が輸入する必需品は高値となり、日本が輸出する製品の価格は買いたたかれる。日本全体としては、ちっとも豊かにならない。そんな状態も実現可能だろう。

経済のグローバル化に努力した国が、努力した分だけ豊かになるためには、世界市場でアンフェアな経済取引が横行するのを抑止する機関が必要だ。不当な市場支配力を行使するメガ企業、国営企業にペナルティを課す権限をもったIFTO(=International Fair Trade Organization)が設立されれば、経済の国際化に異をとなえる人や国はもはや誰もいなくなるだろう。そんな国際機関の設立に向けて努力を払うことは日本の国益とも合致する ― いや、それでも問題はすべて解決はしない。

ローカルな地域において政治的影響力を駆使したい人間集団はゼロにはならないだろう。困ったもんだ、小生は感覚的にそう思う。が、21世紀の<国家>とは所詮、というか徐々に、その程度にまで無用で大したことはない位置づけに収束していくのではないだろうか、収束させていくべきだ、と。そう思っている。

人間の暮らしに<国家>が影響を与えうる度合いは段々と低下していくのが望ましいとしても、それでもメガ企業の自己利益追求本能は抑えがたいものがある。こんな記事が2年前に出ている。

Amazon faces UK corporation tax probe
Amazon, the world's largest online retailer, is facing an investigation by British tax authorities, it has been reported. 
The company disclosed the investigation in a filing with US financial regulators. It was alleged that the company recorded sales of more than £7.6bn in Britain over the past three years without paying corporation tax. 
Amazon does not disclose how much tax it pays in Britain. 
However, its main UK subsidiary, Amazon.co.uk, is regarded as a "service company" rather than a retailer. 
That means that the British company provides services to a parent company based in Luxembourg, where the tax rate is lower, the Guardian said.
Source: Daily Telegraph, 2012-4-5 

北海道・苫小牧市にはトヨタの関連工場がある。会社としては独立しているが、製品販売価格は市場で形成されているわけではない-そもそも市場で効率的にアウトソースできるなら、関連会社として組織化する必要はない。それ故、トヨタ自動車北海道は愛知県のトヨタ自動車本社の利益形成に寄与している部分が大きい。いわば本社に対するサービス企業の位置にある。英国のAmazonは、ベルギーのAmazonに対するサービス会社である。この種の関係は、一国内多地域間で、国際多国間で多く形成されている。

要するに、企業は節税の動機をもつ。利益は本社に計上してマネーは効率的に使いたい。企業には合理的でも日本という観点からは非合理なことはある。一国には合理的なことでも世界全体では非合理なことはある。経済政策のグローバル化がないままに、無秩序なグローバル化が進めば、世界経済は「ジャングルの経済」になるだけだ。結局は混乱して終わりになる。経済と政治は一体のものでなければならない。

2014年8月20日水曜日

負の情報バブル:一つの文例

セウォル号沈没事件当日に朴大統領の所在が不明であった空白の7時間を報道した産経新聞のソウル支局長が、その報道ぶりが名誉毀損にあたり不適切であったという理由で、韓国の検察当局から任意の取り調べをうけたそうだ。これに対して、報道の自由を侵害しているのではないかという懸念が高まっている。

「報道の自由」……、確かに報道は自由であるべきだ。しかし、マスメディアの社員が調べもしないで、あることないことを好きに書きつらねて、人の勤務を正常でない状態にするとすれば、「報道」という名前をかりて「流言」に加担し、流言という商品を販売することで自己利益を得ていることになる。非は報道をする側にある。この点は大半の人がそう思うのではないだろうか。報道機関に期待されている役割は、事実の伝達、事実の隠蔽の防止であるはずで、マスメディアはそのために真剣に努力しなければならない。これが原理・原則だと思う。
安倍首相は長崎で被爆者団体代表らと面会した際、閣議決定の撤回を求められたが、「安全保障環境は厳しさを増している」と持論を展開した。報道によると、終了後、1人が「納得できない」と迫ると、首相は「見解の相違です」と述べ、立ち去った▼もはや問答無用と言わんばかりだ。戦争の惨劇を身をもって知る人たちに吐く言葉だろうか。丁寧に説明し国民の理解を得る努力を続けると話したのは誰だったか▼首相は広島、長崎での平和式典のあいさつが昨年の「使い回し」と批判された。(出所)北海道新聞「卓上四季」、2014年8月20日
確かに安倍総理は原発にしても、TPPにしても大変重要な話題に関する国民的議論の広がりをあまり歓迎していないのじゃないか。小生もそんな風に感じることは多い。しかし、『広島、長崎での平和祭典のあいさつが昨年の「使い回し」と批判された』、この「○○さんは、▲▲であると、批判されているよね」。この文型、真夏の飲み会でこんな言い方をする同僚がいたら、「ねえちょっと、その言い方は卑怯だよ」、まずそう言いますなあ。

大体、式典のあいさつ文は(公職にある人は特に)時によって、場によって、違いがあると必ず違いの理由はなにかと質問される。結婚式の披露宴ですら、ぶっつけ本番のあいさつはしない。言い忘れることがありがちだし、うっかり場にふさわしくない言葉を使うこともあるからだ。大事な式典なら原稿がいる。頻繁にあいさつをするなら違う所と同じ所に注意する。これは当然のマナーだろう。

上の点はともかくとして、「あの人、▲▲だって批判されているよね」という言い方。誰に聞いてもいいが、要するに「私もあの人はいけないと思う」という意見と中身は同じである。

DNAの遺伝子配列ではないが、このような文型は「流言飛語」においてティピカルであると、小生、思っているのだ。下世話な井戸端会議ならともかく、社会的影響力の強いマスメディアが使うべき表現ではないのじゃないか。というより、井戸端会議なら『▲▲だと批判されているよね』とは言わない。『安倍サン、今年も平和式典でさあ、去年と同じ言葉で挨拶してたじゃない。あの感覚、無責任よね、鈍感よね!』と、正直に、きちんと非難するはずである。現にこういう人が多いという確認なら、大いに報道してほしいものだ。ま、道新は卓上四季はエッセーですからと言うのだろうが。

一年以内に大地震が首都圏を襲うと予測している人がいると言われている。

普通はこんな記事は<没>になるはずだ。英語で言えば"They say that ..."という文型だ。『…な人がいると言われている』とはなんだ?探してこい。予測しているのは誰だ?いるといってるヤツは誰だ?同じ話しである。

事実かどうか怪しい噂を「流言飛語」と定義するのである。果たして朴大統領の空白の7時間報道が、社会的にマイナスの価値となる「流言飛語」、つまり負の情報バブルに該当するのか、韓国の検察当局もきちんとした理論を構築しておくべきだろう。

2014年8月19日火曜日

議員は「有権者」が選ぶものなのか?

中学生とLINEでやり取りしている内に、ああ言えばこう言うという状態になってしまい、とうとう恐喝に該当するということで「非難の的」になっている山本大阪府議。大阪維新の会府議団からも「除団」処分となってしまった。橋本大阪市長は、同議員が交野市長選に出馬するという噂に対して、『全く向いていない』とばっさり言ってしまったから、「選ぶのは市民なのに言い過ぎ」と又さざ波がたっているとのこと。

ま、面白いといえば面白いのだ、な。何しろリアルで進行しているのであり、当事者は人生をかけているわけで、必死である。芝居とは違う。

ただ「芝居」だとしてもレベルが低いのが情けない。もっと深い言葉を、意外性のある表現、人間味がそこに見られるような科白を口にできないのか。そう思います。

それにしても「市民が選ぶのに言い過ぎ」という橋本代表への反論。正当なのか?確かに議員にしても、大統領にしても、有権者が選ぶ。政党組織の長だろうと、勝手に評価するなというのは理屈にはかなっている。理屈にはかなっているが、現実には有権者だって候補者の所属政党をみて、その人を信頼もし、評価もし、票に氏名を書くのではないのか。大体、候補者の人柄・能力を個人的に知っている人は多くはない。食材だって、産地を知りたいし、メーカーを知りたい、まして人間においてをや。選挙の時だけ、「私たちが自分の目で選ぶんだから」というのは嘘であろう、と小生は思う。

となると、政党の所属議員としてあるまじき行動をとれば、政党はその人をもやは信頼しない、そして処分する。除名する。それは当り前であるし、それに応じて有権者は考え直すべきだろうと。こう考えるのが自然ではないだろうか。

いまは除名されても、「有権者が選んだのだから」という理由で議員まで失職することはない。しかし、所属政党の信頼を裏切る人物が有権者の信頼を裏切らないと考える根拠は薄い。やはり、所属政党から除名される事態になった議員は、改めて有権者から「信任投票」を受ける倫理的義務があるのではないだろうか。現行の「リコール」制度は、弾劾的な意味が濃厚で実施までの要件が厳しすぎて、ほとんど機能していない。

比較的少数の申し立てによって、個別の議員に-というより「公職」とされる人については広汎に-「信任投票」を受けさせる手続きを設けるべきではないだろうか?もちろん、申し立て理由と信任投票の実施については、公平な第三者機関が判断するべきだ。

2014年8月18日月曜日

論理のトレーニング-殺人・戦争に関する問題

子どもが『人を殺すことはなぜ悪いの?』と質問するとする。どう答える。というより、どう説明する?

近年、未成年者による猟奇的殺人事件が時に発生してはワイドショーなどでもそんな質問が話の中にでて、メインキャスターが(自称?)コメンテーターに話を振ったりする。そうすると、振られた側も話しにくそうに『そうですねえ……』と言いよどむ。「おいおい、そこで言いよどんだら駄目だろう、直ちに言わないと。色々な考え方があるということと、物事の善悪は定まってはいないということは、違うんだよ』。小生、なんどTV画面に反論したかしれない。やっぱり年なんだねえ…

× × ×

ブログ「ニュースの社会科学的な裏側」で議論されている内容を待つまでもなく、人を殺した場合「殺人罪」になる場合と、「武勲」になる場合とがある。

ソクラテスは、しかし、人が幸福であるためには、倫理に従うことが必要であると考えた。「幸福」というのは「真の意味で幸福」ということだ。「倫理」にしたがう……、「モラル」に従うともいうし、「義」にしたがう、「道」にしたがうともいう。小生はソクラテスの議論が正しいと(本来は)考えている。

が、色々な考え方はある。ここで色々な考え方を列挙したところで、あまり意味はない。だから、こんな論理トレーニングもあるかもしれないという一例をメモしておこう。

公理をおく。公理とは大前提のことである。証明抜きで<真>であると認めるのだ。
自然は善である。
この公理に異論はないと思う。というのは、自然こそ悪であると前提すると、人間は自然の一部だから人間は本来は悪しき存在である。悪しき存在を否定するのは善である。だから殺人は善である。しかし、その行為自体、自然の一部である。だから殺人は悪である。これは悪しき存在であるはずの人間を殺すことは善であるという先の結論と矛盾している。よって背理法により、自然が悪であるという前提が誤っている。

それ故、自然は善であるという公理をおこう。そのとき、自然の一部である人間はすべて、本来、善なる存在である。善なる存在を意図的に殺す行為は悪である。よって、殺人はすべて、本来、悪である。

しかしながら先の議論を繰り返せば……、人を殺すと言う行為もまた自然の一部である。故に、殺人は善であるという結論が再び導かれる。故に、背理法により自然は善であるという前提も誤っている。

自然を善悪いずれかに判定することは不可能だ。殺人という人の行為も自然の一部である。故に、殺人が善であるか、悪であるか、論理的には決定できない。

つまり殺人の善悪は、人間社会の成立に先だってあらかじめ答が決まっている問題ではない。善悪の判定は「真理」というものとは違う。したがって、自分が属する人間社会がどう考えるかで決定するべき事柄である。

ま、屁理屈であることは分かっている。要するに、ワイドショーのメインキャスターは『自分はこう考える』と、堂々とおのが哲学を語ればよいのである。

× × ×

小生は嫌いな言葉だが<正義>という用語は、現代社会で非常に頻繁に使われている。特に戦争に関連して、正義と言う言葉は交戦国双方から洪水のように流れ出てくるものだ。これすべてプロパガンダと呼ばれている。要するに、傍観者に訴える<宣伝>である。

『正義は必ず勝つ』と言われる。この格言が真であれば、戦争の勝者が正義にかない、負けた方は正義ではない。それがロジックだ。

『正義は必ず勝つとは言えない』。この命題によれば、負けた方こそ正義という結論を出しそうになるかもしれないが、そうではない。勝敗と正邪は、無関係であると。そういうことだから、文字通りの「勝敗は時の運」という見方になる。倫理の問題として、勝者が正義であるとはいえなくなるが、どちらが正義であるか決めよと言われれば、勝敗と正邪は関係ないのだから、ここは勝者に決めてもらおうということになる。勝者の側が「自分たちこそ悪かったのだが」という結論は取りえないからだ。勝敗を倫理的に受け取るのではなく、政治的な裁定として認めるのである。いわゆる「帰服する」という行為が敗者には求められる。

いずれにしても、敗者は勝者の裁定によって悪しき存在になるか、本来的に悪しき存在であったか、この二つのいずれかしか可能ではない。

戦争の敗者は、自分が本来的に正しくなかったのだと考えるか、勝者の裁定を受け入れて自分は正しくなかったと認めるか、そういうことになる。

戦争の敗者であって、かつ正しい道をとっていた。そう解釈する余地は敗れた時点で論理的にないのである。






2014年8月16日土曜日

終戦記念日ー祖父の世代の責任をどう思う

親が犯罪をおかしたからと言って、子が引け目に感じる義務は無い。親が「犯罪者」だから、子が不利益をこうむるなら、それはフェアじゃない。それが近代個人主義である。

だから国と国の関係もそう考えてよい。そんな理屈は成り立たないと思うのだな。


親と子は別だと言うのは社会を個人に分解したときの法理である。いまは「家」も「一族」も法的存在ではない。だから親がおかした犯罪の責任の一部を子が継承することはない。犯罪者の一族という法的概念は現時点ではなくなった。それはそうだ。

しかし「主権国家」は国際社会において今も存在している。日本は主権国家だと考えるから「国のために殉じた人に追悼をささげるのは国家の権利である」と、そう語る人も多いのである。戦後日本は、戦前日本の子ではなく、「日本」は戦前から戦後へ、(形式的な手続きでしかなかったにせよ)憲法改正をへて、ずっと連続してきた。「家」はなくなったが、「国」は存在し続けているのである。日本は確かに敗亡はしなかったにせよ、かつて攻勢防御という思想で拡大戦略を企て、事敗れて敗戦を迎えた国なのである。この視点は、日本人が日本を思う時も、外国が日本を見る時も、どちらも同じだ。ありのままの事実を確認すること自体は、自虐史観でもないし、右傾化でもない。

第一次大戦後、参加したすべての帝国ードイツ帝国、ハプスブルグ帝国、ロシア帝国、トルコ帝国ーは滅亡し、皇帝は亡命するか、惨殺されるかしている。第二次大戦でも敗亡した枢軸国のうち、イタリアではクーデターがおこり、ムッソリーニは同国人によって処刑され、ドイツでは徹底抗戦ののちヒトラーは自殺、幹部は逮捕・処刑され、その後も同国人により執拗な戦争犯罪追求が続けられた。

それが国家間の「戦争のけじめ」だと言われれば、何度もこのブログで書いたが、日本はケジメのつけ方がいい加減だったのかもしれない。そのいい加減さには、なぜ戦争が起きてしまったかという経緯もあって日本の責任も大変深いものがあると思うが、占領した連合軍、というよりアメリカの占領政策もまた無原則・無責任に揺れ動いた、その点も大いにあった。で、メリハリのつかないまま現在に至る、こんな側面があると思うのだな。

★ ★

そもそも政治の延長で戦争を選ぶ以上、勝てば自国が正義となり、負ければ敵国が正義となり自国は相手から裁かれる。戦争とはそういう選択肢である。

小生の祖父は、戦前期・日本において判事をやっていた。治安維持法に基づいた裁判もやったかもしれない。国家権力の片棒をかついでいた、そう言われればそんな地位にいたのだろう。しかし、新憲法の下では新たな法服に衣替えをして、法廷にのぞみ続けた。カミさんの祖父は、内務省に勤めていた。戦時は、ある高校の校長であり、軍事教練を強化したそうだ。戦後は、別の公共施設に異動し、役人生活を全うした。

戦時体制に加担した責任をいかにしてとったのだろうか?

もしもいささかでも戦争に協力した者は戦争犯罪者であると考えるなら、かつて部族間戦争に敗北した側はすべて男性は処刑し、女性は奴隷とした「原始の正義」と同じ思想になるであろう。

責任をとるべき人がすべて責任をとり、刑罰に服するなら、戦後の統治そのものが不可能であったに違いない。だから、どこかで線をひく。それが戦後処理、つまり「戦争のけじめ」というものだろう。

それは責任が消えるという意味ではない。切符を切られなかったからといって、なかったことになるわけではない。それと同じだ。まして、というより「しかるに」と接続するべきか、戦時に指導的立場にあったから国に尽くした、国家の繁栄に尽くした、と。そうした人をあとになって公に称揚・顕彰することは敗戦国の国家主権の範囲内であるのだろうか?

同じ時代に上層部の仕事をすれば戦争犯罪者となり、中級レベルの仕事をすれば後の世で顕彰される。これは明らかに矛盾した結末だ。小生とカミさんの祖父は、この矛盾に苦しんだのじゃないだろうか。

残る選択肢は、戦争犯罪者をも自国の裁量で顕彰することである。自国が自国の歴史をみる見方と、外国が自国の歴史をみる見方に矛盾が生まれるが、開き直るならこれまた一つの選択肢であるに違いない。国内の矛盾を国内限りで解決し、それで生じた対外的な矛盾は首をすくめてやり過ごす発想だ…………よくやる手法だが、小生、あまり好きではない。

★ ★ ★

日本で曲がりなりにも丸ごと消滅・失業したのは、陸海軍の軍人だけである—これも自衛隊創設でかなりの人が再就職したので明治維新後の社会革命とはスケールが違う。アメリカの立場からみれば、それで意図は達成された。だから、それでいいのだが、日本人までアメリカ人と同じ目線で日本のことを振り返るなら、そんな資格は流石にないのじゃないか。そもそも見逃された戦争責任は星の数ほどにあった。それが戦後日本の現実だった。「一億総懺悔」というフレーズは、国際政治的なパフォーマンスと決めつけてはいけない。そのときは本気でそう考えたことを忘却したらいかんのじゃないか。小生はこんな風に思うのだな。

親と子は別の人間だが、国は69年前の日本と今の日本は同じ国である。いや、満州事変を起こした83年前の日本と同じ国でもある。敗戦後に国の姿を変えたのだと、日本は言ってきたわけだし、それが国際的にも「殊勝」であると認められてきているのだが、それなら尚更のこと69年前に国として明言したことは、今でも有効である。言ってきたことには縛られるものである。アメリカと日本は、そもそも別の国で、ずっと言ってきたこと、やってきたことも違う。ここはグダグダにしてはいけない、と。理屈で考えてもそう思うのだな。集団的自衛権容認をしたからと言って、今までできなかったことが、すべてできるわけでもなく、これ自体で物事はあまり変わらないのじゃないかと思ったりもするのだが、明治憲法下で「統帥権」が独立しているのだと当の軍人達が気づく前と気づいた後では、すべてが変わってしまった。心配だと言う人の気持ちもわかるのだ。

いい加減な国である。嘘をつく国である。憲法はあれど、実際どうなるかは分からない国である、と。そんな印象を与えるなら、ほかにどんなプラスの効果があるにしても、それだけでトータルはマイナスである。ヘマはやってほしくないねえ……。

★ ★ ★ ★

長々と論じ過ぎた。

日本が旧敗戦国から名誉回復されるのはいつなのだろう?

それはおそらく、「戦争のない平和な世界」を実現するのに今後どれだけの日本人の血を流すかによる。唯一、その道しかない。小生はそう思っている。

50年先か、100年先のことになるか、見当もつかない。そんな世が人類共通の夢であれば50年先かもしれない。仮に戦争が人類のDNAに組み込まれた性癖であり、永遠になくならないのだとしても、それでも紛争解決に血を流して100年間も貢献するなら、先祖が命をかけてやった侵略という血の歴史があるにしても、国際社会で名誉ある地位が日本に対して認められるかもしれない。

文字通り『任重くして道遠し』。もしも覚悟がなければ、これまでのように大人しく低姿勢をまもり、経済中心でやっていくのが良いのではないだろうか。

2014年8月15日金曜日

覚え書ー盆の帰省と会話

東京で仕事をしている愚息が夏休みというので北海道に帰省してきた。帰ったその日に赤ワイン "Chambertin"を、翌日(=昨日)は日中に白ワイン"Mont-Rache"をあけ、晩は町中に食べに出て寿司をとりながら熱燗を7合ほど飲んだ。コースを平らげたあと、ウニ丼、ホッキ貝の塩焼き、活タコの酢の物、それから何だっけなあ…あっ天麩羅か。で、今日は旭川に出張っていって研修中に親しくなった友人と飲み明かすそうである。

愚息は、仕事を始めてからも携帯は小生の支払い口座に属していたのだが、もう自分の名義を起こして支払いも自らするようにせよと申し伝えていたので、昨日は寿司屋に行くまではソフトバンクに行っていたのだ。『携帯を1台、新しく名義を別にして、支払い口座も独立させたいのです。その後も親子通話は無料で出来るようにしておきたいのです』、『それと機種変更をして5sに変えたいのですが…』、たまにしか来ないので懸案をいっぺんに済ませようとするのは仕方がない。『名義変更と機種変更は同時には出来ないのですよ』、『そうなんですか』。仕方ネエなあ、それで今日もまたソフトバンクに寄って、機種変更をして、昼食もそこそこ慌ただしく駅に急いで、旭川へと出発していった。

一人帰省するだけで振り回されるのだから、子供をつれて一家総出で帰省されたら身がもたない。『その時は、あれだね。その期間はおれたちもセカンドハウスにいって留守をしているんだ…』、『その期間は外国旅行が入っていてなあ…』と、そんな風にいう必要も一度や二度ではあるまい。とはいえ、めったに会えないのに、数少ない機会をなおさら少なくする方がいいのか。まったく家族関係をどうするかというのは、自分たちの生活とのバランスをどうとるかでもあって、結構難しい課題である。

☆ ☆ ☆

こんな話しをした。

小生: 仕事をしてると、どうしても辛いときはやってくる。思うようにいかない。辞めたい。そんなとき、苦労を乗り越えるのに何が支えてくれると思う。

愚息: う〜ん、その仕事が終わった後のことを考えるかなあ…、どんなことをしようとか。

小生: 「想像の翼」(朝ドラから借用させてもらった)をひろげて楽しいことを考えるんだな。それからどうする?

愚息: 相談するかな、それで愚痴ったりすると思う。

小生: 誰にいうか、誰に聞いてもらうかというのが鍵になるねえ。

カミさん: それで何なの、乗り越えるのは?

小生: いつ、誰にきいたかなあ?少し上の先輩だったか、うんと上の偉い人だったか、忘れてしまったけど、まず第一は少し笑えるんだけどね、「まず愛だ」といってたね。友愛、師弟愛、同志愛、夫婦愛、家族愛、いろいろあるけどね。愛したり、愛されたり、それがいるというんだったね。

カミさん: 一人じゃない。誰かにきいてもらうというのはそれだね。

小生: うん。ただね、その聞いてもらう人が誰一人いなくなる時もあるというんだね。家族も崩壊する。友人は去っていく。そんな時も「神様だけは自分のことを見てくれている」そう思える人は実に強いと言ってたよ。「神だけは自分を見放すはずがない、自分はいつも神と同じ道を歩いてきた、もし神が自分を見放すのだったら、それは神がそうすると決めたんだから、自分はそれでいい」。まさにインシャラー、神の思し召すままに。そんな信仰がある人は、どんな苦難にも、拷問にも耐える。実に強い人間であるそうだ。そう思わないかい?

愚息: イスラムの聖戦もそうだね。

小生: まさにそう。それから三番目は「志だ」ということだったかな。志っていっても単にやりたいこととか、目的とかそんなのじゃないよ。やり遂げられるか、やり遂げられないか、それは分からないが、自分はそのために人生をかけて努力していく、いまやることは志を実現させるため必要なことなんだ、そう思える理念のようなものだな。坂本龍馬は、前途半ばで死ぬにしても前のめりに死にたいと。そう言っていたそうだ。吉田松陰は若くして処刑されたのだけど、「身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」という辞世を残した。自分は果たせなかったことを、弟子達がやり遂げたんだよね。これが志だ。自分が発奮するだけでなく、人も発奮させるわけだ。仕事がきつくて辞めたくなったり、仕事がつらくて心を壊すのも、厳しく言ってしまうと事なかれ主義。つまりは志が低い。そんな気は確かにするんだよねえ……。苛めと見るか、試練と受け取るか、苦労とみるか、難題とみるか。やり遂げようと思っている目的がしっかりとある人は、絶対に挫けない、辛ければますます一層闘志をもやして敵を倒そうとする。そんな話しだったかなあ。

カミさん: あなたのお父さん、敵百万人ありとても、に似てるね。

小生: 己信じて直ければ、敵百万人ありとても我行かん。日蓮の言葉だね。まあ、人間関係でいえば、日蓮は最悪だよ。鎌倉幕府からはいじめられるし、殺されそうになるし、庶民からは嫌がられるし、他の宗派のライバル達からは悪口雑言を投げつけられるし、告げ口はされるし、あれでよく引きこもりとか自暴自棄になったり、反社会的な人間にならなかったと思うよ。まあ、挫けるような人なら歴史には残らなかったけどねえ……

☆ ☆ ☆

覚え書きまでに記しておいた。

よく似た文句を思い出した。学び始めの頃に使っていたドイツ語の参考書に乗っていた短文である。

Man muss stark sein, um gut sein zu können.

人が善であるためには強くあらねばならない。強いことが善であることの必要条件だから、善である人はすべて強い人間である。弱い人間は善い人間たりえない。ロジカルにはこうなる。う〜ん、確かにねえ。強い人間がすべて善い人間であるとは言ってない。しかし善い人間はすべて強い。

論理的にはそうなるのだが、そうなるかなあ……、弱い人間は善を守ることができない。モラルを守り抜くことができない。苦難にあえば崩れてしまう。確かにそうかもしれない。それは苦難のせいではなく、その人が弱いからなのだ。強い人は苦難に対して、逆に闘志をもやす。確かにそう言えないこともないかもねえ。上はナポレオンの言葉であったと記憶している。

2014年8月11日月曜日

「多難の年」はあるものらしい

多事多端。いろいろ大変な事件が続発する状態を指す。一年を通してそんな情況が続くこともある。

何気に夏の甲子園関係の記事を読んでいると、「中京明石延長25回」を報じた朝日新聞記事が参考欄にあった。それを読んでいると―この辺のサービスが近年非常に進化したー『PL、震撼させた記録破りの猛打』がバックナンバー一覧の推奨記事に出てきた。「ああ、桑田・清原の頃だな」というので、これも読んでみた。1985年、昭和60年のことである。東海大山形を相手に29対7。一試合最多安打32本のほかにも記録づくめの結果ということだ。

何となくこの試合のことは覚えていた。そうかあ、これも1985年のことだったのか…、ちなみに小生の上の愚息が生まれたのも同じ1985年である—何ということもないが。
試合の2日前には日航機が御巣鷹山に墜落するという大事件が発生している。その当時、小生は某官庁の広報担当部局で仕事をしていた。記者クラブが隣にあったので騒然としていたことは体感感覚とともに蘇る心地がする。日航機墜落の前、6月には現物まがい商法で世を騒がせた豊田商事の永野会長が自宅に押し入った男性により惨殺されている。これも突然の報道で吃驚した。

実は調べてみると、この他にも
2月。田中角栄元首相が脳梗塞で倒れ入院した。田中時代は終焉を迎えた。
3月。ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した。ペレストロイカ時代の始まり。
4月。電電公社がNTT、専売公社がJTに。民営化の象徴。
5月。男女雇用機会均等法が成立。労働市場構造改革の第一歩。
6月。インド航空機墜落。329人死亡。
7月。毒入りワイン騒動始まる。
8月。米国・デルタ航空機墜落。135人志望。
9月。女優・夏目雅子が白血病で死去。

まあ毎月何かの大事件が勃発した。もちろんソ連の共産党書記長交代は、今にして思えば「あれが分かれ目だったねえ」という、事後的な判定だ。

そして同じ年の9月、プラザ合意があり、その後は猛烈な円高が進んだ。これによるマイナスを打ち消そうと日銀は空前の金融緩和に舵を切る。そしてバブルが発生するに至ったのだった。

その後、11月にはエジプト航空ハイジャック事件で60名が死亡。12月にはアロー航空機がカナダで離陸に失敗し墜落炎上。256人全員死亡。

1985年という年は、文字通りの多事多端な一年だった。航空事故がやけに頻発しているが、一過性の事故だけではなく、長い目で見て事後的に大きな影響をもった事も起きている—ゴルバチョフ書記長、プラザ合意など。

2008年のリーマン危機。2011年の日本の大震災、福島原発事故。このところ世界は騒然としているが、2014年もシリア、ウクライナ、マレーシア航空370便行方不明事件、マレーシア航空機17便撃墜事件、アルジェリア航空機墜落事件。そしてパレスチナ、イラク紛争と。多事多端である。そしてやけに航空機事故が多い。

長い目で見て、この先の世界を大きく左右することになるような変化はどこかで進みつつあるだろうか。ひょっとすると、日本の集団的自衛権容認の閣議決定がそれだった、そんな風にならないことを祈る。


2014年8月10日日曜日

集団主義ー「そうするもの」か、「モラル」なのか

今年は次々に台風が四国を襲っている。小生は伊予の生まれだが、まだ小学生の頃に第二室戸台風の来襲を経験した。父の勤務の関係で、その頃は浜辺の漁港沿いに広がった界隈で暮らしていた。登下校の途中で防潮堤に沿った道を通ることもあった。台風が来る日は、母から海沿いの道は歩かないように言われたような記憶があるが、それでも学校の帰り道、危ないもの見たさに通ってみた。そうすると潮が防潮堤のすぐ下、1メートルもない水準まで上がっていた。今にもあふれそうな様子は流石に怖く思ったのだろう。家に帰ってから『洪水になるかもしれん』と騒ぎ回った記憶がうっすら残っている。特に高潮警報も出ていなかったのだろう。警戒のサイレンも鳴っていなかったので、母は安心していたのだろう。それでも子供が騒ぐと、心平かではいられなかったのではないか。その時のことを確かめるのも最早かなわなくなった。

体育館や公民館に避難している人が多い。避難所では、大抵の場合、花見の要領で家族数に応じた面積にシートを引き、後から来た人は「ここはよろしいでしょうか?」とうかがいながら、「じゃあ失礼します、よろしくお願いします」と挨拶をしつつ、周りの人は「もっとこっちにいらっしゃい」、「どこから来たの?」と声をかけたりする。避難所マナーというか、災害時エチケットというか、かなりの人間集団になっているのに妙に静かで、大人しい。特に外国人はそう感じることが多いと聞く。

国によって状況が違うのは勿論だが、それでも海外の最大公約数的情況は、まず先についた人は相当広めに領域をとって、後から来た人は段々と狭くなる。「もう少し向こうに行ってくれませんか」、「そっちが後から来たんだから」……、「ここにパンを置いておいたはずなのに」、「うちが盗んだとでもいうの!」等々、ローカルな口論、盗難、略奪があちらこちらで増えていく。無秩序化していく。それが群衆化したときの人類普遍の負の現象であるそうだ。ところが日本では、大抵の場合、「群衆」というより「集団化」して行動している。これは普段のトレーニングの成果なのか?モラルが高いせいなのか?素養が高いからなのか?「災害慣れ」、「避難慣れ」しているせいなのか?特別の理由なくこのように行動できるはずはない。そういう目線は多いようである。

だからこそ日本人の<集団主義>という指摘も出て来るのだろう。


ドーミエ、Don Quixote and the Dead Mule、1867年

小生は没落した騎士・ドンキホーテがとても好きである。とはいえ、まだセルバンテスの原作は完読していない。

ドンキホーテが、放浪の途中で海難に遭い馬も何も無くしてしまい、無一物で教会の裏にある掘建て小屋に収容されたとする。そうなったとしても、ドンキホーテは『かく尾羽うち枯らし、古のつわものの威勢は夢のごとく、思いいだすも難しうなり果てても、おのが誉れまであさましくも忘れつるよと、人から後ろ指をさされることあらんより、いっそ命がつきるほうがマシというものぞよ』、こんな風につぶやいて、同じように空元気を出して、周囲の人にいい場所を譲り、自分は片隅の隙間風が寒い所に腰をおろしたであろう。

正に文字通り、
惻隠の心は仁のはじめなり、辞譲の心は礼のはじめなり
であるのだ、な。騎士たるもの、強いだけであってはならぬ。

亡くなった母は戦争中に『欲しがりません、勝つまでは』と何度も教えられながら、学校生活を過ごしたそうである。

軍国主義は、まずこの日本国内でとっくの昔に否定され、いまでは「悪しき思想」、「誤った歴史」になっているのだが、それでも近隣諸国からしばしば日本の軍国主義思想が非難の矢面になることが多いのは、戦前の軍国主義時代に言われていた集団主義的行動の裏面に、習慣とかルールを超えたモラル、美学があり、日本人はそんなモラルと美意識をいまでも変わらず肯定し、心の中で信じている。その倫理自体は、世界で普遍性を有し、誤りではない。まことに傲然としている。低姿勢は言葉だけのことか、と。そこに危険性を感じ取っているからではないか。そんな気がしたりもするのだな。

日本と日本人は、第二次大戦(=日中戦争+太平洋戦争)のことで掘り下げた議論をもっとするべきだ。罪もあった、間違いも確かにあったのだ。まだまだ分析が足りない。広がりが足りない。姿勢が不真面目だ。そう思う所以だ。


2014年8月7日木曜日

いわゆる「微罪」は叱りおくだけで良いのか?

時代劇をみていると邦画・韓流をとわず、ちょっとした盗みでも「棒たたき」、「鞭打ち」、「流罪」等々、ほんとうに過酷で辛い刑罰が科されていたことが分かる。流罪になったりすると入れ墨や焼き印をつけられて、島帰りであることが直ぐにわかる。まったく個人情報保護どころの世界ではなかったわけだ。

それに対して、現代社会では拷問や過酷な刑罰は憲法で禁止されているのが普通である。たとえば「万引き」などの微罪は、警察で名前を書いて説諭されれば(特に初犯の場合は)そのまま帰されることが多い。それが実態ということだ。

それでいいのだろうか?

「まんだらけ」の中野店が、販売価格25万円の「鉄人28号」を万引きした犯人に対して、
8月12日までに盗んだ玩具を返しに来ない場合は、顔写真のモザイクを外して公開します
 こんな警告文を出したそうな……。これに対して弁護士は、仮に店側が防犯カメラで100%万引き犯を確認しているとしても、民間企業には捜査権、刑罰権はないので、やれば違法であると語っているらしい。しかし、警察におくれば、(少年であれば尚更のこと)ちょっと叱られるだけで釈放される。『またやるんですよ』、こう言いたいかもしれない。

☆ ☆ ☆

最近、公務員、大企業のサラリーマンなど、「なんでそんなことをするの」と言うような人が、盗み撮りや泥酔した際の暴行、痴漢などで現行犯逮捕されるケースが増えている印象がある。もちろん印象だけの話しで、データをとれば実は件数は減っているのかもしれないので断言はできない。が、微罪は発覚しないこともあるので、これだけマスメディアに登場する以上は、やはり社会全体で微罪の件数は増えているのではないかと思うのだな。

アメリカで発表された論文を随分前に何気に読んだことがある。ファイルは保存していないし、いまでもネットを検索すればかかってくるとは思うが、タイトルも著者名も忘れてしまった。残念なのだが、主な内容は再犯確率のデータ解析だった。

要旨の一つは、再犯確率に対して最も有意に効いている要因は「初犯時の年齢」であるようなのだ。たとえば30歳を超えて初めて犯行に及んだ場合、再犯確率はそれほど高くはない。しかし10代で何かの犯罪に加担した場合、ずっと後になって再び犯罪をおかす確率が極めて高いという結論だったかと覚えている。何となく思い浮かぶ要因としては、無職かどうかなどの経済状況、居住区域、教育水準、人種などが有力かと思われるが、初犯時年齢が決定的だという内容だったのでまだ記憶に残っている。

痴漢や盗撮で現行犯逮捕されている(形式的には)エリート達の過去を洗いざらい調べてみると、案外、少年時に万引きや嘘による隠蔽や、何らかの不正義な行動で得をしたり、自己保身に成功した経験があるのではないだろうか。ふとそんな点に思い当たったのだ。

☆ ☆ ☆

最近は、学校でも家庭でもいわゆる「体罰」は禁止される傾向にある。それはそれで正当であり、善いことには違いないのだ。しかし、その裏面で「ルールを破っても、大したことはない」、「やってしまえば得なんだ」と、不正な行動で自分が得をする誘因を強め、しかも弱いペナルティを徹底することで若いうちから成功体験を与えてしまう。そんな社会を構築しつつあるのであれば、長期的に社会秩序が風化していくことは間違いない。そうなってから厳罰社会に戻るのは国民を不幸にする。何が正しいかを学ぶ機会を幼いうちから提供するのが適切だと小生は思う。

引き返すなら今のうちである。

日本でも犯罪のデータ解析が必要である。ビッグデータ時代であれば、当然の発想だろう。

2014年8月4日月曜日

「多忙である」こと自体が病気の原因になることは少ない

一日24時間、仕事のことばかりを考えている。経営者たる者、そうであらねばならない。小生が若い頃には、まだそんな神話が「神話」として信じられていた。

城山三郎の名作『官僚たちの夏』には数々の政治家、官僚が登場するが、どの人もこの人もみな国家のことを昼も夜も考えている。そして二言目には「君たちは、無定量・無際限に働くことを求められている」と、そんな風にして物語は進んでいく。

東京六大学では早稲田のエース・安藤元博が優勝のかかった早慶戦で5連投をした、かと思えば西鉄ライオンズのエース・稲尾は小生が小学生の頃、1シーズン42勝をあげたものであった。

官僚とプロ野球と全く異質の世界ではあるが、こんな風にして日本人は生きていた。

100球の球数制限とか、夏の甲子園の準々決勝、準決勝、決勝はなるべく連投にならないようにとか、そんなヤワちゃんではモノの役には立たないと昔の人なら言っていたろう。

別に滅私奉公ではない。人生、意気に感ず。そんなスピリットである。『鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)、死して後已む』、まさに諸葛亮孔明の生き方である。ヒロイズムである。20世紀前半の英雄時代の名残があったのだろう。

現代とは違う。もはや英雄の時代でも、武士の時代でも、騎士の時代でもない。本田宗一郎はもういないし、いまいてもアクの強い本田宗一郎は起業に成功はしなかったろう。

☆ ☆ ☆

何も昔風の働き方がベストだと言うつもりはない。鉄腕稲尾は、案の定、若くして肩を壊したし、安藤元博も選手寿命は短かった。

中国の貴族は、人間の心臓が脈打つ合計回数は一生を通じて決まっているのだと信じていたらしい。だとすると、テニスで汗をかくとか、ジョッギングをして意味なく息をはずませるなどは愚の骨頂。自分で自分の人生を短くする試みでしかなかったのである、な。全くの笑い話だと思っていたのだが、最近は、どちらかというと中国貴族たちの考え方が支持されつつあるようでもある。

とはいうものの、小生の経験からしても、忙しいから病気になる。忙しいから精神的に不安定になる。直ちにこうだとは、言えないような気がする。

実際、忙しいより、閑職に回されたり、閑な支部に異動することは、中々、つらいものである。生き甲斐がなくなるのだ。「ああ、自分も会社の中では部品の一つでしかないのだなあ」と、しみじみと実感する時ほど、自分が虫のような存在だと思うときはない。できれば本社にいたいものだし、本社はどこにいても忙しいと相場は決まっているものなのだ。

しかし近年の教員が置かれている状態は、常識が通じる世界とは違うようだ。
2012年度にうつ病などの精神疾患が理由で退職した教員は、国公私立学校(幼稚園から大学まで)で前回調査(09年度)より18人多い969人に上ることが4日、文部科学省の調査で分かった。このうち中学校は前回より30人増えた。公立小中高校などの精神疾患による休職教員は11年度が5274人、12年度は4960人と年間5000人前後の高水準が続いており、専門家は「世界一多忙」とされる教員の環境改善の必要性を指摘している。
(出所)毎日新聞、2014年8月4日

 ☆ ☆ ☆

多忙によって心が折れてしまう状態というのは、小生も経験がないわけではないが、下っ端の頃には訪れず、また戦略的な決定を下す権限をもった幹部にもまず無縁であると思われるのだ。

結果に対して責任をもち、しかし責任をどう果たすかについて自分の行動を決めるだけの裁量は与えられていない。戦う義務をもち、実際戦うのであるが、どう戦うかという作戦を決める権限は与えられず、そして戦ったあとの勝敗については当事者として責任を求められる。小生が、本当に心が折れそうになったのは、そんな状況であった。そしてそんな状態は、(幸いにして)一度しかなかった。

理屈に合わない状態である。
耐えられない状態である。
逃避したいが、家族への責任からそれもできない。
だから耐えるしかない。耐えるしかないから、忍耐の限界を超えたところで折れる……

もしも想像している状況が当てはまっているなら心から同情を感ずる。

☆ ☆ ☆

マネジメントの失敗である。というより、マネジメントに責任をもつのは誰であるのか、わからないのかもしれない。まるで総司令官抜きで-まあ形式的にはトップがいて、トップが責任を果たすべきなのである、とはいえ千年以上も日本で継承されてきた無責任原理主義が揺らぐことは当面ないはずだ-戦争をしているようなものである。

組織原理上の帰結として、日本の組織はしばしばこうなるのだ、な。

良い結果が予想できない時には、指示をうけるべき末端からまず逃亡するものである。末端は逃亡する権利を有しているはずなのだな。造反有理、というより<逃散有理>が物事の本質である。逃亡されてはじめて上層部の無能が表面化するのである。

しかしながら日本人は武士道を信じ、モノノフの道に美を見出している。そして武士道の神髄は誠である。誠とは、理にかなった行動ではなく、偽りがない行動を重んじる。

たとえ形ばかりの、ただアリバイ作りのための部内会議であっても、ネグレクトするどころか、かえって全員が出席する姿をこそ倫理にかなうと感じる。そして合理性を失った訓示を聴くのである。櫛の歯をぬくように人が辞めていくのは、社会的には健全で合理的な理解ができる結果だが、部内には部内の風が吹くものである……。

組織が変わるためには社会が変わる必要がある。社会が変わるためには、倫理、モラルが変わらなければならない。福沢諭吉は『武士道は親のかたきなり』と言ったが、正しいと無条件に信じられてきた行動が限りなく阿呆で愚かな行動パターンになる。そんな時代が訪れるとき、教育現場で燃え尽きるかのように退職する教員は誰もいなくなるであろう。現場の教員ではなく、学校組織をマネージする上層職員の責任をまず真っ先にとう社会になるだろう。小生はそう思う。

足元の景況-世界的拡大の中で日独の足踏み

独・IFOからメールマガジンが届いた。ドイツの景気動向指数であるGeschäftsklimaindexはこの6月時点で3ヶ月連続の低下となった。
Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist im Juli auf 108,0 Punkte gesunken, von 109,7 im Vormonat. Dies ist der dritte Rückgang in Folge. Die aktuelle Geschäftslage wurde weniger gut beurteilt als im Juni. Auch der Ausblick auf den zukünftigen Geschäftsverlauf fiel erneut weniger optimistisch aus. Die geopolitischen Spannungen belasten die deutsche Wirtschaft.
Source: CESIfo Gruppe München

 今後の回復見通しについても楽観的な見方が後退し、やはりEUとロシアの関係悪化、ウクライナ情勢の混迷など地政学的な悪化が影を落としているようだ。

ただ世界全体としてはまだ拡大基調は続いている。OECDのComposite Leading Indicatorをみると、概観は以下のようだ。


Source: OECD

5月時点までの数字だが、これをみると、OECD加盟国全域、アメリカ、EU全域で回復トレンドが続き、低迷してきた中国にも底入れの兆しがうかがわれる。

日独の足踏みは下図にしめされている。


ブラジルの下降は明らかだ。アルゼンチンのデフォールトもほぼ確定的。ラテンアメリカの経済動向には、当面、不確実性が増している。

数字は5月までという点を考慮すると、日本の上昇・下降は消費税率引き上げにともなうイレギュラーな成分の影響とみるべきかもしれない。まだ分からない部分もある。ただ、データの動き全体をみると、むしろ日本は株式市場とは別の「ダラダラ実態説」がいまも当てはまっているのではないか。そう見ておくべきではないか。何も変わっちゃあないよね、そういうことである。

この点については、独紙Frankfurter Allgemeine Zeitungが"Japan ist selbst schuld"(=日本自体に責めがある)で厳しい指摘を行っているが、小生も本筋においては同意する。
Japan könnte zum neuen wirtschaftlichen Sorgenkind Asiens werden. Seine nach dem Regierungschef als „Abenomics“ bezeichnete Finanz- und Wirtschaftspolitik verliert an Strahlkraft. Es reicht auf Dauer eben nicht, die Notenpresse anzuwerfen. Die Bank von Japan hat mit ihrer lockeren Geldpolitik getan, was Abe verlangte. Die Regierung in Tokio selbst tut nichts. Echte Reformen fehlen. Eine Öffnung Japans für Freihandel? Südkorea hat schon ein Freihandelsabkommen mit der EU, südkoreanische Unternehmen gehören zu den großen Gewinnern. Dass der eigentlich für Ende 2013 von Amerika geplante Abschluss einer Freihandelszone der Pazifik-Anrainer (TPP) nach wie vor nicht in Sicht ist, liegt vor allem am Beharrungsvermögen der Japaner.
Source: F.A.Z., 2014-7-18

アベノミクスは、驚きと輝きを失いつつある。そもそも紙幣をどんどん印刷して、それだけで国の成長力が上がるのですか?そんな楽なことがあるわけはないでしょう、と。日本の政府は日銀に金融緩和をおしつけて自らは日本経済のためになることを何もしていない。構造改革は失敗しつつある。日本政府は自由貿易を拡大しましたか?TPP交渉も先行き不透明になっているが、その主因は日本の既得権益層の固執にある。日本がアジアの「心配の種」になることもありうるのだ-Japan könnte zum neuen wirtschaftlichen Sorgenkind Asiens werden-それに引き換え、隣国の韓国は(楽な道をとらず)構造改革を進めてきた。その成果が両者をわけてきた。最近のアジア情勢の変化の背景には、つらいことや混乱を招きがちなことを避けたがる日本と、つらくとも、紛糾しようと、混乱しようと「問題ある構造」を一新しようと汗を流す他国との、パワーシフトがある。

ドイツ人はアジアの情勢をこう見ているのだと知ったところで、それはとっくに分かっていたことだ。そうも言えるのが、情けないところではあるのだなあ。それと、確かにドイツは構造改革に成功して「欧州の病人」から「一人勝ち」の状態にまで復活したのだが、それは前のシュレーダー政権が不人気な構造改革を断行したからである。前政権は、不人気な政策を実行したために選挙には負けて、いまのメルケル政権が誕生した。現政権は、前政権のなした改革の果実を享受している、そんな面もあるわけであり、ドイツ国民は全てわかったうえで為すべきことを為したわけではないのである。多分に結果オーライのところがある。

国民に不人気な政策を実行したからといって、それが<反民主的>であるわけではない。この点は大事な点じゃあないだろうか。長い目で国民のためになる政策を実行しようと努力する政治が<民主的>な政治である。

日独は、当面の足踏みという点で共通しているが、そのよって来たる原因なり、社会背景は相当に違うようである。

2014年8月2日土曜日

人も国も<芸>で食っていくのは大変だ

昨日、カミさんと二人でボリショイ・サーカスを観に行ってきた。地下鉄の駅を降りて、炎天下の中、真っすぐな一本道を15分ほど歩いて現地までいく。周囲は農業専門学校もあったりする田園風景で、家々の回りにはブロック塀ではなく、生け垣がある。サーカスを観てきたというより、田園を散策してきた感もある。

サーカスそのものは価格5千円に見合った内容だ。ただ、あれだねえ……、猫の芸よりは虎の芸をみたかったねえ。空中ブランコはあったが綱渡りがなかった。色々と不満はあるが、ジンギスカン風の馬の曲芸乗りは大したものだ。それにしてもロシア風民族舞踊は騒々しい一面もある……。

プログラムが一冊千円。休憩時間中に前に出て馬や犬達と記念撮影をとると千円。場外の記念品グッズをみると大体千円。この辺りで利益を出すのだろう。

北海道にボリショイが来るのは久しぶりだ。一日3公演をこなすのも大変だろう。ローテーション制をとっているのだろうか?いや、座頭風のピエロ役を除けば、一人一人の演技時間はせいぜい5分だ。やっぱり一人一日三回なのだろう。

練習はしないといけないし、動物の調教もある。芸で食っていくのも大変だ。

☆ ☆ ☆

姪が音楽大学にいる。もう3年生である。今夏は教職実習があるかと思うと、2年に1回のコンクールがあり、それにも出場予定だという。こちらも大変だが、やはり音大に入った以上は、身につけた演奏技術―専門は木管楽器なのだが—を生かして人生を送りたい。そんな抱負を持っているようだ。それには、しかし、普通の模範演奏ができるだけでは不十分だ。模範演奏ができれば、「先生」にはなれるが、カネをとって人に聴かせる値打ちはない。芸で食っていくには、模範から外れた、というか模範を打ち破る表現ができて、はじめてカネをとれるというものだろう。そんな表現は、猛練習してもできるようにはならない。できるようになるのは100点満点の模範演奏である。ここまでだ。練習では到達できないなら、それは「才能」によるのだろう。才能は少数の者だけが持つ。だからカネをとれる。芸で食っていける。

『芸で食っていけるのは才能をもった人たちだけだ』。原理はそうなのだが、とはいえ、模範演技でもいいではないか。失敗なく確実にやる。それだけでも人は集まる。驚きはないかもしれないが、いいのだ。

どこかでみた演技ではあるが、完成度の高い模範演技としてちょうど適した価格。そんな価格もある。ソロならプロとして独立できないが、演技団として組織化して、2時間のプログラムを提供する。独占的な市場支配力をもつ。価格を守る。芸のビジネス化である。

模範演技は芸術にはならないが、組織化すればビジネスになる。木管楽器のプロ演奏家として食っていくのは難しい。しかし、音楽ビジネスは今後の日本では成長産業になるだろう。才能で食っていくのは厳しいが、起業するのも厳しいことに違いはない。いずれにしても芸で食っていくのは大変だ。

☆ ☆ ☆

この11月には、今度はロシア・ボリショイ・バレエ団が来日する。サーカスもバレエもこんな風に世界を公演して回っている。回る先で観衆を集めて外貨を獲得している。外貨は国の財産になる。だからサーカスもバレエも国立である価値がある。こんなロジックだ。ロジックが通っているから、社会システムの中に織り込まれ、学校もあり、次世代が育ちつつあり、芸能が継承されていく。こうした在り方の全体が公演の品質への信頼を形成し、世界市場でブランドになっている。ちょうど日本の新幹線を車両だけではない、運用・管理も含めたシステム全体を総合商品としてブランド化しようとしているのと同じだ。

ロシアは、率直にいって、いま評判が悪い。欧米(日)からウクライナ紛争、マレーシア機撃墜事件への関与の疑いから経済制裁を受けている。それでもロシア文化のプロモーション活動は昨日のように滞りなく開催されている。いけば観衆は満足して会場を後にしている。これはロシアという国がもっている文化リソースである。

☆ ☆ ☆

日本はどんな文化リソースをもっているだろう。
日本政府が、植民地時代の韓半島(朝鮮半島)から日本に持ち出された文化財の目録を保有していながら、韓国に返還を要求されることを懸念し長期にわたって隠していたことが、日本の市民団体が起こした訴訟の過程で明らかになった中、韓国の国会議員がこれらの文化財の返還を促す決議案を発議した。
(出所)朝鮮日報(日本語サイト)、2014年8月1日

返還決議されるような文物は、日本国伝来の文化リソースとは言えない。誰はばかることなく、世界に展示できるような文物を安定的に継承し、再生産できる制度を作っておくことは、当事者達を既得権益者にするのではなく、文字通りの<国益>だとみるべきなのだろう。

日本は、<モノ作り>を基本とする国だと自称するのもよいが、モノはコモディティ化すれば、別に"Made in Japan"である必要はない。本当の意味で日本を他国と差別化し、日本をオンリーワンとするものは何か。芸で食っていくのは、国であっても人であっても、大変な苦労がいるのだ。莫大なエネルギーをそこに投入する覚悟がなければなるまい。日本人がそんな努力をするしかない。価値の源はモノ・カネ・ヒトだと言われるが、最後に残るのはヒトしかない。他国がもっとも模倣困難であるのは「日本人」に行き着く—それでもなお、日本人以上に日本人的な外国人がいてもいい、だから決して模倣不可能ではないのだが。