近年、未成年者による猟奇的殺人事件が時に発生してはワイドショーなどでもそんな質問が話の中にでて、メインキャスターが(自称?)コメンテーターに話を振ったりする。そうすると、振られた側も話しにくそうに『そうですねえ……』と言いよどむ。「おいおい、そこで言いよどんだら駄目だろう、直ちに言わないと。色々な考え方があるということと、物事の善悪は定まってはいないということは、違うんだよ』。小生、なんどTV画面に反論したかしれない。やっぱり年なんだねえ…
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ブログ「ニュースの社会科学的な裏側」で議論されている内容を待つまでもなく、人を殺した場合「殺人罪」になる場合と、「武勲」になる場合とがある。
ソクラテスは、しかし、人が幸福であるためには、倫理に従うことが必要であると考えた。「幸福」というのは「真の意味で幸福」ということだ。「倫理」にしたがう……、「モラル」に従うともいうし、「義」にしたがう、「道」にしたがうともいう。小生はソクラテスの議論が正しいと(本来は)考えている。
が、色々な考え方はある。ここで色々な考え方を列挙したところで、あまり意味はない。だから、こんな論理トレーニングもあるかもしれないという一例をメモしておこう。
公理をおく。公理とは大前提のことである。証明抜きで<真>であると認めるのだ。
自然は善である。この公理に異論はないと思う。というのは、自然こそ悪であると前提すると、人間は自然の一部だから人間は本来は悪しき存在である。悪しき存在を否定するのは善である。だから殺人は善である。しかし、その行為自体、自然の一部である。だから殺人は悪である。これは悪しき存在であるはずの人間を殺すことは善であるという先の結論と矛盾している。よって背理法により、自然が悪であるという前提が誤っている。
それ故、自然は善であるという公理をおこう。そのとき、自然の一部である人間はすべて、本来、善なる存在である。善なる存在を意図的に殺す行為は悪である。よって、殺人はすべて、本来、悪である。
しかしながら先の議論を繰り返せば……、人を殺すと言う行為もまた自然の一部である。故に、殺人は善であるという結論が再び導かれる。故に、背理法により自然は善であるという前提も誤っている。
自然を善悪いずれかに判定することは不可能だ。殺人という人の行為も自然の一部である。故に、殺人が善であるか、悪であるか、論理的には決定できない。
つまり殺人の善悪は、人間社会の成立に先だってあらかじめ答が決まっている問題ではない。善悪の判定は「真理」というものとは違う。したがって、自分が属する人間社会がどう考えるかで決定するべき事柄である。
ま、屁理屈であることは分かっている。要するに、ワイドショーのメインキャスターは『自分はこう考える』と、堂々とおのが哲学を語ればよいのである。
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小生は嫌いな言葉だが<正義>という用語は、現代社会で非常に頻繁に使われている。特に戦争に関連して、正義と言う言葉は交戦国双方から洪水のように流れ出てくるものだ。これすべてプロパガンダと呼ばれている。要するに、傍観者に訴える<宣伝>である。
『正義は必ず勝つ』と言われる。この格言が真であれば、戦争の勝者が正義にかない、負けた方は正義ではない。それがロジックだ。
『正義は必ず勝つとは言えない』。この命題によれば、負けた方こそ正義という結論を出しそうになるかもしれないが、そうではない。勝敗と正邪は、無関係であると。そういうことだから、文字通りの「勝敗は時の運」という見方になる。倫理の問題として、勝者が正義であるとはいえなくなるが、どちらが正義であるか決めよと言われれば、勝敗と正邪は関係ないのだから、ここは勝者に決めてもらおうということになる。勝者の側が「自分たちこそ悪かったのだが」という結論は取りえないからだ。勝敗を倫理的に受け取るのではなく、政治的な裁定として認めるのである。いわゆる「帰服する」という行為が敗者には求められる。
いずれにしても、敗者は勝者の裁定によって悪しき存在になるか、本来的に悪しき存在であったか、この二つのいずれかしか可能ではない。
戦争の敗者は、自分が本来的に正しくなかったのだと考えるか、勝者の裁定を受け入れて自分は正しくなかったと認めるか、そういうことになる。
戦争の敗者であって、かつ正しい道をとっていた。そう解釈する余地は敗れた時点で論理的にないのである。
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