2014年8月4日月曜日

「多忙である」こと自体が病気の原因になることは少ない

一日24時間、仕事のことばかりを考えている。経営者たる者、そうであらねばならない。小生が若い頃には、まだそんな神話が「神話」として信じられていた。

城山三郎の名作『官僚たちの夏』には数々の政治家、官僚が登場するが、どの人もこの人もみな国家のことを昼も夜も考えている。そして二言目には「君たちは、無定量・無際限に働くことを求められている」と、そんな風にして物語は進んでいく。

東京六大学では早稲田のエース・安藤元博が優勝のかかった早慶戦で5連投をした、かと思えば西鉄ライオンズのエース・稲尾は小生が小学生の頃、1シーズン42勝をあげたものであった。

官僚とプロ野球と全く異質の世界ではあるが、こんな風にして日本人は生きていた。

100球の球数制限とか、夏の甲子園の準々決勝、準決勝、決勝はなるべく連投にならないようにとか、そんなヤワちゃんではモノの役には立たないと昔の人なら言っていたろう。

別に滅私奉公ではない。人生、意気に感ず。そんなスピリットである。『鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)、死して後已む』、まさに諸葛亮孔明の生き方である。ヒロイズムである。20世紀前半の英雄時代の名残があったのだろう。

現代とは違う。もはや英雄の時代でも、武士の時代でも、騎士の時代でもない。本田宗一郎はもういないし、いまいてもアクの強い本田宗一郎は起業に成功はしなかったろう。

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何も昔風の働き方がベストだと言うつもりはない。鉄腕稲尾は、案の定、若くして肩を壊したし、安藤元博も選手寿命は短かった。

中国の貴族は、人間の心臓が脈打つ合計回数は一生を通じて決まっているのだと信じていたらしい。だとすると、テニスで汗をかくとか、ジョッギングをして意味なく息をはずませるなどは愚の骨頂。自分で自分の人生を短くする試みでしかなかったのである、な。全くの笑い話だと思っていたのだが、最近は、どちらかというと中国貴族たちの考え方が支持されつつあるようでもある。

とはいうものの、小生の経験からしても、忙しいから病気になる。忙しいから精神的に不安定になる。直ちにこうだとは、言えないような気がする。

実際、忙しいより、閑職に回されたり、閑な支部に異動することは、中々、つらいものである。生き甲斐がなくなるのだ。「ああ、自分も会社の中では部品の一つでしかないのだなあ」と、しみじみと実感する時ほど、自分が虫のような存在だと思うときはない。できれば本社にいたいものだし、本社はどこにいても忙しいと相場は決まっているものなのだ。

しかし近年の教員が置かれている状態は、常識が通じる世界とは違うようだ。
2012年度にうつ病などの精神疾患が理由で退職した教員は、国公私立学校(幼稚園から大学まで)で前回調査(09年度)より18人多い969人に上ることが4日、文部科学省の調査で分かった。このうち中学校は前回より30人増えた。公立小中高校などの精神疾患による休職教員は11年度が5274人、12年度は4960人と年間5000人前後の高水準が続いており、専門家は「世界一多忙」とされる教員の環境改善の必要性を指摘している。
(出所)毎日新聞、2014年8月4日

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多忙によって心が折れてしまう状態というのは、小生も経験がないわけではないが、下っ端の頃には訪れず、また戦略的な決定を下す権限をもった幹部にもまず無縁であると思われるのだ。

結果に対して責任をもち、しかし責任をどう果たすかについて自分の行動を決めるだけの裁量は与えられていない。戦う義務をもち、実際戦うのであるが、どう戦うかという作戦を決める権限は与えられず、そして戦ったあとの勝敗については当事者として責任を求められる。小生が、本当に心が折れそうになったのは、そんな状況であった。そしてそんな状態は、(幸いにして)一度しかなかった。

理屈に合わない状態である。
耐えられない状態である。
逃避したいが、家族への責任からそれもできない。
だから耐えるしかない。耐えるしかないから、忍耐の限界を超えたところで折れる……

もしも想像している状況が当てはまっているなら心から同情を感ずる。

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マネジメントの失敗である。というより、マネジメントに責任をもつのは誰であるのか、わからないのかもしれない。まるで総司令官抜きで-まあ形式的にはトップがいて、トップが責任を果たすべきなのである、とはいえ千年以上も日本で継承されてきた無責任原理主義が揺らぐことは当面ないはずだ-戦争をしているようなものである。

組織原理上の帰結として、日本の組織はしばしばこうなるのだ、な。

良い結果が予想できない時には、指示をうけるべき末端からまず逃亡するものである。末端は逃亡する権利を有しているはずなのだな。造反有理、というより<逃散有理>が物事の本質である。逃亡されてはじめて上層部の無能が表面化するのである。

しかしながら日本人は武士道を信じ、モノノフの道に美を見出している。そして武士道の神髄は誠である。誠とは、理にかなった行動ではなく、偽りがない行動を重んじる。

たとえ形ばかりの、ただアリバイ作りのための部内会議であっても、ネグレクトするどころか、かえって全員が出席する姿をこそ倫理にかなうと感じる。そして合理性を失った訓示を聴くのである。櫛の歯をぬくように人が辞めていくのは、社会的には健全で合理的な理解ができる結果だが、部内には部内の風が吹くものである……。

組織が変わるためには社会が変わる必要がある。社会が変わるためには、倫理、モラルが変わらなければならない。福沢諭吉は『武士道は親のかたきなり』と言ったが、正しいと無条件に信じられてきた行動が限りなく阿呆で愚かな行動パターンになる。そんな時代が訪れるとき、教育現場で燃え尽きるかのように退職する教員は誰もいなくなるであろう。現場の教員ではなく、学校組織をマネージする上層職員の責任をまず真っ先にとう社会になるだろう。小生はそう思う。

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