2015年6月30日火曜日

続・これはこっちが正しい

ベストセラー『永遠のゼロ』の作者、百田氏の形勢が悪い。

安倍首相を熱烈支持する自民党の若手議員集団の勉強会。そこで百田氏が講師に招かれたところ、色々と、中でも沖縄関係の話題をめぐって「非常識な」やりとりをしたというので、批判されている。

ヤレヤレ、またか。そんなところではある。

戦後日本では「表現の自由」が憲法で保証されているので、講演で何を語ろうと「法を犯した」という事態には原則ならないのだが、当然のこと、批判もまた自由なわけである。

百田氏の話しによると、普天間基地の周囲に住宅が密集しているのも、最初は農地で誰も住んでいなかった、と。それが基地の近くに住むと儲るというのでみんな集まってきたと、それで今のようになったと、そんな雑談もしたというのだが、それも実情とは全く違っていると地元からは厳しく批判されている。もっと他にも勘違いはあると。

まあ、あれである。誰かの講演原稿を自分のものにするような盗作講演は、これはタブーだ。やってはいけない。しかし、事実関係についてキチンと確認をせずに、普段の思い込みから『まあ、あれだよ、云々』という会話は誰でもやってしまうものである。

何かリサーチをするときは、伝聞ではなく絶対に一次情報を調べて確認をとれと指導されるものだ。誰かの計算結果を使う時は、▲▲の計算によると注をつけるべきであるし、つけないなら自分で再計算して確認するべきである。これすべて、リサーチでは常識的慣行になっている(と信じている)。

よく知らないなら、沖縄がああだ、こうだと政治家を相手に語るべきではない。いいかげんだ。この点は、沖縄県の人たちが正しい。

今回は、百田氏が一知半解。地元沖縄の人たちの言い分に理がある。

大体あれである…『永遠のゼロ』。命を国に捧げる特攻隊に感動しているのだろうか?よく分からない。あのように愚か、というか極限的に低品質な作戦指導がなぜできてしまったのか…、批判を許さぬ独善的な政府が造りだした余りにも哀しく、不合理な社会を痛切に記憶するという狙いなら理解できるのだが、小生は正直なところ、なぜあの作品がベストセラーになったのか、その理由が分からない。なので、百田氏という作家に対して不必要に厳しい文章になっているかもしれない。

が、これも小生自身のための覚え書きということで。

【追記】その後、上の若手議員の集会に参加したO議員が改めて『報道機関を懲らしめる気はある』と発言したというので、まだまだ尾を引きそうになっている。この御仁も表現の自由を根拠にあげているというから面白い。なるほど、そういう発言をしてもそれ自体が違法にはならないが、国会議員としての適性、資質、資格を疑われる進展にはなりそうである。最悪の場合、党籍剥奪、議員辞職勧告まで行ってしまうのではないか。そうなると、安保法案の審議拒否も(大臣ではないにせよ)正当化されるので、この話し、意外と安倍内閣にとってはボディブローのように効いてくるかもしれない。

2015年6月28日日曜日

トップが大事だという意味

企業ではやはりトップの果たすべき役割が大きい。

実際に仕事をしているのは、主に40代から50代前半の脂の乗り切った中堅であるに違いないが、理念と目標を与え、士気を高めるのはトップだけが出来ることである。

課長、部長あたりが旗を振っても、反感を買うだけであろう。専務や常務が一人張り切っても、警戒されたり、疎外されることが多いのが、人間のつくる組織の常である。この辺の感覚はロジックではなく、実際に中に入ってみなければ分からないものだ。

国の政治、自治体の行政でもほとんど同じだ。嫌な上司のいうことでも心酔しているトップの信頼が厚ければこそ、従う意欲もわいてくるというものだ。

2012年9月に安倍現首相が自民党総裁に就任して以来、おそらく政治のトップになるであろうことは分かっていたが、当時から予想していたことがある。

ご本人はともかく、その取り巻きがねえ…、あまりにも一般常識の感覚とずれている人が多い

そんな印象があったのだな。

ご本人に、よほど鋭敏な感覚と指導力があれば、だんだんと精選された人材と新陳代謝させていくことが可能だったろうが、もともと目標とする方向が中道からは相当右に偏っている。どれほど真摯で、誠実に国のかじ取りをしようと願っているとしても、結局は自分の願望を通したいと思っているだけの低品質な集団に取り込まれてしまうだろう、と。そんな予想をし、本ブログに投稿もした。

権力は力を与えるが、利己的な人間をも引き寄せてしまう。往々にしてそれが敗因となる。

例としては不適切だが、東條英機元首相ご本人は職務に忠実な役人に過ぎなかった。昭和天皇の信任もあったと聞く。その東條が大東亜戦争全体の責任を負うことになったのは、自分自身がそれを推進したというより、取り巻きが悪かった。故に、政権全体として実力不足であった。

一口に言えば、劣悪な人間が集まり、優秀な人材が逃げる。そんなメカニズムがあった。そうとしか解釈できないのではないか。それはやはりトップの「不徳」という言葉で総括される。

どうもまたそんな雲行きになってきたねえ…。

自民党の大勝がかえって仇になってきた。

選りすぐりの新しい人材を抜擢して、リフレッシュしない限り、現政権は腐った水のようになり、支持率の低下傾向を止めることが出来ない可能性がでてきた。

2015年6月25日木曜日

Google Map 絶不調の日

昨日はS市清田区にあるコストコ(Costco)に行ってきた。実は小生はじめてである。

場所の見当はついていたが、一応、Google Mapのナビを使おうと目的地を入力して経路を検索する。高速道路経由のルートが出てくる。もったいないので下を行くように再検索すると、まあ1時間半程度でつくという。

よしこれで行こうと走り出す。ところが国道5号線から左に入って分岐点を左にとるところを間違えた辺りからおかしくなる。3回間違えたかねえ・・・。

よく地図をみると、要するに5号線から高速下の新道をずっと北広島方面に走って、最後に36号線に入ればよい。それだけのことであった。本来は迷うはずのない道なのだな。が、これは後知恵だ。

もう着くかという辺りで右に曲がるはずが、左折しかできない。あれっと思って直進。すると行き過ぎた。しばらくいくとT字路だ。どちらかな?『直進です』と、これには驚いた。

『今日のGoogle、わけが分からなくなってるらしいな』、よこに座っているカミさんにいうと、『だから昨日言ったじゃない、いつも走っている道でいいんだよって』。カミさんはナビの使い方を知らない。

帰途、店を出て36号線に戻ろうかと思いながら、念のためナビをする。と、標識がみえる。『そうか、36号は左か…』。ところが『直進です』とナビが言う。『もう、消しな』。

Googleナビがこれほど乱れたことはない。気をつけないといけないかも。

★ ★ ★

買ってきた物は概ね普通のレベルではあるが、珍しいものが多いので楽しめる。
ロールパン: 人気が高いそうだ。たまたまカミさんがTfalのホームベーカリーで富沢商店の「春よ恋」+モルトシロップから焼いているロールパンと瓜二つの風味であった。
鶏の丸焼き: 「なると」のザンギのほうが旨い。
サラダ: 普通の品質。
チョコレート: イタリアのクランチ。一袋に量がタップリある。
トイレットペーパー: 評判の品。再びいくかどうかはこれにかかる。紙質はシッカリしており、紛状の屑が出ない。
その他、見ただけだがワインコーナーの品揃えはいい。何気なくドン・ペリがごろんと転がっているのは大らかなところだ。肉はアメリカ牛が安い。1キロ3000円程度の赤身ステーキからサシが入っている和牛まで選択の余地あり。ベーコン、ハムも各種あり。どれも大きい。カミさんと二人でベーコン1キロは無理。

Kirklandブランドが目についたが、コストコのPBである。

広いので歩き回っているうちに疲れ果てる。フードコートでホットドッグを食す。自分で作る方式がいい。パンが出色。これが決め手になって出来映えはドトールのホットドッグを上回る。サイズも大きい。お変わり自由のドリンクと合わせて180円。

ま、要するに、また行くかどうかはトイレットペーパーが他に代えがたい程の上質であるか否かにかかる。もし良ければ、これも評判のキッチンペーパーがほしいとカミさんは話している。今回は知人からもらったお試し券で入ったが、また行くとすれば会員になるかと話している。その時は、すぐ近くにある三井アウトレットを回ってから昼食をとって、帰りにコストコで買い物をするのがいい。

2015年6月23日火曜日

集団的自衛権が先か、憲法が先か

A国、B国、C国が集団的自衛権の下で同盟関係を結ぶとすれば、それ以降、A国が軍事的に攻撃されればB国、C国は自国が攻撃されたと見なし、共同で反撃する。また、この関係は相互に対称的な関係でもあり、B国が攻撃されればA国とC国が、C国が攻撃されればA国とB国が被攻撃国となり、共同して国を守る。

よく批判されるように『集団的自衛とは他国防衛』が目的ではない。そもそも他国を守るために自国の住民が命をかけるような愚かな国があるはずもない。そんな行動をするのも、引いては自国を守ることにつながる(と考える)からに決まっている。


自由貿易圏を形成して経済的に一体化するとのと類似した意味合いで、安全保障的・軍事的な意味合いで一体的に行動するのが集団的自衛行動である。そして、現代の国際社会において全ての主権国家は集団的自衛行動をとっても是とされている…というのがオーソドックスな国連憲章の読み方だという。

即ち、憲章第51条では安全保障理事会が所要の措置をとるまでの間、加盟国は集団的・個別的自衛権を行使できることになっている。


しかし、日本が国連に加盟した時点よりも先に日本国憲法は公布施行されていた。

国連憲章が憲法と矛盾していれば国連加盟の際に大騒動になっていたはずだ。が、そんなことは聞いていない。しかし、国連憲章が認めている集団的自衛権を自国の憲法が制約しても、それは権利を行使しないという宣言であるから国連憲章を否定するわけではない。もっている権利を行使しないというのは日本の主権によるものだ。

故に、国連憲章の規定を根拠に集団的自衛権の行使は合憲であるという議論は、どこか奇妙なロジックである。

こんな程度では、学界の大半が違憲と考える潮流を変えることはできまい。ということは、国会で可決されて一度法律になったとしても、2、3年後には最高裁で違憲判決が出る。こんな展開も大いにありうる。そうなれば、日本の安保法制は死に体になるだろう。

非常に大きなリスクがある。


断り書きまでに記しておくと、自国がどの程度の自衛権をもっているかは、概念論だけから考えると、当然に自衛権をもっている。小生自身はこう思うし、既に投稿した。

とはいえ、現法案には不安もある。

なぜなら大日本帝国が英米と戦争を決意した時も「自存自衛」が目的だった。その時も石油を禁輸されて存立が危うくなったから開戦したのである。

政府が語っているように、単に「我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守る」だけでは、戦前期・軍国主義と大した違いはない。

そもそも「交戦権」を真っ向から100%、憲法で否定しておきながら、集団的自衛行動をとるということを日本以外の他の同盟国はどのくらい理解できるのだろうか。

集団的自衛権は日本が最初から持っていると個人的には思うが、その概念定義はまだ生煮え状態で、使用に耐えない。そう思うのだな。


2015年6月22日月曜日

20年後の明治維新は?

前から考えるたびに違った発想をしてしまうので覚え書にしておくかなあと考えてきたのが『明治維新をどうみるか?』という問いかけだ。

もちろん初等中等教育で教科書検定を通っている「国定教科書」では明治維新は近代日本の出発点となったモニュメンタルな節目である。

本当にそう考えていいんだろうか?
そんな疑問がいつから兆し始めたのかねえ・・・かなり前、いつしかだ、な。


戦前の経済学界では、明治維新を市民革命とみるか(≒労農派)、それとも絶対主義の確立とみるか(≒講座派)、この二つの陣営で激論が闘わされたと聞いている。

後付けの理屈としては、憲法学界でいうところの「昭和20年8月革命説」に立脚するとすれば、講座派が正当であったことになるだろうか。

この論争はマルクス経済学者どうしの狭いコップの中の争いのような話だったが、小生、最近の潮流をみていると今から20年後の歴史教科書はかなり違っていくのじゃないか、と。そんな(嬉しい)感覚を覚えるようになっている。


書き出すと長くなるのでブログの投稿にはなじまないが、簡単にいえば『明治政府は一体何度の対外戦争をやったのか?』、と。

これに尽きる。

実際、明治政府が行ったことは、そもそもの理念であった「尊皇攘夷」でもなかったわな。それもある。

作家・城山三郎の『落日燃ゆ』は若いころの愛読書であった。元首相・広田弘毅が『長州の作った憲法が日本を滅ぼそうとしている』と語る場面が一つのクライマックスであったことが記憶にある。

日本史には概略を知るだけでも「酷い時代」が時にある。鎌倉時代から室町時代へと移る幕間にあった建武新政から観応擾乱までの20年も酷い世の中だ。また、応仁の乱に始まり北条早雲が相模を平定するまでの50年もまったく酷い無責任時代である。同じように、明治維新で誕生した中央集権型の政府が日本を統治した78年間、一体いつからいつまでがマトモな政府であったろうか……。ま、どんな酷い酷寒の地でもたまには晴れた暖かい日はあるものだ。長くは続かないにしても。


徳川の幕府政治は250年間の平和を対外的にも対内的にも実現した。豊臣政権の負の遺産や大航海時代の欧州諸国が往来する中で、これは中々難しい政治的課題であったはずだ。

明治以降の国の履歴と対比する時、根本的な面におけるこの違いは大きすぎる。大きな違いは本質的な原因によってもたらされるものだ。そう思うのだ、な。

三代家光以降の鎖国政策がもたらしたプラス・マイナスはいろいろある。これをまあ、明治政府的志向から総括すれば、なるほど徳川の平和は姑息かつ退嬰的で全てがマイナスであったのかもしれない。しかし、これ自体が政治的な派閥性の際立つ歴史観になっている。日本の産業革命の前時代にあった永い泰平の世を”Pre-Meiji Era”として評価しないとすれば、それはどこか奇妙でイビツな偏りのある歴史観ではないか。

小生にとっての不思議は - 若いころは流石にそんな意識はなかったが - 昭和20年夏にすべて倒壊し、失敗した国造りであったことが明らかであったにもかかわらず、明治維新を絶対的に高く評価する歴史観にいささかの修正も加えられなかったことである。

最近になってようやく幕府政治から明治政府へと続く戦前期日本の政治的・経済的発展を全体として眺める議論が歴史学界においても広まってきつつあると耳にする。教科書の書き方も次第に変わっていくかもしれない。これからの20年が、小生、大変楽しみなのである。

東アジアと日本との関係が本質的に深化し、相互信頼に基づいた広域的文明圏として統合されるのも、まず日本の側でそうした歴史的認識の深まりがあってからのことかもしれない。





2015年6月21日日曜日

今日のタイトルが決まらない

朝方、目が覚めかけの状態で、色々なことを考えている、というか考えている感覚が起きても残ることがある。カミさんはそんな経験は一度もないと言っている。ずっと昔は、夢の中で数学の難問の解き方を思いついた事もある。本を読むと天才にはそんな経験があるというので、俺も天才かも…と思ったりしたが、起きてしまうとそんな才能はないことが明らかだったので、朝目が覚める時だけの『いまだけ天才』か、そんな風に思ってきた。

今朝、一生懸命考えていたのはいわゆる「差別用語」。「差別用語≠差別」という結論についてだ。

× × ×

その昔、ある北欧の田舎町で学会があったとき、大学の先輩と二人で参加したことがある。

学会の最終日には、エクスカージョンでフィヨルドの見える高峰を歩き回るハイキングがあり、その夜はパーティが開かれた。食事は8時か9時頃にお開きになるのだが、外国から来た人は(まあ欧米人ということだ)、それから朝まで徹夜で延々と飲み、食い、そして踊ったそうだ。

『まあ、なんていうかなあ、奴らいつも肉食ってるからよ、俺達とは構造が違うんだよな』
『大きさ自体はいまの日本人とそう変わりませんけどね』
『もともと狩猟民族だしな…▲トウっていうのはヨ。農耕民族みたいにノロ助(←これも危ない)じゃねえんだよ』
『古代ローマ人なんて、パスタを食いながら車もないのにテクテク歩いて進軍して、一大帝国をつくりましたよね。根性ありますよ。お上品な人間にゃあ無理ですね』
『そうそう』

懐かしいねえ……

女優・市原悦子氏でないにしても、『▲トウってさ、まあ鬼だと思っとけば丁度いいんじゃない』、いま不特定多数が集まる場でこんな言葉使いをすれば「差別」の判定をされてしまうだろう。

× × ×

起きる前に考えていたが、その時使った言葉は「差別」とは全く違う。逆だ。むしろ「かなわない」、「さすがだ」という感嘆の感情を表出したものである。

真剣な仕事の場で「ありゃ人間じゃねえ、鬼のような奴らだよ」という形容がされれば、されたほうは嬉しいだろう。小生が仕事を始めたとき隣席にいたのは「鬼のような先輩」だった。今でも人柄まるごと、その人を尊敬している。逆に「やんごとなきお方だからね」と形容されれば、これほどの侮辱はない。

チビの大先輩もいた。これは尊称であって、ウドの大木との対照をイメージしていたのだ。

▲トウに囲まれて育ったくせに俺達のことをわかっているじゃないか、というのは帰国子女への感想。

ドイツの話しで盛り上がったあと、今度イタリアンレストランに行きましょうと持ちかけると『イタめし?ま、いいけどサ、それにしてもイタ公ってのはなんでああ旨いものに目がないのかねえ、あの感覚と執着は真似できんよ』。これは大学の別の先輩がわが町の某金融機関支店長として赴任したとき、会食した時の話し。

昔、ある官庁は「公卿の館」と形容されていた。もちろん馬鹿にしているわけだ、な。頭の横で指を回す仕草をすれば、これは蔑視の表現になる。英語では"loopy"が有名になったが、日本語の「○○パー」とは少しニュアンスが違うと思う。どちらにしても大っぴらに言うのはまずいが、数年前に民主党政権であった時には首相がアメリカでやられた。

× × ×

言葉には野卑な言葉が確かにある。野卑な言葉を差別用語と分類し、野卑ではない言葉は差別用語ではない、と。まあ単純にやりたいなら、そう考えてもいけなくはない。

しかし、そんな機械学習と人工知能にもはるかに劣る単純分類をやってみても、差別を防止することにはつながらない。言葉の暴力を防ぐことにはつながらない。

こんなことを今朝は考えていた。なぜこんなことを突然考えていたのか…まったく分からない。人間の脳の活動には分からないことが多い。

ぼんやり考えていたことをメモしただけだが、タイトルにするほどのことでもないし、議論にもなっていない。決まらないねえ、やっぱり。

2015年6月20日土曜日

派遣労働法制改変をどうみる

派遣労働のあり方が大きく変わる見通しになった。地元のH新聞、その他マスメディアは総じて批判的に報じている。

要点は二つ。

  1. 派遣期間は3年で区切る。そこで正規社員採用を要請するが可否は受入れ側の企業が行う。雇用は派遣企業側の責任とし派遣期間が終了した社員には新たな派遣先を紹介する。
  2. 専門職種についても一律に適用する。
地元の新聞は『派遣法衆院通過 雇用を一層劣化させる』とのヘッドラインをかかげている。逆に日本経済新聞では『労働改革ようやく前進 派遣法改正、成立へ』としているのだから、自らの立場によって報道の仕方は真逆になっている。

うちのカミさんは『3年で切られるなんて可哀そうだよ』と話している。一度派遣元に帰って新しい職場を紹介してくれれば困ることはないんじゃないのと言うと、『だってその仕事をずっと続けたいと思っているかもしれないでしょ』という。正規社員も定期的な人事異動で色々な仕事をやらされるんだよ。派遣社員がずっと希望通りに続けられるわけいかんだろ。そういうと、『それもそうだけどねえ…』と釈然としない様子だ。

カミさんの感覚が世間の最大公約数なのだろうと思う。

☆ ☆ ☆

民主党の思想で考えると、派遣社員として5年(だったかな?)働けば、正規社員になる。そう企業側に義務付けるわけだ。

しかし、企業側が正規採用したくなければ5年未満のぎりぎりの期間で雇い止めとなるだろう。それが確実に予想されるので、民主党案には不安がつきまとっていたのだな。

今回の与党案は、雇用の確保を派遣会社の責務とする。「責務」とするのと併せて派遣企業に対する規制を強化する。そういう発想だ。

まあ、率直に言って理にかなっていると思う。「派遣労働」という在り方をみとめておきながら、派遣の受け入れ側に無期限雇用を義務付ける条件を設けるというのは、ロジックとしておかしい。

☆ ☆ ☆

働く側の願望は、続けたい仕事をずっと続けられる環境をつくってほしい。そういうことだろう。しかし、フリー、というか独立しなければ、この願望はそもそも実現はしないものだ。

共産主義社会が独裁的にではなく理想的に運営されれば、ひょっとすれば、そんな世の中が実現するかもしれない ― 極端な共同社会となり、ある意味で制約がきつく、その分だけ豊かな未来を諦めることにもなるだろうが。

ずっと昔、学生を相手に話したことだが、すべて世間で生きていくには収入がないと食っていけない。だから働くか、仕送りをしてもらう必要がある。仕送りに頼ればニート、つまり高等遊民になる。それは誉められたものではないし、カネをもらえば、クチも出される。それで働くのだが、働き方は二通りある。雇われて働くか、雇われないで働くかである。雇われて働く場合は賃金しかもらえず、何をするかは使用側が決める。雇われないで働くというのは、独立する、自ら事務所、店舗、会社を運営するわけだから、命令されることはない。しかし、経営に失敗すれば全責任をとる。失業だ。左遷くらいでは済まない。定年がない代わりに厚生年金もない。大きく違うから気をつけなさい。

そんな話をした。

要は、ただ飯はないということだ。楽に暢気に望みのままに生きていくという道は最初からないのだな。親元で養ってもらう日々は一定期限付きのモラトリアム期間だ。これを最初から何度も教えておかないと後でみんなが困る。

☆ ☆ ☆

それでも5年たったら正規採用してほしい。うちの上の愚息もそうだ。どれほどいいだろう。

しかし、それはうまくいかない。

正規採用すれば、(おそらく)昇給があり、処遇が改善される。だから働く側はそれを望むのだが、それは人的資源一般のコストが上昇することになるので、企業はIT投資を一層進めて、正規社員全体を含めたリストラを行うだろう。

それでなくとも、スキルのない若年層よりは経験知・コネクションを有した中高年社員のほうが企業内では生産性が高いことが多い-もちろんIT化の時代に対応できない勉強不足のベテラン社員も多数いるには違いない。その中高年層の給与が若年層に比較して全般的・相対的に削減される傾向がしばらく続いてきた。

国内企業の正規社員の賃金プロファイルは、ずっと以前に比べると、若年層がその生産性に比べて高止まりしている。それは「旧式の年功序列を打破する」という世間受けの良い方針とも合致していた。それで社内の処遇は比較的フラットになってきている。小生はそう憶測しているのだな。つまり、低賃金・派遣社員の増加は、経済的ロジックが事後的に帰結した現象である。小生はそうみている。ま、仮説である。最近は統計の方に専念して、経済学会は退会してしまったから、研究の流れは把握していないが、取り組んでみると面白いテーマだと思う。

したがって、経験の蓄積がない若年(+壮年?)派遣社員を正規採用するよう政府が誘導すれば、人的資源からよりIT化された代替的システムへのシフトが国内で進むことになるだろう。ま、それはそれで、現時点の労働力不足を解決する道筋でもあるので、やってみる価値はあると思うが、出てくる結果は狙ったものとは全く違ったものになる。これは確実だ。

いい仕事につくには手に職をつけるしかない。誰でもできる仕事はPCでもできる。そのうち、ロボットでもできる仕事にヒトを使うのは高すぎる。そんな時代になるだろう。政府にできるのは、一片の法律をつくって口を出すことではない。生産性を高めるスキルを習得するための教育コストを支援する政策である。


2015年6月17日水曜日

閑暇の昨日、今日

一昨日に統計の授業をしたあと、昨日午後はカミさんと映画『海街 - Diary -』を観に行き、今日は朝から隣町まで赴き大規模画材店で水彩絵具と画紙を買って帰る。店舗内の様子はしばらく行かないうちに品の配置が変わっていて、アルシュはなくなってしまったのかと当惑し始めた時に別コーナーに集められていることに気がついた。それとセヌリエの水彩を扱うようになったのだねえ…と、試しにOperaを買ってみた。

宅から歩いていける停留所から高速バスに乗った。晴れていて、海がよく見えた。反対側は山の翠が匂い立つようだ。いつの間にこんなに・・・去年もそうだったっけ。
長く生きている人の心の奥には涙の池がいくつもできているものだ。池はつながったりまた新しく出来たりする、かと思えば時に川になって目から溢れ出すこともある。あふれる涙がとおってくる路は時間でできている。若葉に囲まれた壊れかけの廃屋にいまアカシアの花がこぼれるように咲いている。そこを過ぎ去った時間を観る人の心の奥には過ぎた時間だけ涙が流れ入るのだ ・・・
う〜ん、さてと。どう続けるかねえ。

『海街』はまあよかった。癒し系であるな。感動巨編というわけではないが、あってもよい。というか、つながりで「ン?」と思うところがある。もう一度みると分かると思う。もう一度みてもいいかと思う。賞はまあもらえないと思うが、いいには違いない。

2015年6月16日火曜日

二つの例: 今回ばかりはこっちが正しい

明治日本の産業革命遺産がUNESCOの世界遺産に正式登録される事態を阻止しようと韓国政府が努力を重ねている。

政府間協議が複数回行われる見通しでもあるようだし、議長国であるドイツに対して韓国が働きかけを強めている由。そんな情報に接しては、また外堀を埋めるのかと、日本サイドの対韓イメージが悪化しているとも伝えられている。

ヤレヤレ、という人は日本国内にも多いのじゃあないか。

今回ばかりは韓国の言い分が理に適っている。そう小生は考える。そもそも幕末の志士・吉田松陰が明治日本の産業革命と関係があると解釈するのは屁理屈であろう-吉田松陰云々を韓国サイドが口にしていないのはまだ救いがあるが。大体、長州と明治維新を絶対正義とする歴史観は現実の歴史の経過の中で一度倒壊している。そう感じるがなあ……。こんな感じ方はおかしいかなあ……。

★ ★ ★

さる5月25日に開かれた千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式で、共産党の小池晃副委員長が秋篠宮ご夫妻と同席した。皇室への“接近”をはかる革命政党の戦略を示すものだが、産経新聞は拝礼式での「歴史的瞬間」をカメラに収めた。そこで見えたのは、共産党の隠しきれない“本性”だった。
(中略)

このところ国政選挙で「躍進」を続けて意気上がる共産党だが、志位和夫委員長ら指導部がさらなる党勢拡大に向け「共産党イコール天皇制打倒」のイメージを抱く多数の国民の“共産党アレルギー”をやわらげることが不可欠だと判断していることは言うまでもない。
(中略)
やがて秋篠宮ご夫妻をお迎えし、式典が始まる。ご夫妻と数メートル離れた位置に立った小池氏。冒頭の国歌斉唱の際には起立していたものの、口はしっかり閉ざしたままだった。周囲がみな「君が代」を斉唱するなか、ただ一人「われ関せず」の模様はやはり異様だった。
(出所)産経ニュース、2015年6月16日

共産党は共産主義を目指す政党である。純粋の共産主義でないとしても、少なくとも資本主義の「次の発展段階」であるはずの社会主義を目指さなくては共産党と名乗るのはおかしいし、奇妙であるし、間違っている。

いずれにしても共産党は、社会を主導する前衛たるべく運命づけられているのであって、共産党が政権を得るならば、憲法を改正して共産党の党首が国家元首になるのが基本的ロジックである。

今回ばかりは、産経新聞の目線が正しい。小生はそう感じるのだ、な。

企業経営もそうだが、創業理念を捨てるときは、会社の存在意義もまた消え去る時である。

2015年6月14日日曜日

個人情報流出報道の二次被害?

ビッグデータの時代は個人情報データベースが極度に発達する時代でもある。そして個人情報データベースがデジタル化され、事務の効率性・操作の容易性が高まれば高まる程、そのリソースを不正使用する誘因が社会で高まり、流出のリスクが高まり、犯罪を誘発するものである。

この論理的な連関を途中で切るのが理想的だが、悪い結果が発生する確率をゼロにすることはまず不可能であることを知るべきだ。小生はそう思う。

こんな情報がネットにはある。ウィルス対策ソフトの大手であるトレンドマイクロ社の見解だ。
 「防げない標的型メール、侵入を前提とした対策が必要」――トレンドマイクロは6月11日、日本年金機構からの個人情報流出事例から学ぶべきことをまとめ、セキュリティブログで公開した。
(中略)
 年金機構の事例では、本来は外部から直接アクセスできないデータベース内の個人情報が、業務の都合で攻撃者にもアクセスできるファイルサーバ内に保存されていたことが情報漏えいにつながった。「実際の業務遂行上の都合とセキュリティポリシーの乖離から、ポリシーが守られず形骸化してしまうことはどの組織においても起こりがち」と指摘。業務の実態を把握し、運用可能なポリシーと継続的な監査体制を構築すること、インシデント発生時の対応も文書化するなど明確化し、徹底させることが必要としている。
(出所)IT Mediaニュース 、2015年6月11日

論点は、従って、三つあるわけだ。
  1. 犯罪の意図を隠した不正ソフトをどう検出し、データやシステムをどう防御するか?
  2. 発生する情報流出に対応するための法制度をどう整備するか?
  3. 流出リスクをどう評価し、保険商品をどのように開発していくか?
(追記)その後、6月20日になって以下の報道があった。出所は同日付のYahoo!ニュース、引用元は毎日新聞(15時1分配信)。
来年1月にスタートするマイナンバーを対象にした企業向けの保険を、損害保険会社大手の損保ジャパン日本興亜が今秋から売り出す。企業が管理する社員やアルバイトのマイナンバーが不正なアクセスやウイルス送付などのサイバー攻撃で外部に流出した際の被害を補償する。マイナンバーを保険の対象に明記するのは初めて。日本年金機構の情報流出が発覚したことで制度の先行きが不安視される中、一定のニーズがあると判断した。
(中略) 
 サイバー攻撃の対策システムを研究している国立研究開発法人「情報通信研究機構」によると、機構の提携先の企業や自治体、大学に対する不審なアクセスのうち、昨年度はサイバー攻撃とみられるものが256億件に達し、前年度から倍増した。一方、日本企業は欧米と比べてサイバー攻撃への対策が遅れており、大手損保によると、保険の加入率は5%未満という。
 ただ、損保各社にはサイバー攻撃に関する企業からの問い合わせが急増しており、今後は保険商品が広がっていくとみられる。東京海上日動火災保険は不正アクセスがあった時点で侵入経路などを調査する費用を補償する中小企業向けサービスを10月に始める。三井住友海上火災保険は7月からサイバー攻撃被害の補償の上限額を、これまでの5000万円から10倍の5億円に引き上げる。 
以上、6月20日に追記。

つまり問題自体は極めて現代的、かつ面白く、将来のために不可欠の論点を含んでいる。官民双方で、(もちろん与野党双方でも)知恵をしぼっていくことが必要だ。事故をゼロにする(ま、ゼロにするのが理想ではあるが)のではなく、ダメージをどう評価し、どうコントロールするか。それが求められている課題だ。この位は自動車文明が到来した時にもやったことであって、初めて遭遇する難問ではない。

ところが、『政府は怪しからん、年金機構は何も変わっちゃいない』。情けない限りの野党の言動と、本質を問題提起できない政府側の知的劣化が露になっている。その泥沼的様相が国民の不安を醸し出し、その空気に乗じた人間が年金詐欺に成功するのだ。

大ざっぱに言えば、流出した情報が報道の通りだとすれば、大したことは何もできない。情報漏れよりは、原発から流出する放射性物質、不正確なメディア情報が流出するほうが余程大きな損害をもたらす可能性がある。そう思うのだ、な。

マスメディアによる情報提供は、(いつもそうだが)バランスが悪いのだな。そして本筋を外すことが多い。最も必要な情報は「技術進歩の現状や流出に至る背景の説明」、そして「流出した情報は本当にこれだけか」であろう。国会の審議を聴いていても、ドタバタ騒ぎになるだけで、あれじゃあ問題解決できんでしょう、と。結局は、官僚と専門家に対応してもらう。議員は何をやっているんでござんしょう。これでは救出部隊が問題を解決するどころか、不安を煽って騒動を起こす二次被害。そう言われても仕方がない。(いつものことながら)情けなきこと涙こぼるる、でござります。





2015年6月13日土曜日

でありたい vs である

NHKの大河ドラマはその昔は普通の人は観るというポジションにあったと記憶している。その中でも『伊達政宗』に出てくる台詞は流行語にもなったものだ。それが『▲▲はかくありたい』という本日の標題にもつかった言い回しだ。

実は、数日前に興味をひく記事をみつけたのだ。タイトルは「世界最強だった大和」。漢字の大和であって、宇宙戦艦ヤマトではない。
 16年8月。真夏の日差しが照りつける日に、完成した大和に初めて乗艦した。同期は1人もおらず、心細さもあったが、当時世界最大最強にして「不沈艦」とさえ言われた戦艦に乗り組んだことは誇らしかった。
 17年6月に初の実戦となったミッドウェー海戦に赴いた。約40隻の軍艦で形成された陣形の中心は大和。戦場の最前線から距離もあったため、危険にさらされることはなかった。
 だが、敵に傍受される恐れのある無線は使用できず、無数のモールス信号と手旗信号を送受信しなければならなかった。万に一つのミスも許されず、艦内は絶えず緊迫した雰囲気に包まれていた。「乗艦する兵も世界最強でなければならない」。瞬きすらできなかった。
(出所)産経WEST、2015年6月10日

戦艦大和が世界最強であったというのは事実において間違いだった。 実際、大和は撃沈され、いまも鹿児島県坊ノ岬沖約200Kmの海底にある。

戦場の様子は吉田満『戦艦大和ノ最期』でも淡々と叙述されている。

世界最強であるというのは戦艦が互いに名乗り出て1対1で砲撃を開始すれば、射程が長い大和の方が絶対に勝つという理屈にたっての話しだが、そんなことは分かっているので相手の戦艦は出ては来ない。大和はレイテ沖海戦にも参加しており、沖縄特攻が初陣というわけでもなかった。実際の戦闘でどうであったか、既に決着はついているのである。

欺瞞である。世界最強ではない戦艦を世界最強であると考えたモノの見方(=大鑑巨砲主義・正統派・公式の見方と呼ばれる諸々)がまずい。その見方が敗戦を経ても、なお反省されることなく、そのまま持ち続けられている……。もしそれが本当なら、同じ失敗をまた繰り返すだけである。

「かくありたい」が、現状への不満をもたらし、一層の努力につながっていくのではなく、そのまま「である」と信じる動機になってしまうのは幼稚化現象である。良いことではない。

2015年6月12日金曜日

この数日の雑感‐告白本の出版、表現の自由

この数日は次回授業の準備で結構忙しい。

今は、マッサンの放映がきっかけになって急増中の観光客のプロファイルをどう分析して把握するかをやっている。アンケート分析にはコレスポンデンス(対応)分析からクラスタリングを絡めるのが便利なので授業でとりあげているのだが、説明+実習の授業メニューを作るのは、わりと手間取る仕事だ。

実際、普段はやったことはないだろうしねえ・・・、考えてみれば普段はやったことがない世界も、どんどん進んでいる。その成果の一端が何かの拍子に見えてきては、これもビジネスには必要なツールだという具合になるのだが、勉強するとなると大変である。その大変さはしばしばネグレクトされるのであって、多くの人は「楽に身につけたい」、「結構大変だ」、そして「役に立たないかもしれない」、結局は「なくてもいいか」という撤退の王道をたどっていくものだ。そうならないように勾配を調整する必要がある。関心を持続させる必要がある。誘導が不可欠なのだ。

教室とジムは、使うのが頭か筋肉かの違いはあるものの、やっていることはほぼ同じである。

× × ×

それはさておき、この数日の覚え書き。

池上彰氏が『韓国は棚からぼた餅式にできた国だ』と発言したというので、結構、物議を醸しているらしい。時折のぞいているレコードチャイナで報じられていたのだ。どうも日本のテレビ番組でそう話していたようだ。

小生もその番組は一部をみていたような記憶があるのだが、これが本当なら物議をかもすだろうねえ…。しかし、考えてみれば戦後日本がたどった軌跡も、米ソ冷戦が特にアメリカの対日姿勢の変化をもたらしたことによる「棚からぼた餅」式の奇跡であった。運よく、世界と時代が変転する中で、たまたま開かれた発展への道であった。そうも言えるだろうと正直思うのだ、な。

そもそも日本に高度の産業は復興させないというのが連合国の当初の方針だったのだから。


アメリカが言うならまだ分かるが、日本がいう言語表現かなあ…、とは思う。日本人なら、歴史的なパワーバランスの変化も思い出しながら、もっと別の観点から語ったほうが豊かな内容になると思うが、どうだろうか。

× × ×

表現は(基本的に)自由だが、それを聞いて怒る人も怒る自由はあるわけだ。決まっていることは、紛争の決着は腕力によって私的につけるのではなく、裁判で決着させる。公権力以外に力の支配に頼るべからず。これだけである。

元少年Aが出版した『絶歌』が世を騒がせている。

中年以上の人は「よくない」と反応し、若年層は「こうしたことを伝えていくという意味では必要かもしれない」という風に、世代間でかなり違いがあるようだ。

結論的にいえば、小生、元少年Aが非難されるのは当たり前だと思う。

自らの犯罪を語ることでカネを儲けちゃいかんだろう、と。当然のモラルである。犯罪は許さぬ、故に犯罪経験を種にして儲けるなどはあってはならぬ。これが社会だ。単純な話である。

しかし、今後の犯罪防止に専門的な分析の蓄積は不可欠のことである。心理学的分析も必要であろうし、行政上の、あるいは町内自治システム上の検討経過も体系的に蓄積して、共有化することが犯罪の予防を目指すうえでの常道だろう。

とすれば、本人が出版するよりも先に専門家がインタビューをして客観的な文書をまとめておくべきであったろう ― そんなことは既にやっているのかもしれないが。もちろんその種の文書は専門的であり、一般読者を対象に販売できるような文章ではないだろう。

表現の自由は基本的な権利だが、苦痛を与えた場合の責任もまた逃げることはできない。自由には責任が常に付随するのだ。責任がないのは「そうせよ」と命令され他に選択肢がなかったとき、もしくは旧幕時代・浅野内匠頭刃傷で問われたように「乱心」のケース。これだけである。

近代社会において個人は基本的に自由だが、自由であるからこそ責任がついて回る。文字どおり、同じコインの表と裏が自由と責任。これが一般原則であるわけだが、いま初等教育で教えているのかどうか……。ま、当然、最大のポイントなので教えていることでありんしょう。

で『絶歌』出版の件だが、分かっているのかなあ。多分、いいとこどりをするつもりでござんしょう。それじゃあ、すまないだろうけどねえ……。指示をしない政府の責任ではなく、自由であるが故に責任も個人が引き受ける。それが近代社会と前近代社会の違いである。

2015年6月8日月曜日

覚え書 − 「問題があるのはまずい」症候群の一例

一般的に言って、問題が出てくる、問題が見つかる、というのは良い兆候だ。

何故なら何を管理するにも「問題がない」という状態は絶対にないわけで、日常的に最も重要な課題は「問題点を見つける」。この点にしぼられるからだ。「異常なし」という姿勢がしばしば破滅を招く遠因になるのは、福島第一原発を管理していた東京電力のみに当てはまるわけではない。

問題解決の前に問題発見が必要であるのは鉄則中の鉄則なのだ、な。

ところが多くの場合、問題が見つかると『まずいね』という言葉が返ってくるのには、小生若い時分から「理屈に合わん」といって大いにヤル気をなくし、サボタージュしたものである。本当に扱いにくい若者であったわいと、今でも夢の中で若い頃の職場が蘇ってきては汗を流している・・・。覚めてホッとするのは寧ろ幸福であると言われれば確かにそうなのだが。

それはともかく、高級官僚の人事一元化政策を行うため内閣人事局が設けられたところ、これが不評なのだと言う。少し古いが下の報道を書き留めておきたい。
中央省庁の幹部人事を一元管理する「内閣人事局」(局長=加藤勝信官房副長官)が30日、発足から1年を迎える。
 省庁の縦割り排除や女性登用を進めるだけでなく、人事権を通じて、安倍内閣が掲げる「政治主導」を強化する役割も果たしている。
(中略)
ただ、人事の決定に当たっては菅氏と内閣人事局長の加藤氏の意向が強く働いているとされ、霞が関からは「官邸に嫌われたら、出世できない」(中堅)との嘆きも漏れる。安倍首相が進める農業・医療などの規制を緩和する「岩盤規制改革」でも、人事権を握る官邸の反応を気にして、規制権限を持つ関係省庁の腰が引けているとの声もある。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2015-05-30

官邸に嫌われないように身を処すのは理不尽だというのが伝えられているメッセージだろうか。

そもそも縦割り省庁体制を統合し、官僚政治から内閣が主導する政治へと変化させるために人事一元化が行われた。一元化されれば、民間企業の従業員が経営陣の評価を気にするように、内閣の評価を気にするようになるのは当たり前である。

もともと狙った変化が表われてきた段階で、「問題が生じてきた」と言うとすれば、それは不利益を被る集団による不満であるという理屈になる。

ただ士気が全般的に低下すれば、問題には違いなく、解決のためには原因分析が必要である。

一元化するのであれば、人事戦略についてもチャンと一元化しているのか、そもそも高級官僚システムの包括的人事戦略というのはあるのか。不勉強のせいかあまり聞くことがない。疑問はつきない。

2015年6月6日土曜日

予想的中:集団的自衛権は「違憲」と参考人意見

政府の安保政策には、仮に国会を通っても、今後山のような違憲訴訟が相次ぐだろう、最高裁判決を左右するのは世論やマスコミというより、学界の基本的潮流だろうと推測し、そんな覚え書きを幾つか記してきた。

予想は的中しそうだ。

衆議院憲法調査会で参考人質問があったところ、憲法学者三人がそろって集団自衛権行使を含む安保関連法案は違憲であると述べた由。

与党推薦の学者も違憲だと述べたので野党は痛快の声をあげ、与党はオウンゴール(?)的な展開に困惑している、と。

★ ★ ★

法律の方は専門外だが、論点をしぼって純粋の概念論だけで話すとして「自衛権」を否定する国家はありえない。存続を予定し得ないからだ。今日はこれを無条件に真とする、つまり公理としよう。である以上は、「集団的自衛権」そのものを現行憲法違反として否定する論理は極めて難しいはずであり、小生は構築不能ではないかという感覚をまず覚える。行使に反対するには、概念論だけではなく、いまの政情とか、国民心理とか、雑多な事柄を理由にあげなければ反対論は構築できないとみるのだな。

つまり「違憲」、「合憲」という議論自体が政争である一面をもつ。

その集団的自衛権の行使に武力の保持と武力の行使が当然含まれると言うなら、集団的自衛権を認める以上、そのための武力の保持と武力の行使をただちに認めなければならないという論理になる。

集団的自衛権行使そのものが違憲だと主張する人が多いのは、ある程度、上の論理に立っているからだと思われる。

集団的自衛権と非武装戦略とは、小生自身としては、矛盾しないと思う。むしろ非武装戦略と自衛の確保を両立しようとすれば、何かの形で他国と協調し集団的自衛権を使わなければ意味が無いと思っている。戦後日本の日米安保体制もかなり既にこの発想に近いではないかと思っているのだ。

それはさておき……

★ ★ ★

聞いていると反対論には二つあるようだ。

集団的自衛権の行使そのものが現行憲法と矛盾しているというのが一つ。もう一つの見方は、集団的自衛権自体は現行憲法と矛盾しているわけではないが、武力の具体的な行使を含め「自衛行動」のあり方が憲法が認める集団的自衛権の範囲外にあたることがあるというものだ。更に、もう一つを加えれば、提案されている政府案が集団的自衛権の行使以上の内容を含んでいる。つまり「攻撃」にまで踏み込んで規定しようとしているという見方もあるかもしれない。これが本当なら文句なく戦争を放棄した現行憲法と矛盾していて違憲である。

最初の見方は論理的に導出できないと小生は思う、というのが最初に述べたことである。

他方、二つ目の見方はありうるような気もする。三つ目の見方はあまり面白い問題ではない。「法案のここが違憲だ」と論陣を張るのは、寧ろマスメディアが得意の分野だろう。

二つ目の見方をどう考える。これによれば、現行憲法が容認している集団的自衛権は「制限された集団的自衛権」であるということになるわけで、つまり日本国は「完全な個別的自衛権+制限された集団的自衛権」をもっている、と。そう憲法は規定していることになる。

★ ★ ★

理屈はこうなると思うのだが、そもそも憲法が自国の自衛権を制限するという状態は原理的にありうるのか?憲法制定時に生きた世代が後世代をそこまで本質的に束縛できるのか?常識的には、後世代がとりうる自衛権の具体的内容は(憲法改正はせずとも)その世代に委ねられていると思われるのだが、専門外の人間にとってはこの辺までである。ただまあ、何度も常識を言うようだが、憲法9条は日本の自衛権をどうするこうするという主旨ではないと思う。大体、自国の自衛権は最初に述べたように当然に持っているのであって、自国の憲法でそれを規定するというものではないと思われるのだ、な。

以上から、二つ目の見方に基づいて「違憲論」を展開するにも、やはり、論理としては少し弱いような気が個人的にはする。

とすれば、違憲論を展開する本筋は三つ目の見方しかないということになる。

政府案が規定している自衛隊の行動は法案の主旨とは違って集団的自衛権そのものを越えている。だからダメなのだ、と。第●●条と第▲▲条は明らかに集団的自衛権を越えている。こんな反対論しかありえないのではないか。しかし実際には、こんな風な議論になってはいない。

こんな議論を繰り広げていても、結局は神学論争であり、政府の基本戦略に沿った展開だと。そう見ているところだ。

この問題は専門外だからと法律専門家に100%任せるしかないという風にはならないのであって、これは相当のところまで論理で詰められる問題ではないか。そんな気もするのだな。

政争の一面があるからと言って、ただ声の大きさを争う、大人数で押すというばかりでは、良い結果にはつながらないだろう。何といっても憲法にかかわる話しなのだから。


2015年6月3日水曜日

雑感―失敗することを怖れるべき理由

こんな記事が目に入ってきた。引用元を付しておき、記事の前後は割愛した。
 ただラブロフ外相の「日本は第二次大戦の結果に疑問を付ける唯一の国」発言は、北方領土問題に限定すれば的外れなものの、「先の大戦の結果に納得していない敗戦国」と拡大解釈される言動が要人からあれば、思わぬ正当性を与えかねない毒針でもあります。条項が撤廃されてもUnited Nations原加盟国の旧敵国であったのは揺るぎない事実で、そのUnited Nationsに入った以上、多少面白くない解釈、例えば「お前は永久に国連では(条項がなくなっても)旧敵国だ」と扱われても甘受しなければならない部分があります。
(出所)Yahoo!ニュース、The Page、2015年6月3日

『第二次世界大戦の戦勝国の行為は神聖でゆるぎないものである』とラブロフ露外相が語ったそうで、それに関連して述べられたのが上の記事である。

ま、その通りである。間違いではない、と悔しいがそう認めるべきである、な。この悔しさは、多分、幕末において(別に騙されたというわけではないにしても)締結された不平等条約をみる明治の日本人と相通じるものであるに違いない。どうしようもないことだ。雪辱の機会もないのだから。

★ ★ ★

よく言われる。『失敗を恐れるな』、『何もしないのが一番危険なのだ』、『失敗は成功の母』、etc.、確かにイケイケどんどんの方が格好がいいには違いない。

しかし、失敗のツケは永遠に負担せざるを得ず、成功の果実は時間の経過とともに風化するものである。こちらのほうが小生はピンとくる。誰の言葉だったかなあ・・・。

まして国家の未来を決めるような政治家は失敗をしてはいけない。失敗の被害は余りにも大きなものになるからだ。

採用時に抱負をきかれた愚息は『はい、間違いのないように心がけていきたいと思います』と答えたそうだ。「う~ん、月並みだなあ…、時には人間、清水の舞台から飛び降りることも大事だぜ」と、その時は照れ隠しのように茶化したが、胸の内では愚息とは言え、感心したのである。

やれやれ、小生だけは親馬鹿にはならないと自惚れていたが・・・、ヤキが回ったらしい。

★ ★ ★

関連する話題だが、このところ想定外の火山が噴火する事態が続いている。夜のニュースワイドをみていると、少し以前までは多くの火山の活動を研究者が常時観察してデータを集めていたのだが、文科省の「選択と集中」方針から常時観察するべき重点火山を大幅に絞り込んだ。九州の新燃岳が噴火したのは重点火山指定からはずれた直後、御岳山が噴火したのも重点火山から外れた2年後(だったかな)、とそんな話しだった。これらは国立大学法人化に伴う効率性優先がもたらした副作用だと解説されていたのだ。

ちょっとこの説明は違うだろう、と。「効率化」とは同じ結果をより低いコストで実現する努力をさす。国立大学法人化に伴う火山研究はそうではない。コスト節減とパフォーマンスの低下が同時に生じている。だから「効率化」にはあたらず、単なる「弱体化」である。

ま、文科省はそうは言わないとは思うが……。

いずれにせよ、これまた「まずやってみようか」ではなく「失敗を怖れる」姿勢が優先されるべき分野であろう。余りにも失敗のツケが大きいからだ。